2012/07/07 - 2012/07/16
11位(同エリア145件中)
国電さん
シベリア鉄道の旅、後編です。
@ベロゴルスク駅にて
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
PR
-
バイカル湖への伴走もほぼ終盤に近づき、私が旅行前から狙っていたスリュジャンカでのオームリの入手である。
ほぼ定刻(急いでいたので未確認)に到着した後にデッキに行ってみると、いるわいるわ、わずか2分の停車時間でなんとかして売ろうと必死になっているおばさんが4人も。値段を確認している暇などなかったので、オームリが入っている籠を手にしているおばさん(他の魚の燻製や干物を売っている人もいる)に対して100ルーブル札を渡すと、新聞紙に2匹包んで渡してくれた。これで、なんとか入手成功である。
@オームリ(この時点ではまだ温かく、1匹150円と考えればかなり安い買い物。夕食時に頂きかなり美味しかったが、次回(いつ?)買うことがあれば、出来立ての状態で食べてしまおうと思う) -
スリュジャンカ出発後は、イルクーツクに向かって峠道を上ることとなる。車両は左右に大きく揺れるので撮影ポイントになるのだが、いかんせんこのロシア号の車両は最新鋭であるため、ほとんどの窓が開かないのである(開くところもあるが、3〜4センチしか隙間がないため、手を出して撮影をすることができない)。
後方にある1号車まで行ってみたがやはり難しいため、諦めてしまった。
@どうしてもガラスに光が反射してしまう(この出来でも最良の一枚) -
一通りの撮影を終えて部屋に戻ると、今度は車掌がノートを持ってきて何やらお願いをしてくる。サーシャも加わり鳩首協議をして辞書を片手に悪戦苦闘した結果、どうやら乗車アンケートみたいなもので、「問題がなければ『よかった』みたいなことを書く」というものであった。ロシア語ではなく日本語の方がいいということだったので、ロシア語だらけの中に、明らかに目立っているカタカナを書いておいた。
@最初はかなり戸惑った -
しばらくすると、大きなビルや高架道路など、久々に目にする大都会が近づいてきて、大きな河川沿いにあるイルクーツクに到着した。18時08分、4分の早着である。ここで、私の号車にいた賑やかな日本人団体さんとはお別れとなる。ホームの反対側には、チタ発モスクワ行の列車も停まっており、ホーム上は大賑わいであった。
イルクーツクでは元から35分も停車時間があったため、ホームを先頭まで歩いてみた後は、駅舎の外に出てしばらく歩いてみた。話に聞いていた通り、まるで中世のヨーロッパのような瀟洒な町であり、特に駅舎はその存在感や意匠が際立って目立っているものであった。
@やっぱり、いつか観光してみたい -
ホームへ戻ると、チタ発の列車は先に出発していた。そのホームにスリュジャンカ行のエレクトリーチカが入線してきて、すぐに出発するのを見送る。それでもまだ時間があるため、ホームの端まで行って大きな河川を眺めたりして時間を潰した。
ホーム上には電光掲示板があり、なぜかロシア号の出発は13時51分(モスクワ時間)となっている。現在の時刻表も私が持ってきた古い時刻表も47分発だが、列車は18時50分という微妙な時間に出発していった。
@左手に大きく河川が広がる(写真ではわかりにくいですが) -
私の車両にいた賑やかな日本人団体旅行客がイルクーツクで下車した際に、余った食材(ラーメンなど)をもらったのだが、私一人では持て余す量である。そこで、食べ物に制限のあるサーシャにダメ元で何か欲しいか訊いてみたら、「娘が食べるもの」という。聞くと、ほどなくして停車するアンガルスクで娘が待っているということであった。
余った食材群から、せんべいと和菓子を選別し、そこに私が持ってきたコーヒー飴を足して、即席のお土産セットが出来上がった。
