2012/10/27 - 2012/10/27
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montsaintmichelさん
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秋の寂しさに誘われ、物思いに耽る様子が「秋思」。この言葉に硬質の孤独を感じるのは、故郷を恋ふる杜甫「万里悲秋」の漢詩に認められた、ひとりの人間が抱く絶対の孤独感や無常感を彷彿とさせるからでしょう。そして、秋特有の物思いに耽り、センチメンタルな気分に浸る様子が「秋愁」です。
秋の深まりに同期してもの悲しい気持ちになるのは、やまと人のDNAのなせる業なのでしょう。そんな思いを晴らすため、古来より紅葉狩が脈々と引き継がれてきたのでしょう。時代祭後、やがて京都が紅葉狩の人並みに飲み込まれるまでの静寂な秋のひと時をゆっくり味わいたいと思い、京都御所参観に申し込みました。
秋季一般公開が10月31日〜11月4日まで行われますので、先取り情報を満載したいと思います。今年は明治天皇崩御100年、御生誕160年の年に当たり、明治天皇がご幼少の時から明治初年まで京都御所でお過ごしになられたご様子に関連した展示がなされるそうです。
前編は、京都市立美術館(大エルミタージュ美術展)〜京都御苑。
京都御苑にまつわる7不思議を中心に紹介します。
後編は、京都御所参観(標準60分コース)を紹介いたします。
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄
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京都御所 清所門(せいしょもん)
ここが御所参観の入口。参観者人数に余裕があれば、当日参観を申し込むとここから中に入れます。入り口では、府警とは別の皇宮警察本部に所属する皇宮護衛官と呼ばれる警官が御所を警護されています。
切妻屋根、瓦葺の門で、棟門という様式だそうです。戦前までは、門の内側に「御清所(おきよどころ)」という建物があり、それが名が由来です。御清所は平たく言うと台所です。清所御門は皇子女の参内初めに用いられたほか、御台所御門ともいわれるように御所の勝手口といえる通用門です。 -
京都御所 参観受付前
事前申込許可証をプリントアウトしたものを窓口で提示すればOKです。参観時間の20分前から受け付け開始。受付後は、参観者休所で案内ビデオを観ながら待機します。休所にはコインロッカーがあるので貴重品以外は預けて身軽になりましょう。(コインは返却されます)
事前参観を申し込まれた方はご存知と思いますが、標準コース(60分)と短縮コース(35分)があり、標準コースは何か月も前から満杯になっています。しかし、標準と短縮コースが同じ時間の場合は、短縮コースを申し込んだ方でも標準コースで回ることができます。(宮内庁の案内人から説明があります)その逆もありです。コースの違いは、諸大夫の間(襖絵)観賞、清涼殿、御常御殿や御内庭観賞の有無です。せっかくですので、時間があれば標準コースでお回りください。
宮内庁の京都御所参観申し込みはこちらから。
https://sankan.kunaicho.go.jp/sankan/servlet/recept/initCourse -
京都御所 宜秋門(ぎしゅうもん)
摂政・関白、大臣など公家の中で特に「牛車の宣旨」を許された公卿に限り牛車に乗ったままで出入りすることができました。公家たちはこの門で浅沓(あさくつ)という木沓に履き替えて、午前10時に出勤し午後3時に退出しました。
現在、年2回春と秋に行われる一般公開には、参観コースの入り口として開門されます。
京都御所は築地塀で囲まれた南北約450m、東西約250mの方形で面積は約11万?。元の平安京の内裏は、現在の京都御所より少し西の二条城の辺りにあったそうですが、度重なる火災に遭い、摂関家の邸宅を仮の皇居とするようになり、こうした里内裏が実質的な皇居となっていったそうです。現在の京都御所は土御門東洞院殿と呼ばれる里内裏の一つで、平安内裏の廃滅と前後して用いられることが多くなり、1331年光巌天皇がここに即位されて以来、東京遷都まで皇居とされるようになったそうです。 -
