2013/05/24 - 2013/05/24
90位(同エリア130件中)
ムッシュさん
春日部を出て、古河市に至る前に、小さな宿ですが、杉戸、幸手、栗橋宿を巡ります。
【杉戸宿】
江戸・日本橋から数えて5番目の宿場。
*古利根川の渡し場があり、日本武尊が東征を行った際にこの付近に上陸し、そこが杉の木が茂る港(水門)であったことから杉門と名付けられたとする伝説がある。宿場は、元和2年(1616)に近郊の郷村を集めて成立した。
*天保14年 (1843)の改めによると、宿の往還は、長さ16町55間、道幅は5間、宿内家数365・人数1,663、本陣1・脇本陣2、旅籠屋46(大4・中7)であった。
【幸手宿】
日光街道の江戸・日本橋から数えて6番目の宿場。
*元々奥州に通じる渡しがあった場所として栄え、日本武尊が東征に際して「薩手が島」(当時この近辺は海だったという伝説がある)に上陸、中4丁目にある雷電神社に農業神を祀ったという記述が古書に残っている。
鎌倉時代には鎌倉街道が通じ、軍事・交易上でも交通の要衝として栄え、室町時代以降は一色氏の領地となり、現在の天神神社付近に陣屋が築かれた。
江戸時代になると、一帯は江戸幕府直轄の天領となり、日光御成道との合流点として、さらに筑波道が分岐する宿場町として繁栄した。
*「いにしへは宮田町と唱へしを元禄の頃(1688~1704)より幸手町と改め、今は首都いふ」(日光道中略記)
*「田村といへることは、往古民家まれなるころ、田の中に雷電の神体忽然としていませり。村民奇異のおもいをなし其所に社を建あがめ祀れり、此やしろのみ田の中にあるをもて田宮といひしより地名となれり。今宿内宝持寺に安置する所の雷電の像是なり」(日光道中略記)
*天保14年(1843)当時の人口は3,937人(男1946人、女1941人)、家数962軒、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒、駄賃・賃銭:荷物1駄・乗り掛荷人共92文、軽尻馬1疋61文、人足1人47文であった。(日光・奥州・甲州道中宿村大概帳)
【栗橋宿】
「栗橋駅に入る。舟附(ふなつき)なれば繁昌の駅なり。上中下と別れ、舟附、舟渡町といふ」(上野・下野道の記)
「当宿開発の年代詳(つまびらか)ならず。土人のつたへる、慶長の頃(1596~1615)下総国関宿領栗橋村の民、池田鴨之助、並木五郎平といへるものゝ下総のかたを元栗橋といひ、上町のかたを新栗橋と唱へしが、いつの頃よりか新の字を除きて栗橋町と唱へ、元和2年(1616)宿駅の数に入りてより栗橋の宿とあらたむ(日光道中略記)
*栗橋は利根川の渡河地点にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、江戸の北方を守る要地であった。日光街道は手前の幸手宿から北東に向かった栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に渡船場があり、”房川渡し・栗橋”とよばれていた。慶長年間に地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、現在の栗橋地区となる上河辺新田が開墾された。
*元和2年(1616)に街道筋が付け替えられ、現在地に正式な宿駅として栗橋宿が成立した。
*天保14年(1843)当時の人口は1,741人(男869人、女872人)、家数404軒、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒、駄賃・賃銭(古河まで)荷物一駄・乗掛荷人共106文、軽尻馬1疋68文、人足1人51文との記録が残る。
*栗橋宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋の業務は半月毎の交代制であった。また、本陣を代々務めたのは栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介から続いた池田家で、現在も本陣跡地に健在である。
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【小淵山観音院の山門】
震災後、倒壊するかも知れないという危機から、山門を通ることは出来ません。周囲を遠回りして境内に入ります。
春日部市の有形文化財に指定(昭和47年5月16日)された仁王門は元禄年間(1688年~1704年)に建てられたもので、二階部分に回廊が巡る三間一戸形式の楼門です。
元禄2年(1689)建立と伝えられる仁王門は、三間一戸楼門形式と言い、向って右に「阿形」左は「吽形」の金剛力士像が安置されており、現在春日部市唯一の仁王門として文化財に指定されている。
「奥の細道」紀行の芭蕉は、当寺に宿泊したとも言われ、境内に、「毛のいへば唇さむし秋の風」の句碑がある。 -
小渕観音院説明
【小渕山観音院】
小渕山観音院は、新編武蔵風土記稿の小渕村、観音院の項に「本山派修験、京都聖護院末、安永二年(1773)正年行事職を許さる。小渕山正賢寺と号す。本尊正観音、応安二年(1369)住持玄通が書し縁起有に拠ば、古き像なるべし。中興開山は尊慶と云、年代を知らず。」と記されている由緒ある古刹である。
この寺は、この地方の観音信仰の霊場として有名で、家内安全、商売繁盛のほか、こぶ、あざにご利益あるといわれている。毎年八月十日には、この日参拝すると四萬六千日分のご利益が授けられると言われる四萬六千日祭があり、県内の山伏が参集して護摩修行を行い、近隣の善男善女が枝豆を奉納し参拝する祭礼がある。
また、三月には、かって馬寄せ祭があり、農耕に従事した牛馬がいろいろな飾りをつて安全を祈願する祭があった。本堂内には、木像の白馬が安置されている。
