2013/05/23 - 2013/05/23
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ムッシュさん
粕壁(春日部)宿
粕壁宿は古利根川の舟運により江戸と結ばれ、諸物資の集散地として栄え、毎月四と九の付く日に六斎市が立ち大いに賑わいました。
天保14年(1843年)頃の粕壁宿の宿内家数は773軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠45軒で宿内人口は3701人でした。
【粕壁 地名の由来】
南北朝時代(14世紀)、新田義貞の家臣春日部氏が当地を領地としたことから「春日部」の地名が生まれたとされるが、その後江戸時代正保年間(1645年頃)には糟壁、糟ヶ辺という表記が交互で使われており元禄年間(1700年頃)に粕壁、糟壁と記す漢字表記が明治初期あたりまで交互に使われていた。高橋至時・伊能忠敬らによる大日本沿海輿地全図では粕壁と記されている。明治期に大区小区制を施行してから粕壁という漢字表記に統一した思われる。東武鉄道の春日部駅も開業時から昭和24年(1949)まで粕壁駅という漢字表記で使われていた。昭和19年(1944)に南埼玉郡粕壁町と同郡内牧村が合併した際に南埼玉郡春日部町とし、表記を改めた。
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寛文13年(1673)の地蔵菩薩碑と地蔵菩薩立像が安置されている地蔵祠。
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【備後の一里塚跡碑】(春日部市備後地区)
江戸から8里の標示。(東京から33kmポスト) -
藤塚橋から見た大落古利根川。水位・量はたっぷり。
【大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)】
利根川の旧流路のなごりである。名前の「大落」(おおおとし)の意味は農業排水を落とすという意味である。埼玉県久喜市・杉戸町の境界にある葛西橋が起点。杉戸町・宮代町・春日部市・越谷市・松伏町の境界付近を流れ、松伏町と越谷市の境で中川に合流する。おおむねかつての北葛飾郡と南埼玉郡の郡境となっている(現在は市制をとる地域が多いため異なる)。
古利根川は利根川の流路であったが、江戸時代初期に実施された利根川東遷事業によって利根川が東京湾から太平洋に注ぐ河川に付け替えられ、以前の流路は古利根川として残った。
【藤塚橋】
昭和初期まで、藤塚橋を挟んで上流と下流に二つの渡舟場があり、上流側は三蔵
渡しと呼ばれていました。藤塚橋の石碑には「昭和8年(1933)坂巻治平ら10名が藤塚橋組合を結成し、資金8百円で有料の木橋を架けた」とあります。
この有料の橋は「賃とり橋」とよばれ、昭和29年(1954)に春日部に市制が施工された際に買収され、無料となった。 -
【久伊豆神社由緒】
久伊豆神社は、祭神として大国主命、事代主命など五柱が祀られ、例祭は毎年九月二十八日である。
当社の創立年代は不詳であるが、社伝によると平安末期の創建といい、鎌倉時代には武蔵七党の一つである私市(きさい)党の崇敬を受けたという。古来、武門の尊崇を集めて栄え、室町時代の応仁元年(1476)に伊豆国(静岡県)宇佐見の領主宇佐見三郎重之がこの地を領したとき、鎮守神として太刀を奉納するとともに社殿を再建したと伝えられる。江戸時代には、徳川将軍家代々の信仰が厚かった。
当社は、徐災招福、開運出世の神として関東一円はいうまでもなく、全国に崇敬者がある。また、家出をしたり、悪所通いをする者に対して、家族の者が“足止め”といって狛犬の足を結ぶと必ず帰ってくるといわれている。
境内には、県指定旧跡となっている幕末の国学者平田篤胤の仮寓跡や、篤胤の門人が奉納したといわれる軒指定天然記念物の藤の老樹が枝をひろげている。
なお、当社は昭和五十九年度に県から「ふるさとの森」の指定を受けている。
昭和六十年三月 埼玉県 越谷市 -
【越谷 久伊豆神社の藤棚】
