2011/07/09 - 2011/07/12
291位(同エリア1561件中)
DragonEyeさん
- DragonEyeさんTOP
- 旅行記2冊
- クチコミ128件
- Q&A回答0件
- 30,321アクセス
- フォロワー1人
trapics の団体ツアー、「グランドメトロパークに3連泊 西安4日間」です。39,900円から69,900円という価格設定のところ、最安値の時期を選びました。燃油サーチャージなどを含めた支払額は52,850円、弟との参加なので中部国際空港発着でした。
そのひと月前に妻と参加した上海・江南を一週間かけて回るJTBのツアーが45,000円だったので、日数が少ないのに金額が高いという逆転現象。といってもこれより安いのはなかったので仕方ないところです。それでもしっかりと土産物屋には三箇所も連れて行かれました。
兵馬俑坑博物館はやはり圧巻です。しかし華清池と青龍寺は全くの時間の無駄。個人旅行なら絶対に行かなかったでしょう。旅程表では秦始皇陵を下車観光となっていましたが、畑の脇にバスを止めて遠望しただけというお粗末さ。
4日間といっても実質2日なので、丸一日を兵馬俑見物にあててもよかったと思います。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- ホテル
- 4.5
- 同行者
- その他
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 観光バス
- 航空会社
- 中国東方航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
PR
-
中部国際空港から中国東方航空で上海浦東空港へ。ここから西安への便に乗り換えるのだが、信じられない事にtrapicsの係員は用意されておらず、国内便への乗換方法さえ教わっていない。
案の定、国内便カウンターに直行できたのは我々と、少し後に着いた沖縄のおばさん3人組だけ。しかも悪い事に、予定の西安便が大幅に遅れるという。そのため、早い便に換えて5人で一足先に西安に着いた。
西安空港ではtrapicsの旗を持った現地旅行社のガイドがいたが、全員揃ってからでないとホテルへ案内できないと言う。それでは先に来た意味がないし空港で待つのも馬鹿らしいので、我々はタクシーを使った。
チェックインは夜中の1時過ぎ、他のツアー参加者は3時半になっていたという。 -
ホテルはグランドメトロパーク西安。
中国名は西安(阿房宮)維景国際大酒店である。
ハイアット・リージェンシー西安だった頃には、1992年に天皇皇后が、1998年には当時のクリントン・アメリカ大統領が宿泊している。 -
落ち着いた感じの部屋だが、団体用なのか期待したよりもやや狭かった。
-
2日目、世界遺産にも登録された兵馬俑坑へ。
一番最初に発見された一号坑から入る。
土曜日なので国内観光客が多い。 -
テレビや写真で見慣れた眺めだが、実際に目にした時は感動ものだった。
-
快晴の強烈な日光が部分的に射し込むという、撮影には不利なタイミング。
いくらガラス越しとはいえ、兵馬俑は太陽光に当てない方が良いのではないだろうか。
作製時の彩色はほとんど失われてしまっているが、紫外線が好ましい作用をするはずはない。 -
暫く言葉もなく見入った。
-
製作者が自分の顔に似せて作ったというだけあって、ひとつひとつ表情が異なる。
手前の鎧を着ていない部隊は、丸めた手に弩を持っていたものか。 -
表情が生き生きしている。
とても素人技ではない。 -
陣形の2段目には軍馬が入っている。
-
兵士の表情に比べて馬のたてがみは様式的だ。
これは型を使って作ったのかも知れない。 -
両腕を伸ばした俑は御者らしい。
皮鎧を纏ったこの兵たちは、矛や戟を装備して敵と刃を交える主力部隊のようだ。 -
発掘された状態のまま展示されているところもある。
-
出口近くには復元補修中の俑が順番を待つように並んでいる。
ゾンビ好きのアメリカ人には、さぞかし死の軍団に見えることだろう。
ハリウッド映画 The Mummy (邦題;ハムナプトラ)が、それまでのエジプトを舞台とした2作から転換し、始皇帝時代の中国に唐突に移った作品を思い出した。 -
欠損部分を補填した石膏だろうが、白い足首が包帯を巻いているようで痛々しい。
-
2号坑は城のような巨大な壁に囲まれている。
-
ここは1号坑ほど発掘が進んでいないようだ。