これまでサーシャのことを「おじさん」と書いてきたが、まだ彼は43歳、そして娘は19歳ということであった。奥さんはアゼルバイジャン人(住んでいるわけではなく、人種として)であるという。詳しい事情まで尋ねられる語学力はないが、チタからウクライナへ行く途中に、アゼルバイジャン人の妻との娘をアンガルスクで会うなんていうのは、日本のサラリーマンの単身赴任どころの規模ではないだろう。しかも、こういう駅に限って停車時間が2分しかないのである。
@サーシャ、娘と久々(たぶん)に会う -
アンガルスクに停車するなり、車両の停車位置がわからず少し遠くにいた娘をサーシャが大声で呼ぶ。その後二人は抱擁し、短い時間で最大限の会話をするため、何やら大声で喚きあうように真剣に話し合い、そして最後には少し笑顔になって分かれていった。何やら、映画のシーンでも見ているようで、車掌もそれをしみじみと眺めていた(彼女は、列車が動き出すまでドアを開けておいてくれた)。
部屋に戻ってきたサーシャは、娘にもらった雑誌を手にして「スードク!」と言った(よりによってスードク渡されたよ、みたいな表情をして)。おそらく、お金のかからない方法で長時間の車内を過ごせるよう、娘なりに考えた結果なのだろう(そういうサーシャも、お土産は日本人の即興によるものだぞ)。
あとは、オームリをつまみに酒を呑んで寝るだけである。試しにサーシャに聞いてみたが、やはり食べられない模様。生野菜と肉と卵しか食べていないので、辞書のその部分を指すと彼は「そうだ」と頷いた。すべてを平らげ、22時少し前に横になった。
@これといった写真がないので、締めに食べたロシアラーメンを -
■2012.7.12 ロシア号5日目
朝、今日もやはり6時30分頃に目が覚めた。寝ている間に雨音に少しだけ気づいていたが、雨はほぼ止んで曇りになっている。バム鉄道(第二シベリア鉄道)の分岐駅であるタイシェトは、もう過ぎてしまっている。
トイレへ行き、身支度を整える。どうでもいいことだが、ズボンの股の部分が破れかかっており、帰国時の飛行機で短パンというわけにもいかないだろうから、これからロシア号車内では寝巻用の短パンでずっと過ごすことにする。
さてそろそろ次の停車駅、と思って資料に目を通すと、タイシェトを過ぎた辺りで時計を1時間戻さねばならないようである。つまり再び5時台に戻ることとなり、仕方ないのでまた横になった。
6時少し前にレショトゥィに少しだけ停車し、その後に定刻の7時05分にイランスカヤに到着した。周囲に特に何もない小さな駅だが、20分も停車するので、駅近くに展示されているSLや駅前にある何やらよくわからない記念碑、野良犬などを撮影して朝の散歩代わりとする。
@こういう展示がいたる駅にある -
発車5分前に室内へ戻ると、7時23分頃に昨夕にイルクーツクで見たチタ発モスクワ行の列車が入線してきた(途中駅でロシア号が追い抜いたようである)。あちらは3等寝台が中心の編成で、3等寝台の通路側中段の場合、背中やおしりが窓から丸見えであることがわかった。
@こんな感じで(もっとおしり丸出しもあった) -
定刻の7時25分にイランスカヤを出発、しばらくパソコンで旅行記の作成をする。サーシャが携帯画面を見せてくれ、どうやら娘からの返信ようであり、彼は辞書の「飴」「おいしい」という部分を指差した。喜んでもらえて何よりである。
沿線には、様々な花が咲き乱れている。昨日までは「咲いている」だったが、今日はまさに「乱れまくって」いる。小さい花々なので写真には上手く収められないが、白色、紫色、時折黄色など、まるで絨毯のように広がっているところもある。
@目で見ると素晴らしい景色 -
まだ昼前だが、せっかく食堂車が連結されているので行ってみることにした。午前11時前という中途半端な時間であるため、先客は1人だけである(そもそも昼時でも空いているが)。メニューには英語もあり、ロシア語が話せなくても注文は可能である。あまりお腹も減っていなかったため、当たり外れのないサーモンマリネ(230ルーブル)とパン(9ルーブル)とチャイ(30ルーブル)を注文した。料理が少量の割にはなかなかの「レストラン価格」であるが、雰囲気を試しに楽しむ分には十分であろう。