宮前橋から三つの鳥居をくぐり境内に入ると、左の池の前に大きな藤の古木があり、花の時期はさぞかし壮観なこと
【久伊豆神社の藤】 埼玉県指定天然記念物(昭和16年3月31日指定)
この藤は、株廻り7m余り、地際から七本にわかれて、高さ2.7m、南北30mほどあり、天保八年(1837)越ヶ谷町の住人川鍋国蔵が下総国(現千葉県)流山から樹齢五〇余年の藤を舟で運び、当地に移植したものといわれています。樹齢およそ二〇〇年と推定されます。
花は濃紫色で、枝下1.5mほど垂れ、一般に“五尺藤”と呼ばれています。花期は毎年五月初旬が最も見ごろで、毎年このころに「藤まつり」が盛大に開かれます。
フジはマメ科に属する蔓性の落葉樹で、日本、中国、アメリカ、朝鮮に少しずつ異なったものが自生しています。わが国のフジは、大別して、ツルが右巻きで花は小さいが花房は1m以上になるノダフジと、左巻きで花は大きいが花房は20cm前後のヤマフジとがあります。当神社の藤は前者に属し、基本種は本州、四国、九州の山地に自生しています。
昭和五十八年三月 埼玉県教育委員会 越谷市教育委員会 久伊豆神社 -
【八坂神社】
一宮歩道橋の右手に八坂神社が鎮座しています、
明和7年(1770年)の火災で社殿が焼失したため、勧請の由来等は不詳です、粕壁宿の市神として信仰され、江戸時代には牛頭天王社と呼ばれました。粕壁宿の市神(いちがみ)としてまつられた神社です。八坂神社の祭礼は、現在の春日部夏まつりの起源です。 -
【東八幡神社】
東八幡神社が鎮座しています、粕壁宿の鎮守です。
「宿の東辺に正八幡の社あり、宿の鎮守也」(日光駅程見聞雑記)
一ノ宮交差点(一ノ宮とは東八幡神社のこと)から東八幡神社へ通じる道は「下の八幡様の参道」で以前は元禄9年(1696)造りの石鳥居が建っていた。文化13年(1816)造りの石灯籠と再建の石鳥居が建つ。 東八幡神社は下の八幡様・大砂(大門と砂塚)の八幡様。付近は砂塚とも呼ばれた。江戸時代力持ちの三ノ宮卯之助が天保3年(1832)奉納した力石がある。 -
【東八幡神社のご神木】
新田義貞の鎌倉攻めに功があった春日部時賢(ときかた)が鎌倉鶴ケ岡八幡宮を勧請したものです、境内の大ケヤキは御神木で樹齢約六百年です。 -
東八幡神社
東八幡神社は、粕壁宿の鎮守。誉田別尊(第15代応神天皇)を祀る古社で、京都「男山」に鎮座する「岩清水八幡宮」から分霊を歓請し、氏神としてお祭りしたもとと伝えられる。 -
東八幡神社の狛犬
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東八幡神社
大杉神社、弁財天、雷電神社、浅間神社などの境内社がある。 -
東八幡神社
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東八幡神社
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【相撲力士、三の宮卯之助の力石碑】(東八幡神社境内入口付近)
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【東陽寺】
宿並の右手に曹洞宗医王山東陽寺があります、山門脇に伝芭蕉宿泊の寺碑があり、
本堂前(フォト右下)には曽良旅日記の一節「廿七日夜カスカベニ泊ル江戸ヨリ九里余」が刻まれた碑(曽良旅日記碑)があります。
松尾芭蕉が泊まった寺として知られている
山門横には「伝芭蕉宿泊の寺」との石柱があった
奥の細道では草加に泊まったことになっているが随行した曽良の日記には粕壁となっている
境内にの石碑(写真の下部階段横)には
「二七日夜カスカベニ泊ル 江戸ヨリ九里余」
と曽良の日記の一節が彫られてあった
(埼玉県春日部市粕壁東) -
東陽寺正面階段の横に、芭蕉句碑
”二十七日夜、粕壁に泊まる。江戸より九里余”を刻む。
元禄2年奥の細道の旅時で、粕壁に宿泊したという記念碑。 -
東陽寺の入口。我々は裏から入り、ここに出る。
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春日部市郷土資料館にて
