宮島・厳島神社 旅行記(ブログ) 一覧に戻る
JR駅構内に掲示してある広島デスティネーションキャンペーンのポスターに感化され、今年の夏は広島をはじめ西国を巡る旅に出ました。一種のサブリミナル効果だと思いますが、「瀬戸内ひろしま、宝しま」というキャッチフレーズも心揺さぶるものがあります。おかげさまで、近くて遠い存在だった山陽・山陰がぐっと身近なものになりました。<br />西国と言っても広いので、欲張りな当方はツアーであちこちの見所を巡ることにしました。西国周遊を飾るトップバッターは、厳島神社です。厳島神社は瀬戸内海の広島湾に浮かぶ厳島(宮島)を背後に、その入江の中に木造建物が建ち並ぶ、お伽噺の龍宮城を彷彿とさせる幻想的な神社です。大河ドラマ「平清盛」の舞台ともなり、平安時代の寝殿造りの枠を極めた建築美で知られる日本屈指の名社です。現在の社殿の建造は12世紀に始まり、その後焼失し、1241年に再建されています。このような過酷な環境下にある木造建物ながら、歴代政権の手厚い庇護に支えられ、古い様式を今日に伝えている稀有な世界遺産です。また、厳島の緑濃い森林が海岸線に迫る美しい自然景観は、17世紀頃から「日本三景」のひとつとして称えられてきました。<br />厳島神社とその周辺のマップは、次のサイトが分かり易いです。<br />http://azusamaya.web.fc2.com/tetudou/miyajima.html<br /><br /><旅程><br />7月27日<br />新大阪===広島駅(バス)---宮島口(連絡船)~~宮島港(徒歩)<br />→厳島神社参拝(徒歩)→紅葉谷駅(ロープウェイ)――獅子岩駅(徒歩)<br />→弥山頂上→獅子岩駅(ロープウェイ)――紅葉谷駅(徒歩)→宮島港(連絡船)<br />~~宮島口<昼食><br />宮島口(バス)---錦帯橋(バス)---壇ノ浦<夕食><br />壇ノ浦(バス)---門司港レトロ<夜景観賞>(バス)---北九州八幡ロイヤルホテル<br />7月28日<br />ホテル(バス)---JR門司駅(JR)===JR下関駅(バス)---村田蒲鉾店<ショッピング><br />(バス)---角島(バス)---萩城下町(バス)---秋吉台展望台(バス)---広島駅===新大阪<br />

九夏三伏 西国周遊記①厳島神社編

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2013/07/27 - 2013/07/28

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

JR駅構内に掲示してある広島デスティネーションキャンペーンのポスターに感化され、今年の夏は広島をはじめ西国を巡る旅に出ました。一種のサブリミナル効果だと思いますが、「瀬戸内ひろしま、宝しま」というキャッチフレーズも心揺さぶるものがあります。おかげさまで、近くて遠い存在だった山陽・山陰がぐっと身近なものになりました。
西国と言っても広いので、欲張りな当方はツアーであちこちの見所を巡ることにしました。西国周遊を飾るトップバッターは、厳島神社です。厳島神社は瀬戸内海の広島湾に浮かぶ厳島(宮島)を背後に、その入江の中に木造建物が建ち並ぶ、お伽噺の龍宮城を彷彿とさせる幻想的な神社です。大河ドラマ「平清盛」の舞台ともなり、平安時代の寝殿造りの枠を極めた建築美で知られる日本屈指の名社です。現在の社殿の建造は12世紀に始まり、その後焼失し、1241年に再建されています。このような過酷な環境下にある木造建物ながら、歴代政権の手厚い庇護に支えられ、古い様式を今日に伝えている稀有な世界遺産です。また、厳島の緑濃い森林が海岸線に迫る美しい自然景観は、17世紀頃から「日本三景」のひとつとして称えられてきました。
厳島神社とその周辺のマップは、次のサイトが分かり易いです。
http://azusamaya.web.fc2.com/tetudou/miyajima.html

<旅程>
7月27日
新大阪===広島駅(バス)---宮島口(連絡船)~~宮島港(徒歩)
→厳島神社参拝(徒歩)→紅葉谷駅(ロープウェイ)――獅子岩駅(徒歩)
→弥山頂上→獅子岩駅(ロープウェイ)――紅葉谷駅(徒歩)→宮島港(連絡船)
~~宮島口<昼食>
宮島口(バス)---錦帯橋(バス)---壇ノ浦<夕食>
壇ノ浦(バス)---門司港レトロ<夜景観賞>(バス)---北九州八幡ロイヤルホテル
7月28日
ホテル(バス)---JR門司駅(JR)===JR下関駅(バス)---村田蒲鉾店<ショッピング>
(バス)---角島(バス)---萩城下町(バス)---秋吉台展望台(バス)---広島駅===新大阪

同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
観光バス 新幹線 徒歩
利用旅行会社
ツアー(添乗員同行あり)
旅行の満足度
5.0
観光
5.0

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  • 原爆ドーム<br />広島駅からバスに乗り、厳島への玄関口となる宮島口へ向かいます。途中、元安川に架かる相生橋を渡る時、橋の左手に原爆ドームが顔を覗かせました。昨日まで耐震対策検討のための調査がなされており、足場が組まれていたそうです。予定通り調査が終わり、足場が撤去されていました。<br />原爆の惨禍と共に平和を訴えるシンボルの原爆ドームを見るのは初めてです。日本が持つ戦争の壮絶さ、悲惨さを「原爆ドーム」の一言で体現しています。唯一の被爆国として、見るに堪えない歴史の生き証人を未来永劫に残していく義務があるように感じました。昨今、電力会社や一部の政治家の間で原発再起動の声が高くなっているようですが、改めて原爆ドームを間近に観て熟考していただきたいと思います。

    原爆ドーム
    広島駅からバスに乗り、厳島への玄関口となる宮島口へ向かいます。途中、元安川に架かる相生橋を渡る時、橋の左手に原爆ドームが顔を覗かせました。昨日まで耐震対策検討のための調査がなされており、足場が組まれていたそうです。予定通り調査が終わり、足場が撤去されていました。
    原爆の惨禍と共に平和を訴えるシンボルの原爆ドームを見るのは初めてです。日本が持つ戦争の壮絶さ、悲惨さを「原爆ドーム」の一言で体現しています。唯一の被爆国として、見るに堪えない歴史の生き証人を未来永劫に残していく義務があるように感じました。昨今、電力会社や一部の政治家の間で原発再起動の声が高くなっているようですが、改めて原爆ドームを間近に観て熟考していただきたいと思います。

  • 原爆ドーム<br />元の建物は、チェコ人 ヤン・レツルの設計により1915年に広島県産業奨励館として竣工しました。この建物は、一部鉄骨を使用した煉瓦造の建築で、石材とモルタルで外装が施されていました。全体は窓の多い3階建てで、正面中央部分は5階建ての階段室、その上に銅板の楕円形ドームが載せられていました。<br />しかし、1945年8月6日、一発の原子爆弾により広島市街の建物は一瞬にして倒壊し、灰燼に帰しました。産業奨励館は爆心地から北西約150mの至近距離で被爆し、爆風と熱線を浴びて大破し、天井から火を吹いて全焼しましたが、爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、本屋の中心部は奇跡的に倒壊を免れたそうです。<br />原爆ドームに隣接するオフィスビル「広島マツダ大手町ビル(12階建)」の改修計画があるようです。今までオフィス専用だったものを、一般客も入れるようにするそうです。ビル内に休憩スペースや市内を眺望できる場所を設け、原爆の悲惨さや広島復興の足取りを感じ取ってもらえるような施設を想定されています。2015年完成予定。<br />

    原爆ドーム
    元の建物は、チェコ人 ヤン・レツルの設計により1915年に広島県産業奨励館として竣工しました。この建物は、一部鉄骨を使用した煉瓦造の建築で、石材とモルタルで外装が施されていました。全体は窓の多い3階建てで、正面中央部分は5階建ての階段室、その上に銅板の楕円形ドームが載せられていました。
    しかし、1945年8月6日、一発の原子爆弾により広島市街の建物は一瞬にして倒壊し、灰燼に帰しました。産業奨励館は爆心地から北西約150mの至近距離で被爆し、爆風と熱線を浴びて大破し、天井から火を吹いて全焼しましたが、爆風が上方からほとんど垂直に働いたため、本屋の中心部は奇跡的に倒壊を免れたそうです。
    原爆ドームに隣接するオフィスビル「広島マツダ大手町ビル(12階建)」の改修計画があるようです。今までオフィス専用だったものを、一般客も入れるようにするそうです。ビル内に休憩スペースや市内を眺望できる場所を設け、原爆の悲惨さや広島復興の足取りを感じ取ってもらえるような施設を想定されています。2015年完成予定。

