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太田道灌(おおたどうかん、1432~1486)が主家の扇谷上杉氏の命を受け、父の道真(どうしん、1411~1488)と共に敵対する古河公方足利成氏(あしかがしげうじ、1438~1497)に備え、長禄元年(1457)築城した伝えられる岩槻城(いわつきじょう、埼玉県さいたま市岩槻区大田)を訪問しました。(築城者について異論があります)<br /><br />道灌築城時の位置については種々説がありますが現在の菖蒲池付近と推定され、このあたりの地勢を見ますと往時は北部の元荒川の流れと共に広い湖沼が広がってこれらを利用した天然要害を持つ水城であり、別名白鶴城と呼ばれていました。<br /><br />ご承知のように道灌は、文明18年(1486)主家扇谷上杉定正(うえすぎ・さだまさ、1443~1494)館に招かれだまし討ちにより55年の生涯を閉じます。<br /><br />後継は甥の太田資家(おおた・すけいえ,生年不詳~1522)が城主となりますが以降お家騒動で混乱し、氏資(うじすけ,1542~1567)が武蔵国進出の小田原北条氏に与しその混乱に終止符を打ちます。<br /><br />ところが永禄10年(1567)小田原北条氏と安房里見氏との三船山合戦で氏資は戦死、世継ぎがいなく岩槻太田氏は絶えますが、北条氏政の三男が氏資の娘を娶り代々の名乗りである源五郎を襲名し太田氏を引継ぎ、早死にした為源五郎の後実弟氏房(うじふさ)が兄の未亡人を娶り同氏の名跡を継承しますが実際は小田原北条氏の直接支配となります。<br /><br />小田原北条氏の支配以降、防衛力を高めるため今までの城郭は規模拡大され本城の小田原城と同様に城郭・武家屋敷だけではなく商人・大工等の町までも取り込んだ総曲輪型の大城郭を形成するに至ります。<br /><br />天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原城討伐で北条氏滅亡、同時に岩槻城も秀吉派遣軍に攻撃を受け落城します。<br /><br />関東に入った徳川家康は荒川の水運・鎌倉街道を利用した交通の要地として着目し、同城には三河からの譜代家臣、高力清長(こうりき・きよなが、1530~1608)を2万石で配置、以降歴代の藩主は幕府老中などの要職を勤める有力者がその任にあたり明治維新を迎えます。<br /><br /><br />2023年7月9日追記<br /><br />入手のパンフレットでは下記の通り岩槻城の説明があります。<br /><br /><br />「 岩 槻 城<br /><br />岩槻城は室町時代に築かれた城郭です。築城者は太田道灌とする説、父の道真とする説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏とする説など様々です。<br /><br />16世紀の前半には太田氏が城主となっていましたが、永禄10年(1567)三船山合戦(現千葉県富津市)で太田氏資が戦死すると小田原城の北条氏が直接支配するところとなりました。しかし、天下統一を目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。天正18年(1590)5月20日からの豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落城しました。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長が城主となりました。<br /><br />江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となりましたが、明治維新後に廃城となりました。城の建物は各地に移され土地は払い下げられて、およそ400年の永きにわたって続いた岩槻城は終焉の時を迎えました。<br /><br />岩槻城が築かれた場所は現在の市街地の東側で、もと荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸、二の丸、三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪が、沼地をはさんだ南側に新曲輪がありました。主要部の西側は堀によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていました。また城と城下町を囲むように大構えが造られました。<br /><br />現在では城跡のなかでも南端の新曲輪・鍛冶曲輪跡(現在の岩槻城址公園)が県史跡に指定されています。どちらの曲輪も戦国時代末に北条氏によって造られた出丸で、土塁・空堀・馬出など中世城郭の遺構が良好に残されており、近年の発掘調査では北条氏が得意とした築城術である障子堀が見つかっています。」<br /><br /><br /><br />