@日本では絶滅危惧種となってしまった食堂車 -
大きなエニセイ川を渡り、久々の都会が近づいてくるとクラスノヤルスクである(操車場にはエニセイ号の車両もあった)。到着は8分早着の11時30分、おかげで30分の停車時間となる。
これまでと似たようなパターンで、まずは駅付近に展示されているSLの写真を撮り、階段を登って駅全体の風景を収め、そして駅舎の外へ出て辺りの様子を写真に収める。ここの駅舎は、これまでの5日間で最大規模ではないかと思われるくらい大きなものであった。駅のすぐ横にミニスーパーがあったので、そこで夕食用の鶏肉と水を買って列車へと戻った。
@巨大な駅舎 -
出発5分前に部屋に戻ったのだが、計ったかのようにチタ発の列車が再び入線してきた。あちらは、ほぼこちらを追走するように走行しているようである。こちらと違ってエアコンなしの車両なので、室内はいかにも暑そうな様子であった。
出発は定刻より1分早発の7時59分、しかし駅の時計は8時00分を指していたから、問題ないとしよう。
今回の旅の定番となった昼寝を1時間ほどして、起きてみるとすばらしい天気になっていた。午後も期待できそうである。
@晴れ! -
沿線の「花畑状態」は続いており、晴れたためいっそうそれが映えている。そういう風景を廊下で立って眺めていると、商品を手提げ籠に入れて歩いている食堂車の大柄な女性が「ピーヴァ(ビール)?」と聞いてくる。というのも、昨晩私は食堂車まで行かずこの女性からビールを買っており、そのことを覚えているのである(彼女は、日本人団体が乗っていた時も、彼女たちがビールやピロシキを一度買うと次も必ず部屋に寄って声をかけていた)。ロシアの従業員も、少しずつ変わってきているようである。私は時計を指差し、「後で」というジェスチャーをした。
ふと外を見ると、何やら記念碑のようなものがあったので、とりあえず写真に撮る。
@この手の類はたくさんあったが、いかんせんいきなり現れるのでほとんど撮影不可能 -
サーシャに写真を見せながら聞いてみたところ、記念碑ではなく、どうやらこれを境にして鉄道局の管轄が変わるという目印のようであった。
アチンスクとボゴトルをそれぞれ定刻に出発し、本日の最後の長時間停車となるマリンスクには定刻より2分前の17時39分に到着した。
降りてみて驚いたのが、恐らく軽く30度を超えている暑さであった(33〜34度はあったかもしれない)。湿度はないが、肌に突き刺さるような暑さである。目の前を貨車が邪魔していたのでそれを迂回して駅前へ出てみると、当然のようにここにもSLが展示されてあった。
@ロシア号停車駅には必ずと言ってよいほどある -
駅舎に近い商店で夜用のピロシキを買い、ホーム戻って別の売店を物色する。しかし、すぐに指差しで買えそうなものは、やはりピロシキや茹でじゃがいもばかりである。とある売店に手のひらサイズの大きなエビを蒸したものが置いてあったが、この暑さを考え(しかも炎天下に放置状態であった)、さすがに諦めてしまった。
小さな駅での長時間停車となったため、多くの乗客が降りてアイスを買って食べていた。先頭の機関車が付け替えられたので行ってみようとしたが、なんとホームから外れてしまっている。そこまで行っても怒られないかもしれないが、面倒なことになっても意味がないから、こちらも諦めてしまった。
@酷暑 -
マリンスクを定刻の18時07分に出発。パソコンを打ったりしながら過ごし、タイガも定刻の20時12分に出発した。21時になり、陽はまだ高いが、クラスノヤルスクで買った鶏肉などで酒を呑み始める。ほどよく酔ったところで就寝、となるパターンであるが、ここで時計を1時間戻さなければならない。時計を戻すとまた気分的に随分と変わってしまうため、沈む夕日をしばらく眺めてから寝ることにした。
@夕日(22時40分頃撮影(21時40分とすべきかどうかは、地理的に微妙)) -
■2012.7.13 ロシア号6日目
