2013/07/27 - 2013/07/28
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montsaintmichelさん
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山口県萩市は、毛利輝元が1604年に築城・開府し、幕末までの約260年間長州藩36万石の城下町として栄えました。江戸時代の絵地図が今でも使える程に昔日の歴史的景観を数多く残し、また明治維新を成し遂げた多くの逸材を輩出した街です。
現在でも当時の建物が驚くほど残っており、維新志士ゆかりの地を巡れば幕末にタイムスリップした気分になります。今回訪問したのは萩城下町地区のごく一部であり、この他にも沢山の史跡や歴史的建造物、古い街並みが保存されています。時間の関係もあり、円政寺と高杉晋作生家にスポットを当てて巡ってまいりました。
萩城下町周辺マップです。
http://www.mapfan.com/a4.cgi?MAP=E131.23.47.4N34.24.29.0&ZM=12&CI=R&SP=1&SMAP=E131.23.50.2N34.24.32.2&PrfCd=35
上のマップよりもう少し広範囲のものです。
http://machihaku.city.hagi.lg.jp/street/streetwalkmaps.pdf
<旅程>
7月27日
新大阪===広島駅(バス)---宮島口(連絡船)~~宮島港(徒歩)
→厳島神社参拝(徒歩)→紅葉谷駅(ロープウェイ)――獅子岩駅(徒歩)
→弥山頂上→獅子岩駅(ロープウェイ)――紅葉谷駅(徒歩)→宮島港(連絡船)
~~宮島口<昼食>
宮島口(バス)---錦帯橋(バス)---壇ノ浦<夕食>
壇ノ浦(バス)---門司港レトロ<夜景観賞>(バス)---北九州八幡ロイヤルホテル
7月28日
ホテル(バス)---JR門司駅(JR)===JR下関駅(バス)---村田蒲鉾店<ショッピング>
(バス)---角島(バス)---萩城下町(バス)---秋吉台展望台(バス)---広島駅===新大阪
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 観光バス 新幹線 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
萩城下町 人力車立場
遠くで雷鳴が聞こえる中、傘を差しての城下町散策となりました。結構な水溜りが見られることから、この辺りもつい先ほどまで相当量の雨が降っていたことが窺われます。
中央公園駐車場を抜けると新堀川に架かる橋の手前に人力車立場があります。外に人力車と車夫が出ていないところを見ると営業中のようです。萩城下町を人力車で回るなんて風情がありますね!
山口県萩市の人口は、約5万4000人。特産品は、夏みかん・萩焼・かまぼこ。また、吉田松陰など幕末維新のスーパースターたちを多数輩出した街です。海と山に囲まれた山紫水明な小さな街は、維新胎動の地でもありました。その基礎を築いたのが、中国地方の覇者 毛利輝元。その後、萩城下町は260年間、毛利の当主によって代々治められてきました。
現在の萩城には天守閣がありませんが、明治初期には5階建ての指月城が聳え建っていたそうです。この城は、萩の人にとって因縁のある城です。関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は、8ヶ国112万石から2ヶ国36万石に減俸されました。更には、当時は不便な地、萩の湿地帯に城を築くことになりました。苦労して建てた城も廃城令によって1874年に天守がとり壊され、現在は石垣だけを遺しています。萩は、江戸時代の古地図を持って歩ける街。昔日の道がそのままに遺され、時空を超えた旅ができるのが魅力です。 -