武蔵岩槻 道灌ゆかりの地を訪ねる・元荒川の後背湿地に突き出した主郭・二郭・三郭を配して古河公方に対峙させた扇谷上杉氏拠点の一つ『岩槻城』訪問

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2012/08/03 - 2012/08/03

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滝山氏照

滝山氏照さん

太田道灌(おおたどうかん、1432~1486)が主家の扇谷上杉氏の命を受け、父の道真(どうしん、1411~1488)と共に敵対する古河公方足利成氏(あしかがしげうじ、1438~1497)に備え、長禄元年(1457)築城した伝えられる岩槻城(いわつきじょう、埼玉県さいたま市岩槻区大田)を訪問しました。(築城者について異論があります)

道灌築城時の位置については種々説がありますが現在の菖蒲池付近と推定され、このあたりの地勢を見ますと往時は北部の元荒川の流れと共に広い湖沼が広がってこれらを利用した天然要害を持つ水城であり、別名白鶴城と呼ばれていました。

ご承知のように道灌は、文明18年(1486)主家扇谷上杉定正(うえすぎ・さだまさ、1443~1494)館に招かれだまし討ちにより55年の生涯を閉じます。

後継は甥の太田資家(おおた・すけいえ,生年不詳~1522)が城主となりますが以降お家騒動で混乱し、氏資(うじすけ,1542~1567)が武蔵国進出の小田原北条氏に与しその混乱に終止符を打ちます。

ところが永禄10年(1567)小田原北条氏と安房里見氏との三船山合戦で氏資は戦死、世継ぎがいなく岩槻太田氏は絶えますが、北条氏政の三男が氏資の娘を娶り代々の名乗りである源五郎を襲名し太田氏を引継ぎ、早死にした為源五郎の後実弟氏房(うじふさ)が兄の未亡人を娶り同氏の名跡を継承しますが実際は小田原北条氏の直接支配となります。

小田原北条氏の支配以降、防衛力を高めるため今までの城郭は規模拡大され本城の小田原城と同様に城郭・武家屋敷だけではなく商人・大工等の町までも取り込んだ総曲輪型の大城郭を形成するに至ります。

天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原城討伐で北条氏滅亡、同時に岩槻城も秀吉派遣軍に攻撃を受け落城します。

関東に入った徳川家康は荒川の水運・鎌倉街道を利用した交通の要地として着目し、同城には三河からの譜代家臣、高力清長(こうりき・きよなが、1530~1608)を2万石で配置、以降歴代の藩主は幕府老中などの要職を勤める有力者がその任にあたり明治維新を迎えます。


2023年7月9日追記

入手のパンフレットでは下記の通り岩槻城の説明があります。


「 岩 槻 城

岩槻城は室町時代に築かれた城郭です。築城者は太田道灌とする説、父の道真とする説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏とする説など様々です。

16世紀の前半には太田氏が城主となっていましたが、永禄10年(1567)三船山合戦(現千葉県富津市)で太田氏資が戦死すると小田原城の北条氏が直接支配するところとなりました。しかし、天下統一を目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。天正18年(1590)5月20日からの豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落城しました。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長が城主となりました。

江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となりましたが、明治維新後に廃城となりました。城の建物は各地に移され土地は払い下げられて、およそ400年の永きにわたって続いた岩槻城は終焉の時を迎えました。

岩槻城が築かれた場所は現在の市街地の東側で、もと荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸、二の丸、三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪が、沼地をはさんだ南側に新曲輪がありました。主要部の西側は堀によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていました。また城と城下町を囲むように大構えが造られました。

現在では城跡のなかでも南端の新曲輪・鍛冶曲輪跡(現在の岩槻城址公園)が県史跡に指定されています。どちらの曲輪も戦国時代末に北条氏によって造られた出丸で、土塁・空堀・馬出など中世城郭の遺構が良好に残されており、近年の発掘調査では北条氏が得意とした築城術である障子堀が見つかっています。」



交通手段
高速・路線バス 私鉄 徒歩

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  • 岩槻城絵図<br /><br />地図では本丸・二の丸・三の丸を中心に主たる城郭の周辺は広い沼地であったことがわかります。更に北側には元荒川が楕円形をして周辺を囲んでおり敵の進撃を防御した見事な自然要害といえます。

