2012/09/15 - 2012/09/19
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HYRONさん
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今回のマレーシア行の最大の目的はマラッカを訪れること。
滞在しているクアラルンプールからマラッカへの行き方は、
①ツアーを利用する
②マレー鉄道を利用し最寄のタンピン駅へ。
駅からはタクシー利用。
③高速バスを利用
④タクシーを利用
等がありますが、団体行動が苦手な私としては①は論外。②と③は安くあがりそうですが、時間的なムダが多そうです。
そこで、ホテルのコンシェルジュに、
「明日行きたいマラッカへ。タクシーお願い。1日中」
みたいな感じの下手糞な英語でお願いしたところ、コンシェルジュのお兄さんは手馴れた感じでタクシーを手配してくれました。
当日利用したのは、定額制(らしい)プレミアタクシーではなく、交渉が必要なバジェットタクシー。それも値段交渉の際にかなり吹っかけて来る(と言われている)、インド系のドライバーさん。
結論から言うと、マラッカまでの往復はメーター料金(360RM)で、その他に、現地での待ち時間やら案内やらの費用(40RM)と、かなりの適正価格。ドライバーのARASUさんは何かと気配りしてくれる良い人で、出発前に渡した「行きたいところリスト」以外にも色々と案内してくれ、大満足のマラッカ行となりました。
■マラッカの簡単な歴史
マラッカは東西交通の要衝マラッカ海峡に面する港市として発展。14世紀末にシュリービジャヤ王国最後の王子がマラッカ王国を建国したのが発展の始まりとされ、明の鄭和による遠征の際も寄港地となった。
1414年頃イスラム化し、香辛料貿易における重要な東西中継港として繁栄を極める。
1511年、ポルトガルのインド総督により征服され、ポルトガル海洋帝国の拠点となり、イエズス会のフランシスコ・ザビエルはマラッカから東アジア布教に出発した。
東南アジアでの海洋覇権がポルトガルからオランダに移ると、1641年にオランダ東インド会社がマラッカを征服した。ただし、オランダの拠点はジャワ島のバタヴィアに置かれていた為、マラッカは地方港の地位に転落する。
1824年の英蘭条約により、マラッカはイギリスに譲渡されたが、英国の海峡植民地の中心は新設されたシンガポールやペナンにあったため、マラッカの港湾機能は衰退していく。
第二次大戦期は英国に代わり日本軍が占拠、戦後はイギリスが再度の植民地支配を行うが、独立の気運が高まり、1948年にイギリスの保護領としてマラヤ連邦が成立。1957年には完全独立を果し、マラッカはマレーシアの都市として現在に至る。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 3.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 友人
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- タクシー 徒歩
- 航空会社
- JAL
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
KLからマラッカまでは2時間半程のタクシーの旅。
高速道路も整備され快適な移動でした。
KL市内を出発した際は大雨でしたが、マラッカに到着する頃には晴天に。今日は暑くなりそうです。
まず訪れたのは、セント・ピーターズ教会。
1710年にポルトガル人の子孫によって建設されたカソリック教会で、東南アジアに現存する最古のキリスト教会とされています。 -
フランシス・ザビエル教会
ザビエルの偉業を称え1849年にポルトガル人の子孫たちが中心となり建設した教会です。
色鮮やかなステンドグラスは見応えあり。 -
フランシス・ザビエル教会の敷地内にあるヤジロウの像。
マラッカでザビエルと出会い、ザビエルを鹿児島まで案内したヤジロウを記念し、鹿児島の協会から寄贈されたもの。 -
いよいよマラッカの中心部、オランダ広場へ。
オランダ占領時代の建築物が集まる一角で、スタダイス広場、オランダ広場、ダッチスクエア、時計広場など、色々な呼称がありあす。 -
広場で最も有名な建物は、この1753年にオランダ人によって建設されたプロテスタント教会。
1741年にマラッカ占領100年を記念し建設が開始され、12年の歳月を経て完成しました。
教会内にはレオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」の複製画が展示されていますが、教会内での写真撮影は禁止です。 -
広場の中心に建つ時計塔はプラナカンの豪商、タン・ベン・スィが亡父に弔意をこめて1886年に建設したもの。
オリジナルの時計は英国製で、96年間使用される。現在の時計は1982年改修の際、セイコーが独立記念日に寄付したものとの事。 -
広場に面して建つ観光案内所。
-
プロテスタント教会向かって右にあるスタダイス(オランダ語で議事堂・市役所の意)の辺りから丘を登っていくと、セントポール教会礼拝堂跡に到着します。
1521年、ポルトガル軍によって建設されたもので、ザビエルはこの教会を拠点に布教活動を行ないました。 -
セントポール教会礼拝堂跡に建つザビエルの像。
中国での布教活動中、熱病に冒され殉教したザビエルは、ゴアで埋葬されましたが、その移送途中の9ヶ月間、この教会で安置されました。
埋葬の際、その右手が切り落とされ当時のローマ法王に届けられましたが、時を同じくしてマラッカに建てられたザビエル像に落雷があり右手が粉々に飛び散ったといわれ、現在もその右手は欠けたままです。 -
ポルトガルの後にマラッカを支配したオランダとイギリスはプロテスタントのため、カトリックであるこの教会は放置され、現在に至ります。
祭壇があったとされる「IHS」と刻まれたプレートがある金網に囲われた場所が、ザビエルの聖骸が安置されていた場所。
安置されている間、ザビエルの遺骸は全く腐敗しなかったそうです。 -
登ってきた方向と反対側に丘を降りてくると、サンチャゴ砦に到着します。
サンチャゴ砦は別称で、正式名はファモサ要塞。
1511年にマラッカ王朝を駆逐し植民地経営に乗り出したポルトガルによって建造されました。設置当時はこの地点が海岸線だったそうで、その遺構も残っています。 -
ポルトガルの後にマラッカを征服したオランダ東インド会社もこの要塞を利用していました。
イギリス統治下の1795年、破壊される予定だった砦は、スタンフォード・ラッフルズの命令で破壊が中止され、現在はマラッカに残る唯一の砦の建物として一般公開されています。 -
サンチャゴ砦のすぐ隣にある建物は、マラッカ・スルタン・パレス。
14世紀初頭のマラッカ王国の宮殿のレプリカで、16世紀に著された「マラヤ年代史」、「マラヤ王統記」などの文章から推察し設計図面を作成し復元された建物です。 -
独立宣言記念館はイギリス植民地時代に将校たちの社交を目的とした「マラッカ倶楽部」の本部として1912年に建設されたもの。
1956年、ラーマン初代首相が独立を宣言した記念として英国から譲渡されました。 -
マラッカの交通公園?