京都御所 御車寄(おくるまよせ)
公家が使う「宜秋門」の近くにあり、優雅な唐破風を持つ檜皮葺の屋根をいただいています。親王、摂家、堂上、六位の蔵人などが、ここに牛車を止めて近くの「諸大夫の間」へ昇殿する所です。 -
京都御所 御車寄
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京都御所 諸大夫の間
正式に参内した者の控えの間として使われ、内部は3つに分かれ、身分の差で通される場所が違ったそうです。畳の縁や襖の引手などもそれぞれ違う意匠だそうです。
襖絵に因み、格の高い順に、奥から「虎の間」、「鶴の間」、「桜の間」と名付けられています。 -
京都御所 諸大夫の間
建物手前の部屋が「諸大夫の間(桜の間)」。諸大夫の間というのは、元は桜の間のことでしたが、今は三間の総称となっています。桜に因んでということでしょうか、畳の縁も桃色と小洒落た間になっています。
襖絵は「桜図」原在照(はら ざいしょう、1813〜1871年)筆。幕末・明治の画家。原派三代。原在明の娘婿。正六位上・近江介内匠小允に任じられ、安政年間の内裏の造営に当たり、宮廷御用絵師として活躍しました。 -
京都御所 諸大夫の間
諸大夫の間の襖絵は、麻布の表面を胡粉で仕上げた上に墨絵淡彩で描かれています。 -
京都御所 諸大夫の間
中央が「殿上人の間(鶴の間)」で、襖絵は「鶴図」で、狩野永岳(かのう えいがく、1790〜1867年)筆。狩野永徳の弟子の狩野山楽にはじまる京 狩野派の九代目です。 -
京都御所 諸大夫の間
鶴の間は、東西南北に各4面の襖があり、そこに鶴が全部で37羽描かれています。そのうち南面の7羽は、空を飛翔している様子が描かれているそうですが、参観者からは裏側に当たるため、見ることは叶いません。 -
京都御所 諸大夫の間
紫宸殿に一番近い奥の部屋が「公卿の間(虎の間)」で、襖絵は「虎図」で、岸岱(がんたい、1782〜1865年)筆。
江戸時代後期の岸派の絵師。虎で有名な岸駒の長子として岸派を継承し発展させました。 -
京都御所 諸大夫の間
一般公開では襖絵がじっくり堪能できるそうですのでお楽しみに! -
京都御所 新御車寄(しんおくるまよせ)
1915年(大正4年)、大正天皇の即位礼に際し、天皇・皇后陛下のための自動車用の玄関として建てられた建物です。斬新な硝子窓が大正ロマンを彷彿とさせます。 -
京都御所 月華門
紫宸殿から伸びる朱塗りの回廊の西側にある瓦葺、丹塗り円柱の唐様の八脚門です。正面に対峙するのは日華門。 -
京都御所 承明門(じょうめいもん)
右端に見える屋根が承明門です。 -
京都御所 承明門
京都の夏の風物詩の五山の送り火で一番歴史が古い東山の「大」は、京都御所を向いて書かれているという説があります。こうして見ると、確かに「大」が正面にあります。 -
京都御所 紫宸殿
丹色(にいろ)の門に囲まれた紫宸殿。 丹塗とは、建物を朱色で彩って魔除けや神性を表し、金属製の顔料で虫害や腐食から守る塗装のことです。丹は鉛の酸化物の一種で、ガラスの材料にもなります。弥生時代に使われていた物質だそうです。
紫宸殿は、御所の中枢をなす建造物で、即位の礼など重要な儀式がここで挙行されたそうです。見るからに格式高く、荘厳で、言い換えれば何やら秘密めいたものを感じるのは当方だけでしょうか?紫宸殿の左側には右近の橘、右側には左近の桜。逆のようですが、主役となる天皇から見れば左右は正しくなります。右京区が地図の上では左にあり、左京区が右にあるのも、同じ理屈だそうです。
因みに、左近桜は元は「梅」だったそうで、乾枯を契機に「桜」に植え替えたそうです。 -
京都御所 紫宸殿