旧宿場の模型あり。
【「郷土資料館 緑町2】
粕壁の町は宿場町(しゅくばまち)として栄え、江戸時代終わりごろには粕壁宿
(現在の粕壁地区の範囲)には3700人余の人々が住み、773軒の家々が軒を連ねていた。宿場町では、通行者に馬や人を提供したり、本陣・脇本陣や旅籠など宿泊施設が整えられた。参勤交代の大名や、松尾芭蕉などの多くの旅人が日光道中を通り、粕壁宿で休泊しました。常設展示では、江戸末ごろの粕壁宿推定模型や道しるべ、河川工事や宿助郷に関する古文書などを展示している。
【粕壁宿】 日本橋から9里2町(35.6Km)、鉢石へ27里1町20間(106.2Km)
宿内人口:3,701人、総戸数:773軒(本陣1・脇本陣1・旅籠45)
粕壁宿は、現在の春日部大通りにあたり、江戸日本橋から千住、草加、越谷(越ヶ谷町と大沢町)に続く日光道中4番目の宿場町でした。
江戸からの距離は9里2町(約35.6Km)、宿場内の通りの長さは24町35間(約2.7Km)、道幅約5間((約9m)でした。町並は通りに沿って南北10町25間(約1.1Km)にわたり、天保14年(1843)ごろには家数773軒、人口3,701人を数えました。
宿場は、公用の出張者が利用する馬や人足を、乗り継いで交代するための場所として、諸街道に設けられた町です。また、大名や日光門主が利用できる宿泊施設が整っており、公的な書類の飛脚業務も行っていました。粕壁宿には人馬の手配など行う問屋場が1ヶ所あり、宿泊施設である本陣と脇本陣が各1ヶ所ありました。一般旅客も泊れることができる旅籠は45軒でした。
粕壁宿から日光・奥州方面へ向かうと、杉戸、幸手、栗橋と宿場町が続き、房川渡中田関所(栗橋関所)を通って利根川を渡り、対岸の中田宿(現茨城県古河市)へ至ります。
春日部市郷土資料館のパンフレットより
春日部の地名の起こりは、大きな謎につつまれています。今から1400年以上昔、大和時代の安閑天皇皇后春日山田皇女らの私有民(部民・べのたみ)が居た、御名代部(みなしろべ)であったといい、また、水の浸かった土地カスや、川のほとりカワベなど、地形を表す言葉から起こったとする説があります。平安時代末には、紀氏の一族が土着し、春日部氏を名乗りました。
地名の漢字表記では、南北朝時代の春日部が古く、その後戦国時代に糟ケ邊、糟壁と変化し、江戸時代中ごろ以降は、粕壁と書かれるようになりました。
昭和十九年(1944)粕壁町と内牧村の合併により、春日部となります。 -
あs
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【問屋場田村本家】
蔵造りの商家。歩道に道標がある。 -
【田村本家前に建つ粕壁道標】
「西南い八つき」「北日光」「東江戸右乃方陸羽みち」天保5年(1835)2月の道標。当初は寺町入口の高札場付近に置かれていた。 -
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商店のシャッターに描かれた絵柄
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【永島庄兵衛商店】
慶長年間(1596~1615)慶長年間(1596~1615)創業で19代続く米穀問屋永嶋庄兵衛がある。屋根には魔除けの鍾馗様が飾られている。玄米問屋として営業を開始。以来、代々営業を引き継 -
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【最勝院】
信義真言宗智山派華林山最勝院慈恩寺があります、慶安元年(1649)十五石の朱印状を拝領した御朱印寺です。
日光東照宮に移葬される徳川三代将軍家光の亡骸が仮安置されました。
境内に春日部重行公古墳があります、南朝の臣として後醍醐帝に仕え、春日部で挙兵し建武元年(1334年)新田義貞と共に北條氏を鎌倉に滅ぼし建武の中興の大業を成し遂げました。
その後、反旗を翻した足利尊氏と京で戦い、延元元年(1336年)戦に敗れ自刃ました、長子家縄が遺骨を携えて帰郷し 最勝院に墳を築きここに葬りました。
