2012/10/25 - 2012/10/25
412位(同エリア1051件中)
ムッシュさん
金沢宿を過ぎると、いよいよ現在の茅野市に到着。さらに上諏訪から、横に諏訪湖を見ながら下諏訪へ向う。そして、中山道との合流点、下諏訪宿にて、この甲州古道歩きも完全踏破なりました。
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もうすぐ茅野駅に近い国道20号線
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江戸日本橋より50里(約200km)にたつ一里塚
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三輪神社の説明
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久寿年間(1154~55)の創建で、大和國三輪村の【三輪神社】をこの地に迎えたものと伝えられています、宮川茅野、西茅野両区の産土神です。
本殿は文化元年(1804年)の建立、見事な彫刻が施されています、拝殿は文政三年(1820年)の建立です。
【三輪神社】 市指定文化財(昭和42年2月指定)
三輪神社は久寿年間(約810年前)に、大和の国三輪村の三輪神社をこの地にお迎えしたものと伝えれられ、宮川茅野・西茅野両区の産土神である。祭神は大国主命・稲御魂(うがみたま)命・櫛玉命である。
本殿は文化元年(1804)三月に矢崎玖右衛門により建築され、拝殿は文政三年(1820)に建築されたが、明治四十一年に改築している。
本殿の彫刻は、大隈流の流をくむ矢崎玖右衛門の代表作である。江戸時代の建築の、彫刻に技巧をこらした傾向がよく現れている。題材はすべって中国の歴史物語にとり、北面には「蜀の三傑桃園に義を結ぶ」の図、東面は「黄石公張良に兵書を授くる」の図、南面は「玄徳赤兎馬に鞭打って潭渓を越ゆる」の図である。欅を材として、半肉彫で、空間構成もよくととのい、香高い芸術作品である。
昭和五十年一月 茅野市教育委員会 -
三輪神社の向いに【細目(おかめ)神社】が鎮座しています。
祭神は天照大神が天岩戸に隠れたとき、岩戸の前で舞を舞った天鈿女命(あまのうずめ)です、福の神といわれています。
鈿女の字を分けてみると金田女(かねため)となるため、貯金の神ともいわれます。
三輪神社社殿の裏手に男女双体道祖神が祀られています、これは天鈿女命と猿田彦神の組合せによるものといいます。 -
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明治天皇の小休憩所
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【丸井伊藤商店】
創業百年の信州味噌醸造販売元です。
味噌の香りが充満する味噌蔵の奥に貧乏神神社が鎮座しています、ここで厄を払い鈿女神社で福を授かります、 -
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これが、【貧乏神神社】
焼みそ好きの貧乏神様が味噌蔵にご降臨されました。
貧乏神社で厄を払い、おかめ神社で福授かる。 -
【頼岳寺山門前杉並木】 市指定文化財(昭和57年二月指定)
少林山頼岳寺は、諏訪地方における曹洞宗の筆頭寺院である。高島藩初代藩主頼水は、寛永八年(1631)上野国最大山雙林寺(群馬県北群馬郡子持村)の大通関徹を招いて開創し、諏訪氏の菩提寺とした。
参道の杉並木は、かつては目通り幹周り3.5m、推定樹齢三百年の大木が立ち並んでいたが、昭和九年の室戸台風及びその後の台風によって多くの木が倒れた。現在は同樹齢の木は少ないが、境内の杉木立とあわせ頼岳寺の由緒と風致の上からも貴重なものである。 平成五年十月 茅野市教育委員会 -
山門をくぐると参道は重厚な杉並木になっています、杉並木を進むと左手の池の上に芭蕉句碑「名月や 池を巡りて 終夜(よもすがら)」があります。
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【少林山 頼岳寺】
【開創】
曹洞宗(禅宗)に属し、本山は永平寺(福井県)と総持寺(神奈川県)である。開創は江戸時代初期の寛永八年(1631)で開山(初代住職)は大通関徹(群馬県双林寺第十三世)、開基は高島藩初代藩主の諏訪頼水である。頼水は諏訪大社上社にまつられる建御名方神(諏訪明神)の直系諏訪氏で、諏訪氏は古代から中世まで諏訪の盟主として君臨し、江戸時代は高島藩三万石の大名であった。
【頼岳寺の沿革】