本尊「正観音像」には、その昔、洪水でこの地に流れ着き、一度はもとの寺に戻したが、その後の洪水でまたもこの寺に漂着したのでお堂を建てて安置したものといわれる伝説がある。
本堂の格天井には花鳥の彩色が施され、格縁ごとに大勢の粕壁宿の商店主の名が記されており、外壁には、多数の絵馬のほか、八丁目の和算士栗原伝三郎が奉納した算額が掲げられている。
また、寺には、「毛のいへば 唇さむし 秋の風」と詠まれた芭蕉の句碑、市内唯一の楼門(仁王門)、七体の円空仏などがある。楼門は昭和四十七年に春日部市指定の有形文化財に指定されている。
昭和六十一年三月 埼玉県 春日部市 -
小淵観音院の門を、境内の中から見る。
市内唯一の楼門(仁王門)は元禄二年(1689)の建立で春日部市指定有形文化財です、残念ながら安置されている仁王像の傷みが大部進んでいます。
【小渕観音院】
正嘉2年(1258年)に開基と伝えられる古刹で、正式名称は正賢寺。本尊は「こぶとり観音」と呼ばれている聖観音。家内安全、商売繁盛、いぼ、こぶ、あざにご利益があるといわれている。7体の円空仏の中でも蔵王権現像はとても珍しい。
市内唯一の楼門(仁王門)元禄年間(1688~1704)に建立された。昭和47年に春日部市指定の有形文化財に指定されている。萱吹きの本堂は文政8年(1825)に再
建。天井が格子天井になっており「百花図」が描かれている。 -
【小淵観音院の本堂】春日部市小渕
小渕歩道橋先の左手に本山修験宗小渕山観音院があります、鎌倉時代中期の正嘉二年(1258年)の開基で市内唯一の修験寺院です。
本尊の正観音像は、その昔、洪水でこの地に流れ着き、一度は元の寺に戻したが、その後の洪水でまたもこの寺に漂着したのでお堂を建てて安置したものといいます、家内安全、商売繁盛の他、いぼ、こぶ、あざにご利益があるといわれています。 -
【小淵観音院の本堂】春日部市小渕
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【小淵観音院境内にある芭蕉句碑】
「奥の細道」紀行の芭蕉は、当寺に宿泊したとも言われ、境内に、「毛のいへば唇さむし秋の風」の句碑がある。
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【観音院境内に芭蕉句碑】
「毛(も)のいへば 唇寒し 秋の風」があります、
奥の細道紀行の芭蕉は粕壁宿の東陽寺ではなく当寺に宿泊したともいいます。 -
【北緯36度地球儀】(埼玉県杉戸町)
春日部市と北葛飾郡杉戸町の境です。
36度線地球儀モニュメントがあります、杉戸町は北緯36度00分~36度04分に位置しています。
日本武尊が東征の折、古利根川の杉の茂る湊に上陸すると、ここを杉門と呼び、これが転訛して杉戸となりました。
すきすきすぎーと36
暮らしと道の係わりを意識してもらうため、北緯36度線と国道4号線との交差する
地点に設置した休憩所で、杉戸町のウエルカム・モニュメントとして親しまれています。名称は公募され、町内の中学生のものが採用されました。訪れた人々に杉戸町をPRできるように町の位置や歴史などが表示された案内板も設置されていす。 -
杉戸の地図(杉戸宿)
杉戸宿は元和二年(1616年)近郊の郷村を集めて宿場を創設しました、五と十の付く日に六斎市が立ち、近郷商圏の中心地でした。
天保14年(1843年)の頃、杉戸宿の宿内家数は365軒、うち本陣1、脇本陣2、旅籠46軒で宿内人口は1,663人でした。
宿並は江戸方から新町、下町、中町、上町、河原組、横町で構成され、宿長は十六町五十五間で、道路幅員五間でした。 -
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【杉戸宿の老舗、関口酒造】
清地二丁目交差点を過ぎると右手に関口酒造があります。創業文政五年(1822年)銘酒杉戸宿の蔵元です。宿の中心地はこの辺り。
豊島屋/関口式右衛門邸
豊島屋は現在屋号を関口酒造とし、文政5年(1822)創業。祖先は今川義元の養
女になり、?川家康の正室にもなった築山御前ガおられるという。一族は桶狭間
の戦いのあと、現在の町東端に移り住んだそうです。清酒「杉戸宿」がある
祖先には今川義元の養女になり、徳川家康の正室にもなった築山御前がいる。一族は桶狭間の戦いの後、現在の町東端鷲巣に移り住んだという。
初代がこの地で創業を選んだのは、古利根川の恵みと、村名清地を 「清き地」 と捉えたことが考えられるという。明治時代、明治天皇の東北巡幸では、当家の井戸を御前水として飲まれたという。 -
復元された杉戸宿高札場がある。もとは関宿道との分岐にあったが、現在は民家が立つため、ここに復元された
ほゞ原寸大で復元されたものである。 -
【近津神社】杉戸町清地
近津神社が鎮座しています、貞享元年(1684年)の創建で清地村の鎮守です
「近津神社」
貞享元年(1684)創建。安政5年(1858)、昭和4年(1929)再建。大正8年(1919)青地村の村社となるが、平成13年(2001)不審火で消失仮社殿元治元年(1864)9月、地元の石工 石塚元吉と倅の又吉によって造られた狛犬は、他に類をみない特異な姿勢であり、いつしか見返り狛犬などと呼ばれようになりました。
「近津神社」
近津神社は、貞亨元年(1684)の創建で清地村の鎮守。見事な彫刻が施された社殿は平成13年(2001)放火により焼失したが、平成19年(2007)に再建され、鎮守の森も整備された。
元治元年(1864)に地元の石工 石塚元吉と倅の又吉によって造られた狛犬は、他に類をみない特異な姿勢であり、見返り狛犬と呼ばれている。 -
【近津神社の狛犬】
地元の石工 石塚元吉と倅の又吉によって造られた狛犬は、他に類をみない特異な姿勢であり、いつしか見返り狛犬などと呼ばれようになりました。 -
参道脇には小さな「富士塚」も見られる
