2013/10/18 - 2013/10/18
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belleduneさん
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三渓園で公開されている臨春閣を見た後、内苑,外苑とひと周りしましたが、広大な敷地のため、写真が多くなってしまったので、II 部は、臨春閣の後の写真を掲載します。今は、すすきが綺麗ですが、秋の植物が広い園内にたくさん咲いていました。初めてだったのですが、「当時も今も、たくさんの職人さんが園内の手入れをされていたのだなぁ」となどと考えながら、散策を楽しんで来ました。夕暮れ迫る大池の風景が気に入りました。
11月には、林洞庵、横笛庵の公開があります。毎年6月には、古建築10棟公開がありますので、人混みの中、行ってみようかなと思っています。
みなとみらい線の特急で行くと、渋谷から便利なので、1月の鶴翔閣公開も楽しみです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄
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「聴秋閣」 この建物は、もと三笠閣と呼ばれ、1623年(元和9)に徳川家光が上洛に際し、佐久間将監に命じて、二条城内に造らせたものです。その後、これを春日局に賜り、江戸稲葉候邸内に移築され、1922年(大正11)ここに移されました。
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佐久間将監は、小堀遠州と同時代に幕府の造営、修繕に関わる作事方を務めた人物で、両者とも茶の湯に深く、似通った境遇だったため、ライバル的存在だったと思われています。この建物から佐久間将監の挑戦的な意欲が伺えるということですが…
2階にある火灯窓など実際に中を拝見したいものですね。 -
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下はコンクリートですが、小石を混ぜてある仕上げなので、風情ある橋になっています。
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「月下殿」 1603年(慶長8)初代徳川家康によって、京都伏見城内に建てられたと言われています。
諸大名伺候の際の控えの間として使われていたそうです。その後、京都本山修験宗の三室戸寺金蔵院に移され、1918年(大正7)に「春草盧」と共に、三渓園に移築されました。 -
ここも貸出施設です。
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障壁画は、桃山時代の画家・海北友松によるものと伝えられています。
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左奥にお茶室「金毛窟」へと続いています。
「金毛窟」は、原三渓が大正7年に建てた一畳台目の茶室です。千利休が修造した京都大徳寺三門(金毛閣)の高欄の手すりをこの茶室の床柱に使っています。扁額は、明治の数学者・三井の益田鈍翁の書です。 -
天授院 鎌倉心平寺(建長寺塔頭)の地蔵堂と言われています。昭和39年に解体修理が行なわれた際、慶安4年(1651)の墨書が発見され、建立の年が明らかになりました。
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三渓園では、原家の持仏堂とされました。
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この藤棚の向こうに「春草盧」がありますが、ここだけ行っていませんでした。
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亭樹
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この橋に腰掛けて、庭園を眺めるのもまた良し。
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「旧天瑞寺寿塔覆堂」 寿塔とは、長寿を祝って、生存中に建てる墓のことです。豊臣秀吉は、母大政所が大病を煩ったため、その平癒祈願のために、1591年(天正19)に京都大徳寺内の天瑞寺に建てました。現在、寿塔は、大徳寺内の龍翔寺にあるそうです。この建物は、その寿塔の覆堂で、1905年(明治38)にここへ移築されました。
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ちょうどお掃除をなさっていましたが、お堂の中は何もありません。
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「蓮華院」 もとは、現在の「春草盧」のところにありましたが、第二次世界大戦後に、竹林にある茶室という構想のもと、現在の位置へ再築されたそうです。
二畳中板の小間と六畳の広間、土間からなっています。 貸出施設となっています。 -
土間の中央にある太い円柱と、脇の壁に填め込まれている格子は、宇治平等院鳳凰堂の古材と言われています。
蓮花院という名前は、三渓が茶会を催した際に、広間の琵琶床に、奈良東大寺三月堂の不空羂策観音が手に持っていた蓮華を飾ったことに由来しているそうです。 -
ここから一寸海岸門を見に行って来ます。
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海岸門
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外苑側から見た海岸門
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内苑を出て、これから外苑を廻ります。
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展望台へ上がって行く途中に、かつての「松風閣」の跡がありました。
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「松風閣」 初代原善三郎は、別荘として、明治20年頃、築造した建物で、その名称は、伊藤博文が付けたということです。
写真は、煉瓦造りの玄関部分で、窓等に中国風の意匠が見られます。断崖に建ち、東京湾の絶景を望むことができる松風閣は、三渓の代になり、本邸・鶴翔閣が出来ると、重要な来客のゲストハウスが増築されたということです。 -
大正5年にインド人の詩人ラビンドラナー・タゴールがここに1ヶ月滞在し、詩「さまよえる鳥」を残しています。一室「観山の間」には、三渓が支援し、最も好んだ日本画家、下村観山の「四季草花図」の障壁画がありましたが、関東大震災で建物と共に消失しました。
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展望台へ上って見ましたが、現在は埋め立てが進んでいて、工業地帯が目の前に広がっていました。
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「聚星軒」 竹を編んだ壁など、中国風の意匠で、「支那館」とも呼ばれていました。明治20年頃、松風閣と共に、原善三郎が築造しましたが、これも関東大震災で消失しました。
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「旧燈明寺三重塔」 元、京都府相楽郡加茂町の燈明寺にあったものを、大正3年にここへ移築しました。燈明寺は、735年(天平7)に聖武天皇の勅願によって、建てられた寺院とされています。建築様式から室町時代と推定されます。関東では、最古の塔となっています。燈明寺は、江戸時代に宗派が変わった際に、東明寺から燈明寺に改名されました。瓦に東明寺と刻印がされているのは、その理由によるものです。
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「初音茶屋」 タゴールや芥川龍之介らによって、書き記された茶屋です。
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当時は、いつでも麦茶が振る舞われたそうです。芥川龍之介は、大正4年の初秋、ここでの印象を句に残しています。
「ひとはかり うく香煎や 白湯の秋」 -