開創以来この地方の中心的勢力を保ち、江戸時代には寺領100石を賜り、末寺は十四ヶ寺である。古くから修行寺として知られ、常に数十名の雲水が参集した。さらに第三十二世孤峰智璨は明治四十年以来五十年にわたる在住中に、人材の育成、伽藍の整備に尽力し、のち頼岳寺の祖本寺にあたる神奈川県大雄山最乗寺の住職を経て、大本山総持寺独住第十八世円応至道禅師となった。
【上原城周辺】
寺の右側の金比羅山(978m、甲州街道からの比高はおよそ200m)には上原城があった。この城は諏訪信満の時代、諏訪惣領家の居城として築城され、政満・頼満・頼隆・頼重が板垣平(頼岳寺の南方)に居館をおいて諏訪を統治した。天文十一年(1542)武田信玄に攻略されたのちも、武田氏が城代をこの城において諏訪を治め、以後岡村(上諏訪)に政庁が移るまで諏訪の政治・経済中心地であった。上原には城下町が経営され繁盛した。とくに城下には鎌倉五山にならって上原五山を呼ばれた五ヶ寺があった。永明寺(頼岳寺の前身)・極楽寺・金剛寺(廃寺)・法明寺・光明寺(この二ヶ寺はのちに合祀して法光寺となり上諏訪に移る)があり、上原八幡社もこの時代に建立された。
上原五山のうち永明寺は向富士と号し、現在の頼岳寺よりおよそ500m南方にあった曹洞宗の寺である。開創は永正年間(1504‐1521)で、開山は慈山永訓(静岡県真珠院第二世)、開祖は諏訪頼水の曽祖父にあたる頼満(永明寺殿西周宗昌大居士)である。永明寺は以後七代130年間続いたが、寛永七年(1630)同寺に駆け込んだ科人(とがにん)の引渡しを拒否したことから、頼水の命により炎上破却された。永明寺の頼忠夫妻(頼水の両親)の墓、本尊釈迦如来、什器などは翌年建立された頼岳寺に移された。 平成五年十月 茅野市教育委員会 -
近藤雪山 「鶯の雲をとどむる高音哉」
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芭蕉句碑
芭蕉句碑「名月や 池を巡りて 終夜(よもすがら)」 -
【頼岳寺】
曹洞宗少林山頼岳寺は寛永8年(1631年)高島藩の初代藩主諏訪頼水の開基で、諏訪家の菩提寺です。
諏訪頼重が死去すると諏訪氏宗家は断絶。頼重の従兄弟諏訪頼忠は徳川家康に仕え大名として復権し、諏訪氏を再興した。
そして頼忠の子諏訪頼水は関ケ原の戦功により高島藩に封じられ、諏訪の地に戻り、明治維新まで存続しました。 -
【頼岳寺山門前杉並木】 市指定文化財(昭和57年二月指定)
参道の杉並木は、かつては目通り幹周り3.5m、推定樹齢三百年の大木が立ち並んでいたが、昭和九年の室戸台風及びその後の台風によって多くの木が倒れた。現在は同樹齢の木は少ないが、境内の杉木立とあわせ頼岳寺の由緒と風致の上からも貴重なものである。 平成五年十月 茅野市教育委員会 -
【大門街道追分】
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一里塚跡碑。【神戸の一里塚跡】です。
神戸村地内で片塚、塚木は槻(つき)でした、江戸日本橋より数えて51里目です。 -
秋葉山常夜燈と道標「左江戸みち 左大明神江」があります。
この常夜灯は交差点のど真ん中にあります。
手前に向かって歩いているのが、諏訪方面です。
諏訪市四賀桑原という所の交差点の真ん中にあります。道を新しくしたときに移設しないでそのまま残したのかと思いますが、道標に書かれている文字が 諏訪方面から見て ”左江戸みち 右大明神江” と書かれています。”大明神”が諏訪大社上社本宮の事だとすると坂を下って上社本宮方向、真直ぐ進んで江戸方向に行くという事なのかな -
正面遠くに諏訪湖が見えています。江戸時代には、遠く諏訪湖が一望出来た絶景だと思います。
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ランチ場所
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【足長神社】
諏訪大社の祭神に随従する足長彦神を祀っています、上桑原村の産土神です。
拝殿は天保13年(1842年)の建立、舞屋(神楽殿)は文久2年(1862年)の建立で、本殿同様に見事な彫刻が施されています。
この辺り、日本橋から203km。あと8kmでゴールです。 -
【吉田の松】
諏訪市の天然記念物。樹齢300年余。高島藩士吉田式部彦衛門が大阪城守備の任務から帰った時に持ち帰ったと伝えられる。代々吉田家の庭にあったものを、昭和の始めにこの地に移した。 -
【江戸より52番目の一里塚碑】
甲州道中は、江戸から甲府が表街道、甲府から下諏訪が裏街道と呼ばれ、下諏訪宿で中山道と合流していた。各街道とも江戸日本橋より三十六町(一里、約4Km)ごと道の両側に盛り土をして頂上にケヤキ・エノキなどを植えて一里塚とした。ここに一里塚ができたのは慶長十五年(1610)頃と言われている。この塚は江戸から五十二里で西は下諏訪町富部の五十三里塚、東は四賀神戸の五十一里塚へと続いている。 諏訪市教育委員会 -
