2013/06/03 - 2013/06/04
41位(同エリア387件中)
ottoさん
”ロマンテイック街道”をひたすら北上する旅は オーストリア国境に近いバイエルン・アルプスの町 "フュッセン" からマイン川中流の町 "ヴュルツブルク" を結ぶ約250Kmで終わる。
不安定な天候、殊に豪雨のニュースに胸痛めつつ南ドイツ・バイエルンの陽気さに救われる思いだ。
30年戦争当時から殆ど変わっていないという中世の町 ”ローテンブルク”を発って65km、約1時間で"ヴュルツブルク" に到着。
翌日、午前中を市内観光の予定。
、
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- ANAセールス
PR
-
U37を通ってバスは一路ヴュルツブルクへ。
さすがアウトバーンの発達しているドイツではある。迅速なことこの上ない。 -
”ロマンチック街道”(ロマテイシェ・シュトラーシェ)はドイツの人々にとってノスタルジアをかき立てられる響きであるという。
-
ゴシック建築の塔....町や村々のシンボル
-
緑豊かな森やブドウ畑が広がる街道を縫うように進む。
ヴュルツブルクは、フランケンワインの中心地である。市内には最も有名なフランケンワイン産地のヴュルツブルガー・シュタインがあり、それぞれワイン酒場を備えた大規模で伝統的な3つのブドウ園がある。 -
夢見るような赤い屋根の村々
-
城壁に囲まれた神聖ローマ帝国時代の町が代わる代わるに姿を現し見飽きない
-
丘の上にマリエンブルクの要塞が聳え目指す町に着いたようだ.
-
ゆったりと流れるマイン川
やっぱり水位が気になる..... -
大小の船が接岸している船着場。
ヴュルツブルクは歴史的重要な交通の結節点で、元々はマイン川が交通センターの役割をもたらしたのであるが、現在ではアウトバーンとドイツ鉄道が決定的な役割を果たしている。 -
あれに見ゆるは旧市街のあたりか?
オーバーツェル修道院に設けられた世界最大の高速印刷機メーカーの一つであるケーニヒ&バウアーAG (KBA) があるそうだ。 -
ひとまず、今夜泊まる予定の "Maritim Hotel Weruzburg" にチェックイン。
-
部屋は7階で窓のカーテンをあけると遠くに尖塔がみえる町の姿。
室内は ベルリンやミュンヘンの時の Maritim Hotel と同系列であまり違いはない。 -
ちょっとおしゃれして見晴らしの良い食堂でデイナータイム。
-
トマトとモッツァレラチーズの前菜
-
ポークネックのチーズステーキ
フライドポテト、 -
グリーンサラダ
-
フレッシュフルーツ
品良くおいしく頂いた。
因みに ヴュルツブルクの水道水は、その石灰質の土壌のため、極度の硬水である。 -
6月4日 快晴!
向うの丘にケペレ巡礼教会が見える席に陣取って
早々とバイキングの朝食を済ませ.... -
出発までの短い時間だがホテルの近くを散策することに。
左手にマイン川。
3本の煙突は原子力発電所だと犬と散歩していた人に教えてもらった。 -
2両連結の路面電車が川べりを走ってきた。
-
対岸の丘にはマリエンブルク要塞。
1168年にヴュルツブルクで開催された帝国議会でフリードリヒ・バルバロッサは司教ヘロルドに公としての権利を授けた。
これ以後この街の司教は「司教領主]を名のり、後にレジデンツが建てられるまでこの要塞に居を構えた。 -
あれは何なのか? 近寄ってみた。
フックがクレーンの先に付けられているようだが船の積荷を引っ掛けるのかな?