萩城下町 円政寺 金毘羅社鳥居
石灯籠や鳥居があり、これは神社です。でも、名前は、お寺?実は、明治政府の廃仏毀釈令を跳ね除け、神仏混交を貫いた珍しい例です。宝鏡寺宮の御真筆があったおかげだそうです。昔のことでも、天皇家がここは金毘羅さんだと記した書面があれば、神仏分離を強制できなかったそうです。
元は江戸時代 法光院と言われた藩主毛利家の祈願寺。円政寺という寺が寺町にあり、明治時代に円政寺と法光院が合併して円政寺の名前を現在の寺に付けました。別名「天狗の寺」。
石鳥居は花崗岩製で高さ2.8m、様式は明神鳥居で笠木・島木に反り、柱には転びがあり、柱頭部には台輪が付けられています。建立年代は1745年。
左脇には、二孝子祈願之金比羅社と書かれた碑が立てられています。 -
萩城下町 円政寺 山門
山門は棟門形式で本瓦葺、両袖に潜門が付けられています。建立年代は不明。
「一文字に三つ星」毛利氏の家紋を染めた幕のある山門を潜って境内へ入ります。 -
萩城下町 円政寺 山門
山門の傍らに大内氏の家紋の入った瓦がそれとなく置かれています。
大内氏の家紋は唐風の「花菱」。これは、大内氏が渡来人の多々良氏を祖先としていることに由来するそうです。
現在でも円政寺の屋根瓦には、大内氏の家紋が使われています。ただし、本堂の仏具には毛利氏の家紋が着いているそうです。 -
萩城下町 円政寺 香川津二孝子祈念参拝之碑
「香川津の二孝子の美談」として語り継がれた有名な話があります。
1815年12月11日、城下の東効香川津に住んでいた長男 権蔵と三男 利吉の2人が、母の産後の病気平癒を祈願して7日7夜断食して金比羅社に詣り、満願の夜、丸裸で雪の中を家に帰る途中、松本川東岸の雁島付近で凍死したという親思いの孝行息子の哀しい物語です。 -
萩城下町 円政寺 本堂
右手に聳える金比羅社に比べるとずいぶん小さい本堂です。しかし、脇侍の薬師如来は鎌倉期の作で、旧円政寺の本尊と伝わっています。
円政寺は、1254年に現在の山口市円政寺町に創建された大内氏代々の祈願所でしたが、1604年頃、毛利公が萩へ築城と同時に移転し、毛利氏の祈願所となったそうです。
伊藤博文は、少年時代にこの寺に奉公に出され、読み書き算盤を学びました。博文は、1841年に熊毛郡束荷村で出生。父の名は林十蔵。博文幼少時の名は、利助。博文が9歳の時、家族共々藩の中間 伊藤家の養子となりました。その家は、今も松陰神社の近くに遺されています。往時、円政寺の恵運住職と博文の母 琴子は従兄妹の関係で、博文はこの寺に一年半の間預けられました。その後、18歳で松下村塾に入門し、高杉晋作らと共に討慕運動に活躍しました。明治になり、明治憲法制定の任務に就き、初代内閣総理大臣となりますが、1909年、69歳の時に中国ハルピンで暗殺されました。 -
萩城下町 円政寺 大灯籠
境内に入ると立派な石造りの大灯籠が目を惹きつけます。 これは1858年に萩の町人が寄進したもので、日本で最も大きい灯籠だそうです。高さ0.77mの台座の上に立ち、玄武岩製で高さ4.3m。これだけ大きなものが、地震で何故倒れないのか?実は、石灯籠は6本の足で支えられ、地震などが起きた際には灯籠自体が自由に揺れ、揺れを吸収できる構造になっています。この仕組みは、現在の超高層ビルの免震構造にも活かされています。 -
萩城下町 円政寺 大灯籠
台座と灯籠部が灯籠に設えた丸みを帯びた6本の脚で分離されているのが判ります。従って、灯籠部が揺れに応じて動くことができます。これが免震構造です。 -
萩城下町 円政寺 大灯籠
灯籠の竿の部分に彫刻してある昇り龍と下り龍は、透かし彫りと言い、立体的に浮き彫りされた素晴らしいものです。それが判るように、恐らくご住職が小枝を挟んでおられます。一塊の大きな石をここまで繊細に彫ることができたのは、 相当な技量を有した石工がいたという証です。因みに、萩の石工五嶋吉平恒徳、同山中武祐利豊の共同製作と記されています。 -