  • 宮島口<br />宮島口から厳島へ渡る手段は連絡船です。所要時間は約10分、JR西日本と松大汽船(広電グループ)の2社が競合して運行しています。便の多さや柔軟性では松大汽船に分があると思いますが、JR連絡船は厳島の大鳥居に大接近して航行するという大きなポイントがあります。但し、このサービスは往路だけです。大鳥居を手前にして厳島神社の全景をカメラに収めるには最高です。それに、唯一残っているJRの航路でもあります。<br />因みに、厳島神社と大鳥居をツーショットで写せるのは、連絡船からだけですので、デッキの進行方向右側に陣取ると都合がいいです。 <br />

    宮島口
    宮島口から厳島へ渡る手段は連絡船です。所要時間は約10分、JR西日本と松大汽船(広電グループ)の2社が競合して運行しています。便の多さや柔軟性では松大汽船に分があると思いますが、JR連絡船は厳島の大鳥居に大接近して航行するという大きなポイントがあります。但し、このサービスは往路だけです。大鳥居を手前にして厳島神社の全景をカメラに収めるには最高です。それに、唯一残っているJRの航路でもあります。
    因みに、厳島神社と大鳥居をツーショットで写せるのは、連絡船からだけですので、デッキの進行方向右側に陣取ると都合がいいです。

  • 宮島口<br />運悪く、我々が乗船したのはこの松大汽船でした。<br />ツアーですのでとにかく時間優先です。仕方ありません。

    宮島口
    運悪く、我々が乗船したのはこの松大汽船でした。
    ツアーですのでとにかく時間優先です。仕方ありません。

  • 厳島神社と大鳥居<br />天気がイマイチでしたので遠くが霞んでいます。こうした情景も趣があるのですが…。<br />絵になるのは、何と言っても厳島神社中央の御本社の前に大鳥居が控える構図です。しかし、乗船した位置ですでにこの構図ですのでJRの連絡船に乗らない限り夢は叶えられません。厳島神社に対し、大鳥居はこの構図から相対的に右側へ移動することになります。

    厳島神社と大鳥居
    天気がイマイチでしたので遠くが霞んでいます。こうした情景も趣があるのですが…。
    絵になるのは、何と言っても厳島神社中央の御本社の前に大鳥居が控える構図です。しかし、乗船した位置ですでにこの構図ですのでJRの連絡船に乗らない限り夢は叶えられません。厳島神社に対し、大鳥居はこの構図から相対的に右側へ移動することになります。

  • 宮島港手前<br />厳島とは、「神を斎(いつ)き祀(まつ)る島」の意味。つまり島=神というのが発想の原点。まさに自然への畏敬に根ざしたアニミズム(森羅万象の中に霊魂もしくは霊が宿るという考え方)の典型です。当初は神を傷つけないように人の上陸は控えられ、ましてや建物が建てられることはありませんでした。人が住むようになったのは室町時代以降で、現在の姿に近い社殿が建てられた平安末期はまだ無人島で海上に社殿だけが建っていたそうです。何故、社殿が海上にあるのかもこれで合点がいきます。つまり、ご神体を傷つけないよう、海上に建てたということのようです(諸説あって完全には解明されていません)。尚、厳島は山岳信仰の対象として林業が禁じられていたため、瀬戸内海では稀有な原生林が遺されています。この意図を汲み、ユネスコの世界遺産リストには社殿と弥山がセットで登録されています。<br />

    宮島港手前
    厳島とは、「神を斎(いつ)き祀(まつ)る島」の意味。つまり島=神というのが発想の原点。まさに自然への畏敬に根ざしたアニミズム(森羅万象の中に霊魂もしくは霊が宿るという考え方)の典型です。当初は神を傷つけないように人の上陸は控えられ、ましてや建物が建てられることはありませんでした。人が住むようになったのは室町時代以降で、現在の姿に近い社殿が建てられた平安末期はまだ無人島で海上に社殿だけが建っていたそうです。何故、社殿が海上にあるのかもこれで合点がいきます。つまり、ご神体を傷つけないよう、海上に建てたということのようです(諸説あって完全には解明されていません)。 尚、厳島は山岳信仰の対象として林業が禁じられていたため、瀬戸内海では稀有な原生林が遺されています。この意図を汲み、ユネスコの世界遺産リストには社殿と弥山がセットで登録されています。

  • 宮島港手前<br />大鳥居の棟の東側には太陽、西側には三日月の印が見られ、陰陽道の影響も垣間見ることができます。見えているのは東側の太陽印です。<br />風水では北東の方位を鬼門と呼び、東側に太陽を置くのは鬼門封じのためだそうです。<br /><br />

    宮島港手前
    大鳥居の棟の東側には太陽、西側には三日月の印が見られ、陰陽道の影響も垣間見ることができます。見えているのは東側の太陽印です。
    風水では北東の方位を鬼門と呼び、東側に太陽を置くのは鬼門封じのためだそうです。

  • 宮島港<br />厳島を遠目に見ると、山の稜線のプロフィールが女性の寝姿に見えると言われています。しかし、こうして見ると、お釈迦様の顔にも見えませんか?一番左側の弥山(標高535m)が額、弥山登山道の遊女の石畳道付近に残る土石流跡が目、駒ヶ林(標高509m)が鼻のように見え、その右側に唇を彷彿とさせる山並みが続き確かにお釈迦様です。土石流の跡(幕岩付近)に雪が積もると観音様の目が開いたように見えるそうです。それ故に、この土石流跡は「乙女の涙」とも呼ばれるそうです。 <br />

    宮島港
    厳島を遠目に見ると、山の稜線のプロフィールが女性の寝姿に見えると言われています。しかし、こうして見ると、お釈迦様の顔にも見えませんか?一番左側の弥山(標高535m)が額、弥山登山道の遊女の石畳道付近に残る土石流跡が目、駒ヶ林(標高509m)が鼻のように見え、その右側に唇を彷彿とさせる山並みが続き確かにお釈迦様です。土石流の跡(幕岩付近)に雪が積もると観音様の目が開いたように見えるそうです。それ故に、この土石流跡は「乙女の涙」とも呼ばれるそうです。

  • 厳島 世界遺産登録記念碑<br />桟橋前広場には、「厳島神社」世界遺産登録記念碑があります。1996年に厳島神社が原爆ドームと共に世界文化遺産に登録されました。それを記念して2000年に建てられた石碑です。<br />彫刻家 児玉康兵氏によるもので、陰陽思想と古代の宇宙観をテーマに円形と方形を基本にデザインされたそうです。因みに、中央部の穴からは厳島神社の大鳥居を望むことができるそうですが、穴の先には日傘を差した人がいっぱいで立ち去るまで待つ時間的余裕はありません。暑さのせいで鹿も松の木陰で暫しまどろんでいます。宮島桟橋から厳島神社参拝入口までは、寄り道しなくても徒歩で12分程度かかります。<br /><br />

    厳島 世界遺産登録記念碑
    桟橋前広場には、「厳島神社」世界遺産登録記念碑があります。1996年に厳島神社が原爆ドームと共に世界文化遺産に登録されました。それを記念して2000年に建てられた石碑です。
    彫刻家 児玉康兵氏によるもので、陰陽思想と古代の宇宙観をテーマに円形と方形を基本にデザインされたそうです。因みに、中央部の穴からは厳島神社の大鳥居を望むことができるそうですが、穴の先には日傘を差した人がいっぱいで立ち去るまで待つ時間的余裕はありません。暑さのせいで鹿も松の木陰で暫しまどろんでいます。宮島桟橋から厳島神社参拝入口までは、寄り道しなくても徒歩で12分程度かかります。

  • 厳島神社 石鳥居<br />参道を進むと商店街を抜けた開けた所に大きな石の鳥居が立っており、両脇には大きな狛犬が佇んでいます。この石鳥居は世界一大きな石の鳥居を作ろうとの掛け声で、20年の歳月をかけ、1906年に立てられたものだそうです。総御影石造りで、高さ10m、横幅11.5m、柱の周囲は3.6mと立派なものです。<br />因みに、両側の柱は1つの石から削り出され、継ぎのない巨大な石柱です。ここから先が厳島神社の境内地となります。狛犬の後ろの「ねじれの松」も見所です。<br />

    厳島神社 石鳥居
    参道を進むと商店街を抜けた開けた所に大きな石の鳥居が立っており、両脇には大きな狛犬が佇んでいます。この石鳥居は世界一大きな石の鳥居を作ろうとの掛け声で、20年の歳月をかけ、1906年に立てられたものだそうです。総御影石造りで、高さ10m、横幅11.5m、柱の周囲は3.6mと立派なものです。
    因みに、両側の柱は1つの石から削り出され、継ぎのない巨大な石柱です。ここから先が厳島神社の境内地となります。狛犬の後ろの「ねじれの松」も見所です。

  • 厳島神社 大鳥居(重要文化財)<br />厳島神社のランドマークは、海上にそそり立つ木造朱塗りの大鳥居。<br />日本三大鳥居に数えられ、棟の長さ24.2m、主柱周り9.9m、総重量60トン。高さ16.6mは奈良の大仏とほぼ同じだそうです。形式は主柱の前後に袖柱を建てた4脚造り(両部鳥居)。木部は丹塗り、主柱は樹齢400年クラスの楠、袖柱は杉の自然木を使っています。楠は、比重が重く、腐り難く、虫に強いという特徴があります。因みに、日本三大鳥居の残りは、吉野:銅の鳥居と大阪四天王寺:石の鳥居です。日本三大大鳥居というものもあり、平安神宮(24.4m)、おのころ島神社(21.7m)に次いで3位です。<br />