”旧クレーン ”と呼ばれ洪水は、旧クレーン場の計測柱で判定される。マイン川の堤防が通常水位で、旧クレーン場の建物の壁にまで水が上がれば洪水である。 -
階段を登ると小さな花園だった。
旧クレーン場とクレーン岸壁の間の洪水防止壁に、ヴュルツブルクの瓦礫を取り除きヴュルツブルクの再建に貢献した人々を記念する砂岩の記念プレートが設けられた。 -
壁からこぼれるように咲く白い花が満開で美しい -
川辺から離れホテルに戻る途中小さな教会の外壁に見つけた像
-
オーバーアマガウを思い出すフレスコ画の壁
バゲッジダウンして9時にロビー集合 -
午前中 要塞、旧市街、司教会等を観光
マイン川が浸食したことで形成された西岸の石灰岩でできた高台のマリエンベルクには要塞がそびえている
先ずはマリエンベルク要塞から見学する. -
北の斜面に広がるブドウ畑。
のどかな風景にもときおり目を遣りつつ -
幾重にも張り巡らされた城壁を巡り
-
やっと中心部に近づいた。
マリエンベルク要塞(マリエン要塞とも呼ばれる)はこの街の最も重要な象徴的建造物。
4隅の塔の登頂部は微妙に形が異なっている。 -
この建物へは、レジデンツから市バスで、旧マイン橋から徒歩で、あるいは車で行くことができる。
このように威圧的な防衛門を幾つもくぐる。 -
暖色系に着色された外壁が漆喰の味わいを良く出している。
此処にはマインフランケン博物館を始め重要な建物が幾つかある。 -
中庭の広場に出た
-
深さ100mの砂岩製の泉 プフェルデシュヴェンメ(馬の水飲み場)、 -
出入り口を振り返る。
-
別の入り口付近で子供たちがのんびり遊んでいる。平和な光景。
-
可愛らしい小さな塔が点々と配置されている。
内側の建物は図書館らしい。 -
この町はアイルランドから渡来しフランケン地方をキリスト教化した聖キリアン (Kilian) の殉教地として中世より司教領として栄えた。現在この都市は、カトリックのヴュルツブルク司教区の司教座都市である
-
正面に見えるのはマリア教会と望楼
-
聖マリア教会は現存する要塞の建物の中で最も古い。
同じく要塞内にあるマイン・フランケン博物館(Mainfr?・nkischen Museum)には、リーメンシュナイダーの世界最大のコレクションが展示されている。 -
見上げるような高い塔が聳えている。
ベルクフリート(主塔) Bergfried 高さ42m -
中はがらんとしていて付帯設備は何も残っていない。
-
高台のマリエンベルク要塞はマイン川が浸食したことで形成された西岸の石灰岩でできていて
-
紀元前1000年頃、マリエンベルクにケルト人の避難城塞が築かれていたことが証明されている。
-
しっかりと施錠されていて嘗ての厳しさをうかがわせる。
-
昔は見張り台、今は展望台 川と市街が一望できる
-
テラスの階段を降りる。
-
マリエンベルク要塞の領主庭園は、かつては要塞の砲台であった場所で、このため市内の眺望が大変によい。この庭園はイタリアの「秘密の園」(giardini secreti) をモデルに造られた。
-
向うの丘には今朝、ホテルのダイニングからも見えたケベレ・巡礼教会。
-
ゆっくりと蛇行してフランケン地方を潤すマイン川。
-
正面の流れは穏やか。右手前の建物は聖プルカド教会。
-
左手は北方、フランクフルト。
-
川の両サイドに広がる市域の家並。
人口135,000強の人口はミュンヘン、ニュルンベルク、アウクスブルクに次いで同州で4番目に大きな都市である。 -
要塞を出て川にかかる大きな橋を渡る。
「アルテマインブリュッケ」は1886年までこの地の唯一の橋であった。 -
この橋は1476年から1703年まで建設され、11人の聖人像で飾られている。これらの像は1730年頃に後から取り付けられたもの。
-
バロック様式の ”マインブリュッケ”( 古い橋 )に立つキリアン聖人像から要塞を望む。
1168年にヴュルツブルクで開催された帝国議会でフリードリヒ・バルバロッサは司教ヘロルドに公としての権利を授けた。