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下町に入ると右手の三井住友信託銀行が問屋場跡です。
銀行前には【明治天皇御小休所阯碑】があります、旧問屋場が明治天皇巡幸の際に休息所となった。
⑬明治天皇御休所址
明治天皇は明治9年(1876)6月3日と明治14年(1881)7月31日に奥羽・北海道巡幸の際に杉戸宿で休憩をとりました。明治9年の巡幸では、現在の三井住友信託銀行のある旧杉戸宿問屋場の埼玉県第六区区務所に14時15分に到着し20分に出発したことが記録に残っている。5分間の休憩でした。
碑の題字は西郷従徳の手による。 -
【富士浅間稲荷神社】
ここ浅間神社の岩山の一角に、次の芭蕉の句が、自然石に刻まれている。
「八九間 空で雨ふる 柳哉(かな)はせ越(を)」と刻まれている。 -
稲荷神社には富士山講の岩山が残る。
【富士塚】
麓から大日如来、仙元大菩薩、小御岳石尊大権現、御室浅間太神とあり、塚頂に富士大権現が鎮座している。また、大日如来の脇に芭蕉句碑が埋め込まれている。 -
その岩山の一つの岩に芭蕉句碑が残る
”八九間 空で雨降る 柳哉” -
【宝性院】
真言宗智山派宝性院、永禄三年(1562年)幸手の地を支配した一色宮内大輔義直の創建です、元禄三年(1690年)幸手城主となった義直は不動堂に妻の追福菩提の安産不動明王像を安置した。
【杉戸山宝性院不動寺】
開山は永禄3年(1562)徳川家から幸手・庄内を賜った一色宮内大輔義直による。
境内には嘉永2年9月(1849)に再建された不動堂があり、安産、成田山、菅谷山の3体の不動明王が祀られ、身上安全、安産、子育て、厄除け、開運、交通安全など祈祷されている。杉戸7福神の毘沙門天も祀られている。
開基は、永禄3年(1560)に幸手城主の一色義直公が安産と子供の成長を願い、安産不動明王を安置されたことに始まる。
元和2年(1616)には、杉戸宿本陣の庇護を受けて、本尊大日如来を祀った本堂などの伽藍が整備された。嘉永2年(1849)に再建された不動堂には、武田信玄の子孫・武田信之の揮毫による扁額がある。
境内には、文化7年(1810)建立の「日光道中」と刻まれた日光街道で最大級という馬頭観音の石像などがある。山門脇には、延宝8年(1680)建立の青面金剛像庚申塔や享保10年(1725)建立の笠付青面金剛像庚申塔がある。
また、明治期には一時、郡役所や小学校(杉戸学校)が置かれていた。 -
宝性院境内にたつ【日光道標】
文化七年(1810年)建立の日光道中と刻まれた馬頭観音像道標等があります。 -
宝性院本堂
「宝性院」
開基は、永禄3年(1560)に幸手城主の一色義直公が安産と子供の成長を願い、安産不動明王を安置されたことに始まる。
元和2年(1616)には、杉戸宿本陣の庇護を受けて、本尊大日如来を祀った本堂などの伽藍が整備された。嘉永2年(1849)に再建された不動堂には、武田信玄の子孫・武田信之の揮毫による扁額がある。
境内には、文化7年(1810)建立の「日光道中」と刻まれた日光街道で最大級という馬頭観音の石像などがある。山門脇には、延宝8年(1680)建立の青面金剛像庚申塔や享保10年(1725)建立の笠付青面金剛像庚申塔がある。 -
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【厳島神社】杉戸町
杉戸から下高野に入ります、往時は松並木であったという街道を進むと左手に朱塗りの厳島神社が鎮座、境内には天満宮や文政五年(1822)建立の庚申塔等があります。
②厳島神社
小さな朱塗りの神社はよく目立つ。境内には小さな池が作られている。また、鳥居脇にある石橋大膳堀は嘉永2年(1849)建立。正面に石橋 志 江戸新吉原町松島屋杉戸屋。左側面には世話人2名。杉戸宿出身の江戸大店が地元の厳島神社に神(石橋)を寄進したといわれ、塔の脇には石橋の欄干と桁と思われる石材がある。 -
稲荷神社の隣に残る【”恭倹舎”】
埼玉県指定史跡大島有隣遺跡の恭倹舎(きょうけんしゃ)があります、心学者大島有隣が天明五年(1785年)に創建した学舎で村民に心学(神道、仏教、儒教の教えを日常生活に合わせた倫理)を教授しました。
【恭倹舎】
天明5年(1785)に大島村に戻った大島有隣と関口保宣は、名主藤城吉右衛門との3人で恭倹舎(心学普及のための施設)を設立し、心学の普及と庶民教育に努めた。
ここで、大島村をはじめとする一般民衆の多くの人々が心学を学びました。
有隣の後、弟子でもあった子の有斎が引き継いで、恭倹舎での心学普及を通した教化にあたった。またその後も、大島地区の恭倹舎講として昭和21、22年頃まで活動は存続していた。恭倹舎は天明5年設立以来、築220年以上経っているが、保存会の人々によって現在も集会所として維持されている。有隣のお墓は下高野の永福寺にある。
大島有隣は、諱を義展、通稱幸右衛門といい、宝暦五年(1755)十二月四日、この地(旧葛飾郡大島村)に生まれた。
天明元年(1781)、有隣二十七才の時、同郷の関口保宣と共に江戸に出て、参前舎で、当時の心学の大家中沢道二の教えをうけ天明五年(1785)、関口保宣・藤城高右衛門と共に「恭検舎」を建立し、農民や町民に心学を講説した。
寛政四年(1792)、有隣は再び江戸に出て参前舎で学び、やがて参前舎の主宰に推薦され、諸大名、旗本等に進講し、夜は、町民の家に出かけ、時を惜しんで心学の教化につとめたが、天保七年(1836)十月、八十二才で病没した。
この恭検舎は、病没するまでの五十余年間地元の人々に心学を説いた建物である。
昭和五十三年十二月十五日 埼玉県教育委員会 杉戸町教育委員会 -
山田うどん店の駐車場に標示あり。
【荻島の一里塚】
茨島(ばらじま)村地内で塚木はエノキでした、江戸日本橋より数えて11里目です。