萩城下町 円政寺 大灯籠
立体浮き彫りのズームアップです。間に小枝が挟まれているのが判ります。 -
萩城下町 円政寺 金毘羅社
金毘羅社の建立年代は不詳だそうですが、入口に寄進された鳥居が建っており、それに1745年と彫られている点や天保年間に編纂された「八江萩名所図画」に現在の社そのままの姿が描かれていることなどから、少なくともその頃には建立されていたと考えられています。 -
萩城下町 円政寺 金毘羅社
境内には金毘羅社という神社があり、朱色に塗られた大きな天狗の面が掲げられています。高杉晋作や桂小五郎が幼い頃、背負われてこの天狗の面を見に連れて来られ、物怖じしないように躾けられたという逸話が残されています。実際、晋作は、凧を誤って踏んだ武士を土下座させて謝罪させたり、弁当持参で処刑見物するなど、プライドや自意識が強い度胸のある子供に育ちました。天狗のご利益があったということなのでしょうね。この天狗がなければ、明治維新もなかったかも知れないと思うと愛おしくさえ思えます。現在の天狗には髭も髪もありませんが、往時は麻紐で作られたふさふさの髭や髪を付け、目と歯は金色に光っていたそうです。さすがに幼い子どもがこうした面を見ると泣き出したそうです。 -
萩城下町 円政寺 金毘羅社
金毘羅社拝殿内には、国内最大級(直径130?、重量160kg)の巨大な金毘羅大権現大鏡(銅鏡)が保管されています。解説によれば、太平洋戦争中に軍に供出し、長い間行方知れずになっていたが、2006年に京都でオークションに出されているのが分かり、買い戻され里帰りした価値あるものだそうです。住職や市は警察に相談したそうですが、どのように当時の所有権者に渡ったのかを証明できず、返却を要請する手段はないと言われ、泣く泣く買い戻したそうです。鏡には、文政五年(1882年)長州萩新堀金毘羅大権現奉献と書かれています。 -
萩城下町 円政寺 金毘羅社 狛犬吽形
左にある狛犬は口を閉じ、「人生の終わり」を表わしています。
この彫刻は、「瓶割りの図」という中国北宋時代の学者・政治家、司馬光の子供のころの逸話です。
大きな水瓶の周りで友達と遊んでいた時、友達のひとりが誤って瓶の中に落ちた。瓶は大きく、滑って這い上がれません。このままでは、溺れてしまう。友達はオロオロするばかりでしたが、司馬光は冷静に石を取って瓶に叩きつけました。瓶は割れ、少年は水とともに瓶から流れ出て救われました。大きな瓶、そしてそこに蓄えられた水は、11世紀の中国では大変な貴重品でした。子供たちは、水を大切にするよう、また瓶を割らないように重々注意されていました。それ故に、仲間の命が危機に晒されても、その教えに縛られて瓶を割るという考えに至らなかったのでした。後に偉人と称された司馬光だけが、「水と瓶より、命が大事」を当たり前と考え、咄嗟に石を持つことができたのでした。
ところで、この狛犬も免震構造に近い構造になっているように窺えます。往時、この地には地震が頻発していたのでしょうか? -
萩城下町 円政寺 金毘羅社 狛犬阿形
右にある狛犬は口を開き、「人生の始まり」を表わしています。
牛に後ろ向きに乗っていることと牛が首を回している様子から、中国にある轆角荘という村の由来に関する故事ではないかと思います。
