2013/06/23 - 2013/06/26
265位(同エリア327件中)
kenichi291さん
- kenichi291さんTOP
- 旅行記105冊
- クチコミ28件
- Q&A回答2件
- 137,082アクセス
- フォロワー0人
4月に琵琶湖・比叡山を旅し、叡山山頂から八瀬・大原を眼下に眺め、次は上洛を目指そうと思いました。早速梅雨時の6月に京都を旅します。今回は個人手配の京都旅に、京都発の日帰りバスツアーを1日加えて見ました。梅雨の雨覚悟の旅ですので、苔寺・桂離宮と言う雨でも美しく映える所に絞って移動時間は極力短くを念頭に企画しました。
写真は舞鶴自然文化園から眺める舞鶴湾。日帰りバスツアーは他に天橋立・伊根の舟屋を加えたクラブツーリズム京都旅行センターの企画商品です。東京からでもネットで申し込みが出来ます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- タクシー 新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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6月23日京都駅に。宮内庁所管の庭園は休園ですので、先ずは大覚寺に。
大覚寺 弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。正式には旧嵯峨御所大覚寺門跡と称し、嵯峨御所とも呼ばれる。平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立されたが、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。嵯峨院が大覚寺となったのは、皇孫である恒寂入道親王を開山として開創した貞観18年(876年)である。弘法大師空海のすすめにより嵯峨天皇が浄書された般若心経が勅封(60年に1度の開封)として奉安され、般若心経写経の根本道場として知られる。明治時代初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた格式高い門跡寺院である。いけばな発祥の花の寺でもあり、「いけばな峨御流」の総司所(家元)でもある。時代劇・各種ドラマのロケ地としても有名である。 -
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宸殿(重要文化財) ‐ 東福門院(後水尾天皇中宮)の旧殿を移築したものと伝える。蔀戸(しとみど)を用いた寝殿造風の建物で、屋根は入母屋造、檜皮葺きとし、周囲に広縁をめぐらす。「宸殿」は門跡寺院に特有の建物名で、「宸」は「皇帝」の意である。内部は大きく4室に分かれ、中でも南側の「牡丹の間」の牡丹図と北側の「紅梅の間」の紅梅図の襖絵(ともに狩野山楽筆)は名高い(襖絵のオリジナルは収蔵庫に収められ、現在ここにある襖絵は複製である)。前庭には一面に白砂が敷き詰められ、右近の橘と左近の梅(左近の「桜」ではない)がある。
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渡廊下 正寝殿・宸殿・御影堂・五大堂をむすぶ板敷渡廊下は、柱を雨に、屈曲する廊下を稲妻に見た立てて「村雨の廊下」とも「稲妻の廊下」ともよばれている。この建築様式も大覚寺が御殿のおもかげを伝えていると云われる。刀を振り上げられない様に天井は低くしてある。お坊さんに伺った所では「雷(いかずち)廊下」と仰っていました。
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御影堂 ‐ 入母屋造、桟瓦葺き。伽藍の中心部に位置し、北側に建つ心経殿の拝殿のような役割をしている。この建物は大正天皇の即位式に使用された饗応殿を下賜され、大正14年(1925年)、後宇多法皇600回忌を機に大覚寺へ移築されたものである。堂内の中心部は北側に建つ心経殿の拝所となり、その左右に大覚寺にゆかりの深い嵯峨天皇、弘法大師(空海)、後宇多法皇、恒寂法親王の像を安置する。
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勅使門(唐門)
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五大堂 ‐ 大覚寺の本堂。境内東側に位置する。天明年間(1781-1789年)の建立。当初は伽藍の中心部(御影堂前の現在、石舞台がある位置)にあったが、大正14年(1925年)、御影堂が移築された際に現在の位置に移動した。元来この堂の本尊であった鎌倉時代作の五大明王像は収蔵庫に移され、現在は松久朋琳・松久宗琳が昭和50年(1975年)に完成した五大明王像を本尊として安置している。堂は写経道場として用いられており、堂の東側の縁からは大沢池を望むことができる。
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大沢池は中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したものといわれ、当時の唐風文化の面影を今に残す園地は池の北方約100メートルにある「名古曽の滝」とともに1923(大正12年)に国の文化財として名勝に指定されている。嵯峨院の園池を引き継ぐものと推定されているが、これは南東にゆるく傾斜する地形を利用して南から東にかけて長い堤を築することで北西側からの流れをせき止めて築造された人工の池として知られる。この池はまた周辺水田の灌漑用水として重要な役割を果たしてきたことが知られている。平安時代前期の名残をとどめ、日本最古の庭池とされている。
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心経殿 ‐ 御影堂の北に建つ。大正14年(1925年)建立の鉄筋コンクリート造の小規模な八角堂で、壁面は校倉造風である。内部には嵯峨天皇、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇の直筆の般若心経を収蔵し、薬師如来像を安置する。内部は非公開で、開扉は60年に一度とされている。建物は国の登録有形文化財に登録されている。
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貴賓館、秩父宮御殿。
