2012/12/29 - 2013/01/03
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kazuuzooさん
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2012年12月29日:ワルシャワ−クラクフ
2012年12月30日:クラクフ−アウシュビッツ−クラクフ
2012年12月31日:クラクフ
2013年1月1日:クラクフ−リビブ
2013年1月2日:リビブ
2013年1月3日:リビブ−ワルシャワ
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 飛行機
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
2012年の年末、ひょっとすると最後のヨーロッパかもということで、冬に日本からいけないところに行きたいと思って決めたのがポーランド、ウクライナ。
もともとアウシュビッツは冬に訪問したかったし、ウクライナもなかなか日本からは無理と言うことでこのルートにしました。
スタートはワルシャワ。1年半ほど前に訪れましたがやっぱり夏と冬とは雰囲気がちと違う。でも雪が積もっているかと思いきや、全く雪も無く暖かい!
ワルシャワ中央駅で無事クラクフまでのチケットも買っていざクラクフへ移動です。 -
6人乗りのコンパートメント。一緒になったのはイギリスで働いているポーランド人。何でもこの列車の終点、ザコパネまでスキーで2週間滞在するのだそうです。2週間!ちょっとうらやましい...
うとうとしていたら一緒のポーランド人が景色がきれいだって起こしてくれました。早速パチリ。夕日がきれいでした。
また明日も天気だったらいいなぁ〜。 -
ワルシャワを出て3時間強、クラクフの駅に到着です。
この日は宿でチェックインしてのんびり。明日に備えます。 -
翌朝、天気は良好!
クラクフの駅からバスに乗り込みアウシュビッツにやってきました。 -
早速アウシュビッツを見学開始です。
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アウシュビッツの入り口にあるARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)と書いてある門を抜けてアウシュビッツの施設へと進みます。
この碑の"B"の字が上下大きさが逆なのは作成者のささやかな抵抗だと言われています。
ちなみにこの碑、実は最近作られたもの。マニアに盗まれたりしたこともあったそうです。 -
門の部分を除いて基本的には電流の流れた有刺鉄線で施設内は区切られています。
あまりの苦しさにこの有刺鉄線で自殺を試みた人も居たそうです。 -
門を入ってすぐにある煙突がたくさん立っている建物、アウシュビッツの施設の厨房だったそうです。暖かいとはいえポーランドの冬の朝、芝生には霜がはっていました。
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この厨房の横の壁、ここの前ではオーケストラが毎朝マーチを演奏していたそうです。
アウシュビッツの施設に強制収容されていた人たちは昼間は施設外で労働を強いられていました。
少しでも鼓舞するため、ということで入り口の脇のこの場所でオーケストラによるマーチが演奏されていたそうです。
この楽団のメンバーもここに連れてこられた人。生き残った人の中には、ここで演奏したトラウマでその後楽器を持つことすら出来なかったそうです。 -
アウシュビッツの施設内に一部他の建物と有刺鉄線で隔離された施設があります。
ここはソ連軍の捕虜の施設だったそうです。ソ連軍はビルケナウの第2収容所の建設を担当していたそうです。 -
写真の建物、1階と2階で色がちょっと違うのが分かるでしょうか?
アウシュビッツははもともとポーランドの政治犯の収容所として建設されました。
当初建設された20棟のうち14棟は1階建てでしたが収容者の増加によって後に収容された人々の手で2階建てに増築されたそうです。
ナチス・ドイツが選民主義に基づき、多くのユダヤ人、ロマ人、そして体に障害のある人、同性愛者などが収容されるようになると、アウシュビッツだけでは収容できなくなり、第2収容所、ビルケナウが計画、建設されました。 -
アウシュビッツの場所が選ばれた理由、それはヨーロッパ各地からの鉄道網がしっかりしていたこと。北はノルウェー、南はギリシャ、西はフランスと各国からアウシュビッツへと人々が移送されてきましたがどこからも1500−2000km。
続いて土地があったこと。
ナチス・ドイツはこの選民計画を国際社会から隠れて秘密裏に行いたく、アウシュビッツは秘密裏に計画を進めるのに都合の良い場所だったのだそうです。 -
アウシュビッツ/ビルケナウに送られてくるユダヤ人などには永住の地が待っているといった宣伝がなされていました。東欧を永住の地としてナチス・ドイツから土地を買って来た人、そして切符を買ってきた人もいたそうです。
みんな移住を考えてますので全財産を持ってアウシュビッツへと向かったのだそうです。
ただ、実際には貨物車に押し込まれて遠い人は7−10日もかけて身動きも取れない状態で移送されてきました。 -
アウシュビッツ/ビルケナウに到着するとまず、すべての手荷物を没収されました。
没収した荷物から金品を搾取、その記録はきちんととられ金品と一緒にドイツへ報告されていました。 -
アウシュビッツ/ビルケナウに到着するとまず、すべての手荷物を没収されました。
没収した荷物から金品を搾取、その他のものと分けていました。
写真は、カバンの山。ちゃんと持ち主の名前まで書いてあります。 -
めがねの破片もこんなに。
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そして義手、義足の数々...