    厳島神社 大鳥居(重要文化財)
    厳島神社のランドマークは、海上にそそり立つ木造朱塗りの大鳥居。
    日本三大鳥居に数えられ、棟の長さ24.2m、主柱周り9.9m、総重量60トン。高さ16.6mは奈良の大仏とほぼ同じだそうです。形式は主柱の前後に袖柱を建てた4脚造り(両部鳥居)。木部は丹塗り、主柱は樹齢400年クラスの楠、袖柱は杉の自然木を使っています。楠は、比重が重く、腐り難く、虫に強いという特徴があります。因みに、日本三大鳥居の残りは、吉野:銅の鳥居と大阪四天王寺:石の鳥居です。日本三大大鳥居というものもあり、平安神宮(24.4m)、おのころ島神社(21.7m)に次いで3位です。

  • 厳島神社 大鳥居<br />扁額には有栖川宮熾仁親王の染筆で、海側は「嚴嶋神社」、陸側は「伊都岐島神社」と万葉仮名で書かれています。扁額は、三方を波の文様と神紋「三亀甲剣花菱」が囲み、頂部に宝珠を据えています。古来の扁額は、小野道風と空海の染筆と伝えられていましたが(一説には小野道風と紀貫之)、何時の頃からか遺失して今では遺されていないそうです。<br /><br />ビーチは日本語で砂浜ですが、古来日本人は「州浜(スハマ)」と呼び、特にこの辺りは御笠浜と呼ばれる舌状に伸びる浜で、古来より神聖なスポットと考えられていたそうです。和菓子や什器などのデザインにも多用されていることから、畏敬の念が強かったことが窺えます。厳島には沢山の州浜があります。

    厳島神社 大鳥居
    扁額には有栖川宮熾仁親王の染筆で、海側は「嚴嶋神社」、陸側は「伊都岐島神社」と万葉仮名で書かれています。扁額は、三方を波の文様と神紋「三亀甲剣花菱」が囲み、頂部に宝珠を据えています。古来の扁額は、小野道風と空海の染筆と伝えられていましたが(一説には小野道風と紀貫之)、何時の頃からか遺失して今では遺されていないそうです。

    ビーチは日本語で砂浜ですが、古来日本人は「州浜(スハマ)」と呼び、特にこの辺りは御笠浜と呼ばれる舌状に伸びる浜で、古来より神聖なスポットと考えられていたそうです。和菓子や什器などのデザインにも多用されていることから、畏敬の念が強かったことが窺えます。厳島には沢山の州浜があります。

  • 厳島神社 大鳥居<br />本社正面の海に向かって突き出た火焼前(ひたさき)から200m沖の海中に威風堂々とそそり立っています。平安時代の記録に鳥居の存在が記されているそうですが、どんな形であったかは不明。また、創建年代も詳らかでなく、残っている最古の記録から1168年の増設を初代とし、現在は8代目(1875年)に当たり、重要文化財に指定されています。<br />この鳥居は根元が海底に埋められているのではなく、海中に置かれているだけだそうです。主柱の基礎には千本杭工法が用いられ、45〜60cmの松杭が各柱の下に30〜100本打ち込まれているので沈むこともないそうです。<br />では、何故海流に流されないかというと、重量がミソです。笠木が箱状になっており、経文が書かれた拳大の石が7トン詰められ、錘代わりにされているそうです。引き潮の時にしかそばで見ることはできませんが、やはり満ち潮で離れてみるのが一番美しく見えます。いにしえの人が培った厳かで端正な美意識を誇りに思える空間です。<br />ご覧のように満ち潮時には、参拝遊覧船が鳥居を潜ってくれます。最近は、水上バイクで潜る無謀な輩も多いようです。世界遺産の一画ですので損傷しないように規制をかけてもよいのでは?

    厳島神社 大鳥居
    本社正面の海に向かって突き出た火焼前(ひたさき)から200m沖の海中に威風堂々とそそり立っています。平安時代の記録に鳥居の存在が記されているそうですが、どんな形であったかは不明。また、創建年代も詳らかでなく、残っている最古の記録から1168年の増設を初代とし、現在は8代目(1875年)に当たり、重要文化財に指定されています。
    この鳥居は根元が海底に埋められているのではなく、海中に置かれているだけだそうです。主柱の基礎には千本杭工法が用いられ、45〜60cmの松杭が各柱の下に30〜100本打ち込まれているので沈むこともないそうです。
    では、何故海流に流されないかというと、重量がミソです。笠木が箱状になっており、経文が書かれた拳大の石が7トン詰められ、錘代わりにされているそうです。引き潮の時にしかそばで見ることはできませんが、やはり満ち潮で離れてみるのが一番美しく見えます。いにしえの人が培った厳かで端正な美意識を誇りに思える空間です。
    ご覧のように満ち潮時には、参拝遊覧船が鳥居を潜ってくれます。最近は、水上バイクで潜る無謀な輩も多いようです。世界遺産の一画ですので損傷しないように規制をかけてもよいのでは?

  • 厳島神社 御笠浜<br />厳島に上陸すると鹿が出迎えてくれます。盛夏の日中は木陰でまどろんでいるものが多いようです。古来、厳島では動植物の捕獲が禁じられていました。ことさら鹿だけを保護していた訳ではありませんが、神の使者として大事にされ、我が物顔で闊歩するようになったそうです。ただし、基本的には野生で、奈良の鹿と違って餌付けされていないそうです。ですから餌は与えないようにしてください。ただ例外もあり、団体写真撮影場付近にいる鹿は完全に餌付けされ、このようにおとなしく写真に収まります。名前で呼ばれていますし、中にはカメラ目線の鹿もいますから吃驚です。<br />余談ですが、この場所は、石灯籠2基が大鳥居を挟み、右に松葉の緑のアクセントが配せられる格好の撮影スポットなのです。しかし、このように団写業者が陣取るというのは道義的にどうなのでしょうか?撮影中でなくても、撮影用の椅子が写り込んでしまいます。また景観自体が損なわれます。

    厳島神社 御笠浜
    厳島に上陸すると鹿が出迎えてくれます。盛夏の日中は木陰でまどろんでいるものが多いようです。古来、厳島では動植物の捕獲が禁じられていました。ことさら鹿だけを保護していた訳ではありませんが、神の使者として大事にされ、我が物顔で闊歩するようになったそうです。ただし、基本的には野生で、奈良の鹿と違って餌付けされていないそうです。ですから餌は与えないようにしてください。ただ例外もあり、団体写真撮影場付近にいる鹿は完全に餌付けされ、このようにおとなしく写真に収まります。名前で呼ばれていますし、中にはカメラ目線の鹿もいますから吃驚です。
    余談ですが、この場所は、石灯籠2基が大鳥居を挟み、右に松葉の緑のアクセントが配せられる格好の撮影スポットなのです。しかし、このように団写業者が陣取るというのは道義的にどうなのでしょうか?撮影中でなくても、撮影用の椅子が写り込んでしまいます。また景観自体が損なわれます。

  • 厳島神社 大鳥居とヘレン・ケラー灯籠<br />誰もが知るヘレン・ケラーは、生涯で3度来日し、そのうち2度も厳島を訪れています。1度目は1937年、2度目は1948年。ということは、2度目の訪問は、広島に原爆が落とされた3年後のこと。彼女が訪れた時は、厳島の島民が総出で出迎えたそうです。大鳥居近くの海岸沿いの参道には、恩師サリヴァンの功績を称え、火を灯して献灯供養した石灯籠があります。当時、ヘレン・ケラーがその傍らで佇む姿が撮影され、「ヘレン・ケラー灯籠」と呼ばれて話題になったそうです。その灯籠は、大鳥居を背景に団写する御笠浜の海に続く雁木(がんき)から数えて左に二つ目とのことですので、どうやらこの石灯篭のようです。年季が入って他に比べて随分黒ずんでいるので判ると思います。恐らく、彼女がしたのと同じように観光客が手で触れていくからでしょう。 <br />

    厳島神社 大鳥居とヘレン・ケラー灯籠
    誰もが知るヘレン・ケラーは、生涯で3度来日し、そのうち2度も厳島を訪れています。1度目は1937年、2度目は1948年。ということは、2度目の訪問は、広島に原爆が落とされた3年後のこと。彼女が訪れた時は、厳島の島民が総出で出迎えたそうです。大鳥居近くの海岸沿いの参道には、恩師サリヴァンの功績を称え、火を灯して献灯供養した石灯籠があります。当時、ヘレン・ケラーがその傍らで佇む姿が撮影され、「ヘレン・ケラー灯籠」と呼ばれて話題になったそうです。その灯籠は、大鳥居を背景に団写する御笠浜の海に続く雁木(がんき)から数えて左に二つ目とのことですので、どうやらこの石灯篭のようです。年季が入って他に比べて随分黒ずんでいるので判ると思います。恐らく、彼女がしたのと同じように観光客が手で触れていくからでしょう。