即位式などの重要な儀式を執り行う最も格式の高い正殿で、入母屋桧皮葺の高床式宮殿建築です。京都御所で南向きに建てられている建物はこの紫宸殿だけです。一般公開では、内部中央に高御座と言われる天皇即位の際の御座と皇后の御座 御帳台が置かれます。現在の高御座は、古制に則り、大正天皇即位式の際に造られた物です。3層の継壇からなり、朱塗の高欄を巡らした黒漆塗の浜床の上に八角形の屋形があり、屋根の上には中央に大鳳凰、周りには小鳳凰を戴せ、大小の鏡、玉、ようらく、帳(とばり)などで装飾されています。屋形の中には、御椅子(いし)があり、その左右に剣璽(けんじ)と御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)を置く案(あん)があります。今上天皇陛下の即位礼の際、東京の宮殿に運ばれて用いられたそうです。
建物の前面には白砂の南庭(だんてい)が広がり、紫宸殿に相応しい落ち着いた景観を感じられました。 -
京都御所 紫宸殿
さて、紫宸殿前の左近の梅が桜に替えられたのはいつ頃のことなのか?一説に、鶯宿梅(おうしゅくばい)の故事を基に963年に村上天皇が植え替えたという説がありますが、この時に植え替えられたのは清涼殿前の桜のようです。 一方、846〜848年頃、仁明天皇が桜を好んだ嵯峨上皇を偲んで桜へ植替え、その実、藤原時代到来の威力を知らしめたという説があります。この頃といえば、菅原道真生誕(845年)と前後し、道真が紫宸殿の梅の精の生まれ変わりだとの言い伝えもあるようです。仁明天皇が「御所には桜」と命じて以降、桜が置かれて歴史は続いています。その後武家社会では、花は梅に代わって桜が主役の座に着きました。 しかし、初の観桜会を開いた嵯峨上皇が住まわれた嵯峨御所(大覚寺)には、今も左近の梅が大切に護られているというのは、感慨深いものがあります。往時は、どこかの新政党と同じで白黒しかなく、グレーと言う概念がなかったのでしょうね!? -
京都御所 紫宸殿
神道の中心である天皇が、密教を儀式に取り入れていた!?それは即位儀礼。従来は神道の儀式だけでしたが、ある時、仏教の儀式も組込まれるようになったそうです。 天皇の即位式で最も重要な儀式「紫宸殿の儀」はここで行われます。板敷きの空間の中央に高御座が置かれ、その内部には椅子が置かれています。ここに座ることで、天皇の即位が象徴的に示されます。高御座に着席後、密教儀式が行われたそうです。 密教で仏を表すポーズの印相を組み、仏を意味する真言を唱えます。どちらも大日如来を指すそうです。なぜ重要な儀式に仏教が組込まれたかというと、神仏習合が進んでいたから。神道の最高神は天照大御神ですが、仏教では大日如来に相当します。天皇は即位の儀礼の時に、神道儀式で天照大御神の霊力、仏教儀式で大日如来の霊力を授かります。この即位勧請は平安時代に始り、幕末の孝明天皇まで続いたそうです。そして廃仏毀釈で仏教を叩いた明治新政府。仏教の霊力は不要となったのか?実は明治天皇は、即位の前日、ある人物の怨霊の鎮魂を丁重に行ったそうです。その人物こそ史上最大の怨霊と畏れられた崇徳天皇。この時、神道・仏教の両方でお祀りがなされました。 日本人が神社・寺を区別せず、神様・仏様に同じようにお祈りしてきた謎は、こうした歴史に隠されていたのです。 -
京都御所 紫宸殿
広有射怪鳥事(ひろあり けちょうをいること)、『太平記』巻第12。 隠岐次郎左衛門広有が「以津真天(いつまで)」という怪鳥を射落としたという伝説。
元弘3年、全国に伝染病が流行して甚大な死者をもたらしたため、元号は建武へと変更された。しかも秋口になると紫宸殿上空に「いつまで、いつまで」と鳴く怪鳥が出現し、その鳴き声は雲に響き人々の眠りを覚ました。そこで諸卿は会議を開き、二条関白・藤原道平の手下で弓の名手・隠岐次郎左衛門広有にその怪鳥を射止めさせるよう命じた。広有は「肉眼で見えるくらいの大きさならば確実に射落とせる」と快諾し、怪鳥の現れるのをじっと待った。
8月17日、月がよく見える夜。突如、黒雲が御所の上に立ち込めてきたのと同時に、その雲の中から炎を吐くようなけたたましい鳥の鳴き声が聞こえてきた。そして鳴き声と同時に稲光が御所を明るく照らした。広有が矢を放った直後、鳥は急降下し始めた。すると直後に大岩が落ちたような轟音が聞こえ、怪鳥は仁寿殿の軒上から2つに折れ曲がって竹の台の前へ転落した。射落とした怪鳥を見ると、頭は人間、尾は蛇の姿をしていたが、嘴の先端は曲がり鋭い牙があり、両足には剣のように鋭い蹴爪が生えていた。羽を伸ばしてみると、大きさは1丈6尺(約5m)ほどにもなった。広有は偉業を称えられ、「五位」の位と“真に弓を射るもの”を意味する「真弓」の姓を褒美として与えられ、大きな荘園を2つも手に入れた。 -