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荷物を没収された後待っていたのがセレクション。働き手となる大人の男性、そして人体実験の検体となりえる子供、女性などが選別されたそうです。選別で施設に残れないと...そのままガス室に移送させられてしまったそうです。
この判断は指一本、指が向く方向で運命が決められてしまっていました。 -
ガス室の模型です。
まず、左の階段から地下へと進みます。
ここで裸になります。ここに連れてこられた人達はシャワーを浴びると言われいたのだそうです。
そのあと右側の部屋へ移動。ここにはシャワーはあったものの水が出てくることは無かったそうです。
代わりに出てくるのがガス。
20分ほどでみんな亡くなってしまったそうです。
遺体はその後指輪、ピアス、金歯といった貴金属をとられ、そして髪の毛を剃られて建物の中にある焼却炉で燃やされ灰は畑、川などこのあたりにばら撒かれたそうです。
ちなみに、当時のガス室はナチス・ドイツがアウシュビッツを離れる際にダイナマイトで破壊してしまいました。 -
ガス室で使われたのがチクロンBと呼ばれる殺虫剤。
1500人を7kgほどで殺害できたこの毒薬を数百トンという単位で使用していたそうです。 -
労働力としてガス室行きを免れてアウシュビッツ/ビルケナウに残ることになった人は登録作業が行われます。
国籍、人種、宗教などを記録したのだそうです。 -
そして、写真を撮られます。アウシュビッツの博物館には写真がぎっしりと展示されていました。そこには名前、登録日、そして亡くなった日も記載されています。
ここにある写真を見ると、登録した日から亡くなるまでの日にちが非常に短いことが分かります。数日から数ヶ月... -
1943年、それまで写真撮影がなされていたものが、刺青による登録へと変更になりました。通常大人は腕に、小さな子供などは足に番号が刻まれたそうです。
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そして支給されるのがこの服。胸元に名前と種別の記号が記されました。
アウシュビッツ/ビルケナウでの唯一の所持品がこの服だったそうです。 -
この写真に表されているのが種別の記号とその意味、政治犯、ソビエト軍などの種別から、脱走を企てた容疑者と言うものまで分けられていました。
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アウシュビッツに収容されていた人の1日の食事の一例です。朝、左下の黒いスープ、昼、右上のスープ、しかも中にはいっていた野菜は腐っていたものなどもあったそうです。そして夜がパンとマーガリン...
もちろん労働者に足りる量ではなく収容されると見る見るやせていき、餓死してしまう人も大勢いたそうです。 -
続いてやってきたのは10号棟、11号棟の間。
左の10号棟は人体実験などが行われていた棟。そして11号棟には簡易裁判所、そして飢餓室、立牢といった施設に収容されていた人に罰を与える施設があります。 -
この10号棟、11号棟の間の先にあるのが死の壁。
収容されていた人々は些細なことで懲罰を受けていたそうです。りんごを拾う、そして労働効率が悪いと判断された場合など。
懲罰も鞭打ち、11号棟の特別施設への移送、そして死刑...