朝、6時頃に目が覚める。しばらくするとオムスクで、2分早着の6時18分着であった。この駅も、都市の規模に合わせた巨大な駅舎である。展示されているSLは最後尾の方、昨晩マリンスクで付け替えられた機関車を見たり高架橋に登るって町を見渡すためには先頭へ行かねばならず、停車時間は20分未満であるため、朝のちょっとしたランニング大会を行うこととなる。
ロシア号は3番線に停まっていたが、私があれこれ撮影をしていると2番線に回送列車が入線してきてしまった。うっかり駅舎の方まで行っていたら、戻るのに大迂回しなければならなくなっていたため、危ないところであった。
@朝からホーム上を走る(後半は疲れて普通に歩いたが) -
オムスクを定刻の6時36分に出発。トイレへ行き、3回目の洗髪を済ませた。説明はなかったが、蛇口の根元にあるツマミをひねるとお湯になることを発見。室内に荷物等を掛けるフックもあるし、その気になればシャワーも可能である。必要なものは、カラの小さいペットボトルのみ(水を汲むために)。
路盤脇にあるキロポストは、昨晩のうちに2,000キロ台の後半になっている。「まだ」か「もう」かは感覚的に微妙なところであるが。
起きたばかりであるが、ここで時計をまた1時間戻さなければならない。シベリア地方では線路が迂回していたり起伏のためスピードが遅かったりしたが、昨晩辺りからはモスクワに向かってひたすら西進するため、時差の進み具合がかなり早くなってくる。
周囲は枯れた白樺の木々が多く、北海道の野付半島のトドワラのようになっている。サーシャ曰く、足が嵌ると抜けなくなるような湿地帯だという。
@白樺の墓場 -
外を眺めている私とは対照的に、サーシャは私の会話帳を元にしてカタカナの読みを勉強している。しかし、ロシア人向けの語学書でなないため、かなり難儀しているようである。しかも「ヴィ」「トゥィ」など、日本語ができる人でも難しいような表記が多々あるため、そのたびに私が読んでみせる。
8時52分、定刻より2分早着でイシムに到着した。まだ朝だというのに、かなり日差しが強く今日も暑くなりそうな感じである。
それまで車内で衣服を売り歩いていたおばさんたちは、ここで一斉に降りた。サーシャに訊いてみたところ、きちんと販売免許のようなものを持っているということであった。
@食べ物類と比べて、あまり買っている人はいなかった -
イシムを9時06分に出発。余談であるが、長時間停車の場合でも車掌は5分くらい前には乗車を促すので(確認するため)、今後シベリア鉄道に乗る予定の人は注意した方がいいであろう(日本人の感覚からすると、発車直前まで自由行動してよいと思いがちであり、それが元で車掌との問題に発展しかねない)。
早朝から時差のため1時間時計を戻したため、まだ9時過ぎである。よって、少しだけ朝寝をした。その後は再び窓の外を眺め、ピロシキの車内販売が来るのを待っていた。
しかし、これまで10時半や11時半頃に来ていたのだが、どうにもやってこない。そこで、最終日にもう一度行こうと思っていた食堂車へ行くことにした。
メニューを見て、今日はサリャンカ(210ルーブル、マヨネーズ別料金で20ルーブル)とパン(12ルーブル)を注文した。単語程度の英語を話せるウェイトレスは、それをメモして去っていく。シベリア鉄道の食堂車というと、どの本やサイトを見ても「メニューはあるが何を注文しても『ニエット(ない)』ばかり」という記述が多かったが、今はもうそうでもないらしい。
@味は悪くないが、スーパーや露店に比べるとやはり高い -
そのようなことを考えながら運ばれてきたサリャンカを口にしていると、いつもの売り子がピロシキを抱えて売りに行った(12時頃)。明日こそあれを買ってみようと思う。
部屋に戻ることしばし、12時38分に油田で有名なチュメニに到着した。ホームに降りると、昨日のマリンスクと同様の酷暑である。突き刺さる日差しに耐えながらホーム上をあちこち歩いて撮影していると、アイスとクヴァスを売っている出店があった。サーシャの推薦する通りに、ややソフトな感じのアイスを買い、それを炎天下のホーム上で頂いた。
@値段は40ルーブル(120円なら普通だが、収入の違いを考えると少し高いか) -