圧倒されるような眺めはなく、見物人も少ない。 -
2号坑の注目ポイントはここだろう。
復元補修された俑を間近に見ることができる。
鎧を着用した跪射兵。 -
鉾などの刀槍系武器を持つ兵か。
-
将軍俑。
兵たちよりも髭が大きく、鎧も立派。 -
騎馬兵。
馬俑には鞍がきちんと置かれている。 -
立射兵。
跪射兵と違って鎧は着用していない。
集中力の高さを感じさせる静の表情が見事。 -
文物展示館の前はものすごい人波。
やはり観光地には休日になど行くものではない。
人口の多い中国ではなおのことだ。 -
銅車馬と呼ばれる、四頭立ての二輪馬車の1/2模型。
始皇帝陵墳の近くで発見されたものが復元展示されている。
秦始皇帝が領内を巡行するさいに使用されたとされる。 -
立車と呼ばれ、御者は立って馬を操る。
傘には夔龍紋が描かれているということだが、退色が甚だしくて判別は困難。 -
安車と呼ばれるこちらは、有蓋車を牽引する。
-
どうみても上半身しかなさそうな、不思議な御者。
脚を伸ばしている様子はないし、かといって胡坐をかいているのならもっと高くなるはず。
馬俑と二輪馬車は精巧に作られているのに、これはどうしたことだろう。
思うに、有蓋車の縮尺を間違えて小さくしすぎたのではないか。
辻褄合わせのために、御者像の下半身を切って置いたような気がする。
この車は始皇帝が巡行時に座乗したもののミニ版だと説明するサイトが多い。
しかしそれにしては小さすぎるのは車輪との対比で明らかだ。
これでは車内で立つ事すらできない。
陵墳の近くで発見されたということなので、始皇帝の棺を載せたものではないのか。
窓があまりに小さいのも、それなら説明が付きそうだ。 -
安車の後部。
屋根と車体には変形龍鳳巻雲紋が描かれているというが、これも形は判別できない。
どんな装飾なのか見たかった。 -
文物陳列庁には銅車馬以外の展示も多い。
兜。
装着している兵俑は見なかったが、こういうものもあるようだ。
装甲板は糸で組まれているため、2000年のうちにすべてばらばらになっているのだろう。 -
鎧。
兵俑は皮鎧を装着しているように思ったのだが、こういう展示があった。
博物館のサイトでは石铠甲となっているから、石なのだろう。
確かに皮よりも遥かに堅固だが、加工は大変だ。
出陣時には兜や肩当なども装着するため、かなりの重量になりそうだ。 -
これも跪射兵。
2号坑の展示品と違って、こちらは鎧の色が僅かに残っている。
赤い胴巻きというと日本では武田軍団の赤備えを思い浮かべるが、それよりも1500年も前に秦の軍隊は統一した甲冑を兵に着用させていたということだ。
集団戦での効果を早くから計算していたのは間違いない。 -
これも立射兵か。
2号坑のものと違って、かなり遠方に矢を射たものとみえる。
それがわかってしまうのだから、素晴らしい出来である。 -
兵馬俑博物館には別棟になったかなり大きな売店があり、様々なサイズの複製品を置いている。
ここの出入り口には男たちが何人もたむろしており、写真手前のような箱入りのミニサイズのものを買わないかと声をかけてくる。
当然もぐりだろうが、入場料はどうなっているのだろう。 -
販売所には実物サイズのものも多数置いてある。
ちょっと見ただけでは複製とは思えないほど俑の出来は良い。
しかし、この兵が手にする戟は現代の六角ボルト・ナットで柄に取り付けられており、中国的ないい加減さが見られる。
柄の材料も塗りも安っぽくて、全体の品位を著しく貶めている。
何を考えているのやら。 -
兵俑は実際の人間よりも大きく、現物大の複製となるとかなり大きい。
それを買って家に置ける人はごく限られるだろう。
買う気がないので値段は全然チェックしなかったが、兵馬俑博物館の周囲にも複製品を売る店はいくつもあり、それなりに需要があるものと思われる。 -
馬の鼻面を皆が撫でていくらしい。
ここの見学が終わってから昼食に寄った食堂兼みやげ物屋に、第一発見者というおじいちゃんがいた。
ひところは兵馬俑博物館の名誉館長のような肩書きをもらい、観光客にサインしたり一緒に写真に納まったりしていたという。
私は別に興味がないので写真も撮らなかった。 -
続いて華清池の見物。
一帯は唐の玄宗皇帝と楊貴妃の逸話で有名な温泉地。
1986年にそれと思われる遺跡が発掘され、復元された。
広大な敷地には多くの建物が立ち並んでいるが、どれも当然真新しい。
さらには楊貴妃出浴像として白い裸像がいくつか立ってもいる。