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霊明殿 ‐ 総理大臣を務めた斎藤実が昭和3年(1928年)、東京の沼袋(現・中野区沼袋)に建てた日仏寺の本堂だったもの。昭和33年(1958年)、当時大覚寺門跡であった草繋全宜(くさなぎぜんぎ)が移築した。縁板まで含め総朱塗りとした建物で、阿弥陀如来を本尊とする。
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大覚寺は、いけばな発祥の花の寺であり「嵯峨御流」の総司所(家元)である。嵯峨天皇が、嵯峨院を造営した際に作庭した現存する日本最古の庭池「大沢池」の菊ヶ島に咲く野菊を手折り、器にいけ「後世、花を賞づるもの、宜しく之をもって範とすべし」と述べられたのをはじまりとする。
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妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は花園天皇。開山(初代住職)は関山慧玄(無相大師)。
日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。京都に旅立つ直前に天皇皇后両陛下が立ち寄られたと言うニュースが流れましたので、急遽やって参りました。 -
勅使門 桃山時代の建立です。 平生は閉じられていますが、妙心寺住持の入山・晋山時に新住職はこの門より入られます。
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三門 慶長4年(1599年)の建立。境内で唯一の朱塗りの建物です。 三門には空・無相・無作という、禅の境地による解脱の意味が託されています。
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退蔵院 1404年(応永11年)に越前国の豪族・波多野重通(はたのしげみち)が妙心寺第三世・無因宗因(むいんそういん)を開山として千本通松原に創建し、日峰宗舜により妙心寺山内に移される。一時期衰退するが、後奈良天皇の帰依が深かった亀年禅愉(きねんぜんゆ)により中興される。
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退蔵院(たいぞういん)は、京都市右京区花園にある臨済宗の寺院。臨済宗妙心寺派大本山妙心寺の塔頭である。初期水墨画の代表作である国宝「瓢鮎図」を所蔵することで知られる。
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方丈(重要文化財) - 内部の襖絵は狩野光信の高弟であった狩野了慶の筆によるもので、桃山後期の優れた遺品とされる。(内部は通常非公開)
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元信の庭
狩野元信の作と伝わる枯山水の優美な庭園で、枯滝・蓬莱山・亀島と石橋など多数の庭石が豪快に組まれている。 -
余香苑(よこうえん)
1963年(昭和38年)から3年の月日を費やして造園家の中根金作が作庭した昭和を代表する名園で、大刈込みの間から三段落ちの滝が流れ落ち,深山の大滝を見るような風情がある。水琴窟もある。 -
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2013年春のJR東海「そうだ京都に行こう」の枝垂桜がこれです。
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陰の庭。
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陽の庭。
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水琴窟。
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仏殿 文政10年(1827年)の建立。妙心寺の本堂で本尊さまにお釈迦さまを祀ります。 この釈迦像は蓮華を拈じるお姿をされています。
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経蔵 寛文13年(1673年)の建立。『一切経』が、中央に八角の輪蔵に納められています。 正面には輪蔵の考案者である傅大士の像が祀られています。
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法堂 江戸時代の建立です。今日でいう多目的ホールです。 仏像は安置されず、住持による法座や坐禅が行われます。鏡天井には、8年の年月を費やして描かれた狩野探幽の筆による雲龍図が見られます。両陛下がご覧になった天井の龍は撮影禁止となっています。
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大方丈 承応3年(1654年)の建立。障壁画は南側3室は狩野探幽、北側3室は狩野洞雲の筆。
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大方丈 江戸時代の建立です。仏事行事を勤める際、出頭される和尚さんの控えの間、食事の場となる大広間です。
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浴室 江戸時代の建立です。明智風呂と呼ばれています。明智光秀の菩提を追善するために建立されました。
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浴室入口 - 明暦2年(1656年)の建立。
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明智風呂。今で言うサウナ
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脱衣所。僧侶達が布に包んだ着替えを持ってやって来て、ここで着替えた。風呂敷の語源となった脱衣所。
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釣鐘。これはレプリカ。本物(国宝)は法堂内にある。