右は温泉寺へ。左が甲州街道。
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【兒玉石神社由緒記】
例祭 十月二日斎行。最近は近くの日曜日に斎行する。
祭神「兒玉彦命」は、諏訪大神「建御名方命」の御子「片倉辺命」の御子にして、兒玉石神社の祭神として鎮座する。
『根元記抄』に、“創立年月は不詳であるが、遠い昔より「下桑原鎮守大矢小玉石湯之権現」として、原住民の崇敬を集め産土神(うぶすながみ)として祀られていた”とあり、兒玉石神社であろうと考えられる。依って文明十八年以前の創立と伝えられている。
明治十三年三月諏訪大社の摂社に加列された。毎年の例祭斎行の際には、諏訪大社より神官が参向され、幣帛(へいはく)料を捧げて奉仕されることが昔から今に続けられている。弐年寅年申年の七年目毎には八剱神社の旧社殿を移して当神社の神殿としたり、「千木」を譲与されることが例となっていた。
神社の境内には、五個の大石があり「諏訪の七石」の一つに数えられている。拝殿前にある二個の大石は「いぼ石」と呼ばれ神社のシンボルとなっている。
『上諏訪宮神徳記抄』には、“神が諏訪湖より大石を取り上げたが袖は濡らさなかった。中に二個の大石があり「兒玉石大明神」と称した。”とある。「兒玉石大明神」(大石)は祭神の御霊代となっている。大石には、沢山の凹部があって常に水をたたえて乾くことがなく、この水で「いぼ」を洗うと、必ず治癒すると言い伝えられている。
鳥居脇には、樹齢二百五十年という「大杉」があり御神木となっており、また、境内には三社の無格社が鎮座している。(兒玉石神社明細帳より抜粋)
平成十六年十月吉日 -
【兒玉石神社】
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【先宮神社】
古くは鷺宮神社で、諏訪大社より古く、大社がこの地にやってきた時抵抗したが、遂に服従した。そのため、移転も許されなかった。
本陣も主屋は、明治40年(1907)に南原山に移築され、渡辺別荘(分水荘)として活用されていたが、老朽化したため昭和50年代に取り壊された。本陣主屋は弘化三年(1846)五月の建築であり、甲州道中における、本陣建築の遺構として惜しまれる建造物であった。この表門は、構造手法、および使用材料よりみて、主屋より新しく江戸末期の元治元年の火災後の復興になるものと考えられる。明治38年(1905)池袋区の、平出武平氏がゆずり受け、同家の正門としていたが、平成二年(1990)本屋取りこわしに際して町の歴史民族資料館に保存された。かつての蔦木宿の面影をしのび、心のよりどころとの区民の強い要望から、平成四年(1992)七月本陣跡地に復元された。建物の造りは簡素であるが数少ない本陣表門として貴重な遺構である。
創建は古事記の国譲り神話の一節にも書かれているとのです。
かつて別名を鷺宮と言っていて濁点がとれて ”さきのみや” になりその音に”先宮”をあてたと書いてある情報も。
【先宮神社由緒記】
例大祭 九月二十九日 昔から“おくんち”と親しまれていたが、最近は近くの日曜日に斎行。
先宮神社の創立は古事記の「国ゆずり」の神話の一節にみえる。諏訪神社の祭神「建御名方命」が出雲より、州羽(諏訪)の地に遷御された以前より、すでに原住民の産土神であった。
しかし「建御名方命」が諏訪神社に鎮座した当時、国ゆずりの為抵抗したが遂に服従し、現在の社地に鎮座することになった。この事により他地に出る事は許されず、今でも境内前の小川には橋を架けないとの言い伝えがある。
神社の史料など乏しいが、文献では大和地籍には数ヶ所の遺跡があり、嘉禎三年(1237)以前に集落が形成され、漁撈(ぎょりょう)・狩猟・農業・養蚕等・農耕の「神」を祭り、共同体として生活し、寄り所として神社を築き、豊作祈願や感謝をし、天災地変・無病息災・外敵の消除等を祈ったりした。
神社名については、古くは「新海宮社」・「鷺宮」・「鵲宮」と言う名称があって、旧高島藩の「検地水帳」で元禄九年(1696)に、「鷺宮」が「先宮」と表記されている。
また鎌倉幕府の嘉歴四年(1329)の「下知状」に「鷺宮」の造営を下桑原(現在の上諏訪)の役と定めている事から、この頃には神社としての形態が整っていたものと思われる。
なお拝殿脇には諏訪市指定の天然記念物「大欅」があり、年代を物語っており、また境内には数社の無格社が鎮座している。 (先宮神社誌より抜粋)
平成十四年三月吉日 -
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皮だけの大ケヤキ
驚くことに、表皮だけで生きている。頑張っていますね!