京都御所 紫宸殿
以下は、朝日新聞(1989年11月)に掲載された記事の要約。
御所紫宸殿の屋根の葺き替え工事中、その棟瓦から乾燥してミイラ状になった鯉が一匹発見された。長さ30cmのマゴイで、大棟西側の先端、二段に重ねられた巨大な飾り瓦の内側にあった木箱の中から発見された。納められた板には「昭和2〜3年の屋根葺き替え工事中、発見せしものなり。鯉は水を吐くから防火用か、あるいは出世魚のためか、獣が偶然運んできたものか」と記されていた。建築史学者・福山敏男先生は「類例は聞いたこともないが、寺院には大棟にシビをのせたり、建物に懸魚(けぎょ)を飾ったりするから、防火などのまじないかもしれない」と語る。宮内庁京都事務所では、「防火のおまじないなら意味もある」とし、このままにしておく方針。
きっと今でも、紫宸殿の屋根には鯉のミイラが鎮座し、御所詣でに勤しむ我々を静かに見下ろしているのでしょうね。 -
京都御所 承明門
丹塗りは、最近塗り直されたこともあり朱色が目に鮮やかです。
建礼門と紫宸殿の間にある内郭の丹塗り・瓦葺・切妻屋根の12脚門の門。紫宸殿の南正面に位置し、天皇行幸や上皇御即位後の出入りに用いられます。御所は平安京の北の端に位置してます。天皇は北極星に例えられ、北の空に輝きすべての星、太陽も月も従える不動のものの象徴でした。また、中国道教で北極星を天皇大帝と呼び、天皇の語源になっています。天子南面とは、天皇が北を背にし、南面した左京、右京の民すべてを支配することを意味しました。御所内の正面に承明門、左に日華門、右に月華門が造られ、これも日月、星を司る意味を持っているそうです。 -
京都御所 建礼門
御所の南側正面の門で、天皇陛下専用。最近では国賓の訪問の際にも使われるとのこと。今上天皇は、皇后様とご一緒にこの門を使われているようです。硬い宮内庁と言えども、良い例外は許すという姿勢が評価できますね! -
京都御所 建礼門
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京都御所 建礼門
蟇股に彫られているのは、仙人 費長房です。
役人の費長房が市場で薬売りの店を開く不思議な老人と出会った。その店頭には壷を掛けている。しばらく付き合って老人は費長房の人柄に好感した。ある日老人は彼を壷の中に一緒に入ろうと誘った。驚いた費長房は目をつぶって後を追って入ったら、なんと壷の中は宮殿楼閣、風光明媚、華麗な神仙境であった。老人は実は不老長生の仙人であった。 -
京都御所 建礼門
黄安(こうあん、通称:亀仙人)は、前漢・武帝の時代の仙人です。3尺もある亀に乗っており、その亀は3000年に1回しか首を出さなかったと言われています。黄安は5回出したのを見たといわれ、単純計算でも黄安は1万5千年生きたことになります。ある日、皇帝・武帝に呼ばれ、仙人の話をしましたが、武帝が亡くなって後は人知れず何処かへ消えていきました。別名:亀乗り仙人。 -
京都御所 建礼門
中央に鎮座しているのが、波を模した彫刻です。
凡庸な当方には、ここで用いられた波模様の意味が分かりません。 -
京都御所 建春門
御所の東面の南よりにある、切妻屋根、檜皮葺の四脚門。名の由来は、北魏の洛陽宮や唐の洛陽宮にあった門に因みます。御所六門の中で唯一唐破風を付けた一種の唐門です。本来は、 内侍所(ないしどころ)への門でした。内侍所とは三種の神器の一つである神鏡を安置 する場所で、古来内侍がこれを守護したため、この名前があります。賢所( かしこどころ)とも言います。しかし、近世以来、建礼門から天皇が出入りしたのに対して、皇后が出入りする門として役割も果たすようになり、節会や主要な行事の時にのみ、大臣・公家の出入りが許されました。現在では、皇太子殿下・妃殿下用の御門とされています。秋篠宮様は使えないんだそうです。 -