  • 厳島神社 大鳥居とヘレン・ケラー灯籠<br />奇跡の人ヘレン・ケラーは、1歳の時、視力と聴力を失いました。しかし、努力を重ねてコミュニケーション能力を獲得し、豊かな才能を開花させます。その後、障害のある人の地位を高める為に一生を捧げました。<br />1934年、アメリカに住むヘレンを訪ねてきた日本人がいました。岩橋武夫と妻きをです。病気で失明した武夫は、視覚障害者の地位を高める活動をしており、ヘレンに来日してもらい、世論を動かしたい一心でした。しかし、彼女には行けない事情がありました。恩師アン・サリヴァンが重病を患っていたのです。<br />ヘレンとサリヴァンの出会いは、ヘレンが6歳の時。話す事も出来ないヘレンの所に家庭教師としてやって来ます。指を使いヘレンに言葉を教えますが、理解できないヘレンは癇癪を起して反抗します。それでも諦めませんでした。努力の末、ヘレンは指を使った文字を覚え、コミュニケーション能力を培ったのです。<br />ヘレンはサリヴァンに相談しました。すると、「行っておあげなさい。あなたを教えてきたのは、障害のある人と手を握ってみんなが幸せになるよう、尽くしてもらうためよ」と返されました。しかし、これがサリヴァンの最後の言葉でした。 <br />1937年に初来日したヘレンは、4ヶ月間滞在し、日本全国で80回以上の公演を行う過密スケジュールをこなしました。その道中、岩橋は、ヘレンが時折悲しそうな顔をする事に気付きます。サリヴァンの死を悼んでいたのです。そんな彼女の為に岩橋は、広島である催しを披露しました。舞台は夜の厳島神社。サリヴァンの功績を讃え、神社の周りの全石灯籠に火を灯して献灯供養を行いました。秘書がその光景を伝えると、ヘレンの目から涙がこぼれました。<br />初来日した年、奇しくも日中戦争へと突き進み、やがて日米戦争へと波及しました。そんなある日、ヘレンの元に悲報が届けれられます。広島と長崎に原子爆弾が落とされ、日本が壊滅したというのです。愛していた日本はどうなったのか?ヘレンは終戦から3年後に再来日します。真っ先に向かったのは広島。彼女はここで原爆の破壊力と恐ろしさを知らされました。被爆者とも交流し、ある男性の顔に触れた時の事を書き残しています。「回りの人は何も言わず私に顔を触らせてくれました。悲惨な体験が伝わり心が痛みました」。自国が行った行為を実感し、激しく自分を責めました。しかし、そんなヘレンに市民を代表して市長が伝えます。「重い障害と共に歩んできたあなたの生き方は、懸命に生きる事の大切さを教えてくれます。私たちは、あなたが歩んでこられた道から学んで、その道をたどって参りたいと思います」。広島の人々は、アメリカ人のヘレンを責める事無く、むしろ希望を与えてくれた事への感謝を示したのです。<br />その後、1955年、ヘレンは3度目の来日を果たし、日本の福祉の更なる向上に尽力し、87歳で亡くなるまで誰もが幸福に暮らせる社会の実現を訴え続けました。ヘレンの願いは、国を越え、世代を越え、受け継がれているのです。<br />最後にヘレンの残した言葉を紹介します。「不幸のどん底にあっても、この世には自分にできることがあるのだと信じましょう。誰かの苦しみを和らげてあげられる限り、人生は無駄とはなりません。人生で最も胸が高鳴るのは、他人の為に生きる時です」。 <br />

    厳島神社 大鳥居とヘレン・ケラー灯籠
    奇跡の人ヘレン・ケラーは、1歳の時、視力と聴力を失いました。しかし、努力を重ねてコミュニケーション能力を獲得し、豊かな才能を開花させます。その後、障害のある人の地位を高める為に一生を捧げました。
    1934年、アメリカに住むヘレンを訪ねてきた日本人がいました。岩橋武夫と妻きをです。病気で失明した武夫は、視覚障害者の地位を高める活動をしており、ヘレンに来日してもらい、世論を動かしたい一心でした。しかし、彼女には行けない事情がありました。恩師アン・サリヴァンが重病を患っていたのです。
    ヘレンとサリヴァンの出会いは、ヘレンが6歳の時。話す事も出来ないヘレンの所に家庭教師としてやって来ます。指を使いヘレンに言葉を教えますが、理解できないヘレンは癇癪を起して反抗します。それでも諦めませんでした。努力の末、ヘレンは指を使った文字を覚え、コミュニケーション能力を培ったのです。
    ヘレンはサリヴァンに相談しました。すると、「行っておあげなさい。あなたを教えてきたのは、障害のある人と手を握ってみんなが幸せになるよう、尽くしてもらうためよ」と返されました。しかし、これがサリヴァンの最後の言葉でした。
    1937年に初来日したヘレンは、4ヶ月間滞在し、日本全国で80回以上の公演を行う過密スケジュールをこなしました。その道中、岩橋は、ヘレンが時折悲しそうな顔をする事に気付きます。サリヴァンの死を悼んでいたのです。そんな彼女の為に岩橋は、広島である催しを披露しました。舞台は夜の厳島神社。サリヴァンの功績を讃え、神社の周りの全石灯籠に火を灯して献灯供養を行いました。秘書がその光景を伝えると、ヘレンの目から涙がこぼれました。
    初来日した年、奇しくも日中戦争へと突き進み、やがて日米戦争へと波及しました。そんなある日、ヘレンの元に悲報が届けれられます。広島と長崎に原子爆弾が落とされ、日本が壊滅したというのです。愛していた日本はどうなったのか?ヘレンは終戦から3年後に再来日します。真っ先に向かったのは広島。彼女はここで原爆の破壊力と恐ろしさを知らされました。被爆者とも交流し、ある男性の顔に触れた時の事を書き残しています。「回りの人は何も言わず私に顔を触らせてくれました。悲惨な体験が伝わり心が痛みました」。自国が行った行為を実感し、激しく自分を責めました。しかし、そんなヘレンに市民を代表して市長が伝えます。「重い障害と共に歩んできたあなたの生き方は、懸命に生きる事の大切さを教えてくれます。私たちは、あなたが歩んでこられた道から学んで、その道をたどって参りたいと思います」。広島の人々は、アメリカ人のヘレンを責める事無く、むしろ希望を与えてくれた事への感謝を示したのです。
    その後、1955年、ヘレンは3度目の来日を果たし、日本の福祉の更なる向上に尽力し、87歳で亡くなるまで誰もが幸福に暮らせる社会の実現を訴え続けました。ヘレンの願いは、国を越え、世代を越え、受け継がれているのです。
    最後にヘレンの残した言葉を紹介します。「不幸のどん底にあっても、この世には自分にできることがあるのだと信じましょう。誰かの苦しみを和らげてあげられる限り、人生は無駄とはなりません。人生で最も胸が高鳴るのは、他人の為に生きる時です」。

  • 厳島神社<br />厳島神社は、推古天皇が即位した593年に豪族 佐伯鞍職が市杵嶋姫命の神託により創建しました。その後、12世紀に平家一族の繁栄を願い、安芸の守 平清盛によって現在の姿を確立しました。ご祭神は通称「宗像三女神」と称される「田心姫命」「瑞津姫命」「一杵島姫命」。航海安全の海神系の代表的な神々です。<br />社殿群は平安時代の寝殿造りの建築様式を取り入れ、荘厳で優雅な朱色が美しい景観を創り上げています。また、海上に立地し、背景の山容と一体化した景観は唯一無二の存在です。平家滅亡後も、源氏などの権力者の崇拝を受け、やがては毛利氏が大がかりな社殿の修復を手がけています。日本人の美意識や精神文化を理解する上で極めて重要な平安時代の資産と言えます。<br />1996年に厳島神社と背後の弥山原始林が世界遺産に登録され、その面積は島の14%に当たるそうです。古くから霊峰 弥山が崇敬の対象となり、島全体が信仰の対象になっていました。弥山山麓に神社が造営されたのも、その故であると考えられます。<br />

    厳島神社
    厳島神社は、推古天皇が即位した593年に豪族 佐伯鞍職が市杵嶋姫命の神託により創建しました。その後、12世紀に平家一族の繁栄を願い、安芸の守 平清盛によって現在の姿を確立しました。ご祭神は通称「宗像三女神」と称される「田心姫命」「瑞津姫命」「一杵島姫命」。航海安全の海神系の代表的な神々です。
    社殿群は平安時代の寝殿造りの建築様式を取り入れ、荘厳で優雅な朱色が美しい景観を創り上げています。また、海上に立地し、背景の山容と一体化した景観は唯一無二の存在です。平家滅亡後も、源氏などの権力者の崇拝を受け、やがては毛利氏が大がかりな社殿の修復を手がけています。日本人の美意識や精神文化を理解する上で極めて重要な平安時代の資産と言えます。
    1996年に厳島神社と背後の弥山原始林が世界遺産に登録され、その面積は島の14%に当たるそうです。古くから霊峰 弥山が崇敬の対象となり、島全体が信仰の対象になっていました。弥山山麓に神社が造営されたのも、その故であると考えられます。