南詔国時代、国王の閣邏鳳は娘婿を探していました。それを知った娘は「天が定めた結婚をいたします。水牛の背に後ろ向きに乗り、立ち止まった所の嫁になります」と伝えました。城を後にし、ある村に着いた時、牛が角を回しながら一軒の家に辿り着きました。娘は老女に訊ねました。「この家に息子さんはいらっしゃいませんか?」。「一人おりますが、ただ今、木を伐りに出かけていておりません」。それを聞き、娘は、「嫁にしてください」と頼み込みました。老女が承知したので、娘は人を使ってこのことを王に報せましたが、そんな卑しいキコリを婿と認めないと烈火のごとく怒り、父娘の縁を切ってしまいました。さて、娘はキコリと仲良く暮らしましたが、ある日、夫が「その首飾りは何で出来ているのか?」と訊ねました。「黄金という高価なものです」。「わしが木を伐る森にはそれが山ほどあるよ」。夫はそう言って森へ行き、黄金を沢山背負って帰ってきました。おかげで、夫婦は大金持ちになりました。その後、娘宅での宴会に招待された王は、婿が大金持ちになったのを知らず、「金や銀の橋を架けて迎えるなら、行かんでもない」と返事をしました。娘は本当に金と銀の橋を架けて迎えました。事の次第を知った王は「これぞまさしく天婚というものか」と感心しました。やがてキコリ夫婦の住んでいる村を「轆角荘」と呼ぶようになったそうです。それは水牛が角を回しながら一軒の家に辿り着いたことに由来します。 -
萩城下町 円政寺 金毘羅社
拝殿は、楼造(山口県独特の構え)で一重裳腰付、入母屋造の本瓦葺き、前面庇は檜皮葺き、唐破風がある格式の高い構えです。 -
萩城下町 円政寺 金毘羅社
金比羅社には、十二支の彫刻が巡らされた2段の軒下欄間があります。ありがたいことに住職さん自らご講釈いただきました。まだ先があるようでしたが、時間的余裕がなく途中で失礼させていただきました。
以下は、ご住職さんの説明です。暗くて判り難いのですが、下から1段目の軒下には、左から猪、犬、蛇の彫刻があり、2段目には、左から鳥、猿があります。正面には、1段目に兎、羊、鼠があり、その上に馬、牛があります。 -
萩城下町 円政寺 金毘羅社 神馬
左側にある神馬は、1820年に金子音松氏が金比羅社に奉納したもので、山口市大内名工 安永貞右衛門の作。高杉晋作や伊藤博文は、子供の頃にこの境内が遊び場所でしたので、いつも馬の鼻を撫でていたそうです。 -
萩城下町 円政寺 金毘羅社
昔の一輪車です。米俵を運ぶために使われたと記されています。伊藤博文もこの一輪車でお米を運んだのでしょうか? -
萩城下町 円政寺
拝観料200円でこんな絵地図がいただけました。サイズはA3より少し大きめで、紙質も良い立派なものです。
この地図を片手に江戸屋横丁を進むと格別な風情がでます。 -
萩城下町 青木周粥旧宅
青木周弼は、1803年に大島郡和田村の医師 青木玄棟の長男として出生。初めは三田尻の名医 能美友庵・洞庵父子について医学を学び、後に江戸に出て坪井信道や宇田川榛斎からも教えを授かりました。名声が高くなり、第13代藩主 毛利敬親に召抱えられ、明倫館の好生堂(医学所)の師範になって西洋医学を広めました。周弼は、高杉晋作が10歳の時に 天然痘を患った際、治療して一命を取り留めました。
現在は改修中のようです。 -
萩城下町 木戸孝允生家
維新の三傑と詠われた木戸孝允(桂小五郎)の生家。生まれてから江戸に出るまでの20年間を過ごした木造瓦葺の2階建ての家には、誕生の間や幼少時代の手習いの書を表装した掛け軸、写真などが展示されているそうです。2階建ての造りですが、路側に窓がなく、一見平屋建てに見えます。理由は、殿様が通る時、うっかり見下ろすことがないようにとの配慮だそうです。 往時は、切腹ものだったのでしょうね。 -
萩城下町 木戸孝允生家
木戸孝允は、1833年に萩藩医 和田昌景の長男として出生。生まれつき病弱のため姉に婿養子を娶って跡継ぎとし、8歳の時に向かいの藩主 桂家に末期養子として出され、桂小五郎と名乗ります。しかし、桂家では養母までが亡くなり、小五郎は和田家に引き取られ生母の下で過ごす事になりました。