遺跡の復元というよりも、アミューズメントパークのノリである。
この建物は楊貴妃が玄宗皇帝とよく入ったとされる貴妃池。 -
これが楊貴妃の風呂だという。
似た形の花の名をとって海棠湯と名づけられたというが、大理石のはずの床や浴槽は表面が粗くて汚れており、普通の石でできた田舎の洗濯場の方がよほどましに見える。
これを囲う湯殿の建物が立派なだけに、この様子はあまりにもみすぼらしすぎる。
発掘だからある適度は仕方ないとはいえ、周りの土や泥くらいは綺麗にできそうなものだ。
何かに濡れた痕があちこちにあるのもいただけない。 -
こちらは玄宗皇帝専用だったという蓮花湯。
水が張ってあるが、浴槽の回りの泥汚れは海棠湯よりもひどい。
2階建てに作られた回廊から見物する形になっているのは貴妃池も同様だが、当時の湯殿がこんな形をしていたはずはない。
どうみてもちぐはぐな取り合わせであり、落ち着かないこと甚だしい。 -
多くの池や建物があるが、歌や踊りなどのショーの舞台に使われるためのものでもある。
歴史要素を少し入れた娯楽施設といった場所だ。
団体ツアーの日程に組まれていたから連れて来られただけで、個人であればこんなところには絶対に来なかっただろう。 -
温泉であるから、別途料金を払えば湯に入って休憩できるようにもなっている。
こちらの方が私は興味を惹かれた。 -
園内には柘榴の木が何本かある。
西安はその昔に中近東から柘榴が伝わった場所とされており、周辺には柘榴畑が多い。
残念ながらシーズンではないために味をみる事はできなかった。
日本の柘榴に比べると非常に大きい。 -
次に連れて行かれたのが、陜西歴史博物館。
始皇帝の母親の墓前に据えられていたという獅子像が入り口にあった。 -
西安の南東に位置する藍田県で発掘された115万年前の頭骨。
地名を取って藍田原人もしくは藍田人と呼ばれる。
北京原人よりも若干古いという。
最初見た時には茶色いのは欠損部を補填した樹脂かと思ったのだが、これこそが実際の骨のようだった。
つまり補填部分の方が圧倒的に多い。
歯はなんと円柱状という実にいい加減なものが付けられており、復元というよりもまるで創作だ。
鼻穴の形も全然それらしくない。
頭頂部はほとんどなくて眼窩が異様に大きい。まるでエイリアンだ。 -
こちらは大荔人の頭骨。
ずっと時代が下がって、説明文には20万年前のものとあった。
藍田人と違って変な歯を付けてないのはいいが、どうして鼻の穴を塞いでしまうのか。
小中学生の工作じゃあるまいし、中国の考古学者とはこんなものか。
こういうものの展示はいい加減にされると興ざめするだけだ。 -
発掘現場を再現したものらしい。
-
装飾品や副葬品のようなものがあるのは結構だが、人骨はどれも骨盤の形がおかしい。
太古の原人はこんなに変な腰をしていたのか、というかサルでもこんな腰骨をしていない。
日本なら中学生でももっとましな骨格を作るだろう。
中国人はこんな物を見せられても何の疑念も湧かないのかな。
段々と腹が立ってくる。 -
兵馬俑もある。
-
陜西歴史博物館は11万点以上もの収蔵品を誇り、うち3000点を常設展示しているという。
展示方法に疑問符は付くものの、旧石器時代から清代までという幅の広い時の流れに触れることができる。
また、収蔵品にも優れた物が多い。 -
副葬品の俑の展示がたくさんある。
中国人も正座するんだなと、これを見て知った。
跪かされた罪人には見えず、宮廷内ではこうして座っていたとみえる。 -
小型の兵馬俑。
これはこれで味わいがあるが、秦始皇兵馬俑がいかに素晴らしいものであるかを再認識させられる。 -
左は「陶男俑」とある。
腰から下は裸で性器が見えるが、この俑は何だろう。
右は「女騎俑」で、馬に跨るために股を開いた格好をしているらしい。
どちらも裸体で一緒に展示されているので、何かのまじないに使うものかと思ったがそうではないようだ。
女俑とはいうがあまりにも醜悪な顔は、アンパンマンが怒ったところを想起させる。
どちらも2000年以上前のものらしい。 -
唐三彩の展示も多い。
-
西安市内で発見された西漢時代の「金餅」。
説明板によると、一枚が227.6〜254.4gで219枚、その総重量は54kgを超えたということだ。
漢時代の金餅出土品としては最大量だったとされる。
最近は金の価格がやや下落してきたとはいえ、1gあたりで3,800円前後の相場である。
ということは現在の価値にすると、しめて2億円!