  • 厳島神社<br />平忠盛没後、清盛が高野山大塔の再建工事を引き継ぎいだ頃、老僧が現れて清盛に厳島神社の造営を勧め、それによって官位昇進があると予言しました。この言葉は、保元・平治の乱が収まり源頼朝が捕らえられた1157年、正三位に列せられたのを端緒に現実のものとなりました。1167年に太政大臣に昇進し、更に娘が皇后と成り、天皇家と親戚関係になりました。こうして海上に浮かぶ豪壮華麗な寝殿造の社殿は、平家一門の帰依を受け、安芸国の一宮となったのです。<br />しかし、その10年後、鹿ヶ谷の陰謀発覚による藤原成親・師光(西光)の殺害、藤原成経・平康頼・俊寛の鬼界ヶ島(現・硫黄島)への配流、この事件による後白河法皇との亀裂の深まり等々と、絶頂期の清盛に翳りが見え始めます。平家物語の冒頭にあるように「祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」と時代の潮流に翻弄されて行くのです。<br />

    厳島神社
    平忠盛没後、清盛が高野山大塔の再建工事を引き継ぎいだ頃、老僧が現れて清盛に厳島神社の造営を勧め、それによって官位昇進があると予言しました。この言葉は、保元・平治の乱が収まり源頼朝が捕らえられた1157年、正三位に列せられたのを端緒に現実のものとなりました。1167年に太政大臣に昇進し、更に娘が皇后と成り、天皇家と親戚関係になりました。こうして海上に浮かぶ豪壮華麗な寝殿造の社殿は、平家一門の帰依を受け、安芸国の一宮となったのです。
    しかし、その10年後、鹿ヶ谷の陰謀発覚による藤原成親・師光(西光)の殺害、藤原成経・平康頼・俊寛の鬼界ヶ島(現・硫黄島)への配流、この事件による後白河法皇との亀裂の深まり等々と、絶頂期の清盛に翳りが見え始めます。平家物語の冒頭にあるように「祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」と時代の潮流に翻弄されて行くのです。

  • 厳島神社 御嶋廻石灯籠<br />参拝入口の両脇には、1901年銘のある「御嶋廻」と刻まれた石灯籠が立っています。その灯籠にはカラスのブロンズ像が安置されています。 <br />実は、厳島神社の誕生に深く係る動物はカラス(神鴉<しんあ>)だそうです。言い伝えによると、厳島神社の姫神が鎮座の場所を探して舟で島の浦々を巡られた際、先導役を果たして舟を今の厳島神社の場所に導いたと伝えられています。厳島神社とカラスの関係は今も大変深く、御鳥喰式と言う神事が毎年開催されます。この式では、厳島神社の神官が船からダンゴを捧げます。見事にカラスがダンゴを食べれば、良い事が訪れると信じられています。<br />神鴉は日頃は宮島の弥山に住まれ、春の御島廻式の時、養父崎浦にお出ましになり、その後、秋になると対岸の大頭神社前で親子の別れをし、親烏2羽は速谷神社を経て紀州熊野に帰っていくそうです。そして残った子烏2羽は、弥山に戻って次の一年を過ごします。厳島を発った親烏が辿り着く紀州熊野といえば、サッカー日本代表のシンボルマークでもある三本足の八咫烏が祀られている神聖な場所。安芸の厳島と紀州の熊野とは、遥かな古代から聖なる烏で結ばれていたそうです。<br />

    厳島神社 御嶋廻石灯籠
    参拝入口の両脇には、1901年銘のある「御嶋廻」と刻まれた石灯籠が立っています。その灯籠にはカラスのブロンズ像が安置されています。
    実は、厳島神社の誕生に深く係る動物はカラス(神鴉<しんあ>)だそうです。言い伝えによると、厳島神社の姫神が鎮座の場所を探して舟で島の浦々を巡られた際、先導役を果たして舟を今の厳島神社の場所に導いたと伝えられています。厳島神社とカラスの関係は今も大変深く、御鳥喰式と言う神事が毎年開催されます。この式では、厳島神社の神官が船からダンゴを捧げます。見事にカラスがダンゴを食べれば、良い事が訪れると信じられています。
    神鴉は日頃は宮島の弥山に住まれ、春の御島廻式の時、養父崎浦にお出ましになり、その後、秋になると対岸の大頭神社前で親子の別れをし、親烏2羽は速谷神社を経て紀州熊野に帰っていくそうです。そして残った子烏2羽は、弥山に戻って次の一年を過ごします。厳島を発った親烏が辿り着く紀州熊野といえば、サッカー日本代表のシンボルマークでもある三本足の八咫烏が祀られている神聖な場所。安芸の厳島と紀州の熊野とは、遥かな古代から聖なる烏で結ばれていたそうです。

  • 厳島神社 御嶋廻石灯籠<br />入口に向かって左側の烏です。<br />石灯篭の足(笠)にブロンズ製の神鴉が乗っています。つがいの烏と言う設定なのでしょが、左右で違うポーズをとっているのがご愛嬌です。<br />

    厳島神社 御嶋廻石灯籠
    入口に向かって左側の烏です。
    石灯篭の足(笠)にブロンズ製の神鴉が乗っています。つがいの烏と言う設定なのでしょが、左右で違うポーズをとっているのがご愛嬌です。

  • 厳島神社 御嶋廻石灯籠<br />右側の烏です。<br />因みに、これらの神鴉の像に目を向ける観光客はほとんどいないそうです。灯籠の大きさに比べて小さいので気づかない方がほとんどだと思います。おまけに、目を引く朱色の回廊が目前にあるのですから…。<br />

    厳島神社 御嶋廻石灯籠
    右側の烏です。
    因みに、これらの神鴉の像に目を向ける観光客はほとんどいないそうです。灯籠の大きさに比べて小さいので気づかない方がほとんどだと思います。おまけに、目を引く朱色の回廊が目前にあるのですから…。

  • 厳島神社 参拝入口<br />入口は切妻造り、屋根は檜皮葺、棟には棟瓦が載せられています。<br />ツアーはここでフリーとなり、30分後に出口で添乗員さんと合流します。ガイドさん不在ですので、事前学習を怠ると「きれいやなぁ~」の一言で終わってしまいます。<br />厳島神社は数多のメッセージを込めて建立されたものであり、ことさら8と言う数字を神聖なものと崇める仏教の影響が色濃く残されています。<br />①大鳥居は、火焼前から88間の距離に立てられています。②大鳥居は、本社拝殿から108間の距離に立てられています。③境内の回廊は、東西合わせて108間の長さになります。④回廊の床板は、1間当り8枚になっています。⑤回廊の柱の距離は、8尺になっています。⑥毛利元就が最初に寄進したと言われる参道の石灯籠は、108灯明と呼ばれ、人の煩悩の数と同じ108基あるそうです。

    厳島神社 参拝入口
    入口は切妻造り、屋根は檜皮葺、棟には棟瓦が載せられています。
    ツアーはここでフリーとなり、30分後に出口で添乗員さんと合流します。ガイドさん不在ですので、事前学習を怠ると「きれいやなぁ~」の一言で終わってしまいます。
    厳島神社は数多のメッセージを込めて建立されたものであり、ことさら8と言う数字を神聖なものと崇める仏教の影響が色濃く残されています。
    ①大鳥居は、火焼前から88間の距離に立てられています。②大鳥居は、本社拝殿から108間の距離に立てられています。③境内の回廊は、東西合わせて108間の長さになります。④回廊の床板は、1間当り8枚になっています。⑤回廊の柱の距離は、8尺になっています。⑥毛利元就が最初に寄進したと言われる参道の石灯籠は、108灯明と呼ばれ、人の煩悩の数と同じ108基あるそうです。

  • 厳島神社 客神社手前<br />正面の石灯籠の奥が高舞台、その先にあるのが能舞台です。<br />右端にあるのは右楽房といい、舞楽の際に楽器を奏する所です。地味ながら国宝の片鱗を見せています。

    厳島神社 客神社手前
    正面の石灯籠の奥が高舞台、その先にあるのが能舞台です。
    右端にあるのは右楽房といい、舞楽の際に楽器を奏する所です。地味ながら国宝の片鱗を見せています。

  • 厳島神社 摂社 客神社<br />入口付近はいつも込み合っているそうですが、その原因がこの客神社(まろうどじんじゃ) だそうです。この摂社で参拝する人が後を絶たないからです。朱と緑の幻想的な雰囲気に飲まれ、思わず手を合わせたくなる気持ちは理解できますが…。<br />摂社の中で一番大きく、天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫞樟日命を祀っています。本殿は一重両流れ造り屋根は桧皮葺。本社本殿同様に国宝に指定されています。両脇には、陰陽道の太陽と三日月が見られます。