【最勝院】粕壁3-9-20
「御朱印高拾五石」「往還より壱町程引込有レ之、手狭也」(日光・奥州・甲州道中宿村大概帳)
延元元年(1336)春日部治部少輔時賢(春日部重行)は北朝側の足利尊氏軍と
京都鷺の森で戦うが敗北し自刃した (延元の乱)。遺骨は長男の家縄が春日部に
持ち帰り最勝院へ埋葬した。三代将軍徳川家光の遺骸を一時安置。
明治26~30年千住馬車鉄道の終点となる。 -
参道
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【最勝院】
最勝院は、信義真言宗智山派の寺院で、華林山最勝院慈恩寺という。最勝院のあるこの付近は、粕壁でも寺町と呼ばれていて、最勝院のほか、妙楽院、成就院、玉蔵院、普門院などの寺院が集まっていて、往時の粕壁の面影を遺している。
最勝院の本堂西の墳丘は、春日部重行を葬ったものといわれている。
春日部重行は、南朝の臣として後醍醐帝に仕え、元弘の乱などに功を成したことなどより、上総の国山辺南部とこの春日部の地頭職を任ぜられたが、のちに、足利尊氏の軍勢と交戦し、敗れ、京都修学院鷺の森で自刃したといわれる。その後、重行の遺骨は最勝院にもちかえられ、境内に葬ったものといわれている。
明治時代この最勝院は、粕壁小学校(明治五年)や粕壁税務署(明治四十二年)などに利用され、広い境内は大相撲の地方巡業やサーカス、村芝居の興行、各種の武道大会等にも利用された。
また、明治二十六年に粕壁から越谷、草加を経て足立区千住までも結んで開業した千住馬車鉄道は、この最勝院を起点としている。
昭和六十一年三月 埼玉県 春日部市 -
春日部重行は、南朝の臣として後醍醐帝に仕え、元弘の乱などに功を成したことなどより、上総の国山辺南部とこの春日部の地頭職を任ぜられたが、のちに、足利尊氏の軍勢と交戦し、敗れ、京都修学院鷺の森で自刃したといわれる。その後、重行の遺骨は最勝院にもちかえられ、境内に葬ったものといわれている。
【春日部重行公御霊古墳の記】
南朝の忠臣贈従四位春日部重行公は逆臣北條高時の専横極まるところ 恐れ多くも後醍醐帝は隠岐に遷され給い王業の光正に淡きを嘆ずる時 護良親王の令旨を奉じ勤皇の義兵を春日部に挙げ 建武元年(1334年)新田義貞を共に鴟張(しちょう)の賊北條氏を鎌倉に滅ぼし建武の中興の大業を成す。
更に足利尊氏の反旗を翻して九州より東上するや大儀の血潮渾(さかん)に燃えこれを京に迎え撃つ然れども南風遂に競わずして戦時に利あらず延元元年(1336年)六月三十日鷺の巣において恨み深き自刃を遂ぐ。其の長子家縄遺骨を携えて帰郷し 最勝院に墳を築き此処に葬る。
大正七年(1918年)其の功を嘉し 特旨を以て従四位を贈らる。 -
【小淵の一里塚碑】(春日部市小淵)
江戸日本橋より数えて九里目です。
傍らには天保三年(1832年)建立の庚申塔 -
【関宿道追分の道標】
Y字路は関宿往還追分です、この分岐点には二基の追分道標があります。
右の道標は宝永六年(1709年)建立で「右方せきやど道 左方あふしう(奥州)道」と刻まれています。
左の道標は宝暦四年(1754年)の建立で正面「青面金剛」左面「左日光道」と刻まれています、関宿へは四里八町の道のりでした、関宿は下総國関宿藩の城下町で歴代譜代大名が藩主を勤めました。 -
【杉戸宿関口酒造】
豊島屋/関口式右衛門邸
豊島屋は現在屋号を関口酒造とし、文政5年(1822)創業。祖先は今川義元の養女になり、?川家康の正室にもなった築山御前ガおられるという。一族は桶狭間の戦いのあと、現在の町東端に移り住んだそうです。清酒「杉戸宿」がある
創業文政5年(1822)銘酒「杉戸宿」の蔵元である関口酒造(旧屋号豊嶋屋)がある。祖先には今川義元の養女になり、徳川家康の正室にもなった築山御前がいる。一族は桶狭間の戦いの後、現在の町東端鷲巣に移り住んだという。
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関宿往還追分、左日光道中に進みます。
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