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6月24日朝松尾大社に。苔寺拝観の予約が13時からなので。
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明け方の雨も上がり、素晴らしい青空が拡がる。
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神幸祭神輿(川渡しの御船)。桂川を御輿を乗せて渡る、船渡御に使われる船。
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楼門 「左右に随神を配置したこの楼門は江戸時代初期の作と言われております。この楼門の随神の周囲に張り巡らせた金網には、たくさんの杓子がさしてありますが、これはよろずの願い事を記して掲げておけば救われると言う信仰に依るもので、いわば祈願杓子とも言われております。」神社の説明より。
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左右の随神。
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「本殿は大宝元年、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて創建以来、皇室や幕府の手で改築され、現在のものは室町初期の応永四年(1397年)の建造にかかり、天文11年(1542年)大修理を施したものです。建坪35坪余、桁行三間・梁間四間の特殊な両流造りで松尾造りと称せられています。
箱棟の棟端が唐破風形になっているのは他に類例がなく、柱や長押などの直線と屋根の曲線との調和、木部・桧皮の色と柱間の壁の白色とが交錯して醸し出す色彩の美しさ、向拝(ごはい)の斗組(ますぐみ)・蟇股(かえるまた)・手挟(たばさみ)などの優れた彫刻意匠は、中世の特色を遺憾なく発揮しており、重要文化財に指定されています。また本殿につづく釣殿・中門・回廊は、神庫・拝殿・楼門と共に江戸初期の建築と云われています。」 HPの説明文 -
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本殿南側境内に、衣手社、一挙社、金刀比羅社、祖霊社の四社がある。
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神饌所裏の御手洗川岸に、四大神社、三宮社、滝御前社の三社があります。
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社殿の背後の松尾山を含む約十二万坪が境内で、その全域が風致地区に指定され大部分が古都保存法の特別地区になっています。
松尾山は別雷山(わけいかづちのやま)とも称し、七つの谷に分かれていますが、社務所の裏の渓流を御手洗川と称し、四時涸れることのない霊亀の滝がかかっています。
この渓谷の北にある谷が大杉谷と称するもので、その急坂を登ると頂上近くの斜面に巨大な岩石があります。
これが古代の磐座(いわくら)であって、古記録に日崎の峯とか鎮座場と称し社殿祭祀以前に当社の神を祀っていた所です。
古記によれば、元正天皇の和銅7年8月、この谷より『首に三台(三つの星)をいただき、背に七星を負い、前足に離の卦を顕わし、後足に一支あり尾に緑毛・金色毛の雑った長さ八寸の亀』が現れ、左京の人が神主と共に朝廷に参上したところ、嘉瑞なりとして霊亀と改元せられ、亀は再び元々の谷に放たれたと言う言われがあります。
また聖武天皇の天平元年には、この谷から背中に『天王貴平知百年』の文字を顕わした亀が出たので、秦都理が朝廷に献じたところ、天皇の御感斜ならず、奉幣使を立てて神恩を謝せられたと伝えています。 -
霊亀の滝。
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松風苑(しょうふうえん)三庭について〕
「当松尾大社の松風苑三庭は、現代庭園学の泰斗・重森三玲氏(明治29年から昭和50年)が長年にわたる庭園研究の奥義を結集し、この地上に残す最高の芸術作品として、全身全霊を傾注して造られた庭園です。総工費1億円、三庭に用いられた四国・吉野川産の青石(緑泥片岩・りょくでいへんがん)は200余個、丸1年の工期を経て、昭和50年に完成した昭和の時代を代表する現代庭園です。」
重森三玲氏の庭園は東福寺「竜吟庵」が知られています。素晴らしい庭園ですので、是非行ってください。 -
〔曲水(きょくすい)の庭〕。
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〔上古(じょうこ)の庭〕
遠く昔、上古の時代には、どの場所にも神社も社殿もなく、山中の巨岩などが神霊のやどる聖地とされており、その場所を磐座(いわくら)、或いは磐境(いわさか)と言います。
当松尾大社でも今から千三百年前の昔、大宝元年(701年)に現在地に御本殿が建てられる以前は、神社後方の松尾山々中頂上近くにある磐座で祭祀が営まれており、この古代祭祀の場である磐座を模して造られたのが本庭です。
庭の奥、中央に巨岩二つは、当神社ご祭神の男女二柱を、ミヤコザサは人の立ち入れない高山の趣きを、そしてこれを取り巻く多数の石は、随従する諸神の姿をそれぞれ巨岩によって象徴しております。 -
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〔蓬莱(ほうらい)の庭〕
蓬莱とは、不老不死の仙界の意味で、その島にあこがれる蓬莱思想が鎌倉時代に最も流行し、これが作庭技術にも採用されて来ました。
鎌倉将軍「源 頼朝」は、当神社に対し神馬十匹・黄金百両を献じて深い尊信の念を捧げ、以後も武門の崇敬は変わることなく明治の時代まで続きました。
本庭は、その鎌倉期に代表される回遊式庭園を取り入れたもので、全体が羽を広げた鶴を形どっており、池泉の周囲を巡り池に浮かぶ島々を眺めて、もしも自ら仙界に遊ぶ境地に到達されたなら、鑑賞者の心と作庭家の心とがその時こそ一致した時だと思われます。 -
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お酒の資料館。
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酒林。
