2012/05/11 - 2012/05/11
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frau.himmelさん
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ヨーロッパ現代史の十字路。
これは今回私が参考にした本のサブタイトルです。
まさに歴史に興味のある人にとってベルリンはこの上なく面白いところ。
プロイセン王国、ナチスによる支配、世界冷戦に伴う東西ドイツ分割、壁崩壊とドイツ統一などなど。
何度訪れても、これで満足と思ったことはありません。
また今回もやってきました。
さて、今回はテロのトポグラフィーの前に立って歴史のお勉強をいたしました。
それと、東ベルリン労働者が蜂起した6月17日事件記念碑を取り上げます。
いつも重たい話題ばかりで申し訳ありません。
せっかく旅行するなら歴史を踏まえた旅をしたい、数年前からです。
歴史本を読んだり、ネットで探したり、またはドイツ語の説明書きを辞書を片手に読み解いたり…、楽しくて時間がいくらあっても足りません。
でも所詮、俄か老歴女のお勉強の域でしかありません。
間違い勘違いは指摘してくださると私も励みになります。
どうかよろしくお願いいたします。
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-
U6のコッホシュトラーセ駅から地上に出ました。
地下鉄の案内にはチェックポイント・チャーリーとあります。 -
そう、ここの右側にチェックポイント・チャーリーや壁博物館があります。
観光客が大勢です。 -
私はそれらに背を向けて、左側に曲がります。
-
コッホシュトラーセの突き当たり、ヴィルヘルムシュトラーセに入ると歴史案内の説明版が見えてきました。
この冷酷そうな人物は良く見かける顔です。
ナチス親衛隊大将のラインハルト・ハイドリヒ(1904-1942)。
そしてここヴィルヘルム通り102番地には、1928年まではプロイセン国のプリンツ・アルブレヒトの宮殿がありました。 -
今は更地になっています。
-
更に進むと右手に気球乗り場。
ここから、1人19ユーロくらいで気球に乗って、ベルリンの空中散歩が出来るそうです。 -
左手にはテロのトポグラフィーと。
テロ(恐怖政治)の地誌?
んー、難しい、なんて訳せばいいのだろう。
ここにはナチスの恐怖政治時代、国家秘密警察(ゲシュタポ)と親衛隊(SS)、国家保安本部の中央本部が設置されていました。 -
第二次世界大戦の後、ちょうどここを境に東西ベルリンに分断されました。
左が西ベルリン、右が東ベルリン。
この壁は今でも残っている数少ない本物の壁です。
壁が崩壊したあと、みんなが記念に削り取って持ち帰りましたので、今は中に入れないように柵で囲まれています。
この壁は200メートル続いています。
右手には大勢の観光客の姿が見えます。 -
さて、壁の左の部分。
ここにあった建物は大戦の空爆で崩壊しました。
その遺構を利用して、現在は第三帝国の恐怖政治時代の写真などが展示してあります。
奇しくもここは、ヒトラー独裁政治の時代と東西の壁分断時代、2つの歴史を同時に体験することが出来る場所なのです。 -
当時の建物の配置図です。
右側が今私が通ってきたヴィルヘルム通り、図面上がプリンツ・アルブレヒト通り(今はニーダーキルヒナー通り)、ここに現在は壁が立っています。
壁の手前に国家秘密警察(ゲシュタポ)と親衛隊(SS)、国家保安本部の中央本部などがおかれていました。 -
掘り起こされた遺構。
地下にはゲシュタポによって逮捕された反ナチ活動家、ユダヤ人、シンティ・ロマ、同性愛者などの牢獄があったそうです。 -
東西分断の壁の下にそって遺構がずーっと続いています。
この壁面にかけられたパネルや写真によって、ナチスの時代の歴史を勉強していきます。 -
熱心に展示物に見入っている人たち。
みなさん驚くほど真剣です。 -
まずはこの通りの歴史がいくつか特別に説明してあります。
左:国家保安本部長官、ラインハルト・ハイドリッヒが暗殺され、埋葬の列がヴィルヘルム通りを通過したとき別れを惜しんでいる市民たち。
右:プリンツ・アルブレヒト宮殿 -
右:1948年、空爆されて廃墟となった帝国航空省(?)