    岩槻城絵図

    地図では本丸・二の丸・三の丸を中心に主たる城郭の周辺は広い沼地であったことがわかります。更に北側には元荒川が楕円形をして周辺を囲んでおり敵の進撃を防御した見事な自然要害といえます。

  • 岩槻城址公園<br /><br />現在は岩槻城を含め周辺を整備した公園となっています。桜の名所としても有名です。

    岩槻城址公園

    現在は岩槻城を含め周辺を整備した公園となっています。桜の名所としても有名です。

  • 本丸跡を一望<br /><br />元荒川に迫る台地に岩槻城本丸があったようですが今では住宅地と化して往時の面影は認められません。

    本丸跡を一望

    元荒川に迫る台地に岩槻城本丸があったようですが今では住宅地と化して往時の面影は認められません。

  • 本丸跡

    本丸跡

  • 公園広場<br /><br />沼地が埋め立てられ現在では広々とした公園となっています。

    公園広場

    沼地が埋め立てられ現在では広々とした公園となっています。

  • 公園広場<br /><br />

    公園広場

  • 公園広場

    公園広場

  • 岩槻城裏門<br /><br />

    岩槻城裏門

  • 岩槻城城門<br /><br />城内での位置は明らかではないそうです。木材が黒く塗られている事から「黒門」と呼ばれていたそうです。

    イチオシ

    岩槻城城門

    城内での位置は明らかではないそうです。木材が黒く塗られている事から「黒門」と呼ばれていたそうです。

  • 八つ橋<br /><br />沼地を利用した池と中央部には朱色に塗られた八つ橋が思わす眼に入ってきます。

    八つ橋

    沼地を利用した池と中央部には朱色に塗られた八つ橋が思わす眼に入ってきます。

  • 岩槻城址石碑

    岩槻城址石碑

  • 空堀と土塁<br /><br />鍛冶曲輪を巡る空堀と土塁が見事です。

    空堀と土塁

    鍛冶曲輪を巡る空堀と土塁が見事です。

  • 堀障子(空堀)<br /><br />「畝(うね)障子」とも言い、堀底に設けられた障害でここに入った敵兵は身動きができず味方が発する銃や弓の命中率を高める効果があります。(現場は埋め戻されています)<br />この種の空堀は小田原北条氏の支配下城郭ではよく見られる特有の築城技術です。<br />

    堀障子(空堀)

    「畝(うね)障子」とも言い、堀底に設けられた障害でここに入った敵兵は身動きができず味方が発する銃や弓の命中率を高める効果があります。(現場は埋め戻されています)
    この種の空堀は小田原北条氏の支配下城郭ではよく見られる特有の築城技術です。

  • 空堀と土塁

    空堀と土塁

  • 空堀と土塁<br /><br />二重に造られた土塁の高さと堀底のコントラストが何ともいえません。<br /><br />

    イチオシ

    空堀と土塁

    二重に造られた土塁の高さと堀底のコントラストが何ともいえません。

  • 再び八つ橋<br /><br />沼地に浮かび上がった八つ橋は真に良い景色です。

    再び八つ橋

    沼地に浮かび上がった八つ橋は真に良い景色です。

  • 土橋から<br /><br />土橋と思われる位置から空堀と土塁を見ます。実際の堀はもっと深かった訳で時間の経過とともに崩れてしまったようです。<br /><br />

    土橋から

    土橋と思われる位置から空堀と土塁を見ます。実際の堀はもっと深かった訳で時間の経過とともに崩れてしまったようです。

  • 土橋から<br /><br />反対側から見ます。土橋から底道へは数段の階段となって遊歩道となっています。

    土橋から

    反対側から見ます。土橋から底道へは数段の階段となって遊歩道となっています。

  • 土塁<br /><br />城郭を貫通する道路の右側には道路と平行して大型土塁が走っており、その向こう側は今では野球場と化しています。

    土塁

    城郭を貫通する道路の右側には道路と平行して大型土塁が走っており、その向こう側は今では野球場と化しています。

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