【先ノ宮神社のケヤキ】 諏訪市文化財(昭和43年4月指定)
先ノ宮神社の祭神は高光姫命といわれ、創立は文明十八年(1486)以前であるといわれている。諏訪明神以前の国神で、当初明神に反抗したが、ついに服従して今の社地に鎮座し、他に出ることを禁じられたという伝承があり、いまでも境内前の小川には橋がない。
このケヤキは市内では上社の布橋門横のケヤキとともに最大級のものである。
目通りの幹周7.45m、樹高25m、枝張り25m(長径)15m(短径)で樹齢650年と推定される。
古来「大樹は人を育てる」といわれ有名な巨樹である。
諏訪市教育委員会 -
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左に美しい諏訪湖が広がっている。対岸まで一望出来ます。
諏訪湖には建御名方にちなむ伝承が多い。氷結すると湖面に不思議な文様が現れるが、蛇神の建御名方が湖を渡った跡だとされる御神渡りと呼ばれている。 -
【橋本家】
昔、茶屋であった。軒先からは、灯籠のようなものが突き出て、装飾が素晴らしい。茶屋橋本政屋
街道に面して江戸時代後期の古風な建物が残っています。門は高島城三の丸門を移築し、龍・亀・鯉のコテ絵が描かれた土蔵や大きな石灯籠などが残されているそうです。茶屋と聞くと現在の喫茶店を連想するかもしれませんが、当時の茶屋は料亭の事で諏訪湖で獲れる魚とりわけ鯉料理が有名だったとの事です。
裏側からは諏訪湖が見渡せ、高島藩の殿様も諏訪湖の風景を楽しみながら食事をした事でしょう。
上諏訪宿は諏訪大社の門前町、そして高島藩諏訪氏三万石の城下町として栄えた宿場です。
天保14年(1843年)頃の上諏訪宿の宿内家数は232軒、うち本陣1、問屋1、旅籠小14軒で、宿内人口は973人でした。 -
【橋本家】
旧家で、昔ここには、茶屋があったと言われてる。軒先から装飾の立派な灯篭(とうろう)が突き出ています。
桁には鯉の彫刻が施されています、諏訪湖で獲れた鯉の料理屋
【甲州道中茶屋跡(橋本政屋)】
「橋本」と書かれた行燈が見える。連子格子の家で、脇の門は高島城三ノ丸の門を移築したもの。欄間には鯉の彫刻が施されている、とのこと。 -
橋本家 横から見た全景。諏訪側から歩いて来ると、大きな白い壁が目をひく。
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【明治天皇駐輦(ちゅうれん)址碑】
明治十三年(1880)、明治天皇ご巡幸の折に、とても風景が良いので思わず車を止めたと云われている。
ここから漁夫たちの投網の様子をご覧になったと云われる。 -
最後の一里塚の碑。
【富部の一里塚跡】
両塚共富部村地内で塚木は榎でした
起点の日本橋から道の中央を計って1里毎(4km)に、道の両側に大きく土を盛り榎等を植え一里塚として、旅人の便とした。 この塚は江戸より53番目。甲州街道中最終のもの。あと11町(1100m)で賑やかな下諏訪宿に着き、中山道につながる。(案内板) -
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承知川を【承知橋】で渡ります。
伝承によると永禄4年(1561年)武田信玄が川中島の戦いに挑む際、諏訪大明神と千手観音に戦勝を祈願し、社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣しました。
しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが、乗馬は頑として動かず信玄はふと先の約定を思い出し、馬上より下りて跪き、「神のお告げ承知仕り候」といって、帰国しました、以来承知川と呼ばれるようになったといいます。 -
【承知川の碑】
この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石。安山岩で重さ13屯。
【承知川橋の記】
この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。 輝石安山岩 重量約拾参屯 伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したという。爾来承知川と呼びこの一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。 この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。 表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する。(案内板) -
【諏訪大社下社秋宮】
我国最古の神社の一つであり、信濃国一之宮として、朝廷や幕府の信仰が厚く、
全国一万余の諏訪神社の総本社である。
御祭神は、信濃国の国造りをなされ、日本国土の守護神としてこの地にお鎮りになった。 -
【秋宮(あきみや)】