これ以後この街の司教は「司教領主]を名のり、後にレジデンツが建てられるまでこの要塞に居を構えた。 -
橋を渡って川面を眺め市街に歩を進める
資料によれば:
民族移動時代以後、フランク人がこの地域に定住を始め、650年頃からヴュルツブルクはフランク王国の侯領となった。689年にアイルランド=スコットランドからの伝道者である聖キリアン、コロナート、トットナンがこの地域で布教活動を行った。この街は704年5月1日に初めて文献上に記録された。 -
ヴュルツブルクは、741年または742年に司教座が置かれた。司教は聖界のみならず、世俗の領域でも支配権を行使した(司教領主、1168年からはヴュルツブルク司教本部 (Hochstift W?・rzburg) と称した)。この地域の領主は司教、後の司教領主であり「フランケン公」(Herzog in Franken)の称号を有した。
町中に39もの鐘楼があるという。
「マルクと広場」左手に市庁舎。その先に大聖堂の鐘楼。 -
いつものことだが広場の野菜売り場に注目
生の白いアスパラガスが瑞々しい。 -
パプリカ、ズッキーニ、白菜
どれも新鮮で旨そう。 -
イチゴには目がないのだけれど
-
買って帰りたい気持ちを押さえてjust looking
-
大振りだがフジリンゴのようにちょっと堅そう
-
パンは大振りでドイツパンらしくかっちりしているし、ゴマをトッピングしたものはお気に入り。
-
花の売り場も賑わっている。
-
市庁舎中央の旧市庁舎・グラーフェンエッカート を見上げれば
-
時計の針は10:14をさしている
天辺には何か飾られているが判別不能。 -
1945年3月16日のイギリス空軍による17分間の爆撃で5,000人以上が犠牲となった。中心部の 90%近くが破壊された。
-
聖キリアン聖堂にお参りする。ドイツで4番目に大きいロマネスク様式の教会。
この町はアイルランドから渡来しフランケン地方をキリスト教化した聖キリアン (Kilian) の殉教地として中世より司教領として栄えた。現在は、カトリックのヴュルツブルク司教区の司教座都市である。 -
白を基調にした内装が清楚。内装の主要部分は 第2次大戦の爆撃を免れた。
-
聖キリアンを守護聖人とするヴュルツブルクでは、7月に「聖キリアン(キリアニ)祭」が、ワイン祭りとして行われる。
聖キリアンがブドウの栽培を奨励したためであるという。
今やフランケン・ワインの一大集積地として知られるようになった。 -
宗教改革は、一旦はこの地域でも基盤を築きつつあったのだが、とりわけ1586年からの対抗改革により、著しく抑制された。ルター派の教義の信奉者は、この都市から追放された。
スウェーデン軍が占領した時代にプロテスタントは再び足掛かりを得た。1633年には、1年間だけであったが、大聖堂を明け渡したこともあった。 -
1630年代にはヴュルツブルクは魔女狩りの中心地の一つとなり、1626年から1630年までがその最盛期であった。この間に司教区全体で900人以上、ヴュルツブルク市だけでも200人の「魔女」や「魔法使い」が火刑にされた。
現在、ヴュルツブルクにはいくつかの自由教会が自らの組織を有している。そのほとんどが福音派同盟に加盟している -
”ノイミンシュターキルヒェ”の丸屋根がどっしりとして「威厳あり
11世紀に建てられたロマネスク様式。 -
この町は古いユダヤ教組織所在地の一つで、1147年に最初の記録が遺されている。最盛期は12世紀から13世紀であった。1298年、1336年から1337年、1349年に市内および周辺地域のユダヤ系住民に対する迫害運動が起こった。15世紀から17世紀までユダヤ人はこの街から繰り返し追放されている。
1941年11月、ヴュルツブルクに残っていたユダヤ人の強制収容所への追放が開始された。1943年にはユダヤ教組織は消滅した。第二次世界大戦のわずか数年後、ヴュルツブルクに新しいユダヤ教組織が形成された。 -
1802年 司教領の支配組織が解散させられヴュルツブルク大公国となる(世俗化)。
1803年に、150年ぶりにユダヤ人家族がヴュルツブルクに定住できるようになった
