2013/02/16 - 2013/02/16
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tsunetaさん
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2月16日、午後0時頃、笑山寺より功山寺にやってきた。功山寺は今回の下関・長府城下町訪問の目玉の一つである。
というのは功山寺は高杉晋作が伊藤俊輔(博文)らを率いて挙兵したところであるから。すなわち、維新のはじまりである。 その歴史的な高杉晋作の回天義挙像が功山寺境内に建てられている。
このほかに功山寺仏殿は鎌倉時代に創建されて我が国最古の禅寺様式を残しており、国宝とされている。
またここは、毛利元就に追われた大内義長が自刃した場所でもある。
*写真は高杉晋作回天義挙像
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功山寺の総門前
「国宝仏殿開扉と秘宝展」の案内がされていた。
【拝観期間】
2012年〜2014年
春期:3月15日〜6月15日
秋期:9月15日〜12月15日
【拝観時間】
9時30分〜16時30分(最終受付)
【仏殿拝観料】
一般/500円 (団体20人以上:400円)
仏殿・法堂・書院等の総合拝観:一般/700円
(※小・中学生は無料) -
曹洞宗 功山寺
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高杉晋作回天義挙したところ
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上の碑の解説
功山寺は明治維新の策源地であると・・・ -
功山寺総門
国の登録有形文化財 -
国の登録有形文化財として登録される
平成16年7月23日 -
功山寺・・・説明文による
曹洞宗。嘉暦二年(一三二七)の創建。当初は臨済宗で金山長福寺と称し、足利氏、厚東氏、大内氏など部門の尊敬あつく隆盛を誇ったが、弘治三年(一五五七)大内義長がここに自刃、この戦乱によって一時堂宇の荒廃をみた。
その後、慶弔七年(一六〇二)長府藩祖毛利秀元が修営、旧観に復し、曹洞宗に転宗した。二代藩主光広が、秀元公の霊位をこの寺に安置して以来、長府毛利家の菩提寺となり、秀元の法号、智門寺殿功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改称した。
現在の仏殿は、元応二年(一三二〇)の建立で典型的な鎌倉期禅宗様式として国宝に指定、十代藩主匡芳の時、当地工匠の作による山門は市指定文化財となっている。
その他境内には、県文化財の木造地蔵菩薩半跏像をはじめ、大内義長の墓と伝えられる宝篋印塔、五卿西下潜居の間、高杉晋作挙兵の処など数々の史跡や文化遺産が残されており、境内地(付、伝大内義長の墓)も記念物として市文化財に指定されている。 -
参道の素晴らしさ
功山寺総門をくぐると、そこは別世界である。
参道は木々に覆われて静かであり時は止まったような錯覚を覚える。参道から見上げる山門の壮麗さ、山門を通して見る国宝の仏殿の姿が何とも言えない美しさがあった。 -
参道横には木造地蔵菩薩半伽像がある。
山口県の指定文化財である。 -
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参道から見上げる山門
下関市指定文化財(建造物)
功山寺山門
指定 昭和四十五年三月四日
この壮大な二重櫓造りの功山寺山門は、安永二年(一七七三)長府藩主 十代 毛利匡芳の命により建立(再建)されたものです。
山門(三門)とは、本堂へ入るのに通らねばならない門、三解脱門(空(くう)・無相(むそう)・無作(むさ))にたとえ、その略からといわれています。禅宗の門にみられる三間三戸二重門。二階楼上に釈迦・十六羅漢を置くのが普通ですが、この櫓の中には市指定文化財(彫刻)の二十八部衆立像が、国宝の仏殿の中から移られて安置されています。 -
功山寺山門
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功山寺山門
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功山寺山門
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功山寺山門
下関市指定文化財(構造物) -
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功山寺山門
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功山寺山門
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功山寺山門
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功山寺山門
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功山寺仏殿・・説明文による
寺伝に嘉歴2年(1327)創建、仏殿南側来迎柱の上部に「此堂元応2年(1320)卯月5日柱立」とあり、鎌倉時代末期に建立された典型的な唐様建築(禅宗様)です。
方3間の身舎(主屋)に裳階をつけた入母屋造り、檜皮葺きの屋根はみごとな曲線を描き、上昇感が抑えられた安定した美しい姿を見せる。外廻りの組物は詰組で屋根を支える化粧垂木は放射状に広がり、内陣は丸山晩霞が石楠花を描いた鏡天井、床は四半瓦敷きで木製の礎盤の上に粽型の槙材の柱列が並び、本尊の千手観音像を安置する。扁額「金山」は後醍醐天皇の勅額という。 -
功山寺仏殿
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功山寺仏殿