17歳の時、藩校 明倫館で山鹿流兵学教授の吉田松陰に師事し、その門下生となりました。藩医の家から出た小五郎は、より武士らしくあろうと剣術修行に打ち込み、やがて藩内で頭角を現します。そしてそれが認められ、20歳の時に剣術修行のために江戸に向かいました。藩命により姓を木戸と改め、坂本竜馬の仲介の下、西郷隆盛や大久保利通らと薩長同盟を結び、明治維新の立役者として大車輪の活躍をしました。維新後、五箇条の御誓文の起草、版籍奉還、廃藩置県などの推進に功績を残しました。1877年、西南の役の途中で病死。享年45歳。 -
萩城下町 菊屋
皇室をも招いたという白壁と連子が並んだ豪商菊屋は「萩城下町」のハイライトです。菊屋は萩藩の御用達の商家。幕府の本陣にもなっており、屋敷地には数多くの蔵や付属屋が建てられ、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国の重要文化財に指定され、主屋が全国でも最古に属する大型の町家だそうです。また、500点余りの美術品、民具、古書籍等を保持し、往時の御用商人の暮らしぶりが窺われます。土蔵部分には長いなまこ壁が施されています。白と黒の碁盤目が斜めに交差するなまこ壁は、土蔵の腰に用いられる工法で、平瓦を貼り付け、格子型になった目地を漆喰で馬乗り型や四半型に盛り上げて塗るものです。更に、菊屋横丁は「日本の道百選」にも選ばれています。 -
萩城下町 菊屋
菊屋家の屋根には「忍び返し」が張り巡らされています。屋根や塀などの上に泥棒よけとして尖った木や竹、クギなどを施した昔の防犯対策だそうです。こうして見ると、効果は限定的だった気がしないでもありません。
余談ですが、江戸幕府からの使者は、萩城で応接されることはなく、常にこの菊屋家で行われたそうです。関ヶ原の戦いで西軍の総大将 毛利輝元が吉川広家や小早川秀秋らに裏切られたという思いが、そうさせたようです。他藩が幕府からの使者を丁重にもてなしたのとは雲泥の差です。毎年正月に殿様が発した言葉があり、「今年はどうしますか」という問いに「まだ早い」と答えたそうです。何のことか言えば、今年こそ幕府を倒しに攻め上がりますかと問う慣習で、江戸時代を通し毎年続けられたそうです。長州藩はその気概と矜持を持ち続け、維新へと連綿と続く原動力となったのでしょう。また、こうした豪商が、長州軍の活躍を豊富な資金で後押ししたのは間違いありません。
ところで、吉川広家と言えば、昨日訪れた錦帯橋を架けた吉川広嘉の先祖に当たります。お互い仇敵に当たるのでしょうが、錦帯橋を愛で、次に萩城下町を愛でるとは因果なことです。 -
萩城下町 旧久保田家
菊屋の筋向かいには、旧久保田家住宅あがります。旧御成道(参勤交代の大名行列道)沿いのメインストリートに立地し、幕末から明治時代前期にかけて建築された町家です。久保田家は初代庄七が江戸時代後期に近江から萩に移って呉服商を開き、2代目の庄次郎から酒造業に転じたと伝えられます。以来明治30年代まで「あらたま酒店」を営業していました。明治時代は、来萩した名士の宿舎としても利用され、現在は国指定史跡萩城下町を構成する極めて重要な建物となっています。
旧久保田家住宅は、菊屋家住宅と道を挟んで対峙するかのように向かい合っています。背丈の低い菊屋家の主屋に対し、旧久保田家の主屋は「つし2階」(屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた)があるため背丈が高く、両者を対比するとそれぞれの建物が建てられた時代背景が偲ばれます。 -
萩城下町 菊屋横丁
国の重要文化財に指定されている菊屋家住宅主屋の漆喰壁塗直しや海鼠瓦の張り直しの工事が昨年終わり、美しい姿を取り戻しています。 -
萩城下町 菊屋横丁
風情ある海鼠塀が横丁通りを演出しています。ところで1年で相当汚れるものなのですね!?これでは、景観保存も大変だと思いました。 -
萩城下町 菊屋横丁 田中義一生誕地