茨島一里塚は、杉戸宿と幸手宿との中間に位置し、塚の上には榎が植えられてあった。「山田うどん」の敷地内角に案内板がある
慶長九年(1604)、江戸幕府は大久保石見守長安に命じて、東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五街道をはじめとする主要街道に一里塚を築かせた。江戸日本橋を起点とし一里ごと(約四キロメートル)に街道の両側に大きさ約九メートル四方の塚を築き、道のりを表す印として旅行者の目安とした。
ここ茨島一里塚は、杉戸宿と幸手宿との中間に位置し、塚の上には榎が植えられてあった。次の一里塚は、それぞれ清地村三本木(杉戸町)と内国府間村(幸手市)にあり、いずれも榎が植えられていた。
こうした一里塚も明治時代なかば以降には交通の発達や道路の拡張工事にともない取り去られてしまった。
杉戸町教育委員会 -
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【田螺(たにし)不動】(幸手市)
境内の菅谷不動尊は螺(たにし)不動尊ともいわれます、眼病の人がたにしを描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益があるといわれます。
【神明神社とたにし不動尊】
神明神社は、宝暦五年(1755)に伊勢皇太神宮の分霊を祀った神社です。
境内に成田・菅谷両不動尊があり菅谷不動尊は「たにし不動尊」ともいわれています。眼病の人が、たにしを描いた絵馬を奉納して祈願すればご利益があるといわれ、この絵馬は他にあまり例のないものです。その他に大杉神社の神輿や大正十二年(1923)の関東大震災の記念碑などの文化財があります。
神社の前の道は、江戸時代の五街道のひとつである、かつての日光道中です。志手橋を渡ったこの周辺は幸手宿の入口で、開発者の新井右馬之助にちなみ、右馬之助町と呼ばれていました。
また、江戸時代にはここに高札場があり、幕府の掟書や法令などを書いた高札が掲げられていました。
幸手市教育委員会 -
【神明神社】
「村の鎮守なり」(日光道中略記)宝暦5年(1755)に伊勢皇大神宮を祀った神社であり、明治6年(1873)4月より旧幸手町の村社の一つとなった。
今宮大杉大明神は「あんばさま」と呼ばれる大杉祭りが催され、神輿が担ぎ出さ
れる。 境内社は複数あり、「稲荷大明神」・「聖徳太子堂」・「水神宮」、「菅谷山」、「成田山」、「今宮大杉神社」が祀られている。
水神様として祀られている神は、水神社のほか、水天宮、弁財天、九頭竜神、あるいは金比羅様や大杉様などがある。また宿の入口として「高札場」があった。
明治初期の測量の几号がある。 -
田螺を捕まえた狛犬.
眼病の人が、たにしを描いた絵馬を奉納して祈願すれば御利益があるといわれている。 -
明治初期の測量の几号がある。
【几号高低標(英国式水準点)】
この案内板の後ろの石は、以前神社に奉納された灯篭の基礎の部分で、長い年月の間に上部が壊れたために脇に置かれていたものです。
その側面に「不」の記号が刻まれていますが、これは「几号高低標」といいます。
明治七年(1874)にイギリス式の測量方法が導入され、東京・塩竃(宮城県)間の水準測量を行なった際に神社の鳥居や灯篭等に設置されたもので、横線は測量に用いる平板を表し、下の部分は三脚を表しています。
幸手市教育委員会 -
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永文商店 酒類販売業で荷さばき用のトロッコ【横町鉄道】がある
酒屋(味噌・醤油などの食料品も販売)です。『永文』は、創始者の永島文太郎の
名字「永」と名前「文」からきている。横町鉄道は、大正13年(1924)頃からあり、線路の幅は約600㎜で、倉庫からお店まで直線で約70メートル。今でも商品を運んでいる。
壁面に松尾芭蕉と河合曽良のイラストが描かれている -
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すぐ先「中一丁目交差点」手前の「割烹 蒲焼 義語家」前に本陣知久家跡の説明板が立っている。
【幸手宿本陣 知久家跡】
知久家は本陣(大名宿)・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を果たした家柄でした。初代帯刀(たてわき)は長野県伊奈郡の豪族の出で、同郷の関東郡代伊奈熊蔵より幸手宿の久喜町開拓を命ぜられ、諸役を務め、明治三年(1870)に本陣が廃止されるまで、代々幸手宿の繁栄に尽くしました。
明治六年、知久家の書院で小学校が開設され、明治九年、明治天皇が東北巡幸の折に宿泊されています。
屋敷は、間口約39m・奥行約80mで、約千坪ありました。
幸手市教育委員会 -
【一色館跡と陣屋稲荷】
幸手駅附近一帯に、城山又は陣屋という地名が残っているが、ここは古河公方足利氏の家臣一色氏が館を構えた跡といわれている。一色直朝(なおとも)は天文年中(1532~55)に足利晴氏、義氏にしたがい、のち田宮庄(幸手庄)に住したという。直朝の子義直も幸手庄に父とともに住したが、小田原の北条氏没落後は徳川家康に仕え、幸手庄のうちにおいて五一六〇石余の領地を与えられている。
現在は昔をしのぶ土塁跡などは見ることが出来ない。ただ館跡と思われる位置から巽(南東)の方向に祀られている陣屋稲荷は、別名一色稲荷とも呼ばれ、一色氏の守り神として祀られた氏神であると伝えられている。
今でも地元の人々の信仰を集めており、毎月二十二日の縁日と、初午祭などの祭が行われている。
昭和六十二年三月 埼玉県 幸手市 -
【聖福寺の参道にたつ芭蕉句碑】 幸手市北一丁目
聖福寺 平成十五年(2003)秋彼岸
幸手を行ば 栗橋の関 芭蕉
松杉を はさみ揃ゆる 寺の門 曽良