    厳島神社 摂社 客神社
    入口付近はいつも込み合っているそうですが、その原因がこの客神社(まろうどじんじゃ) だそうです。この摂社で参拝する人が後を絶たないからです。朱と緑の幻想的な雰囲気に飲まれ、思わず手を合わせたくなる気持ちは理解できますが…。
    摂社の中で一番大きく、天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫞樟日命を祀っています。本殿は一重両流れ造り屋根は桧皮葺。本社本殿同様に国宝に指定されています。両脇には、陰陽道の太陽と三日月が見られます。

  • 五重塔<br />左が客神社本殿で、正面の五重塔のいいアクセントになっています。五重塔がある場所は、「塔の岡」と呼ばれ、未完の千畳閣もあります。自然への畏敬に根ざしたアニミズムが薄れていくにつれ、このように島内に建物が建ち並び、人が定住するようになったのでしょう。<br />五重塔は、1407年の創建の高さ27.6mの朱塗りの塔。国の重要文化財に指定され、仏塔ですが厳島神社に属しています。桧皮葺で和様と唐様を融合した見事な建造です。軒の反りがやや強く、中国禅風な印象があるのは遣明船の大内氏の時代のものなので大陸の影響が濃いのかもしれません。室町期の厳島神社のパトロンは、戦乱で荒れた京都を尻目に日本一の繁栄を謳歌していた山口の大名 大内氏。この五重塔も大内氏の建立によるものです。

    五重塔
    左が客神社本殿で、正面の五重塔のいいアクセントになっています。五重塔がある場所は、「塔の岡」と呼ばれ、未完の千畳閣もあります。自然への畏敬に根ざしたアニミズムが薄れていくにつれ、このように島内に建物が建ち並び、人が定住するようになったのでしょう。
    五重塔は、1407年の創建の高さ27.6mの朱塗りの塔。国の重要文化財に指定され、仏塔ですが厳島神社に属しています。桧皮葺で和様と唐様を融合した見事な建造です。軒の反りがやや強く、中国禅風な印象があるのは遣明船の大内氏の時代のものなので大陸の影響が濃いのかもしれません。室町期の厳島神社のパトロンは、戦乱で荒れた京都を尻目に日本一の繁栄を謳歌していた山口の大名 大内氏。この五重塔も大内氏の建立によるものです。

  • 厳島神社 東回廊 鏡の池<br />潮が満ちているため少し分かり難いのですが、中央の緑が濃い手鏡のような形をした所が鏡の池。絶えず清水が湧き上がり、創建時一夜にしてこの池ができたのはこの造営がご神慮に適ったためであると人々が喜んだと言われています。東回廊の左手にあります(その他2箇所あり)。潮が引くと丸い池が現れます。弥山に降った雨水が地下水のようにここから湧き出すのでしょう。ここからの水が流れとなり、乾いた海底に水路ができるそうです。この池の水は、因みに、干潮時に火災が発生した時、消火水という実用的な役割を果たしたことがあるそうです。<br />「鏡池秋月」と称され、この池の水面に映る中秋の名月は美しく、厳島八景のひとつに数えられて和歌や俳句に読まれているそうです。 <br /><br />

    厳島神社 東回廊 鏡の池
    潮が満ちているため少し分かり難いのですが、中央の緑が濃い手鏡のような形をした所が鏡の池。絶えず清水が湧き上がり、創建時一夜にしてこの池ができたのはこの造営がご神慮に適ったためであると人々が喜んだと言われています。東回廊の左手にあります(その他2箇所あり)。潮が引くと丸い池が現れます。弥山に降った雨水が地下水のようにここから湧き出すのでしょう。ここからの水が流れとなり、乾いた海底に水路ができるそうです。この池の水は、因みに、干潮時に火災が発生した時、消火水という実用的な役割を果たしたことがあるそうです。
    「鏡池秋月」と称され、この池の水面に映る中秋の名月は美しく、厳島八景のひとつに数えられて和歌や俳句に読まれているそうです。

  • 厳島神社 東回廊<br />東回廊は、長さ47間(1間は約2.4m)、西回廊は長さ61間あります。東西併せて262mあり、1間毎に釣灯籠が吊り下げられています。釣灯籠は、毛利氏が鋳鉄製のものを寄進したのが始まりだそうです。現在のものは、大正時代に奉納されたものでブロンズ製です。 <br />床板は1間に8枚敷かれ、釘は使われていません。床板間には「目透し(まとおし)」という隙間が設けられ、潮が高い時や台風の時に波のエネルギーを減免・消波する構造になっていて建物を守る工夫がなされています。 また、床は2重になっており、本来の床板は下にある方で、上に敷いてあるのは養生板と呼び、参拝者が土足で歩るけるようになっています。つまり国宝の回廊板が直接足で踏まれることはありません。これは近年施工されたもので、昔は履物を脱いで昇殿していたそうです。写真で見ると左右で段差があるのが分かります。左の白っぽい床が、国宝の床板となります。

    厳島神社 東回廊
    東回廊は、長さ47間(1間は約2.4m)、西回廊は長さ61間あります。東西併せて262mあり、1間毎に釣灯籠が吊り下げられています。釣灯籠は、毛利氏が鋳鉄製のものを寄進したのが始まりだそうです。現在のものは、大正時代に奉納されたものでブロンズ製です。
    床板は1間に8枚敷かれ、釘は使われていません。床板間には「目透し(まとおし)」という隙間が設けられ、潮が高い時や台風の時に波のエネルギーを減免・消波する構造になっていて建物を守る工夫がなされています。 また、床は2重になっており、本来の床板は下にある方で、上に敷いてあるのは養生板と呼び、参拝者が土足で歩るけるようになっています。つまり国宝の回廊板が直接足で踏まれることはありません。これは近年施工されたもので、昔は履物を脱いで昇殿していたそうです。写真で見ると左右で段差があるのが分かります。左の白っぽい床が、国宝の床板となります。

  • 厳島神社 東回廊<br />厳島神社を紹介するポスター等でよく見かける写真です。<br />潮が満ちてくると海の上に浮かぶような錯覚に陥り、幻想的な雰囲気を醸し出します。<br />右手の客神社祓殿と東回廊で囲まれたスポットを枡形と呼びます。毎年旧暦の6月17日に行われる「管絃祭」で御座船や阿賀・江波の曳船がここで船を3回廻します。回廊に大勢の客が陣取り、管絃祭のクライマックスを迎える所だそうです。

    厳島神社 東回廊
    厳島神社を紹介するポスター等でよく見かける写真です。
    潮が満ちてくると海の上に浮かぶような錯覚に陥り、幻想的な雰囲気を醸し出します。
    右手の客神社祓殿と東回廊で囲まれたスポットを枡形と呼びます。毎年旧暦の6月17日に行われる「管絃祭」で御座船や阿賀・江波の曳船がここで船を3回廻します。回廊に大勢の客が陣取り、管絃祭のクライマックスを迎える所だそうです。

  • 厳島神社 東回廊<br />東回廊の角の所から本殿の後方に門が見えました。文献には、「不明門は厳島神社の中で唯一の瓦葺き」と記されていることから、こちらの門が本社社殿後方の杜に鎮まる「不明門(あけずのもん=神様の通り道)」と思われます。 <br />本殿の裏手には後園と呼ばれる森があります。ここは、山から下りてきた神様が本殿へ行く時の通り道と考えられている所で、人は立ち入り禁止の神聖な場所になっており、その入口にあるのが不明門。神様だけが通れる門で、決して開けられることはないそうです。

    厳島神社 東回廊
    東回廊の角の所から本殿の後方に門が見えました。文献には、「不明門は厳島神社の中で唯一の瓦葺き」と記されていることから、こちらの門が本社社殿後方の杜に鎮まる「不明門(あけずのもん=神様の通り道)」と思われます。
    本殿の裏手には後園と呼ばれる森があります。ここは、山から下りてきた神様が本殿へ行く時の通り道と考えられている所で、人は立ち入り禁止の神聖な場所になっており、その入口にあるのが不明門。神様だけが通れる門で、決して開けられることはないそうです。

  • 厳島神社 御本社・拝殿<br />海上に浮かぶ社殿は潮の満ち引きに身をゆだね、悠久の昔から人々が神を敬う心の原点ともなっています。海上から見るその優美な姿は朱塗りで統一され、お伽噺に出てくる龍宮城を彷彿とさせる居住まいを見せています。 平安時代に造られた御本社は国宝に指定され、ご祭神は市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命の宗像三女神で、海の神・交通運輸神・財福の神・技芸の神として信仰されています。広さは出雲大社の2倍と言われ、日本最大の本殿です。御本社を外から眺められる場所はありません。<br />

    厳島神社 御本社・拝殿
    海上に浮かぶ社殿は潮の満ち引きに身をゆだね、悠久の昔から人々が神を敬う心の原点ともなっています。海上から見るその優美な姿は朱塗りで統一され、お伽噺に出てくる龍宮城を彷彿とさせる居住まいを見せています。 平安時代に造られた御本社は国宝に指定され、ご祭神は市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命の宗像三女神で、海の神・交通運輸神・財福の神・技芸の神として信仰されています。広さは出雲大社の2倍と言われ、日本最大の本殿です。御本社を外から眺められる場所はありません。