旧久保田家のある御成通りを左に曲がって菊屋横町に入って行くと、左手に田中義一生誕地が見えてきます。彼は1863年に藩主の駕籠持ち田中家の3男として生まれ、小学校の教師から陸軍大学校に進学して陸軍大臣となり、192514年には政友会総裁となり、1927年に総理大臣となり、萩城の傍に面した所に大邸宅を残しています。
急性狭心症で65歳の生涯を閉じました。彼の死により、幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れは完全に途絶える事になりました。 -
萩城下町 菊屋横丁
民家だと思いますが、土塀の屋根に施された海鼠瓦が間近な所にありました。瓦の継ぎ目に蒲鉾状の漆喰がコーティングされています。 -
萩城下町 菊屋横丁 高杉晋作生家
菊屋横町の一角に、坂本龍馬と並ぶ幕末の英雄 高杉晋作の旧宅があります。晋作は、萩藩大組士高杉小忠太の長男として1839年に出生。高杉家は200石取りの上士の家柄で代々毛利家に仕えてきた名門。世が世なら、晋作も上級藩士として穏やかな一生を約束されたのでしょう。その後、松下村塾で学び、松陰からは有識の士として嘱望されました。下関海峡においては、英米仏蘭の四カ国連合による一斉砲撃で壊滅的な打撃を受けたことで藩兵力の弱さを知り、危機打開のために身分制度のない軍隊「奇兵隊」を結成しました。その後の倒幕戦争においても諸隊の中核となり、明治維新の風雲児となりました。 -
萩城下町 菊屋横丁 高杉晋作歌碑
1863年3月16日、脱藩後、出家して頭をまるめて東行と号した時、京都の草庵にて自らを西行に重ねて詠んだ歌だそうです。
「西へ行く 人をしたひて 東行く 心の底そ 神や知るらむ」
(西行を慕って頭を丸めたけれど、自分の心は逆に東へ行くのだ。その心は神だけが知っているだろう。) -
萩城下町 菊屋横丁 高杉晋作生家
現存する当時の建物は、座敷(6畳床間付)、次の間(6畳)、居間(6畳、4.5畳)、小室(3畳)の他に玄関、台所が設えてあります。 -
萩城下町 菊屋横丁 高杉晋作生家
200石禄高の家柄ということから想像していたよりもこじんまりとした家だと思いきや、昔はこの4倍もの広さがあったそうです。部屋数だけで20以上もあるという広大な武家屋敷だったそうですが、高杉家個人所有の邸宅なので明治期にこれほどの広さは必要はないと、ご子孫が大半を手放されたそうです。昔はさぞかし立派なお邸だったのでしょう。 -
萩城下町 菊屋横丁 高杉晋作生家
高杉晋作が初湯を使ったという、裏庭にある井戸です。
雨にしっとり濡れたツワブキの葉が、目に鮮やかです。 -
萩城下町 菊屋横丁 高杉晋作生家
高杉小忠太とミチのご両親様の写真が掲げられています。 -
萩城下町 菊屋横丁 高杉晋作生家
晋作は結核を患い、下関で27年8ヶ月の短い生涯を終えました。辞世の句「おもしろき こともなき世に おもしろく」と死の床で詠み、彼を看病した齢60を過ぎた尼僧 野村望東尼(もとに)が「すみなすものは 心なりけり」と下の句を補ったとされていました(心の持ち方次第で世界は面白くもつまらなくもなる)。しかし、近年の研究により、この句は死の前年に詠まれたものと判明したそうです。
ペリー率いる黒船が浦賀に陣取り、開国か攘夷かで天下が動揺していた時代、幕政に批判的な志士らを弾圧した安政の大獄が起こり、次いでそれを画策した井伊直弼が桜田門外で討たれました。誰もが震え上がって暮らす中、野村望東尼は時勢を肌で感じ取るために上京。更には、攘夷志士を支援する役を自ら買って出ました。しかし、こうした勤王活動が仇となり、彼女は玄界灘の孤島 姫島へ流罪に処されました。粗末な獄舎に幽閉され、般若心経を血書しながらじっと耐えましたが、60歳の体は日々衰弱していきます。もはやこれまでと諦めかけた折、晋作が立ち上げた救出隊に助けられたのでした。孫がいれば同年代とおぼしき志士たちが自ら決起し、命を賭して救い出してくれた。波乱万丈の人生の中、これほどドラマチックな瞬間があったでしょうか…。