聖福寺の参道入口に建てられた新しい句碑。
参道入口は日光街道に面している。江戸時代には歴代の将軍や天皇の例弊使が
日光道中のおりに、聖福寺で休憩をしている。曽良の句の[寺の門]とは聖福寺の勅旨門を指しているとの説がある。
江戸時代、門前の通りの日光街道は、将軍の日光社参をはじめ、さまざまな旅人がゆきかい、その中には奥州へ向う文人、芸術家も多くあったことであろう。
「奥の細道」の旅を終えた俳人松尾芭蕉は、四年後の元禄六年九月十三日、江戸深川、芭蕉庵で十三夜連句を催した折、奥州の旅を思いおこし、同行した弟子曽良と並んで右の句をよんだ。
時を経て、昭和六十二年四月十日付の新聞紙上、埼玉の俳人鈴木太一郎氏は、右二句を紹介しながら、芭蕉に続いてよまれたこの曽良の句の門を、聖福寺の勅使門として間違いなかろうと説を示された。平成十三年、日光街道四百年を迎え、同十四年、山門の改修工事が成り、併せてこの句碑を建立し往時を偲ぶものとする。
平成十五年 秋彼岸 聖福寺第二十八世 静誉康隆 -
【聖福寺】
聖福寺は、寺号を菩提山東皐院聖福寺と称する浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来であり観音像は運慶作と伝えられている。
徳川三代将軍家光が日光社参の時、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを始めとし、天皇の例幣使や歴代将軍が十八回にわたり休憩した。将軍の間、例幣使の間、菊の紋章の入った勅使門(唐門)があり、左甚五郎作といわれる彫刻等も保存されている。また、御朱印状により十石を賜ったことがわかる。
境内の左手に二つの石碑があって、一つには「花づか」と彫られている。江戸文化が華やかであった寛政の頃、幸手宿に秋月庵一松という人がおり、遠州流生花を普及させた。
その後、日光道中でさかんになり、明治になって遠州流の人達がこの碑を建てたものという。
もう一つは「金子竹香顕彰碑」である。金子竹香は江戸時代の儒者であり、書家としても有名で幸手に住んでいた。この碑の文は儒者で、折衷学派の亀田綾瀬の撰文と書によるものである。
昭和六十三年三月 埼玉県 幸手市 -
【聖福寺の勅使門(ちょくしもん)】街道左の聖福寺(しょうふくじ)
家光が日光社参の時の御殿所として使用していたところだ。御殿所とは将軍の休憩所のこと。葵のご紋の入った勅使門(唐門)が残されていた(写真)。
350年の歴史を持つ四脚門である。将軍の間、勅使の間、そして左甚五郎の作と言われる彫刻が残されているなお、例幣使一行は日光の帰路にここで休憩したようだ(埼玉県幸手町北1)
【聖福寺】
歴代の将軍が日光東照宮参詣のとき、休憩した。勅使門「唐破風四脚門」は扉
に菊の文様がある。将軍・例幣使専用の門。将軍の間や勅使の間は、左甚五郎作と伝わる彫刻などがある。また、運慶作といわれる阿弥陀如来、「呉服太物店 長島屋長六」とある長島屋の看板がある。この寺は豪商長島屋の菩提寺だった。
幸手を行ば栗橋の関 芭蕉
「松風をはさみ揃ゆる寺の門」 曽良
曽良は聖福寺の勅使門を詠んだとされる
【聖福寺勅使門】 幸手市指定有形文化財建造物
この唐破風の四脚門は建造後、約三百五十年の歴史を有します。扉には菊の紋様が刻まれており、勅使門と呼ばれています。かつては将軍一行や例幣使(天皇が祭礼に送る使者)が来たときしか、開くことはありませんでした。
ここ聖福寺は、日光東照宮に参詣した歴代将軍の休憩所であり、また東照宮例祭に臨席した例幣使も休憩をとりました。この勅使門は修理の手も加えられていますが、日光道中の宿場として栄えた幸手の隆盛をしのばせるものです。
幸手市教育委員会 -
【幸手 聖福寺本堂】
聖福寺は、寺号を菩提山東皐院聖福寺と称する浄土宗の寺で、本尊は阿弥陀如来であり観音像は運慶作と伝えられている。
徳川三代将軍家光が日光社参の時、御殿所(将軍の休憩所)として使用したのを始めとし、天皇の例幣使や歴代将軍が十八回にわたり休憩した。将軍の間、例幣使の間、菊の紋章の入った勅使門(唐門)があり、左甚五郎作といわれる彫刻等も保存されている。また、御朱印状により十石を賜ったことがわかる。
境内の左手に二つの石碑があって、一つには「花づか」と彫られている。江戸文化が華やかであった寛政の頃、幸手宿に秋月庵一松という人がおり、遠州流生花を普及させた。
その後、日光道中でさかんになり、明治になって遠州流の人達がこの碑を建てたものという。
もう一つは「金子竹香顕彰碑」である。金子竹香は江戸時代の儒者であり、書家としても有名で幸手に住んでいた。この碑の文は儒者で、折衷学派の亀田綾瀬の撰文と書によるものである。
昭和六十三年三月 埼玉県 幸手市 -
街道に面して正福寺の参道入り口前に立つ【大きな常夜灯】
また日光道中と刻まれた大きな道標があった
ここで街道は右に直角に曲がっている。宿場の出入り口の枡形である
【正福寺】
正福寺は、香水山揚池院正福寺と称する真言宗智山派の寺で、本尊は不動明王である。当山は、江戸時代学問の研究や子弟を養成する常法談林であり、当時この寺は、四十九ヶ寺の末寺をもっていた。また、将軍徳川家光の代、御朱印十三石を賜っている。
境内には、県指定史跡の義賑窮餓之碑がある。天明三年(1783)に浅間山が大噴火したため関東一円に灰が降り、冷害も重なって大飢饉となった。この時、幸手町の有志二十一名が金品を出し合って、難民の救済にあたった。この善行が時の関東郡代伊那忠尊の知るところとなり、顕彰碑を建てさせたという。
また、樹齢四五〇年、根まわり五メートルもある榎の大木があり、県の天然記念物に指定されていたが、惜しくも枯れてしまった。
寺には、多くの古文書や仏像・書画が保存されており、境内には日光道中の道しるべもあり有名である。
昭和六十三年三月 埼玉県 幸手市 -
【熊野権現社】