京都御所 春興殿
こちらは珍しく銅で葺かれた屋根を持つ春興殿。三種の神器の一つ、「神鏡」(八咫鏡)が奉安されていましたが、東京遷都に伴い現在は東京の賢所に奉安されています。即位の大礼を行う際には、ここに移御して奉安する慣わしとなっているそうです。東京遷都というのは、結構、まどろっこしいことになっているんですね。税金の無駄使いの温床かな!? -
京都御所 紫宸殿(北側)
御所の瓦全般に言えることですが、菊の紋章が焼き付けられています。 -
京都御所 紫宸殿(北側)
紫宸殿は、紫式部や清少納言など古文の授業で聞き及んだ程度です。気品のある言葉の響きが刺激になり、想像力は活性化するのですが、所詮想像の域を超えませんでした。
今回、御所参観が叶い、王朝貴族時代の生活様式が少し実感できたような気がします。まさに百聞は一見にしかずですね。 -
京都御所 清涼殿
平安時代の内裏で、天皇の日常生活の場として使われた御殿です。現在のものは、1790年に復元され、平安時代のものよりは小ぶりですが、入母屋桧皮葺の寝殿造りの建築様式は平安の昔と同じで古の姿を伝えているそうです。
平安時代、天皇を苦しめた「鵺(ぬえ)」という妖怪を源頼政が退治しました。時は安時代末期、近衛天皇の時代。 清涼殿に毎晩不気味な鳴き声が響き渡り、天皇とその一族を恐れさせていました。そのうち幼い天皇は病の身となり、いかなる治療や加持祈祷も効き目がありませんでした。そこで弓矢の達人である源頼政に、正体不明の怪物を退治するように命令が下されました。 ある夜、頼政は、家来の猪早太を連れ、先祖の頼光より受け継いだ弓を手に御所に出向きます。清涼殿を覆う黒雲に向かって矢を射ると、奇怪な怪物が落ちてきました。「頭は猿、胴体は狸、手足は虎、尾は蛇で、『ヒョーヒョー』と大変に気味の悪い声で鳴く」という、ギリシャ神話の怪物キメラのようないくつもの動物が合成された姿をした怪物だったそうです。その姿は、北東の寅、南東の巳、南西の申、北西の戌亥といった干支と方位を表す獣の合成という説もあります。この4方位は陰陽道では不吉とされる方位であり、まさに「不吉なものを合わせた象徴」とでもいうべき姿です。 落ちてきたところを、すかさず猪早太が取り押さえてとどめを差しました。これにより、天皇の病気も平癒し、御所にも平穏が戻ったと伝えられています。
妖怪退治伝説のひとつですが、その時の矢が奉納されているのが神明神社。四条烏丸付近にあり、「厄除け」「火除け」の神様として信仰されています。毎年、例祭の日にその矢が公開されます。
鵺の姿については、鳥山石燕『今昔画図百鬼』を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:SekienNue.jpg -
京都御所 清涼殿
右奥には天皇の御寝室「夜御殿(よんのおとど)」があり、ここは四方を壁で囲んだ塗籠造りになっています。
左側の屏風前の床の高さまで土を盛り漆喰で塗り固めた所は、石灰壇(いしばいだん)と言い、地面になぞられてここから伊勢神宮、賀茂神社や内侍所等神鏡等を遙拝されたそうです。
右端の御格子(蔀)は上辺を軸に 下辺を内側上部へ吊り上げる仕組になっています。その左側が開いた状態で、色彩豊かな襖絵「昆明池(こんめいち)の障子」が窺えます。 -
京都御所 清涼殿
中央母屋の白絹の帳の奥に天皇がご休息に使われた御帳台が置かれ、獅子狛犬が両脇を守護しています。その手前の厚畳が「昼御座(ひのおまし)」と呼ばれる昼間お使いになる御座所で、そこで参上した者と対面されたそうです。
一般公開では、厚畳の上に綿入れの敷物、御茵(おしとね)が置かれます。 -
京都御所 清涼殿
左端には、天皇の行う年中行事が書かれた衝立(年中行事障子)があります。因みに、この裏側(南廂)は「殿上の間」と言い、蔵人や公卿などが伺候し奉仕したそうです。
清涼殿は、平安の頃の古制を伝えているそうです。 一条天皇中宮定子に仕えていた清少納言は、ここで過ごし「枕草子」にその様子を記しています。案内をしてくださった方が、「枕草子を読んでくるとよく分かりますよ」と仰っていました。次回は、少し読んでから来たいと思います。 -