ちょうど昼時分となったので駅前のフルーツパーラーに入って食事。昭和レトロそのもののお店。フルーツパーラーってあったんですよね。フルーツサンドなど頂く。昭和30年代にタイムスリップした感覚。 -
西芳寺本堂入口。
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本堂内部
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庭園入口
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夕日ヶ島に渡る三橋。
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潭北亭。
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右の橋を渡り、もう一橋渡って朝日ヶ島に渡る。
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橋を渡り、もう一橋渡って朝日ヶ島に渡る。
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向上関。
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枯山水石組。
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指東庵。
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座禅石。
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大賀蓮。
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モリアオガエルの卵。
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地蔵院。1994年秋のJR東海のCMになったお寺。
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苔寺・地蔵院についで、鈴虫寺に。
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嵐電嵐山の駅まで戻ります。渡月橋を眺め、川風に吹かれてから、湯豆腐を頂く。
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6月25日 四条大宮発の日帰りバスツアーに参加。ツアーは舞鶴自然文化園のあじさいが目玉、他に天橋立・伊根の舟屋を加えたクラブツーリズム京都旅行センターの企画商品です。東京からでもネットで申し込みが出来ます。東京発と同じ感覚で参加出来ます。ただ関西の皆さんのノリに合わない。
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伊根湾めぐり遊覧船は、舟屋が立ち並ぶ伊根湾を約30分かけて周遊します。湾を取り囲むようにして建つ舟屋を海上から眺めるのは、陸地からではなかなか味わえない舟屋の風景と趣があります。また、船に群がるカモメにエサをあげるのも、伊根湾めぐりの醍醐味のひとつです。
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丹後半島の東端にある伊根町では、船のガレージを舟屋 と呼んでいます。周囲5キロメートルの湾に沿って230軒あまりの舟屋が立ち並ぶ風景は壮観で、全国的にも大 変珍らしく、重要伝統的建造物群保存地区選定地でもあります。 またこの景色はどこか懐かしく、日本の原風景 を感じさせる美しさが今でも大切に残されていて、伊根町独自の詩情を漂わせています。
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舟屋は、母屋から道路を挟んで海際に建てられ、1階には船揚場、物置、作業場があり、出漁の準備、漁具の手入れ、魚干物の乾場や農産物の置き場等と幅広く活用されています。2階は生活の場、客室、民宿等に活用されています。
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遊覧船が出て行く。
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次いで天橋立に向かいます。
智恩寺 日本三文殊のひとつで通称切戸(又は久世戸)の文殊堂として知られている文殊菩薩の霊場です。智恵を授かる文殊さんとして有名で、受験や資格試験などの受験生やその御家族がお参りに来られます。
茶屋通りに面する山門は、黄金閣とも呼ばれる市の指定文化財で、楼上に釈迦如来を中央に両脇士・十六羅漢を安置する、禅宗様式・三間三戸二重門の丹後地方最大の山門です。 -
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天橋立の龍の背。とここである事に気づきました。この企画は京都の営業所のものです。どうも皆さん天橋立には子供の頃から海水浴等で最低一度は来た事が有るらしい。従って「又除き」などに興味が無いらしいのです。このツアーにも入っていません。皆さんのお目当てはあじさいとさざえ・あわび・さくらんぼ佐藤錦の食放題と思われます。江戸からの旅人としては残念。今後の反省として、よーく企画書を見てから申込むべきでした。
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九世戸の松。名木のようです。
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傘松公園側からの眺め。ここで昼食。あわびとさざえのBBQが食べ放題で大騒ぎ。関西人のノリを痛感。
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舞鶴自然文化園の谷あいに広がるアジサイ園は、「ひと目5万本!!」を誇り、ヤマアジサイ、西洋アジサイやコアジサイなど50品種にのぼるアジサイで埋め尽くされます。アジサイ園内の鑑賞デッキからは、180度のパノラマと舞鶴湾の眺望が、休憩所からはアジサイの海をご覧頂けます。展示会場では、日本種、外国種、改良種等約160品種のアジサイを鉢植えや写真パネルで展示し、苗木の販売も行われます。地元の海産物や農産物などの販売を行う「土産物テント市」も行われます。