それを齧りながら出発を待っていると、さすがはチュメニと言うべきか、数えきれないくらいのタンク車を連ねた貨物列車が目の前を通り過ぎて行った。中身は石油ではないかもしれないが、地理的になかなか絵になる風景であった。
@撮影できるのは前の方の一部だけですが -
チュメニを2分遅れの13時02分に出発した。小一時間ほど景色を眺め、それから定番となってきた昼寝を1時間ほどして目が覚めると、キロポストが1,900キロ台の後半になっていた。時差が進むのが速くなったと同時に、西へ進むスピードも速いため距離がどんどん減っているのがわかる。
サーシャは、まだ必死になってカタカナをやっている。上記に書いた理由以外に、「ソ」「ン」の違いなどはフォントではわかりにくく、私が紙に書いても差が出にくい。小さい「ッ」の説明も難しく、そう簡単に取得できるものではないようである。
悪戦苦闘していたサーシャが、沿線に現れた鉄道工場を見るなり、写せというジェスチャーをする。どうやら、彼が働いている場所であるらしい(ここで働いているという意味ではなく、この会社でこういう作業をしているという意味であろう)。
@ここで働いても月収は10万円未満です -
単語だけの会話によると、レールと枕木を製造する工場(私が気になっていた例のもの)ということであった。どうしてそういう手順にするのか尋ねたいところであるが、お互いの語学力ではそこまで辿り着くことは不可能である。
エカテリンブルグ(我々世代にとっては「スヴェルドロフスク」と言った方がわかりやすい)には、2分早着の17時35分に到着した。刺すような暑さの中先頭まで行って機関車の写真を撮り(今回、初めて晴れの日に逆光でなく撮れた)、急いで駅舎まで行って夜用の食材を買いあさった。
ホームに戻ってみると、なんと大男のロシア人男性2人がホーム上で肩車をして、窓の汚れを拭いているではないか。平成版の宮脇俊三(ロシア人だが)を、まさに宮脇俊三が同様にして窓を拭こうとしたエカテリンブルグ(スヴェルドロフスク)で発見するとは、奇跡的なことである(写真を撮ろうとした瞬間に、作業は終わってしまった)。意味の分からない方は、宮脇俊三氏の『シベリア鉄道9400キロ』を参照してください。
@平成版宮脇俊三を撮れなかったので、売店で買った鶏肉を(普通サイズの足で100ルーブル(約300円)。やはり、賃金等に比して食費は高い気がする) -
さて、今日は最後の見どころとして、「ヨーロッパ・アジア・オベリスク」(ヨーロッパとアジアの境界線を示す碑)を撮影しなければならない。場所はキロポスト表示で1,778〜1,777地点、チャンスは一度限りである。
幸い、エカテリンブルグ出発後は、保線作業によって時速60キロ程度の減速運転であった。しかしロシアの鉄道は右側通行であるため、肝心の場所で反対側に貨物列車でも来たらアウトである。
キロポストと睨み合うことしばし、逆光ではあったが、なんとかフレーム内に収めることができた。これで今日のお勤めは終了である。
@久々に緊張の撮影であった -
21時を過ぎてから食堂車へ行ってビールを買い、部屋で夕食を始める。珍しい銘柄のビールがあったので選んできたのだが、サーシャ曰く「チェコの」ということであった。
連日私がビールを飲んでいることに触発されたのか、サーシャも食堂車へ行ってビールを買ってきた(ビールは飲めるのか、それとも、例えば「糖尿病の人の前で血糖値が高くなる食べ物を食べ続けて刺激してしまう」ようなことをしてしまったのか、どちらであるのかは不明)。柿ピー(イルクーツクで下車した日本人団体客が残していったもの)も、彼は食べられるらしい。基準は不明である。
ほどよく酔ったところで、例の食堂車従業員が「ピーヴァ?」と回ってきた。私は体よく断ったが、サーシャは2本目を買っていた(しかし買っただけで、カバンにしまっていたが)。
大柄な女性従業員は柿ピーの袋を見て「これは何?」みたいなことを尋ね、「日本の食べ物だ」みたいなことをサーシャが答えてそれを勧めてみると、いくつか食べて「フクースナ(おいしい)」と驚いていた。