京都御所 清涼殿
北側に20cmほどの落差の滝口があることに因み、清涼殿を警護する武士を特に滝口の武士と呼んだそうです。 -
京都御所 御池庭 欅橋(けやきばし)
海を模して玉石を敷き詰めた池ですが、決して「御庭の池」ではありません。池も庭の一部という趣向で、「御池庭」という名に恥じない景観を誇ります。
敷地面積は80000?もあり、小堀遠州も作庭に関わっています。蓬莱島、白砂、黒い栗石を敷き詰めた州浜、舟着の飛び石、池、欅橋、樹木などが美しい景観を見せています。
欅橋は、元は総欅造りの木橋であったことから名の由来があります。現在は、欄干のみ欅で、橋脚は花崗岩でできているそうです。
英国のエリザベス女王陛下が1975年来日された際にここを訪問され、その時、この欅橋の上から鯉に餌をおやりになったそうです。 -
京都御所 御池庭
御池庭の佇まいは美しく優雅ですが、実は江戸時代、池は天皇はじめ皇族の船遊びの場でもありました。船は御船と呼ばれ、新調や修理が繰り返されました。それを請け負っていたのは御所出入りの指物師です。
その一家に、寛永(1624〜44)頃から続く、船屋太兵衛家があります。同家は、明治になって天皇が東京へ移るに伴って指物師を廃業しましたが、家業の誇りを持ち、仕様書や絵図面等を「古文書」として保存していました。
明治30(1897)年6月初旬、宮内省から突然連絡が入ります。用件は、京都御所に滞在する明治天皇の御船新調の参考にするため、江戸時代に製作に関わった大工を探して欲しいというもの。天皇は、洪水による東海道本線不通と東京の麻疹流行のために帰ることができず長期滞在となっていました。
往時の姿を再現したいという思い入れがあり、太兵衛の出番となったのです。しかし、往時製作に関わった大工一家は途絶えていました。そこで所蔵する古文書の中から、天皇の御召御船や皇女和宮の御船の絵図、仕様書を提出しました。その2週間後、当時の「日出新聞」が伝えるには、「ことのほか満足され、さっそくその日、翌日と連続して船遊びをされた」とのことです。同家の誇りである古文書が代々引き継がれてきたからこそと思われます。 -
京都御所 御池庭
内裏の池には数々の橋がかかっていますが、この欅橋が代表的なものとなっています。午後には池に映った欅橋が見事です。池は東側に位置し、夜には月が映り込み、夜空と池の二つの月を愛でられるという贅沢な造りになっています。
中島に架かる欅橋、その奥に『伊勢物語』に登場する八ッ橋があります。手前には栗石を敷きつめた州浜、飛石の舟着の奥には中島の蓬莱島があります。島中央に大きな雪見灯籠が窺えます。中島は蓬莱島の左右にもあり、北(左)の中島には石橋の欄干橋、切石橋が架かかっています。南(右)の中島には前述の欅橋、板橋。蓬莱島の奥の対岸には滝組があります。北の中島奥の対岸にも別の滝組があるそうです。 -
京都御所 小御所
寝殿造りと書院造りの両方の様式が混合した建物で、東宮御元服、立太子の儀式などに用いられ、御元服御殿とも呼ばれます。平安朝の内裏にはなかった御殿で、天皇が将軍や諸侯と対面される場所としても使われていたそうです。慶応3年(1867年)12月9日の王政復古の大号令が発せられたその日の夜、『小御所会議』がここで行われました。 昭和29年(1954)に鴨川の花火の火の粉が飛んできて焼失、その後復元されたという残念な歴史もあるそうです。
ところで、徳川慶喜の頭には以前から「大君制国家」構想があり、龍馬が船中八策で記した「大政奉還論」より前に着想していたそうです。諸大名や有力士族からなる上下議院制度をつくり、その上に大統領「大君」を置くというもの。しかも、朝廷・天皇は政治の外に置き、実権は今まで通り慶喜が握るという計画。
朝廷は腐心の末、有力諸侯を京集めます。これが『小御所会議』。構成員は、「王政復古」の大号令で新設された三職で、孝明天皇を含めて総勢28名。総裁は、有栖川宮熾仁親王。その実態は完全なクーデターで、薩摩藩の当初からの狙いでした。今後の政局に将軍を加えないことを天皇・朝廷に納得させる。岩倉具視が中心となり、大久保利通らと作戦を練って実行したもの。
