2012/12/07 - 2012/12/10
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倫清堂さん
本来なら研修会の最終回が行われる予定でしたが、延期となってしまいました。
予約しておいた飛行機は変更が出来ず、キャンセルすると支払った分は全額損失となってしまうため、単独の旅のために利用することにしました。
仙台から伊丹へは適当な時間の便が取れず、羽田の早朝便を利用する計画でした。
体調のことを考えた結果、この寒い時期の夜行バスは避け、仕事が終わってからでも間に合う東北新幹線の終電で東京へ入り、蒲田のホテルに宿泊、そこから羽田へと向かう計画を立てていました。
何かと予想していなかった出来事が続きましたが、これだけでは終わりませんでした。
新幹線に乗る金曜日の午後、三陸沖でマグニチュード7.4の地震が発生し、新幹線を含む鉄道は全面停止。
仕事を終えて夕食も取らずに仙台駅へ向かうと、売店には飲み物しか残されていませんでした。
込み合うホームでしばらく待ち、ようやく10時30分頃の新幹線に乗って東京へと向かったものの、乗り継ぎ電車がなく蒲田には到着出来ないことが分かり、ホテルにはキャンセルの電話。
他にもいろいろトラブルがありましたが、午前2時過ぎになんとか上野のネットカフェに到着。
居心地の悪い硬いベッドで仮眠程度の睡眠をとり、翌朝5時には起きて羽田へと向かいました。
最初の目的地、姫路駅へようやく着いたものの、一つの旅を終えたような疲労感が心にも身体にも広がっていました。
旅はこれから始まるというのに…
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姫路城は今回で2回目。
平成21年10月に始められた大天守保存事業によって、天守閣はすっぽりと工事用の素屋根に包まれてしまいましたが、その内部に入って見学できるというサービスも盛り込まれており、またとない絶好の機会だと思っていました。
駐車場は今回も姫路護国神社のを利用。
まずは御祭神に参拝、寒風が強く吹きすさぶ中、三の丸公園を目指しました。兵庫縣姫路護國神社 寺・神社・教会
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先日、屋根瓦の修理が無事に終わったとのニュースを聞いたばかりで、もう少しで生まれ変わった天守閣がお目見えすることになるため、その前に訪れようと決めて来ました。
始めて姫路城を訪れた時は勝手がよく分からず、搦手登閣口から入場しましたが、今回は正面登閣口へと向かいます。姫路城 (姫路公園) 名所・史跡
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通常ならあの白亜の大天守が見えるはずですが、今はそれに代わって白亜の素屋根がそびえており、不思議な感覚にとらわれてしまいます。
前回の修復工事は「昭和の大修理」と呼ばれ、今から約半世紀前に行われました。
「平成の大修理」は素屋根工事・屋根修理・壁面修理・構造補強の順に進められ、約5年の工期をかけて国宝の大天守は築城時の美しい姿を取り戻す計画です。 -
素屋根には「天空の白鷺」という見学スペースが設けられており、期間限定で保存修理の様子を見学できます。
念のため予約を入れておきましたが、見学者の数はさほどでもなく、全く待ち時間無しにエレベーターに乗ることができました。
姫路城平成大修理に寄す
しら鷺のきよらなはねもふる歳に
傷みてあらばかごに憩へよ -
「天空の白鷺」に入場。
まずはエレベーターで一気に8階へと上がります。
8階はちょうど大天守の屋根と同じ高さにあり、瓦を葺き終えて目地漆喰塗りたての屋根を間近で見ることができました。
備え付けのモニター画面では、これまでの工事の様子をビデオ上映しており、この記録映像はぜひ手に入れたいと思ったのですが、土産物屋などで見かけることはありませんでした。
もっと記念品の販売を積極的に行ってもよい気がしますが、場内は見学用の資料ばかりで、物品販売は一切行われておりませんでした。
次に7階へと降り、壁面の修復の様子を確認。
これで大天守そのものの見学は終わり、1階へとエレベーターを下ります。