  • 厳島神社<br />拝殿と祓殿の間から大鳥居を望みます。朱色の欄干が見えるのは高舞台です。<br />

    厳島神社
    拝殿と祓殿の間から大鳥居を望みます。朱色の欄干が見えるのは高舞台です。

  • 厳島神社 祓殿<br />祓殿は、お祓いをする所で、管絃祭の時に鳳輦(ほうれん=御輿)が置かれる場所であり、また雨天時の舞楽奉奏などに使われます。また、1941年頃、米相場が統制されるまでは2月にここで米相場が立っていたそうです。床板は楠張りで、浅野藩の藩船 厳島丸の板が使用されています。

    厳島神社 祓殿
    祓殿は、お祓いをする所で、管絃祭の時に鳳輦(ほうれん=御輿)が置かれる場所であり、また雨天時の舞楽奉奏などに使われます。また、1941年頃、米相場が統制されるまでは2月にここで米相場が立っていたそうです。床板は楠張りで、浅野藩の藩船 厳島丸の板が使用されています。

  • 厳島神社 高舞台<br />平安時代に造られ、四天王寺、住吉大社と並ぶ日本三大舞台のひとつで国宝に指定されています。800年間受け継がれてきた舞楽が奉納される小高い舞台で、本社拝殿前にあります。1546年に棚守佐伯房顕がここへ擬宝珠を奉納しています。基壇は漆で塗られ、高い欄干があり、舞台の前後には階段が設けられています。以前は組立式でしたが、江戸時代初頭に現在のような造り付けになったそうです。舞楽を演じる舞台としては一番小ぶりのものになります。<br />その先にあるのは、火焼前をはさんで左にあるのが左門客神社、右にあるのが右門客神社。ご祭神は豊石窓神と櫛石窓神です。小ぶりで目立たないのですが国宝です。

    厳島神社 高舞台
    平安時代に造られ、四天王寺、住吉大社と並ぶ日本三大舞台のひとつで国宝に指定されています。800年間受け継がれてきた舞楽が奉納される小高い舞台で、本社拝殿前にあります。1546年に棚守佐伯房顕がここへ擬宝珠を奉納しています。基壇は漆で塗られ、高い欄干があり、舞台の前後には階段が設けられています。以前は組立式でしたが、江戸時代初頭に現在のような造り付けになったそうです。舞楽を演じる舞台としては一番小ぶりのものになります。
    その先にあるのは、火焼前をはさんで左にあるのが左門客神社、右にあるのが右門客神社。ご祭神は豊石窓神と櫛石窓神です。小ぶりで目立たないのですが国宝です。

  • 厳島神社 平舞台<br />平舞台から御本社・拝殿を望みます。<br />手前の平舞台は、広さ553平方mあり、寝殿造りの庭に相当する部分です。この平舞台を支えている束石はは239本もの赤間石で、毛利元就の寄進と言われています。社殿の前に仮廊を設けたという記録が残っていることから、この仮廊が常時設けられるようになったものだと考えられています。

    厳島神社 平舞台
    平舞台から御本社・拝殿を望みます。
    手前の平舞台は、広さ553平方mあり、寝殿造りの庭に相当する部分です。この平舞台を支えている束石はは239本もの赤間石で、毛利元就の寄進と言われています。社殿の前に仮廊を設けたという記録が残っていることから、この仮廊が常時設けられるようになったものだと考えられています。

  • 厳島神社 火焼前(ひたさき)<br />平舞台の前方には大鳥居側に突き出した桟橋のような火焼前があり、菅絃祭の際に使用されます。<br />火焼前の先にある灯籠と一緒に写真を撮るのが定番のようで、火焼前には撮影の順番待ちの長い行列ができています。勿論、時間制約のあるツアー客ですのでスルーします。

    厳島神社 火焼前(ひたさき)
    平舞台の前方には大鳥居側に突き出した桟橋のような火焼前があり、菅絃祭の際に使用されます。
    火焼前の先にある灯籠と一緒に写真を撮るのが定番のようで、火焼前には撮影の順番待ちの長い行列ができています。勿論、時間制約のあるツアー客ですのでスルーします。

  • 厳島神社 御本殿・拝殿<br />青銅製の尾の先が多数に分岐した珍しい狛犬です。<br />

    厳島神社 御本殿・拝殿
    青銅製の尾の先が多数に分岐した珍しい狛犬です。

  • 厳島神社 能舞台<br />江戸時代に造られた能舞台で、重要文化財に指定されています。この建屋だけは古色蒼然とした雰囲気が漂っています。海に浮かぶ能舞台としては唯一無ニの存在です。切妻造りで、笛柱(舞台に向かって右奥の柱)が独立しています。<br />旅行ブログを拝見すると、逆光になっていて舞台の絵柄が見えない写真が少なくありません。この写真を撮ったのは午前10時過ぎですが、露光を+側に調整すれば絵柄がはっきり見られます。

    厳島神社 能舞台
    江戸時代に造られた能舞台で、重要文化財に指定されています。この建屋だけは古色蒼然とした雰囲気が漂っています。海に浮かぶ能舞台としては唯一無ニの存在です。切妻造りで、笛柱(舞台に向かって右奥の柱)が独立しています。
    旅行ブログを拝見すると、逆光になっていて舞台の絵柄が見えない写真が少なくありません。この写真を撮ったのは午前10時過ぎですが、露光を+側に調整すれば絵柄がはっきり見られます。

  • 厳島神社 能舞台<br />通常、能舞台の床下には共鳴効果を得るために瓶が置かれるのですが、この能舞台は海上にあるため、代わりに床下の根太を三角形にし、その上に床板を張って大きく響くように工夫されています。また、床を一枚の板のようにして足拍子の響きを良くしています。更には、潮の満ち引きによって音を水に響かせるという特徴も併せ持ちます。春には桃花祭神能が演じられますが、茶道の表千家と裏千家が隔年で交互に行う献茶祭でも、舞台でお茶を点てる場所として使用されます。<br />映画『陰陽師』でお馴染みの野村萬斎さんもここで舞ったそうです。<br />

    厳島神社 能舞台
    通常、能舞台の床下には共鳴効果を得るために瓶が置かれるのですが、この能舞台は海上にあるため、代わりに床下の根太を三角形にし、その上に床板を張って大きく響くように工夫されています。また、床を一枚の板のようにして足拍子の響きを良くしています。更には、潮の満ち引きによって音を水に響かせるという特徴も併せ持ちます。春には桃花祭神能が演じられますが、茶道の表千家と裏千家が隔年で交互に行う献茶祭でも、舞台でお茶を点てる場所として使用されます。
    映画『陰陽師』でお馴染みの野村萬斎さんもここで舞ったそうです。

  • 厳島神社 摂社 天神社<br />国重要文化財に指定されており、祭神は菅原道真公。勿論、学業の神様です。<br />1556年の創建で、毛利隆元によって寄進されました。能舞台と同じく、素木(丹が塗っていない)なのは、社殿群の中では比較的新しい建物であり、時代が下だるためです。古くは連歌堂(れんがどう)と呼ばれ、明治時代の初めまで毎月連歌の会が催されていました。 <br />

    厳島神社 摂社 天神社
    国重要文化財に指定されており、祭神は菅原道真公。勿論、学業の神様です。
    1556年の創建で、毛利隆元によって寄進されました。能舞台と同じく、素木(丹が塗っていない)なのは、社殿群の中では比較的新しい建物であり、時代が下だるためです。古くは連歌堂(れんがどう)と呼ばれ、明治時代の初めまで毎月連歌の会が催されていました。

  • 厳島神社 西回廊<br />ここまで来ると人がばらけて風情のある写真が撮れます。<br />時折見かけるのが「台風で厳島神社が一部崩壊」といったニュース。「厳島神社はわざと壊れ易くしている」は、もしかして常識なのでしょうか?<br />「台風の時は、床面より上に水位がきて、風や波によって壊されるのは防ぎようがないんです。だからと言って崩れないように釘でガチガチに固定したら、水の圧力によって全体がバラバラに崩れちゃうんじゃないですか」とのこと。つまり、全部が一気に崩壊するのを防ぐため、また、本体の「骨組み」を守るため、あえてガチガチに固定せず、水に浸かった部分だけを「犠牲」にするという建物としては奇抜な構造になっています。<br />しかし、この発想は工学的には決して珍しいことではなく、機械の設計も同じ哲学を持っています。つまり、シャーピンに代表されるような、簡単にサービスができる部位に最弱部を設け、想定外の過負荷によって甚大な損傷を被らないように保護機能を持たせています。