急転直下、慶喜の辞官と幕府直轄領の納地が決議されました。しかし、首尾よく決まった訳ではなく、土佐藩前藩主の山内容堂が異議を唱え、紛叫。議論が縺れに縺れてどうにも進まなくなった時、ひとまず休憩。そこで西郷が発したとされる言葉、それが「短刀が一つあれば、こと足りるではないか!」。西郷の言葉は、後世の創作という説もあるのですが…。
『小御所会議』の王政復古クーデターは、薩摩・長州など倒幕派の勝利と受け取られることが多い。しかし、慶喜はもちろん、親幕派の執拗な抵抗により、辞官納地案は次第に骨抜きとされ、倒幕派の思惑通り事態が進んだわけではありません。結局、倒幕派が完全に主導権を握るのは、翌年の鳥羽・伏見の戦いの後になりました。 -
京都御所 御学問所
親王宣下、新茶封切、御吉書初、月例の和歌御会、摂家親王の謁見などの諸儀が行われました。こちらの建物は格子の蔀(しとみ)の代わりに舞良戸(まいらど)という引き戸が使われているので少し趣きが異なります。床や違い棚もあって、書院造に近い建築様式になっています。
この左側、小御所との間には蹴鞠の庭があります。因みに、蹴鞠の鞠は、鹿革を使っていたそうです。ひょっとしたらサッカーボールのルーツなのでは!? -
京都御所 御常御殿(おつねごてん)
長押(なげし)門を経て御常御殿と対峙します。豊臣秀吉が行った天正度の運営に際して別棟として建てられたもので、この京都御所の中で一番大きな御殿です。入母屋檜皮葺書院造で、江戸時代の1855年に再建されました。天皇が日常生活を営まれる御殿で15室あり、三種の神器の中の二つを奉安する剣璽の間も備えられています。 -
京都御所 御常御殿 杉戸絵「曲水の宴」
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京都御所 御常御殿 杉戸絵「雅楽」
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京都御所 御内庭(ごないてい)
プライベートスペースとしての御常御殿の前に広がる御内庭です。先ほどの御池庭よりもこちらの方が断然凝ったお庭に思えました。毎日眺めるお庭なわけですから、凝りに凝って侘び寂を極めたお庭なのかもしれません。 -
京都御所 御内庭
敷地面積は6900?。御内庭は「流れの庭」と呼ばれ、邸内に遣水の流れが造られています。石組、飛石、遣水、橋、樹木により庭園が構成されています。
優雅な庭にはススキがよく似合います。 -
京都御所 御涼所(おすずみしょ)
こちらは風の通りの良い御涼所。付近には龍泉と呼ばれる池があります。京都の蒸し暑さは、いつの時代も変わらないのですね。
夏場の避暑のための御涼所前の「龍泉の庭」は、建物近くまで水を引き入れ、遣水は茶室「聴雪」、渡廊の下を流れます。ここから先には行かれませんが、さらに北の御花御殿の東に近代、明治期作庭の「蝸牛の庭」があるそうです。清涼殿西には坪庭の「萩壺」があり、白砂に萩が植えられているそうです。飛香舎南庭には「藤壺」と呼ばれ藤棚があります。 -
京都御所 御三間(おみま)
七夕、盂蘭盆会などの宮中御内儀の行事が行われた場所です。内部は、下段の間、中段の間、上段の間に区切られています。一般公開では見られると思いますが、各部屋には襖絵があります。下段の間の襖絵は岸誠(がん せい)筆の「駒引図(こまひきず)」、中段の間の襖絵は駒井孝礼(こまい こうれい)筆の「賀茂祭群参図(かもさいぐんざんず)」、上段の間の襖絵は住吉弘貫(すみよし ひろつら)筆の「朝賀図(ちょうがず)」です。 -
京都御所 御三間 杉戸絵「牛に桜」
直接西日が射しているので、絵の劣化も激しいのでは? -
京都御所 御三間 杉戸絵「老人と唐子に松」
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京都御所 御常御殿(左)と御三間の西面
王朝貴族文化に浸り、豊かな気持ちになれた参観もこれでお終いです。
案内係りの方の熱弁にすっかり夢中になり、あっという間でした。15時スタートでしたが、解散は20分延長の16時20分。本日最後と言うこともあり、サービス精神旺盛な方でした。別れを惜しむように、影もこんなに長くなっています。