1階ではその他様々な資料の展示が行われていました。 -
保存修理期間に合わせ、これまで非公開だったリの一渡櫓も特別に公開されていました。
入口の所には、築城時・明治大修理時・昭和大修理時の鯱が並んで展示されています。
時代が下がるにつれて巨大化していますが、形も変化しています。
どの時代の鯱もそれぞれ特徴があり、築城時のものが特別古い印象ではありません。 -
櫓内部では、屋根瓦や甲冑などが展示されていました。
暗闇から浮かび上がって来るように置かれた甲冑は、武将たちが生きた姿で並んでいるようで、迫力がありました。 -
姫路城の見学を終え、次に岡山県へと向かいます。
岡山は晴れの国と呼ばれるだけあって、冬のこの時期でも旅先に選ぶにはもってこいなのです。
着いた先は備中国一之宮、吉備津神社。
ここを参拝するのは2回目。
姫路城とは逆に1回目が修復中で、今回は修復を終えて生まれ変わった社殿を見ることを楽しみにして来ました。
北随神門の方から石段を登り、極めて珍しい比翼入母屋造り「吉備津造り」の社殿を目指しました。吉備津神社 寺・神社・教会
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石段を登り終えると、拝殿の入口に掲げられた「平賊安民」の扁額が見えて来ました。
前回はこれをかろうじて見ることが出来ただけでしたが、その時に社殿全体を覆っていたシートは今は取り払われ、比翼入母屋造りの社殿と感動のご対面となったのでした。
現在の社殿は足利義満公によって応永32年に再建に取り掛かられ、約25年の月日を費やして完成したものです。
手前側の拝殿は最も低くなっており、その奥に本殿が一体となっているのですが、本殿の基礎は白漆喰塗の亀腹となっており、外陣・中陣・内陣・内々陣と神様がおられる場所に近づくにつれてだんだんと高くなっている構造です。 -
吉備津神社の見どころは壮大な社殿だけではありません。
本殿から南随神門を経て御竈殿まで続く、全長400メートルにもわたる廻廊もその一つです。
天正6年の再建で、坂道を利用してほぼ一直線に伸びています。 -
長い廻廊を折れた先にあるのが御竈殿。
ここでは、御祭神の大吉備津彦命による温羅(うら)征伐の故事に由来する「鳴釜の神事」が行われます。
大吉備津彦命は、第10代崇神天皇が地方平定のために遣わした四道将軍のひとり。
当時の吉備には温羅という鬼の一族が住んでおり、人々を苦しめていましたが、大吉備津彦命が彼らを打ち破り、吉備地方は平定されたのでした。
この物語は桃太郎の昔話の原型と考えられ、温羅が根拠としていた鬼ノ城や、温羅の血が川を染めたという血吸川などの史跡・地名も数多く残されています。
大吉備津彦命が討ち落とした温羅の首をかまどの下に埋めると、釜の鳴る音で吉凶を知らせようという温羅の声が聞こえたことから、鳴釜の神事が始められたと伝えられます。 -
神社から約2キロの距離、中山の山頂には大吉備津彦命の御陵があり、宮内庁が管理しています。
しかしそちらへは参らず、神池に浮かぶ宇賀神社に参拝。
吉備の国では最も古い稲荷社です。 -
駐車場の方へ戻ろうとした時、犬養毅銅像を発見。
犬養毅は第29代総理大臣で、青年将校たちが叛乱を起こした五・一五事件にて在任中に凶弾に倒れた人物です。
大吉備津彦命による温羅退治には、犬飼健命・留玉臣命・楽々森彦命が従い、これが桃太郎伝説の犬・雉・猿に変化したと考えられます。
その中の犬飼健命は犬養毅の祖先。
留玉臣命は鳥飼部、楽々森彦命は猿飼部の祖。
温羅退治の伝承では、大吉備津彦命が放った矢が温羅の左目に命中し、彼は鯉に姿を変えて川に逃れましたが、鵜に変身した大吉備津彦命に捕えられたとされますが、一説には、鵜に変身したのは楽々森彦命であったとも言われます。 -
次に備前国一之宮の吉備津彦神社に参拝。
こちらも2回目。
始めて訪れた時に覚えた新鮮な感覚と違い、懐かしいような気持ちになります。
やはり2回目は心に余裕があるためか、前回はあまり意識しなかった点にまで興味が向くものです。
大石灯籠もその一つで、とにかく大きいという印象だけは残っていましたが、これが安政時代に完成したものだということは今回初めて知りました。