権現堂川の名前の由来となった神社である。この辺一帯が権現堂河岸のあった処である。旧街道は、この後、桜の名所となっている権現堂堤の上の快適な道となっている
【熊野権現社】
「村内に熊野、若宮、白山の権現を合祀旧社あれば、此村名起これり」(新編武蔵風土記稿)熊野権現社は、紀州(和歌山県)の熊野権現社の分社で、権現堂村や権現堂川の名の起りでもある。 江戸時代から権現堂河岸の船着場として栄え、神社には、船主や、船頭、江戸の商人等からの奉納品が数多く保存されている。明治28年(1895)に奉納された権現堂堤修復絵馬は、幸手の絵馬師鈴木国信の作で、地形築きや土端打ちの女人足が揃って作業を行っているところを描いている。 -
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熊野神社
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【権現堂桜堤】
「字権現堂川通、堤長三百五拾弐間余、高弐丈壱尺余」(日光・奥州・甲州道
中宿村大概帳)権現堂川は天正4年(1576)頃からかつての利根川の本流の一つ
で、洪水を防ぐため堤が造られた。「うすみなす長き堤」「御府内お囲い堤」(江戸を守る堤)といわれた。
「権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。
しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治八年六月に着工し、十月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです(現在は国道四号線がその上を通っています)。
明治九年六月に、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られてその労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されました。
人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです。
明治二十二年の町村制施行によって高須賀村・外国府間村・円藤内村・松石村・千塚村が合併して行幸村となりましたが、その村名もこの行幸堤に由来しています。
また、この石碑の建っている部分は行幸橋の架け替え工事(平成十二年~十七年)以前はゆるやかな斜面であったため、石碑自体は歩道の近くにたって国道側を向いていましたが、堤が高くなったために上に移し、見やすいように現在の向きにしたものです。
幸手市教育委員会 -
【幸手 権現堂公園の行幸堤の碑】
権現堂堤は、権現堂川の水防のために江戸時代になる前に造られた堤です。
しかし、江戸時代を通じて何回もの洪水を経て、明治時代になって地元から新しい堤防造成の機運が起こり、明治八年六月に着工し、十月にはここから栗橋町小右衛門にかけて旧日光道中に並行した新権現堂堤が完成したのです(現在は国道四号線がその上を通っています)。
明治九年六月に、明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄られてその労に感じ入り、この仕事に携わった者の名前を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されました。
人々は大変恐縮し、是非この堤を行幸堤と呼ばせていただきたいと申し出たところ許可されたということです。
明治二十二年の町村制施行によって高須賀村・外国府間村・円藤内村・松石村・千塚村が合併して行幸村となりましたが、その村名もこの行幸堤に由来しています。
また、この石碑の建っている部分は行幸橋の架け替え工事(平成十二年~十七年)以前はゆるやかな斜面であったため、石碑自体は歩道の近くにたって国道側を向いていましたが、堤が高くなったために上に移し、見やすいように現在の向きにしたものです。 幸手市教育委員会 -
権現堂堤に立つ【巡礼の碑】母子巡礼の碑である
「順礼の碑」「供養塔」
享和2年(1802)、長雨が続き堤が壊れ、何度修理しても壊れてしまう。 ある時、この堤を通りかかった母子巡礼が「竜神のたたりかもしれない。人身御供を立てなければなるまい」と言いました。誰もなりてはなく、しかたなく、母は「私が人柱になろう」と渦巻く泥水の中に身を投げました。これを見た娘もその後を追い
ました。すると不思議に水がひき、難工事も完成できた。これに対し、巡礼親子を無理に人柱として、工事を進めたとの説もある人身御供となった巡礼親子を供養するために建立された碑である
側に歌碑
「そよ風に 花びらは舞う 巡礼の 碑かこむ 堤の桜」 郷子
(埼玉県幸手市権現堂) -
ランチは”かつ太郎”にて
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日光街道の道しるべ(外国府間=そとごうま)
栗橋まで旧道が残されている
やがて、右に【古い道標】がある。安永4年(1775年)に建てられたものだ
「左日光道、右つくば道、東川つま道、前ばやし道」と読める
かわつまは、現在の茨城県五霞町(ごかまち)川妻前ばやしは、茨城県古河市総和町前林である。筑波山詣での人々は右折せよ、日光道は北上せよ。 -
【雷電社湯殿社合殿】
荒宿交差点を左折して進み、幸手桜高入口交差点を左折すると左手に雷電神社が鎮座しています、幸手宿の総鎮守です。
中世の幸手は田宮庄又は田宮町といい、中心がこの神社でした、田の中に金色の雷神が落ち、これを祀り田の中の宮、田宮としました
③「湯殿権現 雷電合社」(日光道中
略記)石の鳥居の額に「雷電 湯殿権現」と刻まれ、境内には庚申塔、如意輪観音などの石仏があり、右の地蔵堂の鰐口は銅製で、元禄年間(1688~1704)製造
雷電神社??