今回のツアーのメインテーマです。 -
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6月26日雨の降りしきる中桂離宮に。桂離宮(かつらりきゅう)は京都市西京区桂にある、約7万平方メートルの離宮(離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意)。江戸時代初期の造営当初の庭園と建築物を遺しており、当時の(王朝)文化の粋を今に伝えている。回遊式の庭園は日本庭園の傑作とされる。また、建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。庭園には茶屋が配されている。もとは桂宮家(八条宮家)の別荘であったが、現在は宮内庁京都事務所により管理されている。
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茅葺の御幸門。
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正門 御成門。
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桂離宮は17世紀に八条宮家(桂宮家)の別荘として造営されたもので、書院、茶屋、回遊式庭園から成る。近世の皇族の別荘の実態を伝えるものとして貴重である。
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日本庭園でも異色の蘇鉄山。当時としては異国の象徴として斬新だったらしい。
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外腰掛。松琴亭に向かうための待合いとして設けられた。
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外腰掛前の延段、「行の飛び石」
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ここまで池(大海)が全く来訪者には見えない。
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突然眼前に池の景色が広がる。
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州浜と天橋立。
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天橋立。
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松琴亭の手前に架かる石橋。
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洲浜先端の石灯籠(岬灯籠)。
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建物としては最初の、松琴亭。庭園の各所から見えるように配置されている。景観の大きなアクセントに。松琴亭は 桂離宮東部に位置し、茅葺の入母屋造。一の間(床、炉付)、二の間(棚付)、茶室(床、炉付)、次の間、水屋、二つの板間(炉一基付)という構成である。三畳間の茶室には躙り口側に四つ、奥の道具畳側に四つの窓があり、「八ツ窓囲」とも言われている。
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外観は茅葺入母屋造りの簡素な造作。内部は一転して斬新なデザイン。
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市松模様の襖が印象的。
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池に面した縁側。
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一の間床の間脇の厨子棚付き袋棚と石炉上の天袋。
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松琴亭の茶室部分。灯籠と飛び石が絶妙の配置。
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船着場。
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山の峠道に入ります。
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ここから峠の山道に入ります。
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茅葺切り妻屋根の小亭。「峠の茶屋」を意識したそうです。竹の連子窓の建物。
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賞花亭の扁額。賞花亭 は離宮最大の中島にある茅葺切妻屋根の建物である。畳を四枚をコの字に敷き中央を土間にした造りで入口の脇に炉と竈があり、煎茶が飲めるようになっており峠の茶屋を思わせる建物である。
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雨が強さを増し、雨粒が目に見えるようになる。
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賞花亭から下れば、園林堂。持仏堂として建造されたため、離宮内では異色の建物。園林堂は 桂離宮で唯一の瓦葺の建築である。八条宮家代々の霊屋として建てられた。建物の周辺には黒い石が敷き詰められ直線の細い石畳の雨落が巡らされている。そこに正方形の切石が斜めに横切っている斬新なデザインである。
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笑意軒遠景。前面の池が人工の方形で、階段下に船着き場。笑意軒は 離宮の南辺に位置し、茅葺の寄棟造。一の間(床付)、中の間、次の間(炉付)、口の間、膳組の間(炉、棚付)、納戸、厠の構成である。窓の下には金色の腰壁が貼られ、南蛮渡来のビロードを金箔のめんが鋭く斜めに横切っている。又茶室の隣には水田が設けられている。