また季節を変えて訪れたい場所です。 案内係の方のお奨めは、空気が凛とした冬だそうです。雪が積もった御所も趣きがありそうです。 -
京都御所 朔平門
陽がだいぶ傾いてきました。秋の夕暮れは釣瓶落としとはよく言ったものです。
これから、ディナーのため、祇園まで向かいます。 -
京都市営地下鉄
地下鉄烏丸線 車両のデコレーションです。
JA共済と府警のコラボで、自転車での交通安全を呼びかけています。京都は比較的平坦地が多く、自転車大国と言われています。便利な乗り物ですが、反面、マナー違反による事故や放置自転車の迷惑行為が後を絶たないようです。皆さんもマップや携帯を見ながら歩く時には、自転車にご用心くださいませ。
三条界隈では、夜間に放置自転車の撤去をするそうです。自転車を置いて飲み歩く人も多いようです。夜間と土日祝日も撤去するのは、全国でも京都市だけ。京都市は、自転車での通勤・通学割合が大阪市に次いで全国2位。特に大学周辺は自転車だらで、百万遍の交差点は「中国の都市みたい」と言われています。
市内には所々にレンタサイクル店があり、どこででも返却できる「コミュニティサイクル」が増えているそうです。クレジットカードを使って無人の拠点で自転車を借りられるシステムは海外でよく見かけますが、日本ではまだ黎明期。京都から全国に広がって欲しいですね!
観光名所の中には自転車だと便利な場所もあります。例えば、岩倉の円通寺とか、紅葉の名所の鷹峯の光悦寺。ただ、河原町通や四条通、商店街の寺町通や新京極などの人気エリアでは自転車通行禁止の所も多く、交通規制に疎い観光客には不案内かも。場所を選んで楽しめばいいのでは? -
京都 祇園 四条大橋
陽が落ち、南座がきれいにライトアップされていました。 -
京都 祇園 花咲
路地を一本入るとそこは別世界が広がる異次元空間でした。
石畳みには打ち水がなされ、細やかなおもてなしの心が読み取れます。
花街・祇園にひっそりと佇む、町屋風情豊かな大人の隠れ家です。 -
京都 祇園 花咲
会席の月替わりコースを予約しました。(全9品:季節の小鉢/前菜/お造り/土瓶蒸し<鱧、松茸>/鯛の朴葉味噌焼き/揚げ饅頭/天ぷら/京浅漬けのにぎり/季節のデザート)
写真は、京浅漬けのにぎりです。左から、京かぶ、京ナス、京白菜、しば漬けの手巻きです。あっさりした味わいで、ほぼ満腹状態で気を揉みましたが、お茶漬けのようにさくっといただけました。
お店のHPは次を参照してください。
http://www.gion-hanasaki.com/
次のサイトでクーポンをプリントアウトして持参すると京名物「ちりめん山椒」がいただけます。
http://r.gnavi.co.jp/k290600/ -
京都 祇園 花咲
板前さんと仲居さんが玄関先で見送ってくれました。
路地を抜けて表通りに出る手前でもう一度お礼を述べられます。
ゆったりと寛げ、温かいおもてなしを受け、少し贅沢をした気分に浸り大満足でした。
でも、明日から暫くは節約です! -
京都 花見小路に続く裏通り
花見小路とは真逆のひっそりとした裏通りです。上品な灯りが足元を照らしてくれます。 -
おまけ1
尼崎市にある「髭の渡しコスモス園」です。
キバナコスモスはほぼ満開、その他は7〜8分咲と見頃になっています。
例年、遅蒔きのため、10月下旬から11月上旬に見頃を迎えます。 -
おまけ2
一面を彩るキバナコスモスです。オレンジ色が濃いのがここの特徴です。 -
おまけ3
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おまけ4
数本だけ他のコスモスに混じって咲いたキバナコスモス。
とても目立っていました。 -
おまけ5
アカタテハ。チョウ目タテハチョウ科に分類されるチョウの一種。翅に鮮やかな模様があるタテハチョウ。秋によく見られます。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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