なかなか沈まぬ夕日を待たずに、22時半頃に就寝。
@本日の夕食 -
■2012.7.14 ロシア号7日目(最終日)
朝、6時少し前に目が覚めた。ほぼこれまで通りの時間であるが、寝ている間に時差が2時間生じてモスクワ時間になったため、実際はまだ3時55分である。そう考えると早すぎるため、二度寝をした。
5時00分、定刻より21分遅れでキーロフに到着した。今日も快晴であり、他のホームでは様々な長距離列車や貨物列車、近郊列車が発着している。久々に下車した乗客は各々が体操をしたり、ホーム上を軽く走ったりしている。ガイドブックにあったように、なぜか人形を売っているおばさんが何人かいた。
それらを撮影していると、蚊が何匹か体にぶつかってくるのを感じた。ロシア(シベリア)の夏と言えば蚊の大量発生というイメージがあったが、これまではまったくいなかった。今日のにしても、多少気になる程度である。
@今日も暑くなりそうである -
キーロフ出発は、遅れが増して24分遅れの5時24分であった。
ふと気づくと、キロポストが示す距離が3桁になっている。さすがにモスクワに近づいてきたと思ってしまったが、よく考えたら東京から広島くらいまであると思うと、それだけで1回の旅行である。
朝食を終えたサーシャが、部屋のドアを閉めて徐に一つの荷物を恭しく開けた。かなり精密な彫り物が施された木製の板で、重厚な造りである。何やらゲーム版のようであるが、ウクライナに持って行く土産であるという。娘がイスラムということで、それに関係するものらしい(これ以上のことは、単語会話では読解不能である)。わざわざドアを閉めたということは、こういうものを持っているということを他人に見られたくない(狙われたくない?)からなのだろう。他に、以前の仕事(空軍時代)の勲章なども見せてもらった。ちなみに空軍時代の職場はラブテフ海のレナ川河口付近で、冬はマイナス43度くらいになったという。
そんなことをしても、時差の関係でまだ7時である。再びベッドに横になる。
1時間後に起きて、外の景色を眺める。大きな橋梁が建設中であった。
@20年前にこのようなものを撮影したら、スパイ容疑で警察行き(鉄道、とくに鉄橋は軍事上重要であるため) -
偉大なるヴォルガ川を渡り、しばらくするとニージニー・ノヴゴロドであり、遅れを挽回して2分遅れの10時43分着であった。ホームは、日本と同じような高床式であり、ウラジオストク以降初めてであった。都会になってきた証左でもあるが、その代わりに田舎の駅のような「見どころ」もないため、ホーム上で適当にぶらぶらして時間を潰した。
@ヴォルガ川の流れ -
同駅を定刻の10時53分に出発し、しばらくは街中を走行する(しかし、100万都市を実感できるほど住宅は密集していない)。10分ほどすると、右手に大量のSLが展示されている鉄道公園のようなものが見えてきた。大小様々、十数両は展示されていたであろうか。隣室の家族連れも、珍しそうにそれを写真に収めていた。
@SL公園 -
その後は再び沿線風景を眺め続ける。時折工場が現れるが、これまでは工場=朽ち果てそう(もしくはすでに朽ち果てて廃墟になっている)であったが、この辺りから新しい工場(外資系を含む)が増えてきた感じがする。
時刻はすでに12時過ぎ、今日はどうやらピロシキの車内販売ななさそうである。
右手に大小さまざまな教会が見えてくると、最後の停車駅であるウラジミールである。到着は1分早着の14時11分であった。
@到着前に沿線に見えた教会 -
ここで、先頭の機関車が赤色のものから緑色のものに交換された。その様子を少し見てから、炎天下のホームを最後尾まで行ってみる。駅舎の横にはSLが展示されてあり、その向こうには遠くに教会のとんがり屋根も見えている。暑さに負けて、他の乗客と同様に売店でアイスを買う。
@アイスと駅舎と貨物列車 -
ウラジミールを定刻の14時35分に出発、あと3時間程度で終着のモスクワである。