臥竜梅 幹が、まるで龍が這うような形をしているので、こう呼ばれています。原三渓が援助した画家、下村観山の筆による「弱法師」(よろぼし)のモデルとなっています。
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旧東慶寺仏殿 室町時代の永正6年(1509)に再建された鎌倉東慶寺の仏殿です。禅宗様の特色を残す数少ない建物です。
東慶寺は弘安8年(1285)に北条時宗の妻・覚山尼が創建した寺院で、駆け込み寺や縁切り寺として有名でした。 -
「旧矢箆原家住宅」 1750年頃の宝永年間に建てられた大きな茅葺屋根が特徴の合掌造りの民家です。岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありましたが、御母衣ダム建設で、湖底に沈む運命となったため、昭和35年にここへ移築されました。
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この建物の特徴は、左半分が式台付き玄関を持つ書院造り、右半分が普通の農家の造りで、左右が全く異なる形式構造となっています。
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水屋
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飛騨は、幕府の天領(直轄領)のため、矢箆原家には、高山にあった代官所から役人が訪れて、この家に泊まることがありました。そのため、家族の日常空間と並列して、格式ある書院造りの接客空間が設けられました。
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台所
岩瀬(矢箆原)佐助は、飛騨山長者の一人で、飛騨地方の民謡に「宮で角助、平湯で与茂作、岩瀬佐助のまねならぬ」と歌われるほどだったそうです。普通の農民は、3人の真似は出来ないということです。 -
座敷
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座敷
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屋根の妻側にある火灯窓、釘隠しや扇が彫られた欄間、書院等、この家の格式の高さを表しています。
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奥座敷
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欄間ですが、ちょっと暈けてしまいました。
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広間
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囲炉裏の火は、ボランティアの方が熾して、煙を上げて、茅葺きの屋根にいる虫退治をなさっています。
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おいえ
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急な階段を上って、2階へ上がって来ました。
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とても急な階段です。
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下には、家族の出入りする玄関から土間が見えます。
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外から見た広間
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縁側の板の手入れをなさっていました。
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六角堂 正式には「望仙亭」と言いますが、四阿で、海や庭園内が見渡せるように、付近の高台に建てられました。当時園内には、この他に2箇所に、同様の四阿がありましたが、いずれも現存していません。
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「寒月庵」 三渓が所有していた製糸場の一つ、栃木県大崎製糸場内から移築された建物です。かつて江戸十人衆の一人と言われた赤穂藩出入りの豪商、河村左衛門が所有していた草庵で、元禄の頃、大石内蔵助が度々遊んだという。昭和26年に伊豆山の旅館に移され、現在跡地にこの林洞庵が建てられました。
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臨洞庵 昭和45年に宗偏流林洞会から寄贈された茶室で、八畳の広間と四畳の小間からなっています。室内には、流祖山田宗偏の筆による「林洞」の板額があります。
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寒霞橋
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「横笛庵」 草庵風の茶亭で、素朴ながら、風趣ある建物となっています。建物内に横笛の像が安置されていたことから横笛庵と呼ばれています。
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横笛は、高倉天皇の中宮・建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性です。横笛は、他の人々の恋が成就することを願って、時頼からの千束の恋文で作った己の像は、「縁結びの像」として知られていました。
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この縁結びの像は第二次大戦中に被害を受け、失われてしまいました。
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この辺りの池の様子もなかなか良いですね。
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待春軒から横笛庵、六角堂を望む
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「旧燈明寺本堂」 燈明寺は、現在 廃寺となっていますが、近年まで京都府相楽郡加茂町にあった日蓮宗の寺院でした。寺伝によると、735年(天正7)に聖武天皇の勅願で開創されました。
昭和22年の台風で被害を受けた後、解体保管されていました。 -
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「皇大神宮」 栃木県大崎製糸場内から移されましたが、昭和20年の空襲で消失しました。
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「夕日岡と稲荷社」 夕陽の頃に美しい眺めが見られることからそう呼ばれたらしい。山の斜面の中腹に、稲荷社の鳥居が見えます。空襲で消失したのか、現存していません。
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杉の茶屋 今は現存していません。
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「三渓園天満宮」 間門天神という三渓園に近い間門の旧家・高梨家の先祖が本牧の丘の中腹に建てたmのですが、昭和52年にここへ移築されました。
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観心橋
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「楠公社と観心橋」 この社殿は、もと大阪観心寺にあったもので、楠木正成が建武元年(1334)に建立し、自らの守護神牛頭明王(ごず)を祀ったと言われています。
三渓園に移築後は、高村光雲門下の米原雲海作の楠公の木彫り像が安置されていましたが、空襲で社殿と木造は焼失しました。現在天満宮の鳥居脇にある首の欠けた狛犬は、楠公社があった当時のものです。 -
ここから三重塔の連続ショットです。
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また来ま〜す。
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