彼女は、王政復古の大号令が発せられる一月前に永遠の眠りに就きました。最期まで志を曲げず、生涯愛した歌を残して逝ったそうです。「冬ごもり こらえこらえて 一時に 花さきみてる 春は来るらし(冬の間は引きこもり、厳しい寒さにじっと耐えていれば、一時に花が咲き誇る春は来るもの)」。明治維新の夜明けを見ることは叶いませんでしたが、彼女にはその予兆が五感で判ったのでしょう。これが、晋作をはじめ勇猛果敢な英才たちが性差を超えて崇めた、野村望東尼の凛とした生涯です。 -
萩城下町 菊屋横丁 高杉晋作生家
晋作を象徴する言葉には、伊藤博文の「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し」がありますが、こうした革命児だった一方、父母には忠孝の道を貫き、妻のまさとの間に一子を儲けて高杉家を存続させ、その恩に報いたとされます。
また、世間的にはヒーローでしたが、萩ではこの英雄は疎まれていたそうです。身分にとらわれない画期的な奇兵隊や討幕運動の先頭に立った晋作が疎まれた理由は、「武士の没落」です。「誰がこんな酷いことをしたのか?それは、高杉晋作のせいだ!」と言うことで親族は肩身の狭い思いをし、嫁にも行けなかったと伝えられています。 -
萩城下町 菊屋横丁 高杉晋作生家
龍馬に絡む逸話では、晋作が上海で買い求めたピストルを龍馬に贈り、そのピストルのおかげで寺田屋襲撃事件の時に龍馬が命拾いしたとも伝えられています。
因みに、そのピストルの模型が、ガラスケースに入れられて展示されています。 -
萩城下町 菊屋横丁 土塀と夏みかん
武家屋敷の土塀や生垣の上にたわわに実る夏みかんの姿は、史都 萩の風物詩のひとつです。因みに、夏みかんは、収穫するのに1年以上かかるそうです。ですので、今年の夏みかんと来年のものが1本の木になる時期があるそうです。1個だけ色づいた、今年のものが見られます。
萩には夏みかん伝説なるものがあり、130年以上前に失業対策として全国で始めて広く栽培され、家禄・特権を失った武士を救ったのが夏みかんでした。それを考案したのは、藩の要職や小倉県権令を歴任した小幡高政。そしてこれが大成功し、明治・大正の頃は、萩の財政の数倍の夏みかんの収穫がありました。
今でも夏みかんと土塀は萩の代表的なシンボルであり、毎年5月半ばになると夏みかんの花の爽やかな甘い香りが街を包みます。昭和天皇からは、「市内に香水をまいたのか」との御言葉をいただいたそうです。また、環境省選定「かおり風景100選」にも選ばれています。 しかし、近年は栽培面積の減少と共に芳香も次第に少なくなってきているそうです。市役所では新たに「柑橘振興課」を設け、柑橘栽培の担い手の育成を始めています。往時のような甘い香りに包まれた萩が復元されることを祈りたいと思います。 -
萩城下町 晋作広場 高杉晋作立志像
晋作生誕地の斜め向かいには新作広場があり、2010年にこのブロンズ像が建てられました。多くの志士を生んだ萩では師の吉田松陰以外の像は敬遠されていましたが、近年の幕末ブームで全国から寄付金も寄せられ建立されたそうです。松下村塾に通い始めた頃の20歳前後の姿をイメージして製作され、両刀を差した羽織・袴の立ち姿と少々いかつい顔に趣がありますね。しかし、凛とした姿は、まさに「英雄」そのものです。因みに、除幕式の時には、大河ドラマ「竜馬伝」で晋作役を演じた俳優の伊勢谷友介さんも来られたそうです。
晋作はパンをこよなく愛しました。奇兵隊が戦中食として食べていたパンが残っており、幕末の科学者 中嶋治平が長崎で見聞し、長州藩へ伝えたのものだそうです。製造に当たったのは、陶工 大賀幾助という人物でした。当時の文献を基に再現された幕末パンが食べられる喫茶店が、高杉晋作旧宅からほど近い場所にあります(珈琲蔵:萩市南片河町56)。