下諏訪の春宮の町の東端に鎮座する。東方には承知川が流れている。毎年8月-翌1月に祭神が祀られている。境内は社殿4棟が国の重要文化財に指定されている。周辺は温泉の湧出地で、境内にも御神湯がある。社殿の形式は春宮と同じで古くは秋宮・春宮間で建築の技が競われた。
「諏訪大社」
諏訪大社は諏訪湖の南に位置する上社(前宮と本宮)と北側の下社(春宮と秋宮)の2社4宮で構成される、全国に一万社余ある諏訪神社の総本社です。ご祭神は、出雲大社に祀られている大国主命(おおくにぬしのみこと)の第二子神、建御名方神(たけみなかたのかみ)とその妃神である八坂刀売神(やさかとめのかみ)で、下社ではさらに建御名方神の御兄神である八重事代主(やえことしろぬし)もお祀りしています。※
建御名方神は「諏訪明神」「お諏訪さま」「諏訪大明神」として親しまれ、古くは風・水を司る五穀豊穣を祈る神として、中世には武勇の神、軍神として坂上田村麻呂や源頼朝、武田信玄、徳川家康などの武将から崇拝されてきました。現在は生命の根源・生活の源を守る神として崇敬されており、その御神徳には限りがないといわれています。 -
諏訪大社下社秋宮
古くに創建された神社の多くがそうであるように、諏訪大社には本殿がありません。代わりに春宮ではスギの古木を、秋宮はイチイの古木をご神木としていますが、これは、自然物・自然現象を敬い神格化する古代の信仰「自然崇拝」の形をとどめているためです -
【諏訪大社下社秋宮の拝殿(重要文化財)】
この建物は御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったものである。二重楼門造りと呼ばれ二階は跳勾欄(先の反った欄干)を回し、全体に見事な彫刻が施されている。この弊拝殿は諏訪高島藩の命により安永6年(1777)に起工、安永10年に落成した。工匠は諏訪出身の初代立川和四郎冨棟で、彼は当時盛んになった立川流建築を学び、彫刻中沢五兵衛につき、いくつかの名建築を残した。軒まわりその他に彫刻が多く華麗なのは当時の流行であり、それがすべて素朴の生地を生かして清楚である。彫刻には独特のおおらかさがあり、拝殿内部の竹に鶴などは代表作である。(案内板) -
諏訪大社下社秋宮の拝殿
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諏訪の御柱【御柱】
御柱は寅年と申年の7年目毎に御宝殿の造営と共に建て替えられる御神木で、社殿の四隅に建立されています。この秋宮一之御柱は長さ17m余、直径1m余の樅の樹で、霧ケ峰高原に続く東俣国有林に於いて伐採され、数千人の氏子の奉仕により曳行されました。御柱祭は天下の奇祭として有名。 -
諏訪の名酒
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さざれ石
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新鶴は【幕末尊皇派で南画家の天龍道人】の住居跡です。
肥前出身の道人は後半生をこの地で過ごした。 -
明治6年(1873年)創業の下諏訪名物”塩羊羹”の老舗新鶴の前に出ます。
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中山道と甲州街道の合流地(三差路)
フォト右正面は中山道。この角を左に進むのも中山道。
甲州街道は手前からこの角地まで。
すなわち、甲州古道歩きのGoalです。完全踏破しました。 -
下諏訪宿甲州道中中山道合流之地と刻まれた碑があります、ここが甲州街道の終点
【甲州道中中山道合流之地/かめや駐車場 】
(裏面)甲州路道終点 右江戸へ53里11丁 中山道下諏訪宿問屋場跡 左江戸より55里7丁 正面京都へ77里3丁 -
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これは下諏訪宿街並み絵
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【下諏訪宿】
江戸から数えて39番目で甲州街道の終点、中山道69次のうち29番目にあたる。難所であった和田峠の西の入口として、諏訪大社下社の門前町として栄えた。古くは鎌倉時代から温泉の利用が確認されており、中山道唯一の温泉のある宿場であり、当時の絵画などには温泉を利用する旅人たちが描かれている。本陣は岩波家として現在も一部が一般公開されている。皇女和宮公降嫁の際、また明治天応が宿泊した際奥の座敷を見学することができる。脇本陣「桔梗屋」「まるや」は旅館として現在も営業している。旧称は下ノ諏訪。
天保14 14年(1843))の『中山道宿村大概帳』によれば、下諏訪宿の宿内家数は315軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠40軒で宿内人口は1,345人であった。(Wikipedia)
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