盗掘が跡を絶たないはずだ。
さすが金だけあって、2000年を越えても腐食していない。
これは通貨として流通したのではなく、褒賞や贈答に使われたものとされる。
事実、表面にはいろんな模様が入っているが数字は刻まれていない。 -
これくらいの可愛い俑なら何個か部屋に置いてもいい。
-
どこからの出土品なのか記録し忘れたが優に人の背丈を越える大きさ。
副葬品だけでなく、陵墓からは壁画を含めてこうした大がかりなものまで移設展示している。
こんなにたくさん持ってきては元の場所ががら空きになってしまいそうだが、そのへんはあまり気にしないようだ。
大仏前の右側の坐像は、なぜか顔が不気味に黒い。 -
3日目は西安市内観光ということで、まず興慶宮公園に行く。
興慶宮は、大極宮、大明宮と並んで唐代三大宮殿のひとつに数えられた。
ここはその跡地を公園としたもの。
もともとは唐の玄宗が皇帝に即位する前に住んでいた邸宅を改築して宮殿としたといわれるが、広さは50万?もある。
楊貴妃も住んでいたということから、玄宗が笛を奏で楊貴妃が舞う像が入り口前にある。 -
玄宗はなかなか恰幅よく作られているが、それに対して楊貴妃の方ははっきりいってブスである。
楊貴妃には美人のイメージがつきまとうが、一説ではおかめのような容貌だったとも言われている。
してみると、この像の顔は史実を追った結果なのか。 -
公園内には玄宗皇帝に重用された日本人、阿倍仲麻呂の記念碑がある。
まだ17、8歳である717年に遣唐使として唐に入り、外国人でありながら科挙の試験に合格するという秀才。
玄宗皇帝の信任を得て三十年以上も仕え、仲満、晁衡、朝衡などの中国名を持つ唐の高官に昇った。 -
阿倍仲麻呂の百人一首に選ばれた和歌
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
これを五言絶句の漢詩としたものが碑の左側面に刻まれている。
翹首望東天
神馳奈良邊
三笠山頂上
思又皎月圓 -
碑の右側面には、仲麻呂と親交のあった李白の七言絶句が刻まれる。
仲麻呂が日本へ向かう海で遭難したとの知らせに、詩仙が悲嘆して詠んだもの。
日本晁卿辞帝都
征帆一片遶蓬壺
明月不帰沈碧海
白雲愁色満蒼梧
日本の晁衡 帝都を辞し
征帆一片 蓬壷を遶めぐる
明月 帰らず 碧海に沈み
白雲 愁色 蒼梧に満つ
この遭難で命を落とすことはなかったが、結局仲麻呂は日本に帰ることなく中国の土となる。
週末とあって公園内にはダンスや剣舞などに興じるグループがたくさんいた。
若者グループが目立つ日本とは異なり、中国の中高年は元気である -
次に清龍寺へと連れて行かれた。
1982年以降の発掘調査によって、周辺が唐代の青龍寺跡と判明、それからの再建であるから全てが新しい。
寺域内は現在もいくつもの堂宇を建造中であるが、その反面では中国人の参拝者は皆無という不思議な寺である。
弘法大師の空海が密教を学んだ寺ということから日本人がたくさん来るため、それだけでやっていけるのだろう。
というか、それで儲けようとばかりにどんどん堂宇を作っているようにもみえる。
日本各地からいろんな仏教会が寄付を寄せているのがガイドの説明でわかるし、それらの団体が立てた訪中記念碑があちこちにある。 -
空海記念碑。
しかし建立されたのは1982年。
ガイドが、ここは四国八十八箇所の零番札所です、と言っていたので、日本に帰ってから調べてみた。
すると、「元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられた。」とWikipediaに出ていた。
そんな事をただの一坊主が勝手に決めるなよ、と言いたい。
肩書きが何だか知らないけれど、お四国巡礼というものは何百年も続いてきた日本の文化遺産ともいうべきものだ。
空海が修行した場所とはいえ、新たに、それも外国に札所を作るというのは全くおかしい。
四国札所の寺の中には以前から商業主義を批判される所もあるようだが、これもその流れだろうか。
少なくとも中国側というか、清龍寺側はその気むんむんにみえた。 -
建物がいくつもあるのにそちらは全然見ずに、わけのわからない空海グッズを置いた小部屋に直行。
空海に関する日本の書籍棚と有名参拝者の署名色紙。
こんなもの見てもしょうがない。 -
みすぼらしい展示。
しかも大部分は日本から持ってきたか複製したものである。 -
そしてやはりここ。
売店で金を落とさせる。
でもこの人は達筆だった。 -