左:ルドルフ・ヘス、ハインリッヒ・ヒムラー、カール・ヴォルフなど名だたる将軍達がダッハウ強制収容所を訪問した(1936年5月) -
ここは基本的にヒトラーが政権をとった1933年から1945年の歴史が展示してあります。
-
どうしてドイツ国民は恐怖政治を許したのか、その前のワイマール共和国時代に遡って勉強しなければなりません。
第一次世界大戦の敗北によってドイツは共和制に移行しましたが、ヴェルサイユ条約での余りにも過酷で莫大な賠償金の支払いにより、驚異的なインフレに陥ります。
政府がとった策は通貨を増産すること。
これで莫大な賠償金を支払い、その上アメリカなどの援助で、その後ドイツは反対に好景気に転じます。 -
ベルリンはヨーロッパ最大の産業都市となり、経済は最高潮。
いわゆる「黄金の20年代」といわれる華やかな時代を迎えます。
写真右:ベルリンでは、演劇、音楽、絵画などの芸術が花開きます。
しかしこのような黄金期は1929年の世界恐慌で終焉を迎えることになります。(写真左) -
1929年世界大恐慌で、ベルリンでも失業者は増大し、国民生活も激しく疲弊しました。
写真は、仕事を求めて押しかけている市民やストライキをやっている労働者達。
そんな政局が不安な時期に躍り出たのが、ヒトラー率いるナチス党。
1930年の総選挙でナチスは大躍進しました。
上の写真はベルリン市内をナチスの党員が闊歩しているところ。 -
国民は強力なリーダーを求めていました。
党首のヒトラーは1933年、ついに首相の座を手に入れます。
写真はアドルフ・ヒトラーと、右はヒトラーの強力なパートナー、宣伝相ゲッペルス。 -
ヒトラーは首相に就任するとすぐ、ドイツの高速道路網アウトバーンを整備するための公共投資を行いました。
これによりドイツの失業率は激減しました。
また、安価な大衆車を製造することにより、労働者は高嶺の花だった車を持てるようになり購買意欲も高まりました。 -
ますます、ヒトラー人気は高まるばかり。
その頃、ヨーロッパではユダヤ人の評判は悪く、人々の不満のはけ口になっていました。
ヒトラーはそういう国民の感情をうまく利用して、反ユダヤ主義を取り入れ、国民の支持を得ます。 -
1935年、ニュルンベルク法の制定で、ドイツ国内に住むユダヤ人を公職から追放し、経営権を剥奪、財産を没収することが認められました。
一般国民の間にも、ユダヤ人への差別はなお一層激しくなっていきました。
こうした迫害の中、作家トーマス・マンや物理学者アインシュタインなどがドイツ国外に逃亡しました。 -
1936年、ベルリンで第11回夏季オリンピック大会が開催されます。
ヒトラーはこのオリンピックをもプロパガンダとして利用しました。
IOCが危惧していたユダヤ人問題は、オリンピックの期間中だけ差別や迫害を緩和して、目に見えないように隠していました。 -
1933年に国際連盟を脱退し、国際的な孤立を深めていたドイツは、1936年同じく国際連盟を脱退したムッソリーニ首相率いるイタリアや、日本との間で三国防共協定を結びました。
防共とは、反共産主義のこと。
日独伊三国はファシズム体制により国際的に更に孤立を深めていきました。
写真下:ヒトラーとムッソリーニ首相 -
それに先駆けて1936年11月25日、国際連盟を脱退していた日本とドイツの間で日独防共協定が結ばれた。
調印したのは当時駐独大使だった武者小路公共。 -
1938年、ヒトラーの出生地であるオーストリアを併合することに成功した。
併合調印後ベルリンに帰ってきたヒトラーを歓迎している群集。 -
1939年ドイツのポーランド侵攻により、ポーランドと安全保障協定を結んでいた英仏が独に宣戦布告。
第二次世界大戦に突入しました。 -
1940年、周りの国をことごとく降伏させたドイツ軍は、ついにフランスの首都パリをも占領。
右下の写真はヒトラーがパリ凱旋からベルリンに帰り、市民に熱烈な歓迎を受けているところです。 -
第二次世界大戦が始まるとユダヤ人に対する迫害もより過酷になりました。
ユダヤ人は全て強制収容所に送られました。