シベリア鉄道の旅行記を見ると、到着の数時間前から降りる準備をし始めるというものがあるが、確かにその感覚は少しわかる気がした。3時間といえば新幹線で東京へ行く際に岡山を出発した後くらいであり、その時点で降りる準備をするようなものである。
荷物を片付けて、せっかくであるからサーシャに何かあげようと考えた。20〜30年くらい前であれば、日本製の薄型計算機やパンストなどが喜ばれたというが、今はそういう時代ではないし、だから私はそのようなものは何も用意していない。そこで、髭剃りをあげることにした。
というのも、昨日の朝のことであるが、サーシャが剃刀負けをしてかなりの出血をしていたのである。私が持っているのは旅行用としてすでに3年ほど使用しており切れ味も鈍っているが、元は4枚刃の質の良いもの(安全性の高いもの)であり、サーシャが使っているような中国製の2枚刃よりは百倍いいだろう。
それを渡すと、彼は喜んでくれて握手を求めてきた。その後は廊下で沿線風景を見ていたのだが、肩をたたかれて部屋に入ると、お返しにロシア正教の数珠(と十字架)をくれるという。かえって高価なものをもらってしまうようで気が引けるが、こういう場合は素直にもらった方がいいような気がしたので、ありがたく頂戴することにした。
@正式名は「コンボスキニオン」 -
沿線の風景は、若干建物が多くなってきたものの、まだ田舎風景である。残り1時間となり、キロポストは52キロになったが、まだ白樺ばかりの風景ですぐ先にモスクワがあるようには思えない。
ここまでの7日間は、長かったようであり、そうでもなかったような複雑な心境である。最初の時ほど先の長さに唖然として、最後の方ほど意外にあっさりとしている感じがする。これは、数年前に四国遍路を達成した時と似たような感覚であると思った。
残り30分、キロポストは23キロになり、さすがにアパートなどが多くなり、通勤等に使用されるエレクトリーチカの駅が多くなってすれ違う旅客列車も多くなっていった。
次第にスピードがゆっくりになり、厳かな儀式でもするかのように、モスクワ(ヤロスラヴリ)のホームに滑り込んだのは、定刻より1分前の17時42分であった。
@お疲れさまでした -
サーシャと一緒に地下鉄に乗り隣駅のクールスカヤへ行き、ウクライナへ行く彼とはここで別れた。私は地下鉄を乗り継いでホテルへ行き、久々のシャワーを浴びてすっきりとした。
どのように感慨深いのかを説明するのは難しいが、これまでにない旅を終えたという実感だけは残っているような気がした。
【おまけとして】
果てしなく長いシベリア鉄道の旅を終えた後ではあるが、翌日も夜の飛行機の出発まで性懲りもなく鉄道ネタを集めた。以下、メモとして残しておきたい。
■2012.7.15
朝食後にヤロスラヴリ駅へ行き、世界遺産でもあるセルギエフ・パッサート(セルギエフ・ポサード)への切符を買う。駅舎にある切符売り場ではなく、屋外の近郊列車発着場の近くにある窓口で買う(ガイドブックにある説明と違うので要注意)。
@切符売り場(これらのどこでもよい) -
8時24分発のセルギエフ・パッサート行は7番線に停まっていた。他のホームにある車両と違い、これだけ旧い形式であり、私としては嬉しくなる。逆に言えばこの車両だけ座席が鉄板(ウラジオストクで乗車した板張りより酷い)であり、他の車両(薄いソファー)より条件が悪いことになるが、この辺りは一般人との感覚の違いであろう。
@どうせなら、旧い方(じきに消えるもの)に乗りたい -
8時24分、列車は定刻に出発した(時刻はhttp://www.tutu.ru/で検索した通りであった)。何人かの乗客は、車内に犬や自転車を普通に持ち込んでいる。犬に関しては、ロシア号でも同様であった。
セルギエフ・パッサート到着は、定刻から1分遅れの9時53分であった。有名な大修道院までは、歩いて20分程度である。
@詳細については、門外漢の私による解説では不十分なので、歴史好きな方のサイトで調べてください -