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功山寺仏殿
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功山寺仏殿
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法堂
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功山寺輪蔵
仏殿、左隣の法堂の向かいに一切経を納めた輪蔵があります。
扉の間から中の経本等が少し見えます。
功山寺境内に建つ土蔵造りのこの建物は輪蔵(経蔵)と呼ばれ、五・四五メートル(三間)四方、面積二九・七平方メートル。屋根は宝型造りで桟瓦葺きで、中央尖部互の露盤には、蓮弁様縁取枠内に一文字三つ星の毛利家紋が浮き彫りされています。 -
功山寺輪蔵の説明
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一文字三つ星の毛利家紋が見られる
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高杉晋作の回天義挙像
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高杉晋作の回天義挙像
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高杉晋作の回天義挙像の解説
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高杉晋作の回天義挙像
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高杉晋作の回天義挙像と鐘楼
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功山寺名水由来
功山寺は長府の名刹として元応二年に創建されました。豊かな水脈よりこんこんと湧き出る地下水は絶えることなく、長府と寺の興廃の歴史を見守って壇具川へとそそいでいます。特に国宝仏殿の周辺は湧水が多く、病災消除、延命の名水として昔から多くの参詣の善男善女に愛飲されました。
武運つたなく動乱の中滅亡した大内義長が末期の安堵を得た水、幕末に功山寺に潜伏中の五卿や従者、回天義挙の兵をあげた高杉晋作始め諸隊士もこの名水を愛飲して挙兵の成功を祈られました。
いまもこの名水は絶えることなく歴史の生き証人として、又生命の水として、参拝に訪れる多くの人々に飲まれています。
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七卿潜居由来
文久3(1863)年8月の政変によって朝議は公武合体の方針をとり、尊攘派の長州は皇居護衛の任を解かれ、ために三条実美ら尊皇派の七卿を奉じて山口に帰った。
翌元治元年第一回長州征伐の恭順講和の条件として当時五卿となっていた三条卿らを大宰府に移すことになった。その11月17日はやむなく諸隊に護られて一旦長府に移り功山寺書院に2ヶ月滞在して大宰府に移った。12月15日の夜、高杉晋作は五卿を潜居の間に決意を述べ義兵をこの門前に挙げた。 -
仏殿の後ろに毛利家の墓所がある。
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更に後ろの方には坂本龍馬と一緒に行動した三吉慎蔵の墓所がある。
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三吉慎蔵の墓所
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坂本龍馬を助けた長府藩家老の三吉周亮の墓所がある。
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大内義長の墓
大内家31代の大内義隆は重臣 陶晴賢の反逆により1551年に自害した。
陶晴賢が再興した大内義隆の甥である、大内義長も1557年に毛利元就の軍に追われ、ここ功山寺で自害した。 -
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大内義長の墓
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坂本龍馬を政治的に支援した長州藩士 豊永長吉
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豊永長吉の墓所
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功山寺墓地の隣に建っている下関市立長州博物館は郷土の歴史博物館で中には長府毛利家の遺品や幕末維新資料及び坂本龍馬が愛用した飯碗と湯呑がある。
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万骨塔
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下関市立長府博物館には数々の歴史的遺品がある
大内家遺品、長府藩主毛利家遺品
長州藩が関門海峡を舞台に欧米列強と戦った下関戦争の資料。
奇兵隊の設立・功山寺挙兵で著名な高杉晋作、下関を政治・経済活動の拠点とした坂本龍馬など、幕末の志士達の遺墨・遺品。
禁門の変で都落ちした三条実美以下七卿の遺墨・遺品。
高杉を物心両面から援助するとともに自らも志士活動に身を投じた白石正一郎の資料。
長府藩で結成された報国隊や、倒幕運動の分岐点となった四境戦争(第二次長州征伐)に関する資料。 -
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