「村の鎮守なり。神体は七寸余の黄金なり。往古垂仁帝の十年、ある日天地振動して雷電頻に震ひ、此像田の中に下れり。よりて其処に宮を作りて田宮とよび、それ
より庄名にまで唱へぬ。此像黄金仏なれば盗難あらんことをおそれ、宝持寺に移し、旧地には観音・薬師・地蔵の三体を安置せり」(日光道中略記)
田宮の由来となった雷神が御神体で、幸手城主一色宮内少輔が奉納したといわれる。この雷電神社は別雷之命・配祀倉稲魂命・菅原道真の三柱を祭神とし、古くには田宮の庄幸手領の総鎮守であったが、明治維新後の明治6年(1873)4月以後は村社に指定されている。霊峰木曽御嶽を模した築山がある。 -
【会津見送り稲荷】
江戸時代、徳川幕府が参勤交代制をとっていたころ、会津藩の武士が藩士江戸参向に先立ち、先遣隊として江戸へ書面を届けるためこの街道を栗橋宿下河原まで来たところ、地水のため通行できず、街道がどこかわからずたいへん困っていると、突然白髪の老人が現れて道案内をしてくれた。お陰で武士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせた、という。
また、一説には、この地で道が通行できずに大いにあせり、そのうえ大事な物を忘れたことに気がつき、困り果てたすえ、死を決意した時、この老人が現れ藩士に死を思い止まらせた、ともいわれている。
のちになって、この老人は狐の化身とわかり稲荷様として祭ったものである。
栗橋町教育委員会 -
【顕正寺】(久喜市栗橋町)
真宗大谷派幡谷山顕正寺、池田鴨之介の菩提寺で、本尊は聖徳太子作の阿弥陀如来像です、墓所には栗橋宿を創設し、本陣を勤めた池田鴨之介と代々の墓があります。
池田鴨之介は並木五郎兵衛と共に、幕府に願い出て、慶長年間(1596~1614)に下総國栗橋村(現茨城県五霞町元栗橋)より、村民を引き連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開拓しました。
【顕正寺】
「浄土真宗、京都東本願寺末、幡谷山破邪院と云、此寺は常陸国幡谷り城主、幡谷次郎左衛門尉信勝剃髪して円空と号し、同所光念寺と云天台宗の寺に住す、其頃親鸞上人同国稲田にあり、円空夢の告によりて上人をたづねゆき、随身して唯信と改め、幡谷にかへり光念寺を一向宗の道場とす、其後兵火にかゝりて衰微せり、然るに下総国中田新宿村藤の森と云所に、聖徳太子の刻める阿弥陀を安ぜる堂あり、霊験あらたなれども、させる堂宇のいとなみもなければ、則光念寺をこゝに移し、幡谷山破邪院顕正寺と号し、その阿弥陀を本尊とす、然るに当村名主先祖池田鴨助、信仰のあまり当所へ引移せりと云、されども下総国中田にも今其旧跡に顕正寺とて、わつかの庵室のこれり、唯信坊は弘安二年(1279)三月十一日寂す、中興開山利円寛永十九年(1642)二月十八日寂、其後古河城主松平周防守、石州浜田へ国替えのとき、時の住僧帰依により石州へつれゆき一寺を建立し、是をも顕正寺と称と云、」(新編武蔵風土記稿)
【顕正寺由来】
開基は常陸の国(現・茨城県小美玉市)幡谷城の城主・幡谷次郎信勝である。
信勝は亡妻を弔うため天台宗の僧となり光念寺を建立した。
時は1214年(鎌倉期)宗祖親鸞聖人越後より稲田に移りて念仏の教えを説き広めるに出会い、開法を重ね随喜して弟子となり法名を唯信「ゆいしん」と賜り、光念寺を念仏の道場として布教に努めた。
下がって天正十八年(1590)戦国大名佐竹氏の急襲を受け幡谷城は落城、光念寺も兵火により焼失してしまった。
難を逃れ、下総国中田(現・古河市中田)の阿弥陀堂に引き移り、ここを幡谷山破邪院顕正寺と改めた。
十六代善了のとき、栗橋町の開発者である池田鴨之介の「菩提寺に」との招請により、寺基を慶長十四年(1614)この地に移し法義を継承して今日に至っている。法名碑は十六代善了より記した。 -
【深広寺】の入口
浄土宗無涯山単信院深廣寺があります、本尊は阿弥陀如来です。
境内に南無阿弥陀仏と刻まれた高さ二間の六角名号塔が二十一基並んでいます。
【深廣寺】
久喜市指定文化財の六角名号塔がある。南無阿弥陀仏の文字が六面に刻まれ、全部で21基ある。1基の高さは3m60㎝で、承応元年(1657)に建立された。
「是は承応2年(1653)当寺第二世単信、伊豆の大嶋より大石二十一を舟に載(の
せ)来りし時、海上にて舟すゝまず海鰐のこふるならんとて石一つを水中に投じ、残る二十本をのせ来りて建立せり。後明和年中(1764~72)に至り、時の住僧精挙満山、その志をつぎて一基をたて、単信が鳳志を満足せりといふ」いま
も左端の一基に単信と、満山の名が彫ってある。 -
【深廣寺六角名号塔】
境内に南無阿弥陀仏と刻まれた高さ二間の六角名号塔が二十一基並んでいます。
【六角名号塔】 栗橋町指定有形文化財(昭和53年3月29日指定)
六角名号塔は、総高約360cm、一面の幅約50cm、六面からなる石塔で「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれています。
この塔は、当山二代住職単信上人が伊豆大島より大石を船で持ち帰り、承応三年~明暦二年(1654~1657)の間に千人供養塔を二十基建立、その後明和三年(1766)に九代住職法信上人が三千人供養塔を一基建立したものです。 -
深広寺の戎さん
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奥州平泉にいる義経の後を追った静御前がここで義経の死を知りこの地の光了寺で義経の菩提を弔いながら22歳の短い生涯を終えた処としても知られている
栗橋駅の前には、今でも静御前の墓がある
【静御前の墓】
源義経の内妻であった静御前の墓と伝えられている。静御前は、義経を追って奥州に向かう途中、義経の死を知り、文治5年(1189)9月15日、ここで亡くなったと言われている。ここには高柳寺(こうりょうじ=光了寺)と呼ばれる寺があったの