1810年 ライン同盟に参加。
飛ぶ鳥を落とす勢いだった領主司教も、時代の流れには逆らえず、1802年には 教会領が国有化され、1814年になるとヴュルツブルク市はバイエルン州に組み 込まれた。
1814年 バイエルン王国に併合。
1934年にヴュルツブルクは大都市となった。 -
1867年 星形城壁群が取り壊され、都市の周囲は公園となった。
-
近代のヴュルツブルクは、日本人にもなじみの深い2人の人物を輩出。ひとりはこの街で生まれ、江戸末期の日本に大きな足跡を残したシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold / 1796-1866)。
もうひとりはヴュルツブルク大学教授で、1895年 ヴィルヘルム・レントゲン博士がX線を発見し、ノーベル物理学賞の初の受賞者となる。
レントゲン博士(Wilhelm Konrad R?・ntgen / 1845-1923)。 -
18世紀初頭までマリエンブルク要塞に住んでいた領主司教・ヨハンフィリップフランツ・フォンシェーンボルンは町に宮殿を構えることとし、ヨーロッパ中の叡智を結集したロココ調の建物と退園を設計させた。
宮廷建築家バルタザール・ノイマン(Balthasar Neumann /1687-1753)の主導によって、街の東端ドイツ随一の建築物と言われる「レジデンツ」(die F?・rstbisch?・fliche Residenz「領主司教宮殿」)が作られた。
中央リサリート。「名誉の中庭」内・フランコ二ア噴水の背景。 -
24年間の建設期間中には悪評高い司教領主もいて中断した時期もあったが一族は家名にかけて理想の城を築こうと勤め、住み次いだ。
内部は司教住居、皇帝の間、宮廷教会をはじめ名だたる室内装飾家、画家を動員して。見事な宮殿に仕上がっている。
建物の正面と側面は異なる形式でありながら調和の取れた広大な広がりを持つ。 -
階段折り返しから見た「雄大な空間芸術」とも言える踊り場。
その上に支柱のない半円球の天井が広がり、階段を上るにつれて変化する景色に圧倒される。光り輝くアポロンと精霊を中心に4つの世界を表す壁画が描かれ アメリカ、ヨーロッパ、アジア、アフリカ大陸の自然と人間を用いた「アレゴリー」が
展開する。迫力ある構図でカラフルに描かれた絵画が漆喰彫刻により立体的に様って来る。 -
「アフリカ」の場面。ピラミッドを背景にして建造主の紋章に人物の視線が集まっている。
-
宮廷教会の祭壇。
-
ライテイング (1742年 K.M.マタン作)
いつ皇帝が立ち寄ってもよいように整えられた室内装飾は主にウィーンの装飾芸術家達が受け持った。
他の部屋の装飾も色別に塗り分けられたりなどして豪華絢爛の一語に尽きる。、 -
公使館の宮廷庭園門 (1743年 ゲオルクとアントン・エク)
「名誉の中庭」と呼ばれる鍛造作品。 -
内部の見学を終えて外に出た。
噴水の像を裏側から見れば市庁舎の塔とロマネスク様式の大聖堂の塔が見える
1800年ドイツの劇作家・クライストは「町を歩くとまるで神の王国に紛れ込んだようだ」と描いている。 -
庭園と背景の宮殿の南ファサード
-
ダイアナの休息(庭園ホール内の天井フレスコ画)
1945年3月16日の爆撃で町の約9割が破壊された。」
全ての寺院は再建されなかったものの、戦争で破壊された宮殿が復旧し、ロマンチックな町が保たれた。 -
かくして世界的に有名な「レジデンツ」はその庭園群と広場を含め、1981年、ケルンの大聖堂やポツダムのサンスーシ宮殿とともに、ユネスコ世界文化遺産に登録された。
-
ヴュルツブルクは2004年に1300年祭を祝った。
深さ100mの砂岩製の泉 プフェルデシュヴェンメ(馬の水飲み場)、
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
ヴュルツブルク(ドイツ) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
90