実は、このパンは軍事目的で作られたもので、正式名称は「洋製麺麭備急餅」。つまり、兵糧・非常食でした。長州が他に先じてこうした洋式兵食を取り入れたのは、藩士の一団を幕府の禁止を犯して英国に送り、洋式兵学の習得にあたらせたからです。 -
萩城下町
ご当地サイダー(無着色・天然水使用 )なるものがありました。
フレーバーは、名産品の夏みかん(天然果汁)です。夏みかんのキレのある味と微炭酸による喉ごしが抜群で、飲んだ後に爽やかさが感じられます。今まで経験したことのない味でしたが、飲むほどに美味しく感じられる不思議なサイダーです。
ボトルのイラストは、夏みかん頭をした長州藩士「夏みかん侍」。「現代の若者の闘志に火をつけたい」との思いで、20〜30代の女性4名によって企画開発された商品だそうです。発売元は、山口市にある日本果実工業株式会社。490ml入りで定価150円だそうですが、130円で購入しました。 -
秋吉台カルスト展望台
津和野観光の代わりにアレンジしていただいたのは、秋吉台。ここもガスの中での観光になりました。カルスト地形も雨水を吸って黒っぽくなっていて、白い岩が剥き出しになっている本来のイメージとはかけ離れた秋吉台でした。
秋吉台は山口県美祢市中の東部に広がる日本最大のカルスト台地です。3.5億年前、この一帯は海でしたが、海底火山ができ、その火山の海面近くにサンゴ礁が形成され、厚い石灰岩層ができました。その後、石灰岩層は隆起して地表に現れ、雨水により侵食され、鍾乳洞やドリーネとよばれる窪地が数多く形成され、カルスト地形となったそうです。大部分が自然公園として国定公園に指定され、その中の一部は特別天然記念物に指定されています。秋吉台の地下100mには、30万年をかけて地下水が石灰岩を溶かしてできた鍾乳洞、秋芳洞がその自然の雄大さを物語っています。 -
秋吉台カルスト展望台
本来なら秋吉台の一面の草原風景を見渡すことができる展望台です。秋吉台の雄大な景観には、石灰岩の岩肌が露出するラピエ、月のクレーターのような凹地のドリーネやウバ−レやポリエなどがあり、異国的な雰囲気を醸し出しています。
代替観光なので贅沢は言えませんが、個人的には萩城下町から至近の松陰神社に連れて行くのもありかなと思いました。萩と言っても広いですから…。ツアー会社としては、バラエティーに富んだ観光地に案内し、喜んでもらいたかったのでしょうね。 -
広島駅 広島焼き「福ちゃん」
津和野がスキップになったため、広島駅で1時間半程フリータイムが取れました。折角なので広島焼きを食べようと駅の北側を探しましたが、見つけられず(JR広島駅側には沢山あるようです)。結局、新幹線ターミナル2Fにある「福ちゃん」に入りました。添乗員さんから、地元の人はイカ天入りを好むと聞いたので、それを注文。関西で言うモダン焼きに近いのですが、麺はソバかウドンを選べます。主役が麺になるところが、モダン焼きと違う点です。まるでオムライスのように真ん中が膨れています。蒸し焼きに近いので、ソバ(生麺)はほどよい歯応えを残してモッチリ。麺の上には、申し訳程度に薄い卵ベースの生地が載せられています。でも、細麺とイカ天の食感が抜群で、美味しかったです。
このお店は、カープソースを使っており、お皿もカープソースのロゴ入りです。また、地元では「邪道」と否定する人が多いマヨネーズが、この店では自我を放棄したかのようにテーブルにセットされていました。観光客など県外の客が多い新幹線駅構内という場所柄、顧客目線を重視した結果なのでしょうね。勿論、当方もマヨネーズを潤沢にトッピングして美味しくいただきました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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