完成した年は、日米修好通商条約が締結した年で、それから今日まで、日本の栄光と失敗の歴史を照らしているのです。
岡山県は日本でも地震が少ない地方ということもあり、形を変えずに残っているというのもあるのかも知れません。吉備津彦神社 寺・神社・教会
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吉備津彦神社の御祭神は大吉備津日子大神。
正式には「吉」の字を士ではなく土に口と書きます。
御祭神は大吉備津彦命と同一神で、吉備津神社とは中山を隔てたちょうど反対側に鎮座しています。
永禄5年に旧社殿が焼失し、宇喜多秀家や小早川秀秋から寄進を受け、後に岡山藩主池田綱政公の時に再建されました。
吉備津神社は本殿と拝殿が一体となっていましたが、こちら吉備津彦神社は拝殿・祭文殿・渡殿とが一体になっており、さらに奥の一段高い場所に本殿が鎮座しています。 -
なぜこれほど近い距離に同じ神様を祀る神社が2社並立しているかは分かりません。
古代はそれぞれ異なる役割を持っていたのもが、時代が下がるにつれて地元の英雄への信仰が深まり、神社としての役割を持つようになったのでしょうか。
吉備津彦神社の参道両脇には神池が広がりますが、そこに浮かぶ亀島には古代の祭祀場跡と思われる環状列石が残されています。
環状列石は磐座と考えられるため、これが大和朝廷の成立以前からあるものだとすれば、大吉備津彦命によって平定される前のもの、つまり温羅一族が支配していた頃の遺跡ということになります。
これは個人的な解釈ですが、平定された後に神聖な祭祀場を保存する役割が、ここ吉備津彦神社にはあったのではないでしょうか。
吉備津彦神社の社殿の位置を結ぶと、その真後ろには吉備中山の磐座を通るというのも気になります。
これら以外にも岡山県には磐座が多く、最も規模が大きいのが、温羅が本拠としていた鬼ノ城です。
次に岡山を訪れる時は、鬼ノ城など温羅伝説の地や巨石構築物をめぐってみたいと思います。 -
岡山での楽しみの一つに、ばら寿司を食べることがあります。
ご当地グルメの中で自分の最もお気に入りの一つが、岡山のばら寿司です。
今回も岡山市内にある割烹さかぐちにお邪魔しました。
建物は古いですが、雰囲気は嫌いではありません。
ばら寿司の他、白魚と黄にらの卵とじなども美味しくいただきました。割烹 さかぐち グルメ・レストラン
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2日目の朝、天気予報を確認すると岡山県北部は雪とのことでした。
この日は高梁と津山でそれぞれ城を見てから神戸に戻る予定ですが、用意した車は雪道仕様ではないため、かなり不安です。
今のところ曇り空なので、まずは行けるだけ行ってみることにしました。
岡山市内から高梁へは、岡山道を北上して1時間ほど。
半分くらいまで来たところでトンネルを抜けると、天気予報通り雪が降っていました。
ただ積ってはいないようなので、そのまま目的地を目指します。
賀陽インターで高速道路を下り、一般道を走ると、地面にはうっすら雪が積もっています。
慎重に車を進め、目的地の備中松山城近くに到着。
観光客の多い日曜なので、ここからはピストン輸送のバスに乗らなければなりません。
まだ9時を回ったばかりと時間が早いのと、見ての通りの悪天候のため、観光客の姿は他に1組しかありませんでした。
この雪は、混雑が嫌いな自分への天からのプレゼントなのではないかとも思いました。備中松山城 名所・史跡
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バスは城へと続く細い山道をゆっくり登って行きます。
平日は一般車も通ることができますが、すれ違う場所もあまりなく、自分では運転したくないような道です。
10分ほどの乗車で、車で入れる最も奥まで進むことができました。
ここから先の山道は徒歩移動となります。
備中松山城は現存する国内12の城のうち、最も標高の高い場所にある城です。
登るためには相当な険しい道を予想していましたが、それほどでもありませんでした。
およそ2キロの山道の途中、うずたかく積み上げられた石垣も見ごたえがあり、雪化粧した石垣も趣のある風景でした。
