2012/09/22 - 2012/09/23
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2012年9月22日(祝)、国史跡「竹田城跡(虎臥城)」と史跡「生野銀山」に行ってきました。
標高353.7mの山頂に位置する「竹田城跡(虎臥城)」は、全国屈指の石垣遺構で、平成18年には日本城郭協会により「日本100名城」に選定されています。初秋から冬にかけてのよく晴れた早朝に朝霧が発生し、雲海に包まれた竹田城跡の神秘的な写真が有名で、ペルーの都市遺跡に似ていることから「日本のマチュピチュ」とか「天空の城」とも呼ばれています。このように日中に訪れても、確かに「マチュピチュ」の写真とかぶるなぁと実感できました。
約1200年前に開抗され、織田、豊臣、徳川及び明治政府の財政を支え、三菱財閥の経営に移って最盛期を迎え、昭和48年に閉山した「史跡・生野銀山」では、観光坑道約1kmで近代技術による採掘状況の再現や、岩肌の生々しいノミ跡、銀鉱脈跡などをじっくり見学しました。
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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播但連絡道路を「和田山」で降りるべきところ、「和田山JCT」があるのかと思っているうちに「和田山」を行き過ぎてしまい、道の駅「但馬のまほろば」で竹田城跡への行き方を教えていただきました。まほろば駐車場内ではUターンできないので、「山東」で北近畿豊岡自動車道をいったん降りて、再度「山東」で北近畿豊岡自動車道に入り、「和田山JCT」で降りました。この区間は高速料金はかかりませんでした。
「JCT」は「ジャンクション」の意味で、「和田山JCT」とは「和田山」のことでした。
ここに立ち寄る前に道の駅「フレッシュあさご」で米(但馬産こしひかり 蛇紋岩米)や旬の栗や野菜を買ったので、ここではお買物はしませんでした。 -
車のフロントガラスから写した「虎臥城大橋」です。
平成11年に播但道の終わりに完成した、連続アーチを描くモダンな橋は田園風景にとても馴染んでいました。
個人的には、スペインのセゴビアの水道橋を思い出しました。 -
竹田城跡の中腹駐車場(70台分、無料)とトイレ。
平日はどんな感じなのかわかりませんが、この日は祝日でしたので、約35分待ちました。
入口から駐車場まで、一方通行に制限されていて、係員の案内があるまで車を進めることができません。入口と第二駐車場、中腹駐車場に数名の係員が配置されていて、トランシーバーで連絡を取って、空きが出たら案内してもらえます。 -
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駐車場からは、2通りのルートがあるらしいのですが、近道(険しい道)ではなく、大手門コース(遊歩道)しか選択できないようになっていました。
ここから先にはトイレがないと案内されていましたが、大手門に向かう遊歩道の途中に簡易トイレ(3基)がありました。 -
「竹田城跡」の城壁までのコースはこんな感じです。
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この門を下った跡は遊歩道が続きます。
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大手門まで約15分このようななだらかな遊歩道を歩きます。
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遊歩道の途中からも和田山の景色が楽しめるスポットがあります。
このあたりで「但馬牛焼肉 竹田屋」のおしながきを配っている女性がいました。 -
表米神社への登山道は通行止めになっていました。
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大手門入口に到着しました。「竹田城址」の石標がありました。
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「大手門」に到着しただけで、青空に映える素晴らしい石垣を見て、感激してしまいました。
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穴太積みを採用した石垣。
※穴太積み…加工を施さない自然石をそのまま積んだもので、すき間が多く一見して粗雑に見えますが水はけが良く、崩れを防ぐのだそうです。 -
北千畳からの大パノラマ。
竹田城跡からは360度のパノラマでどこからでも和田山の素晴らしい景色が望めます。 -
端は絶壁です。早朝に雲海目当てで来る場合、とても怖そうです。
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2011年10月に映画『あなたへ』のロケが行われたので、ここを訪れる方がどんどん増えているのだと思います。
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北千畳です。
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北千畳からは眼下に「虎臥城大橋」も見えました。
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三の丸(溜殿)を過ぎると武の門があり、その先に二の丸があります。
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本丸(高見殿)です。
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この10段足らずの梯子を上がると、竹田城跡の天守台(標高353.7m)です。
竹田城跡は、嘉吉年間(1441〜43年)に但馬の守護大名・山名宗全が基礎を築いたとされ、太田垣氏が5代にわたって城主となり、織田信長の命による秀吉の但馬征伐で天正8年(1580年)に落城し、最後の城主・赤松広秀が豪壮な石積みの城郭を整備したと言われています。 -
「竹田城跡」が「日本のマチュピチュ」と呼ばれていると最初に聞いたとき、ペルーのマチュピチュに行くのが夢なので、≪なんと大袈裟な…。そんな景色が日本にあるはずがない!≫と思いました。
竹田城跡の天守閣から南千畳方面の景色を見て、「日本のマチュピチュ」と呼ばれることに納得できました。ここからは竹田城跡でもとりわけ美しい景色が望めます。 -
南二の丸(講武所)虎口から南千畳を写しました。
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南千畳全景です。
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竹田城跡は、山城としての美しさとともに、その縄張り(平面構成)の見事さで全国でも指折りの城郭と言われています。
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南二の丸(講武所)の右隣には正門跡があります。竹田城跡の石垣は、織田信長の安土城と同じ技術(穴太積み)を用いています。
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平殿からの本丸・天守台への階段と石垣です。
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今回、花屋敷には行かず、南千畳から本丸、北千畳と戻りました。
北千畳の大きな樹の下でコーヒーや菓子パンを売っている人がいました。 -