その中で、ユダヤ人女性ステラ・キュブーラーはベルリン在住の、アーリア人の容姿を持つ美女。
ベルリンに潜むユダヤ人をゲシュタポに密告することで、自らの身の安全を保障されていた。
ゲシュタポの操り人形となったステラに、同胞ユダヤ人からは「ブロンドの悪魔」と恐れられていました。 -
ヴァンゼー会議でユダヤ人の最終解決が決まられたのもこの頃。
上の3名、ラインハルト・ハイトリッヒ(治安警察・親衛隊本部長官・親衛隊長)、
ハインリッヒ・ミューラー親衛隊中将(国家保安本部)、
アドルフ・アイヒマン(親衛隊中将(国家保安本部)はこの会議に出席していました。 -
このようなナチスやヒトラーの恐怖政治に疑問を投げかける人も出てきました。
ナチスに抵抗して、ヒトラーの暗殺を計画した人は何人もいましたがことごとく失敗に終わりました。 -
そのの中で最も有名なのはフォン・シュタウフェンベルクら軍人によって計画されたクーデター計画「ワルキューレ作戦」。
ヒトラー暗殺が未遂に終わったシュタウフェンベルクら反乱側は、ベルリンに集結してクーデターを図ろうとしますが、警護大隊長オットー・レーマー少佐の裏切りで失敗します。
写真左下:フォン・シュタウフェンベルク、
右:オットー・レーマー少佐 -
戦況は悪化し、首都ベルリンは度々空襲に曝されます。
写真:崩壊した建物や、ガスマスクをつける訓練をしている子供達。 -
ドイツの敗戦で戦争終結。
ヒトラーは自害し、ベルリンの街は徹底的に爆撃にあいました。
焼け野原になったベルリンの街。 -
敗戦後のドイツは、英仏米ソの四大国で分割占領されることになりました。
その後、米ソ2大国の対立が表面化し、世界は冷戦時代に突入。
ドイツは東西に分断され、西ベルリンは壁によって完全に封鎖され、陸の孤島になりました。
陸路を絶たれた西ベルリン市民は、日々の生活物資にも深刻な影響が出るようになりました。 -
しかし、陸路がダメなら空路によってベルリン市民の生活を維持すべきだと決断した西側諸国は、飛行機で生活物資および燃料などを輸送しました。
なんとそれらの飛行機は3分に1本の割合で、テンペルホーフ飛行場に到着したというから、冷戦の中心となったベルリンに西側諸国が面子をかけて力を入れていた様子が窺い知れます。
写真:1948年6月テンペルホーフ飛行場に物資を積んで到着した西側の飛行機。 -
以上つたない私のお勉強を終わります。
ここにも食い入るようにパネルを熱心に見ている人がいます。 -
ここはベルリンの観光の重要なスポット、観光バスが何台も乗り付けています。
-
トポグラフィーの横は、マルティン・グロピウス・バウ博物館。
元国立装飾美術館でした。 -
ベルリン空爆で全壊した建物はその後復元されました。
私の持っているベルリンミュージアムカードでここにも入場できましたが、何しろ見るべきところが多すぎます。
体力の消耗を考えてパスしました。 -
博物館の正面の気味の悪い彫像。
一瞬コルヴィッツの作品かと思いました。 -
角を曲がってニーダーキルヒナー通りに出ました。
この立派な建物は、ベルリン州議会議事堂だそうです。 -
その前に立っているこの立派なお方は?
…わかりません。 -
ベルリンの壁に沿ってなおも歩いていると、面白いオブジェを見つけました。
ニーダーキルヒナー通りには1961年8月13日に壁が築かれました。
1989年11月に壁の崩壊を記念して募集されたオブジェらしいです。 -
ここにも。
何を意味するのか。
カラフルなオブジェが、今まで重苦しいパネルを見た後には一服の清涼剤。 -
ヴィルヘルム通りをライプティガー通りの方に向かって進みます。
左側は官庁街の巨大なビル。
1935年にナチスドイツのヘルマン・ゲーリンクが帝国航空省として建てさせたものだそうです。
現在も官庁として使われています。 -
そう、この建物は今は連邦財務省として使われています。
-
財務省の壁には、今でも社会主義時代の壁画が残っています。
-
東ベルリン時代の様々な職種の労働者。
みんな明るい表情です。 -
若者も子供もみんな楽しそうです。
-
労働者も一致団結して明るい社会主義国家を築こう!!