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「一の間」付書院の外壁と飛び石。
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「口の間」から眺る内部。「笑」をモチーフにした扁額、円窓が印象的。
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「二の間」腰壁の模様も。市松模様に金箔の稲妻を思わせる意匠。
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笑意軒の窓の向こうは水田。公卿は田植え姿を「風景」として楽しんだそう。
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右手の建物は 新御殿 上段の間、一の間、二の間(床付)、御化粧の間、御寝の間、御衣紋の間、長六畳、御納戸で構成されている。後水尾上皇の行幸のために増築されたものである。一の間には天下三名棚の一つ桂棚がある。
書院 雁行型に並ぶ書院群と直線の飛び石。増築でこのような配置になったらしいが、結果的には直角的な構成が極めて美しい。飛び石の終点は「楽器の間」。芝生の緑も綺麗。左から新御殿、中書院、古書院。 -
こちらの飛び石は古書院に通じる。苔も美しい。左手の建物は中書院 智忠親王が日常生活で使う部屋として建てた。一の間、二の間、三の間(床付)納戸、縁座敷で構成されている古書院と同じく格調と豪華さが特徴の書院造を踏襲しているが、各所に数寄屋造の要素も含まれている。例えば部屋と部屋の間に絵襖を立てたり、一の間の床の間の貼り付け紙を、古書院のような唐紙ではなく、水墨画を使用したり、一の間と二の間の欄間を木瓜形にするなど随所に軽妙な細工が伺える。また襖や壁の水墨画は狩野派の探幽、尚信、安信三兄弟によるものである。
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右手 古書院 智仁親王が建て、智忠親王の頃には接客用の座敷として使用された。一の間(床付)、二の間、囲炉裏の間、鑓の間、御役席で構成されている。一の間と二の間の前にある吹き放しの広縁・榑縁や、その先にある池に向かって張り出したテラスのような竹簀子の「月見台」等数寄屋造を伺うことが出来る。
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前面の池が人工の方形で、船着き場も。
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古書院から突き出た月見台。簀子で造られた露台。木々の間から月を観るために設けられた、ある面「月の桂」を象徴する設備。桂は古来から月の名所として知られてきた。桂離宮は全体が月見のための舞台となっている。東側が池に向かっている月波楼で最初に月を愛で、月が中天に昇ったら古書院の月見台へ向かう。このように建物を移動しながら月を観賞するために建築されている。
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御輿寄 石段を四段上がると一枚石の大きな沓脱ぎがある。六人の沓を並べられることから「六つの沓脱」と呼ばれる。
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月波楼 古書院の前の小高い台地の上に立つ。中国の詩人・白楽天の「月は波心に点じ、一顆の珠」が名の由来である。杮葺の起り屋根で、一の間(床付)、中の間、口の間・膳組所(長炉、竈、水屋、釣り棚付)の部屋構成である。天井の取り付けは一の間だけで、残りの部屋は茅の茎を細竹で押さえた化粧屋根裏が直に見えている開放的な空間である。
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「衝立の松」側から観る月波楼。名のごとく観月の茶室として建てられた。まさにどしゃ降り。
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膳組所 水屋の下地窓。
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天井はこけら葺きの寄せ棟屋根。
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中の間から望む松琴亭。見晴らしの良さに感動。
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衝立の松。
ここからは池が見えないと言う仕掛け。 -
作庭したのが誰かは不明。しかし小堀遠州の影響を受けた工匠、造園師らの技と考えられると宮内庁パンフレットに書かれています。
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駐車場にタクシーが居たので、桂駅までお願いする。運転手さんが江戸の方はタクシーが高いと思っているようだけれども、京都は3人なら大抵タクシーが得と力説。2人ならちょっと電車より高い程度、京都駅までなら1500円で行けるそうでそのご意見に従う事にして、お西さんに行って貰う事に。
新しい知識、京都の旅はタクシーがお得。お年寄りはタクシーですよ。ただし1日であちこち廻るなら市バスの1日乗車券がやっぱりお得。 -
西本願寺
御影堂門。 -
御影堂。
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阿弥陀堂門。
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阿弥陀堂門扉。
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阿弥陀堂。
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建物の管理をしておられる方が床の傷みの補修に埋木をしているので捜してご覧なさいと言うので捜すとあります沢山。
埋木 お魚がいっぱい。 -
埋木 富士山。
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8年前もここで京都にお別れ。今回もそうしました。また来ます京都。
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