この城を築いた人々や、ここに拠っていた人々も、この雪景色を見たのだろうかと、先人への思いを馳せるひとときでした。 -
松山城の歴史は古く、鎌倉時代までさかのぼります。
この地方の地頭に任じられた秋庭三郎重信が延応2年に砦を築いたのがそもそもの始まりです。
その後城主や縄張りは時代の流れとともに変化し、天正2年に起きた備中兵乱では山全体が要塞としての役割を担いました。
江戸幕府が成立すると、備中国奉行に就任した小堀正次・政一が城番として置かれ、改修などが行われました。
小堀政一とは作庭で有名な小堀遠州のことで、彼の優れた感性は城造りに大いに影響したのではないかと思います。
ただ、現在の城閣は天和3年の水谷勝宗による修築と伝えられ、どこまで遠州の影響が残っているのかは自分には分かりません。 -
イチオシ
天守閣も薄く雪化粧をしています。
松山城の歴代城主の中には、赤穂浪士たちが仕えた浅野内匠頭もいます。
それまで城主を務めた水谷家が、当主の勝晴がわずか13歳で死去したため断絶すると、城の受け取りを赤穂藩主であった浅野長矩が務めることになったのでした。
この時、自らの家にも同じことが起きることなど誰も予測は出来なかったことでしょう。
幕末期には板倉氏が備中松山藩主となり、7代藩主板倉勝静公は老中首座に就任。
彼は井伊大老と対立して寺社奉行を罷免された経歴がありましたが、15代将軍慶喜公の信任は厚く、戊辰戦争では函館まで転戦していました。
新政府軍は「朝敵」となった松山藩にも兵を差し向けましたが、執政の山田方谷は最後の藩主となる勝弼を立て、独自の判断で開城することとなりました。
その決断の影には、領民に対する労りの心があったようです。 -
明治新政府による廃城令で城郭の一部が取り壊されるも、天守閣は放置されることとなりました。
荒れるに任せた天守閣は昭和初期に修復され、昭和6年に当時の国宝に指定されることになります。
天守閣の内部には、当時の様子や出土した資料などが展示されていました。 -
天守閣内部の見学を終えて外へ出ると、雪はやんでおり、空も明るさを取り戻しています。
来た道を引き返しバスに乗って駐車場まで戻る頃には、積っていた雪も溶けていました。
バスを管理している方のお話しでは、この地方には車の運転が出来なくなるほどの雪は降らないとのこと。
しかし、これから津山を目指していることをお話しすると、そちらは気候が全く異なるため大雪が降っているだろうから、今日はやめた方がよいと諭されました。 -
予定通りに運ばなかった時はジタバタせず、流れに任せてしまう方がよいことは、経験が教えてくれています。
午後からまた岡山市内を回る選択肢もありましたが、早めに宿泊地の神戸に入ることにしました。
ただ途中で一ヶ所だけ寄り道をすることにしました。
神戸市長田区に鎮座する旧官幣中社の長田神社です。長田神社 寺・神社・教会
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神功皇后摂政元年、三韓征伐を終えて新羅から御帰還の際、武庫の港で事代主神の託宣が下り、山背根子の娘の長媛に創始させたのが始まりです。
御祭神の事代主神は国譲りをした大国主神の子で、国譲りの際には海で釣りをしていたことから海や漁業の神として信仰され、釣竿を持ったえびす神として知られます。
神功皇后の口を借りて神が下された言葉は、新羅を征伐せよでしたが、仲哀天皇はこれに従わず急死してしまい、神功皇后本人が住吉大神の神託を受けて海を越えての遠征を実行します。
住吉大神も合わせ、日本の海の守り神が総出で神功皇后を守護している場面が想像されます。 -
本殿の裏手には、摂社の楠宮神社が鎮座しています。
6世紀ごろ、境内のすぐ近くに瀬戸内海の海岸線があった時、繁殖のために上がって来た赤えいを捕まえようとしたところ、台風で増水した境内にまで逃げ込み、御神木の樟のあたりで姿を消したのでした。
赤えいは神の使いともされることから、赤えいの宿るこの御神木は信仰されるようになったのでした。
特に痔疾に効き目があるとのことなので、将来お世話になるかも知れません。
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