で、静御前は寺の境内に埋葬され、墓上には杉の木が植えられた。高柳寺はその
後、中田(現在の茨城県古河市)に移転し、光了寺と名を改めている。「墓のしるしとして高さ五丈余、囲は弐丈弐尺余、枝のひらき拾五間半なる杉の大木たてり」(日光道中略記)
「其(杉の大木)下に一言の宮とて小きほこらあり。…今年(享和3年 1803)五月関東の郡代中川飛騨守、貨を損て其事を石に勒(ろく)して樹下に立となり」(日光駅程見聞雑記)
静御前の墓が残され、墓に墓標がなかったので享和3年(1803)に勘定奉行・関東郡代の中川飛騨守忠英が「静女之墳」を建立した。墓上の杉の木は弘化3年(1846)の洪水により枯れ、その後銀杏が植えられた。
【静御前の墓】
静御前は、磯の禅師の一人娘として応安3年(1168)に生れたといわれ、白拍子と呼ばれる美しい舞姫に成長しました。
干ばつが3年も続き、加えてその年も長い日照りで農民が大変困っておりました。そこで、後鳥羽上皇が寿永元年(1182)、京都神泉苑に舞姫100人を選び、「雨乞いの舞」を命ぜられました。最期に静が舞い始めると空がにわかに曇り、激しく雨が降り出し3日3晩も降り続いたといいます。後鳥羽上皇は静が15才でありながら類稀な才能を賞嘆され、褒美に「蝦蟇龍」の錦の舞衣を賜りました。この衣は現在、古河市中田町の光了寺に保存されております。
平氏追討に功績があった義経の寵愛を受けた静が初めて義経に出会ったのもその頃のことでした。その後、義経は兄頼朝の不興を蒙り、奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ちのびました。静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向いましたが、途中の下総国下辺見付近で「義経討死」の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔いたいと再び京都へ戻ろうとしました。しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気となり、文治5年(1189)9月15日、この地で死去したと伝えられています。
侍女琴柱がこの地にあった高柳寺に遺骸を葬りましたが、墓のしるしの無いのを哀れみ、享和3年(1803)5月、関東郡代中川飛騨守忠英が「静女之墳」の墓碑を建立したものと考えられています。また、境内にある「舞ふ蝶の 果てるや夢みる 塚の陰」という歌碑は、江戸の歌人座泉の作を村人が文化3年(1806)3月に建立したものであります。(注)公式には、静御前の生没年は、はっきりしていません。ここに記されている内容は当時の伝承をもとにしています。
久喜市教育委員会 静御前遺跡保存会 -
【栗橋関所】
「房川戸御関所、女江戸より出るに手形上がる、下りいらず。男上下いらず」(五海道中細見独案内)
「御関所 利根川堤の上にあり、その置し年代さだかならず。見張の番所をかまへて往来の旅人を改む。是を房川渡(ぼうせんわたし)中田御関所と唱ふ…」(日光道中略記)
駅逓志稿によると元和2年(1616)栗橋宿設置と同年の八月、関東十六津をみだりに渡ることを禁じた旨があり、その一つに房川が挙げられている。初めは渡船場で取締っていたらしい。実際の設置は寛永元年(1624)で、「寛永元年より今の
加藤杢兵衛、足立十右衛門、冨田定右衛門、島田源治郎の先祖御抱(おかかえ)となり、世々栗橋宿の西に在住してかはるかはる番をつとむ」(日光道中略記)
関所は堤上にあり、旅人はこの関所を通ると河原に下って渡し船で利根川を中田宿へと利根川の堤は洪水で切れ、被害は宿駅にも及び、関所もたびたび改築された。
碑の文字は第16代徳川家達の筆による。
【栗橋関所跡 『房川渡中田・関所』】 埼玉県指定旧跡(昭和36年9月1日指定)
江戸幕府は、交通統制と治安維持のために、主要な街道が国境の山地や大河川を越す要地に関所を設け、特に「入り鉄砲と出女」を取り締まった。
栗橋関所は、日光街道が利根川を越す要地に「利根川通り乗船場」から発展した関所の一つで『房川渡中田・関所』と呼ばれた。東海道の箱根、中仙道の碓氷と並んで重要な関所であったという。
関所の位置は、現在の堤防の内側で利根川のほとりにあたり、寛永年中に関東代官頭の伊那備前守が番士四人を置いた。以後、番士は明治二年関所廃止まで約二百五十年間、代々世襲を勤めた。
関所跡の記念碑は大正十三年に旧番士三家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により、徳川家達の揮毫で、旧堤上に建碑され、数度の堤改修により、建設省利根川上流工事事務所の配慮で、今回ここに移設された。 -
土手下に【栗橋関所址碑】
日光道中で唯一の関所があった。寛永元年、房川渡中田御関所と称した。
栗橋関所の正式名は「房川渡中田御関所」といい、明治2年(1869)まで続き、入鉄砲、出女を厳しく取り締まっていた。。 -
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当時、利根川の架橋は禁止されていた。問題は日光社参のときで、将軍が家康の墓参りする行事は、利根川に51隻の船を浮かべ、鎖で横繋ぎし、その上に二寸板と菰を敷き、土、砂を盛り船橋を作った。
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利根川
利根川は坂東太郎と呼ばれる暴れ川でした、利根川は武蔵(埼玉県)と下総(茨城県)の國境(県境)です。
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