ご丁寧に「平成23年」と日本の年号で日付を入れていた。
買いはしないが、私だったら中国の年号にしてもらうだろう。
しかし共産中国は独自年号を使っているのかな。
台湾では民国暦というものが今でも生きているのだが。 -
売店の壁には空海が1200年前に帰国するにあたって詠んだ漢詩がかかっていた。
同法同門 遇うを喜ぶこと深し
空に遊ぶ白霧 忽ち峰に帰る
一生 一たび別るれば 再会は難し
夢でなく 心中にしばしば尋ねん
もちろん空海の書ではなく、日本人向けに作られた売り物である。
が、欲しかった。 -
どことなく日本風の庭園。
当時の資料など残っていないのだから、当然日本人を意識して作ったのだろう。
この写真でもわかるように、我々ツアーのメンバー以外には人影が見えず、地元の人は誰も来ないようだ。
宗教施設というよりも、日本人向けの観光施設でしかない。
建物をどんどん作ってはいるが空海の修行時代の復元ではないし、そもそも空海がここにいたという証拠さえないのだ。
無理やり連れてこられたが、ここは華清池よりも無駄な時間つぶしであった。 -
市内観光に移る。
西安の旧市街は、高さ12mの14kmにも及ぶ明代の城壁に囲まれており、東西南北にそれぞれ城門がある。
これは南門とも呼ばれる永寧門。
大陸的という言葉がぴったりの規模の大きさである。 -
城壁頂部は幅が12〜14mもあり、口の字形に市街を囲む。
長手方向である東西の長さは3.2kmもあり、空気の汚さもあって遠くの望楼が霞んでいる。
左側が城外にあたり、外敵の矢玉などの飛び道具に備えて更に壁が作られている。 -
城壁上の各所に残る望楼。
その屋根や瓦にはネオン管が張り巡らされ、田舎の食堂的な雰囲気を醸しているのが残念。 -
唐代の648年に立てられた大慈恩寺。
その後戦火に焼かれたりして、現在の物は1550年に十分の一の規模で再建されたものという。
この門も古いのか新しいのかわからないが、江澤民揮毫の額は間違いなく新しい。
江澤民といえば幼稚園から始まる徹底した反日教育を開始して、中国国民に日本への憎悪を掻き立てた人物。
今でもその「愛国主義教育実施要綱」は変わらずに実施されている。
それほど達筆とも思えないが、中国各地には彼が揮毫した扁額を良く見る。
権力者へのおべっか使いだな。 -
大雄寶殿とその後ろに聳える大雁塔。
-
建ってから何年も経っていないと思われる真新しい大雄寶殿。
-
インドで修行した玄奘が手厚く迎えられたのがこの大慈恩寺であり、大雁塔は持ち帰った膨大なサンスクリット語経典や仏舎利などを収容するために自ら設計したものといわれている。
玄奘は三蔵法師と尊称され、明代に書かれた西遊記のモデルとなる。
この大雄寶殿内部の仏像はそんな古いものではなく、ピカピカに輝いている -
大雁塔は高さ64m。
レンガを漆喰で塗り固めた構造という。
652年にできた時は5層で、50年後に10層となったものの戦乱で破壊されている。
現在のものは930年に再建されたもの。
別料金を払えば塔を登れるが、空気が汚くて靄がかかった眺めなのはわかりきっているのでパス。 -
広い境内には墓碑のようなものが立っている。
これは間違いなく古かった。 -
永寧門近くにある書院門。
trapics の旗を持ったガイドに連れられてのお散歩。
ガキの遠足じゃあるまいしと、だから団体ツアーなんか嫌なのだが、ボーっとしてるおじさんおばさんが多いから仕方ない。
ここから碑林博物館に至る600m足らずの通りは、筆、硯、古銭、印鑑、骨董などを扱う店が並ぶ。
城壁付近の道にも古書や骨董品の店が多く、一帯には西安の深い歴史の香りが漂う。 -
門の脇に立つ宝慶寺塔。
ガイドは何も説明しないのでわからないが、これも古そうである。 -
ここの門にもネオン管がくねくねと這わせてあった。
夜は綺麗かも知れないけど・・。 -
文房四宝と呼ばれる、筆、紙、硯、墨を扱う店が多い。
-
伝統的な街並みの商店街は杭州の河坊街を思わせるが、他愛もない玩具やみやげ物屋ばかりの河坊街と違って文化的である。
-
鼓楼。
小学生よろしく引率されて歩いただけであった。 -
夜、ホテルから城門まで歩く。
広場になったところには夕涼みの人民が数多くたむろしていた。
文句たらたらのツアーでした。
次は個人旅行で、兵馬俑博物館と陜西歴史博物館を気の済むまで見に行こうと考えています。
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
85