修道院で小一時間ほど過ごし、駅へと戻る。モスクワへは、11時44分発のエレクトリーチカで戻った。今回は車内の物売りとパフォーマーが数珠つなぎ(?)状態で、前者は衣料・文具・玩具・アイス・バッグなど、後者は定番のアコーディオン以外に、アンプにギターとマイクを繋いで本格的に演奏する人までいた。
さて、次の鉄道ネタは、リガ駅にある鉄道運輸博物館(“музеи железнодорожного транспорта”の直訳)である。日本人には鉄道好きが多く、たいていの海外の鉄道関係施設については訪問記などが多数インターネット上にあることが多いが、この施設に関しては何故かほとんど見つけられなかった。「そもそもガセネタかも」と思いつつリガ駅付近へ行ってみると、意外なほど立派な展示施設があった。
@入口 -
入場料が150ルーブルで写真撮影が200ルーブル、合計で350ルーブル(千円超)とモスクワ基準からするとバカ高いが、展示されている車両はおそらく50〜60両以上あり、それなりの見応えがある(説明書きがロシア語だけなので、せめて英語が欲しいところである)。
@SLの例(かなりたくさんあり) -
@電気機関車の例(これも多数)
-
@電車の例(機関車に比べると少ない気がする)
-
その他、旧い貴賓車のようなものや作業用の特殊車両など、様々なものが展示されている施設であった。
展示車両を一通り見てからは、少し時間があったのでクレムリン周辺(赤の広場など)を小一時間ほど散歩した。その後は地下鉄でベラルースカヤ駅へ行き、空港行のアエロエクスプレス乗り場へと向かった。長かったロシアの鉄道づくしの旅であるが、この車両で乗り納めとなる。
@最後は現代的な車両で -
その他、今回の旅で気づいたこと(既述したものが多いが)を書き記しておきたい(今後の参考になれば幸いである)。
・露店販売は規制され禁止された模様(「歩き売り」や「敷地外での販売」は可能)
・写真撮影は規制されない(エレクトリーチカも同様であった。ただし田舎は対象外。今回も、ウゴリナヤで警察に喧しく言われた)
・食堂車は、注文したものが「普通に」出てくる可能性が高い
・古い慣習(シーツ代を徴収したり、車掌がやたらチャイの営業に来たり)はすでにない
その他、鉄道運輸博物館については、鉄道が好きな方はぜひ訪れてみては如何であろうか。ちょっとした暇つぶしにはなるであろう。
@ロシア号の切符
*旅行記および私の詳細については以下で。
「鐡旅」http://www2u.biglobe.ne.jp/~kokuden/tetu.htm
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この旅行記へのコメント (2)
-
- 横浜臨海公園さん 2012/08/09 18:00:56
- シベリア鉄道縦断
- 国電さま、こんばんは。
シベリア鉄道乗車旅行記を拝見させて頂きました。
小生がシベリア鉄道に乗車したのは今から32年前の事で、当時のソビエトは日本を友好国扱いなどしてもらえず、まして写真撮影などもってのほかの時代でした。
旅行記の如き美食など有り得ず、途中のホーム露天で売っていたピロシキを食べたアメリカ人夫婦は腹痛で苦しんで、見るも気の毒な状態だったです。
ナホトカ港に於ける馬鹿げた超短距離バス移動などは今も同じですね。
兎に角、便利な時代になりました。
横浜臨海公園
- 国電さん からの返信 2012/08/10 19:24:48
- RE: シベリア鉄道縦断
- 横浜臨海公園さま
ご訪問ありがとうございます。
現在のように、写真撮影も自由で食糧もなにかと手に入るのも楽ですが、旧ソ連時代も趣がありそうです。ただ、実際にその状態で1週間となると、やはり今の方が充実した旅を過ごせそうですね。
なにかと便利になり、「さいはて」感は少し薄れた感じはしますので、そのうちに、バム鉄道あたりに乗ってみたいと思っています。
今後もよろしくお願いします。
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