そのはずでした…。 -
1953年6月17日、この旧帝国航空省ビル前の広場に大勢の労働者が押しかけました。
これは東ドイツ政府が発表したある決定によって、労働者の不満が一気に爆発したものでした。
労働者のノルマを10%引き上げ、ノルマに達しないものは厳しい処置をとるというものでした。 -
まず火の手をあげたのは、東ベルリンの目抜き通りスターリン通りで道路工事をしていた労働者。
工事は資材不足のため度々中断、そのたびごとに賃金をカットされていた建設労働者たちが、6月16日にストに突入。
その後数時間のうちにデモ参加者は1万人にものぼり、この中央政府ビルに押し寄せました。 -
労働者が求めるのは労働ノルマ改善だけではなく、東ドイツ首脳の退陣をも要求しました。
このデモは東ベルリンだけに留まらず、全国で40万人とも150万人ともいわれる人々が抗議デモに参加しました。
そして、一部は暴徒と化しました。 -
ソ連占領軍の傀儡に過ぎない東ドイツ政府は、ソ連軍に助けを求めます。
暴動が起きた地域には、ソ連の戦車部隊と多くのソ連兵が出動しました。
ポツダム広場でもデモ隊が戦車に石を投げて抵抗、多くの死傷者を出して、暴動はソ連軍によって鎮圧されました。 -
「6月17日事件」と呼ばれるこの暴動、
社会主義国家で初めて発生した労働者蜂起は東ドイツ国家にとっては強い衝撃でした。
ナチス時代には暴動を起こさなかった労働者が、社会主義政権には公然と不満を口にして立ちあがったからです。 -
今、この広場には6月17日の大きな記念プレートが設置されています。
-
西ドイツの首相は、多数の死者に対する哀悼の意を表し、ブランデンブルク門から西に延びる道路を6月17日通りと命名しました。
そして、その日は西ドイツの休日にすることを決定しました。 -
60年前、多くの東ドイツ労働者が抗議行動をおこしたライプティーガー通り前のこの広場、
今は多くの観光客が押しかけています。
あるものは徒歩で、あるものは観光バスで、またセグウェイに乗って走りすぎて行きます。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- mistralさん 2017/08/07 23:06:18
- テロのトポグラフィー
- himmelさん
こんばんは。
なかなかベルリンの旅行記の完結に至らず
投げ出したい気分になったり、、、しています。
たどってきた歴史を知れば知るほど
深みにはまってしまっております。
テロのトポグラフィー、、、?
日本語の訳も難解!
ネットで検索しましたら、himmelさんの
旅行記がヒットしました。
やはり私にはバイブルです。
一言お礼を申し上げたくコメントを残させて
いただきました。
mistral
- frau.himmelさん からの返信 2017/08/09 21:46:08
- RE: テロのトポグラフィー
- mistralさん、こんばんは。
毎日暑いですね〜〜!
> なかなかベルリンの旅行記の完結に至らず
> 投げ出したい気分になったり、、、しています。
いやいや投げ出さないでくださいよ。楽しみに待っているのですから。
mistralさんは、じっくり調べて旅行記をお書きになる方なのですね。
やはりそういう方の旅行記は重みが全然違うと思います。
> たどってきた歴史を知れば知るほど
> 深みにはまってしまっております。
本当におっしゃるこの意味よくわかります。
歴史を知れば知るほど、これも取り上げなければと、間口がどんどん広がっていき収拾が付かなくなってしまうのですね。
「テロノトポグラフィー」、投票ありがとうございました。
検索したらヒットしたとのことでしたので、今しがたグーグルで確かめてみました。
あら、恥ずかしい。私の拙い旅行記が3番目にヒットするのですね。
あの時は無我夢中で、いろいろ調べてあの旅行記を仕上げましたが、今はもうそんな情熱はなくなりました。
たまにしかこちらも開けてみないので、皆様にも不義理ばかりしています。
ベルリン編、お待ちしています。
私もですが・・・(笑)
himmel
-
- norisaさん 2013/01/25 09:36:39
- 教科書
- frau.himmelさん
なるほど、この旅行記を読めば近代ドイツの歩んだ動乱の時代がわかりますね。
日本も明治維新以来激動の歴史でしたが、ドイツに比べれば三分の一くらいのような気がしてきます(超独断)
彼らの方が周辺国は多いし、内部にもユダヤ人が多数住んでいて複雑だったためなのか、他の理由なのかーーー。
旅は物理的にも精神的にも続きますね、お互いーーーー。
norisa
- frau.himmelさん からの返信 2013/01/25 22:20:34
- RE: 教科書
- norisaさん こんばんは。
>この旅行記を読めば近代ドイツの歩んだ動乱の時代がわかりますね。
もおー、恥ずかしいー。
同じ頃アップなさったNorisaさんの旅行記、同じ歴史を扱っているのに、
あれを拝見したら、恥ずかしくて穴があったら入りたいくらいでした。
尾張名古屋の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら、あヨーロッパもありましたね。
同時代性、理路整然と紐解きされていてお見事でした。
私のはただ単に、パネルを時代順に並べただけ。
この雲泥の差!
私にもnorisaさんの頭脳と文章力をほんのちょっとでいいから分けてーーーーーー!!
それはともかくとして、ユダヤ人問題って根は深いんですね。
島国の私達には理解できない問題だと思いました。
himmel
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