    厳島神社 西回廊
    ここまで来ると人がばらけて風情のある写真が撮れます。
    時折見かけるのが「台風で厳島神社が一部崩壊」といったニュース。「厳島神社はわざと壊れ易くしている」は、もしかして常識なのでしょうか?
    「台風の時は、床面より上に水位がきて、風や波によって壊されるのは防ぎようがないんです。だからと言って崩れないように釘でガチガチに固定したら、水の圧力によって全体がバラバラに崩れちゃうんじゃないですか」とのこと。つまり、全部が一気に崩壊するのを防ぐため、また、本体の「骨組み」を守るため、あえてガチガチに固定せず、水に浸かった部分だけを「犠牲」にするという建物としては奇抜な構造になっています。
    しかし、この発想は工学的には決して珍しいことではなく、機械の設計も同じ哲学を持っています。つまり、シャーピンに代表されるような、簡単にサービスができる部位に最弱部を設け、想定外の過負荷によって甚大な損傷を被らないように保護機能を持たせています。

  • 厳島神社 西回廊<br />厳島神社の目が覚めるような色鮮やかな朱色には秘話があります。<br />明治政府は、天皇や神教を中心とした国家政策を推し進めて廃仏毀釈を行いました。厳島も例外ではなく、厳島弁財天などが一体となっていた寺社を分離しました。今では厳島の朱色はごく普通と思う人が多いでしょうが、なんとその頃の絵図では厳島の柱は全て白色だそうです。明治政府は、朱色を仏教の色と指定したのです。当時、国宝を調査していた六角紫水は白い柱を見て嘆き、ぜひ元の色に戻したいと考え、朱色に塗り替えました。六角紫水は漆芸家の眼力で色の配合を紅殻1、丹10、胡粉2の組み合わせにしました。ですから世界遺産厳島の色は単なる朱色ではなく、明るくしかも深みのある朱色となっているのだそうです。<br />

    厳島神社 西回廊
    厳島神社の目が覚めるような色鮮やかな朱色には秘話があります。
    明治政府は、天皇や神教を中心とした国家政策を推し進めて廃仏毀釈を行いました。厳島も例外ではなく、厳島弁財天などが一体となっていた寺社を分離しました。今では厳島の朱色はごく普通と思う人が多いでしょうが、なんとその頃の絵図では厳島の柱は全て白色だそうです。明治政府は、朱色を仏教の色と指定したのです。当時、国宝を調査していた六角紫水は白い柱を見て嘆き、ぜひ元の色に戻したいと考え、朱色に塗り替えました。六角紫水は漆芸家の眼力で色の配合を紅殻1、丹10、胡粉2の組み合わせにしました。ですから世界遺産厳島の色は単なる朱色ではなく、明るくしかも深みのある朱色となっているのだそうです。

  • 厳島神社 能舞台<br />能舞台を西側から拝観するとこのようになります。こちらの背面にも絵が描かれています。

    厳島神社 能舞台
    能舞台を西側から拝観するとこのようになります。こちらの背面にも絵が描かれています。

  • 厳島神社 西回廊<br />回廊は直角に折れ曲がっているように見えますが、波のエネルギーを分散するようにいびつな角度で曲げられているそうです。世界に比類なき海上の木造社殿を不死身たらしめた先人の知恵にただただ感服です。 <br /><br />西回廊の角には重要文化財指定の反橋があったのですが、修繕のために跡形もなく撤去されていました。反橋は、勅使が重要な祭事のある時、ここを渡って本社に入ったので「勅使橋」の別名を持ちます。長さ21m、幅4m、高欄は丹塗りで橋脚は墨塗り。鎌倉期に存在した記録がありますが、今まであったものは1557年に毛利元就・隆元父子により再建されたものです。真新しい反橋がお披露目されるのは、何時頃になるのでしょうか? <br />

    厳島神社 西回廊
    回廊は直角に折れ曲がっているように見えますが、波のエネルギーを分散するようにいびつな角度で曲げられているそうです。世界に比類なき海上の木造社殿を不死身たらしめた先人の知恵にただただ感服です。

    西回廊の角には重要文化財指定の反橋があったのですが、修繕のために跡形もなく撤去されていました。反橋は、勅使が重要な祭事のある時、ここを渡って本社に入ったので「勅使橋」の別名を持ちます。長さ21m、幅4m、高欄は丹塗りで橋脚は墨塗り。鎌倉期に存在した記録がありますが、今まであったものは1557年に毛利元就・隆元父子により再建されたものです。真新しい反橋がお披露目されるのは、何時頃になるのでしょうか?

  • 厳島神社 西回廊<br />出口付近からは、お隣の大願寺境内にある九本松の雄姿が眺められます。<br />九本松については、②弥山編でもう少し詳しく紹介します。

    厳島神社 西回廊
    出口付近からは、お隣の大願寺境内にある九本松の雄姿が眺められます。
    九本松については、②弥山編でもう少し詳しく紹介します。

  • 厳島神社 西回廊(出口)<br />西の端は唐破風造りになっており、昔日は西側が入口であったと窺えます。

    厳島神社 西回廊(出口)
    西の端は唐破風造りになっており、昔日は西側が入口であったと窺えます。

  • 厳島神社 老松<br />平重盛(平清盛の長男)が国家安泰と家門盛隆を祈念して境内に手植えした老松です。重盛は清盛より早く亡くなってしまった為、平家滅亡も早くなってしまったんでしょうね。重盛がもっと長生きしていたら、歴史が変わっていたかも知れません…。<br />

    厳島神社 老松
    平重盛(平清盛の長男)が国家安泰と家門盛隆を祈念して境内に手植えした老松です。重盛は清盛より早く亡くなってしまった為、平家滅亡も早くなってしまったんでしょうね。重盛がもっと長生きしていたら、歴史が変わっていたかも知れません…。

  • 厳島神社 西回廊出口<br />出口付近から見上げた凛々しい五重塔です。

    厳島神社 西回廊出口
    出口付近から見上げた凛々しい五重塔です。

  • 厳島神社<br />天神社と大国神社の間にある鏡の池です。ここは外からしか見られません。<br />これから潮が満ちてくるところでしたので、はっきりした姿を眺めることができました。<br /><br />厳島神社建立にこの地が選ばれた理由のもうひとつが「鏡の池」です。海水が残った水溜りではなく、地下から真水が湧き出しています。境内にはこうした池が3箇所あり、引潮の時はそこから溢れた水が川を作って海に流れ込みます。つまり、この地では潮が満ちると海と川の水が一つになります。こうした場所は神道の世界では神聖な場所とされ、水あるいは潮水の霊力によって汚れや罪が清められます。つまり、神が最も降臨し易い場所だということです。

    厳島神社
    天神社と大国神社の間にある鏡の池です。ここは外からしか見られません。
    これから潮が満ちてくるところでしたので、はっきりした姿を眺めることができました。

    厳島神社建立にこの地が選ばれた理由のもうひとつが「鏡の池」です。海水が残った水溜りではなく、地下から真水が湧き出しています。境内にはこうした池が3箇所あり、引潮の時はそこから溢れた水が川を作って海に流れ込みます。つまり、この地では潮が満ちると海と川の水が一つになります。こうした場所は神道の世界では神聖な場所とされ、水あるいは潮水の霊力によって汚れや罪が清められます。つまり、神が最も降臨し易い場所だということです。

  • 厳島神社<br />天神社と大国神社の間にある鏡の池。<br />合計3つの鏡の池があるのですが、もう一つは東回廊の卒塔婆石のある庭にあるものだと思われます。干潮で地面が見えていましたが、確か泉は湧き出ていなかったような…。不明門に気を取られ、うかり写真を撮るのを忘れてしまいました。<br /><br />大国神社脇から後園に通じる長橋は、安土桃山時代に毛利氏によって架橋されたもので、木製ではなく赤間石という輝緑凝灰岩でできています。長さ32.8m、幅員2.5mで低い高欄が添えられています。後園にあったという御供所からこの橋を渡って神饌が社殿に運ばれていたそうですが、現在は使われていないそうです。

    厳島神社
    天神社と大国神社の間にある鏡の池。
    合計3つの鏡の池があるのですが、もう一つは東回廊の卒塔婆石のある庭にあるものだと思われます。干潮で地面が見えていましたが、確か泉は湧き出ていなかったような…。不明門に気を取られ、うかり写真を撮るのを忘れてしまいました。

    大国神社脇から後園に通じる長橋は、安土桃山時代に毛利氏によって架橋されたもので、木製ではなく赤間石という輝緑凝灰岩でできています。長さ32.8m、幅員2.5mで低い高欄が添えられています。後園にあったという御供所からこの橋を渡って神饌が社殿に運ばれていたそうですが、現在は使われていないそうです。

  • 厳島神社 <br />弥山からの帰途に写したものです。ほぼ満潮でしょうか?<br />右端にあるのが国宝 客神社の本殿です。潮が満ちてくると本当に海上に浮かんでいるようで幻想的です。<br /><br />厳島神社を満喫した後は、紅葉谷からロープウェイを乗り継いで弥山に行きます。<br />この続きは、②弥山編でお届けします。

    厳島神社 
    弥山からの帰途に写したものです。ほぼ満潮でしょうか?
    右端にあるのが国宝 客神社の本殿です。潮が満ちてくると本当に海上に浮かんでいるようで幻想的です。

    厳島神社を満喫した後は、紅葉谷からロープウェイを乗り継いで弥山に行きます。
    この続きは、②弥山編でお届けします。

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