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マラッカ・タワーは、80人乗りの展望台に乗り込み、展望台がそのまま110m上昇。展望台部分がゆっくりと回転しながら降りてきます。
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この日はマレーシア・デイの為か、タワーの前は大混雑。
乗り込むまでに30分以上待つ必要があったので、断念。 -
海洋博物館は船の形。
博物館の裏手にはマラッカ川のクルーズ船乗り場があります。 -
マラッカ川を渡りトゥカン・エマス通りにやってきました。
この通りは、イスラム寺院、ヒンドゥ寺院、中国寺院が並んでおり、そこから「ハーモニー通り」とも呼ばれています。
まずはヒンドゥー寺院のスリ・ポヤタ・ヴィナヤガ・ムーティ寺院を見学。
1781年創建は、現存するヒンドゥー寺院の中でマレーシア最古。
「ヴィヤナガール」は象頭人身の商業と学問の神様の「ガネーシャ」の事。 -
続いてイスラム寺院、カンポン・クリン・モスクです。
1728年に建立されたマレーシア最古のイスラム教寺院。
ヒンドゥ教の流れをくむ三角屋根は、別名スマトラ屋根と呼ばれ、マラッカ王国初期のデザインです。 -
最後は中国寺院。青雲亭です。
明の永楽帝の命を受け、大遠征を指揮した鄭和の功績を讃え1646年に建立された寺院で、マレーシアに現存する最古の仏教寺院。
イスラム化したマラッカで、中華社会の心の支えとなった寺院です。道教、儒教、仏教の神様が合祀されています。 -
青雲亭の前に建つ香林寺の2階からは、青雲亭を俯瞰でみる事ができます。
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チャイナタウンのメインストリート、ジョン・カー通りにやってきました。
とにかく、人・人・人、おまけに車!!の大混雑で遠巻きに見るのみ。 -
ジョン・カー通りの1ブロック南にあるトゥン・タン・チェン・ロック通りは、プラナカンの豪商が居を構えていた場所で、「富豪通り」とも呼ばれています。
この通りで一番有名な、ババ・ニョニャ・ヘリテージは、1897年、華僑の豪商チャン・チェン・シウが建てた館。「ババ・ニョニャ」はこの地に移民してきた中国人男性ととマレー人女性との結婚により生まれた子孫(プラナカン)の事です。
館内は博物館として一般公開。豪華な内装に東西のアンティーク品が並び、当時の豪商の暮らしを窺い知る事が出来ます。 -
スマトラ屋根の美しいカンポン・フル・モスクは、中心部から少し北に行った場所に建っています。
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カンポン・クリン・モスクもそうでしたが、カンポン・フル・モスクも水場?があり昼寝するにはうってつけな感じ。
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1795年に建立された寶山亭仏教寺院。
この寺院にある「スルタンの井戸」は、15世紀初頭にマラッカ王朝に嫁いできたハンリーポーのために、当時のスルタンが掘らせたもの。
決して枯れることのない井戸らしく、この井戸の水を飲むとマラッカを再訪できると言われています。
・・・井戸は金網で囲われていますが。 -
最後はヴィラ・セントーサです。
マレー民族博物館として公開されている一般家庭のお家。
入場料は無料ですが、一人、5RM程度の寄付が必要。
10RM位要求される事もあるそうですが、ドライバーのARASUさん曰く、5RMでOK!!との事。
帰りは少し混雑していたので、3時間程のタクシー移動。
*8:00出発、19:00帰ホテル。
11時間のチャーターとなりました。
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この旅行記へのコメント (1)
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- わんぱく大将さん 2012/10/10 00:53:15
- 前はどの国の領土?
- HYORONさん
7月によっていただいていたのに、今頃に、伺いました。すみません。
アジア、アフリカなどもそうですが、どこの直轄やったとかで、その国の食べ物、建物も違ってきますね。
大将
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