死刑の判決を受けると11号棟の脱衣室で裸になりこの死の壁の前につれてこられたそうです。 -
アウシュビッツ最後の見学場所は点呼場です。
朝、労働に出発する前、そして帰ってきた後、ここで点呼が行われてました。
あまりにも過酷で労働中に亡くなってしまう人もいましたが、帰ってきたとき点呼で人数が足りなくなってしまうため、同じ班の人達が遺体をここまで持ち帰ってきたそうです。
奥の建物の前にあるのが集団絞首台。何度か見せしめもかねてここで複数人の公開絞首刑が行われたそうです。
ここからビルケナウへ移動します。
移動は無料連絡バス。アウシュビッツとビルケナウの間を1時間に1本運行しています。 -
ビルケナウに到着です。
映画などでも見る引込み線が建物の中へと続いていく風景です。 -
ビルケナウの施設に入って敷地内に入ると、線路は何本かに別れます。
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そして、数百メートル進んだところにある広場、ビルケナウに到着した人々を容赦なくセレクションした場所です。
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実際のセレクションの写真、そこに写っているビルケナウの建物は今も数百メートル先に残っています。
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ドイツで作られた貨車です。実際に人々が運ばれてきた貨車はこのようなものだったそうです。ちなみにこの貨車は数年前にドイツから寄贈されたものだそうです。
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貨車の車輪の部分には"1913"の刻印が。
1913年製の車輪です。 -
引込み線の先端にはこんなモニュメントが。
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引込み線の先端のすぐそばにあるのがナチス政権化犠牲者国際慰霊碑です。
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そしてその国際慰霊碑の両脇にあるのがガス室、焼却場跡です。
いずれもナチスドイツがアウシュビッツを開放する直前にダイナマイトで破壊したのですが、現在まで破壊されたままの状態で保存されています。
アウシュビッツの博物館にある模型のまま、ちょうどここが入り口の部分で、階段をおりて中へと進んでいきました。 -
破壊された建物、その右奥がガス室でした。ガス室で亡くなった方の遺体はこの破壊された建物で焼かれていました。
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違う角度からの建物の様子です。
アウシュビッツが開放された後、建物左の穴からは灰がたくさん出てきたそうです。このあたりでは雪解けの後今でも遺品のようなものが出てくることがあるそうです。 -
ビルケナウは線路をはさんで両側にレンガの建物、木製の建物が並んでいます。
レンガの建物の方が時代が古く、当初施設を拡大する際にこのあたりの村から運んだレンガで建物を建設したそうです。が、すぐに材料不足に陥り、木製の建物が建設されるようになったそうです。
いずれの建物も中を見ることが出来ます。
まずはレンガ造りの建物の中を見てみます。
ちなみに建物の外側に木で補強がされているものがあります。
アウシュビッツ/ビルケナウの施設は極力当時のままの建物を残すことを心がけているそうで、そのための補強なのだそうです。ただ、やはり時間の経過とともにこの補強を施された建物の数は多くなっていっているそうです。 -
実際の内部です。3段ベットがこのように並んでいます。1段に5-6人が川の字になって寝ていたそうです。
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夏は35度を超え、冬は−20度になるこのあたり。一応暖炉は作られていましたが...建物の割には小さな暖炉、そして燃料も十分確保できていなかったそうです。
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レンガの建物の一角にあるこの建物は厨房でした。
脇に台車のようなものが置かれていますが、この台車で食事を各建物に配っていたそうです。ただ、食事を配るだけではなく、亡くなった方がいたときにもこの台車を使って移送していました。 -
線路を渡って続いて木製の建物のエリアへとやってきました。
木製の建物は2種類、手前の煙突なしの建物、そして奥の煙突ありの建物があります。 -
煙突なしの建物は実はトイレ。奥のほうに見える台座のような部分に穴があけられています。トイレは基本的に時間制、決まった時間にここでいっせいに用をたしていたそうで、もしそれ以外の労働中などにもよおしてしまうと、処罰の対象だったそうです。
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続いて煙突ありの建物。こちらはレンガ同様に3段ベットが並べられた宿舎。
一応暖炉もありますが...写真の左側を見ると分かりますが、壁の上下に隙間があります。冬は容赦なくここから冷たい風が入ってきたそうです。 -
有刺鉄線の外側、こんな簡易シェルターがところどころにあります。
これはナチス・ドイツ軍のためのシェルター。ここに入っていても中を監視できていたそうです。 -
ほぼ丸1日掛けてアウシュビッツ、ビルケナウを見学しました。
それでもきっと全部は見きれてないでしょう。
ぜひ訪問する方はゆったりとした日程で訪問してもらえればと思います。
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