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JR竹田駅の西側に平成5年に完成した虎臥城公園があります。車5〜6台分の駐車場もあると聞いたので、行ってみると、とても小さな公園でした。
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虎臥城公園のあずまや風休憩所(左側)でお弁当を食べました。
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虎臥城公園の中央に竹田城の城郭を形どった池があったそうなのですが、水がなくなり、草ぼうぼうでした。残念です。
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R播但線竹田駅のすぐ西側は「寺町通り」といって、善證寺、常光寺、勝賢寺、法樹寺の四軒のお寺が立ち並んでいます。
「善證寺」の前には鯉の泳ぐ小川が流れていました。 -
小川には黒と赤の鯉が泳いでいました。
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瓦に載った築地塀が美しい「善證寺」善證寺は14世紀に創建され、寛永年間(1624-1643)に現在地へ移されたと伝えられています。
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「善證寺」の右隣は、初代城主・太田垣氏の菩提寺「常光寺」。
山名宗全の四天王の一人であり、竹田城の初代城主、太田垣光景の菩提寺です。 -
続いての「勝賢寺」は、赤松広秀の前の城主、桑山修理太夫重晴ゆかりの寺です。
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四軒目の「法樹寺」は、竹田城最後の城主赤松広秀の菩提寺です。
「法樹寺」に立ち寄ったのは9月22日13時30分で、ちょうど秋彼岸の法要が行われていました。 -
平成16年10月20日の台風23号の「鎮魂之碑」と城主赤松広秀の墓の案内板がありました。
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城主赤松広秀は文人としても優れ、領民から慕われる武将でしたが、関ヶ原の合戦で西軍に属し敗北し、その後、鳥取城攻めで城下に火を放ったとされ、鳥取(真教寺)で自刃しました。
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境内の裏手にほんとうにひっそりと墓碑が祀られていました。
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墓の横に「虎臥城主赤松」とありました。
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竹田城主赤松広秀の墓から見下ろした「法樹寺」と境内。
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JR播但線竹田駅。
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和田山町竹田地区の「寺町通り」は虎臥城公園とともに遊歩道として整備されており、白壁の塀とのコントラストが美しく、城下町の風情を醸し出していました。
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虎臥城公園の西側の寺町通りには小川沿いに民家が連なっていました。
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民家の前の川にはキティちゃんとポケットモンスターの石像がありました。
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虎臥城公園の東側に抜ける踏切です。この向こうでマーケットが開かれていて、沢山地元の人たちが集まっていました。
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踏切を渡るとき、左手奥にJR播但線竹田駅が見えました。
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踏切を渡って東側の風景です。
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「竹田屋」で但馬牛をいただくのも良さそうです。
http://www.takedaya.com/
ここから国道312号線沿いにちょっと足を伸ばして「生野銀山」に行きました。国道312号線は姫路と豊岡を結ぶ国道ですが、豊岡方面に行く際はいつも播但連絡道路(有料道路)を利用するので、空いていて走りやすい道であることを知りませんでした。 -
続いて「生野銀山」を訪れました。
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「生野銀山」のエントランスと券売所(左側)です。
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銀山隆盛の歴史を今に伝える近代坑道「金香瀬(かながせ)抗」が観光坑道として公開されています。
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人が這って通った江戸時代の坑道に狸掘りの生々しいノミ跡や鉱脈を見ることができます。
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「太閤水」は「飲まないでください」と案内されていますが、天正6年(1558年)織田信長公の勘気とけず、竹中半兵衛が安土に参り銀10駄(200貫目)を贈り懸命に弁明しているとき、一時竹田城に避難していた秀吉公が生野銀山を訪れ、その折り茶を飲み「世に稀なり」と水を誉めたたえたので、後にこれを「太閤水」と言い伝えたそうです。
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昭和4年に東京石川島造船所で造られた巻揚機。
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右奥は光栄立杭ケージ(エレベーター)。
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片枠支柱は天盤と側壁の片側が悪い箇所に作られています。
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鉱山師ジャン・フランソワ、コアニエ(Jean Francois Coignet)は、明治元年(1868年)10月、明治政府お雇い鉱山師(お雇い外国人第1号)として生野に到着し、帰国する明治10年まで生野銀山の設計計画を立案建議し、採鉱、選鉱、製錬の機械化を進め、日本有数の近代鉱山としての発展の基礎を完成させました。
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これは鉱山資料館1階の模型ですが、蟻の巣のように坑道がはりめぐらされていたことがわかります。
掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達していて、採掘した鉱石の種類は70種以上にも及ぶそうです。 -
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