2012/06/30 - 2012/07/02
427位(同エリア648件中)
倫清堂さん
3週連続で大阪へ行くことになりました。
実際に決まった日の日程を調整するのは大変でしたが、真ん中のこの日はあらかじめ空けておいたので、心おきなく活動することが出来ます。
そこで今回は、久しぶりに四国に上陸することにしました。
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徳島ラーメンについては、あるエピソードがあります。
忘れもしない、四国初上陸の時、楽しみにして食べた徳島ラーメンがハズレでした。
旅行ガイド本を見て、勘を頼りに選んだ店でしたが、行ってはいけない店だったようです。
そういうこともあって今回は入念に下調べをし、間違いのない店を2件紹介されました。
伊丹空港から明石へ向かい、あとは車で淡路島を縦断。
ちょうどお昼時に着いたのは、中華そば「いのたに」
行列が出来ることもあるようですが、幸いすぐに席につくことができ、肉が大量に乗ったラーメンを食べました。いのたに 本店 グルメ・レストラン
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腹が満たされたところで、徳島市内の散策に移ります。
前回、阿波おどり会館で踊り眉山に登った際、気になりながら訪れることが出来なかった神社がありました。
阿波おどり会館のすぐ隣に鎮座する眉山天神社です。
境内には、なぜかラジオ体操に完成する記念碑が立っていました。徳島眉山天神社 寺・神社・教会
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眉山の麓には、数多くの寺院と神社が並んでいます。
次に向かったのもその一つ、徳島城下総鎮守春日神社。
御社殿は古色蒼然としており、そこだけ時が止まってしまったような雰囲気です。
神主さんのお話しによると、阿波おどりの起源にも関係のある神社のようですが、詳しいことまでは分かりません。春日神社 (徳島市) 寺・神社・教会
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夕食も徳島ラーメン。
1日に2ラーメンは滅多にないことですが、せっかく情報を教えてもらっていたので、行かないわけにはまいりません。
2件目は「ふく利」
徳島ラーメンと徳島丼のセットを注文しました。
ラーメンに生卵が入るのが徳島ラーメンの特徴だと思っていましたが、こちらはさすがに卵が2個にならないよう、丼の方にだけ卵が乗っています。
「いのたに」は頑固親父の店の雰囲気でしたが、「ふく利」はフレッシュでフレンドリーな感覚で食事が出来ました。
初めての時の敵討が叶ったような気分でした。 -
翌朝、少し早起きして徳島城を散策しました。
ホテルからは徒歩で約20分。
おいしいものを食べた後の運動としては、まだ足りないかも知れません。
長宗我部氏による支配の後、豊臣秀吉公による四国統一で功績のあった蜂須賀家政公が入封し、築城したのが徳島城です。
その後、明治維新まで蜂須賀氏の支配は続いたのでした。徳島城跡 名所・史跡
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入り口にある鷲の門は、廃城令でも壊されなかった唯一の遺構でしたが、惜しくも先の大戦によって焼失してしまいましたが、徳島市制100年を記念して平成元年に復元されました。
到着したのはちょうど6時半。
たくさんの地元の人たちが集まって、ラジオ体操を行っていました。
ざっと見て学生はおりませんでしたが、30代〜70代くらいまで幅広い年齢層の人々が、元気に体を動かしています。
一人ですると恥ずかしいことでも、集団ですれば全く気になりません。
自分も一緒に体を動かしたくなってしまいました。
そして、その感覚は、始めて徳島に来た時に阿波おどりを踊った時の感覚に似ていることに気付きました。
これは勝手な想像なのですが、ラジオ体操の人たちは、阿波おどりの連に所属している人が多いのではないでしょうか。
踊る阿呆に見る阿呆。
ラジオ体操でも踊る阿呆になることが、丈夫な身体を作ることに貢献しているのかも知れません。 -
城内の太鼓櫓跡には、昭和8年にNHKによって建てられたラジオ塔があります。
この当時のマスコミは国民に情報を伝える使命感を持っていましたが、大戦末期の大本営発表、敗戦後の占領軍による検閲、戦後は報道各社による自主検閲や捏造・偏向など、マスコミの在り様は坂道を転げ落ちるように異常化しています。
政治家はマスコミが怖くて口にしませんが、マスコミを正常化しなければ、日本の真の正常化はあり得ないでしょう。 -
城内を少し歩くと、蜂須賀家政公の像を発見しました。
案内板によると、戦前は父の蜂須賀小六正勝公の像がありましたが、供出によって失われ、戦後になって家政公の像が新たに建てられたとのことです。
正勝公は墨俣一夜城の功績が認められて秀吉公の側近となり、後の天正13年には阿波一国を与えられますが、自分自身は生涯秀吉公に仕えることを望み、阿波は嫡子の家政公へ譲りました。
家政公が徳島城の完成を祝って人々に勝手に踊らせたことが、今の阿波おどりの原点だと言われています。 -
徳島城の天守跡がどこにあるのかは、旅には欠かせないスマートフォンの地図機能で知ることができました。
あちこちに地図が掲示されてはいるのですが、あまり親切な表示とは云えず、それを見ただけでは登城を諦めていたかも知れません。
城山の登山道は、それほど目立たない所にありました。
天然の常緑広葉樹の宝庫である城山は、城山原生林として市の文化財に指定されています。
しばらく石段を登ると、天守があった東二の丸。
山城の天守は頂上付近にあるのが一般的ですが、徳島城は最初の天守が取り壊されてからは中腹の東二の丸の御三階櫓が天守の役割を果たしていました。
もちろん今はその影はありません。 -
本丸には、小さな祠の清玄坊神社が鎮座していました。
清玄坊とは清和源氏の末裔の修験者で、城山の祈祷所に住んでいましたが、蜂須賀公が築城するに当たって移転を命じられ、頑なに拒んだために城下で射殺されてしまいました。
しかしその直後から蜂須賀家には変事が続いたため、蜂須賀公は清玄坊の祟りではないかと恐れ、石碑を立てて祀ったところ、変事は収まったということです。
後の真珠湾攻撃に際して一人生き残った酒巻和男氏は、清玄坊の子孫の一人だそうです。 -
ホテルで朝食をとった後、まだ訪れたことのない徳島県の内陸の地方へと向かいました。
阿波国には一之宮が何社かあり、そのうちの2社が比較的近い場所に鎮座しています。
その名もずばり一宮神社は、八十八箇所十三番札所の大日寺と隣接しており、かつては一体であったことがうかがえます。
御祭神は大宜都比売命(正式には宜の点は無い)。
『古事記』では、国産みによって生まれた阿波国のことを大宜都比売命と称しており、穀物神である大宜都比売命と阿波=粟をかけた表現であると考えられます。
同じく大宜都比売命を祀る上一宮大粟神社という神社もあり、もともとはこちらが一之宮であったものの、地理的に参拝が不便であったために一宮神社に分祀されたという説があります。
確かに、今回の旅を計画した際に上一宮大粟神社への参拝も検討しましたが、車での移動でも半日ほど時間を取られるため断念した経緯があります。一宮神社 寺・神社・教会
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一宮神社の正面には、阿波国守護の小笠原氏が居城として一宮城跡があります。
小笠原長宗は、それまで一宮神社の祭祀を行っていた一宮氏を滅ぼし、その後は自らが一宮氏を称すると、一宮神社を見下ろす山の上に一宮城を築き、一宮神社の祭祀まで行うようになったのです。
敬神の心などどこにあるのかと思われるような暴挙ですが、小笠原長宗は南朝に属して細川氏と抗争を繰り広げます。
しかし、結局は敗れて北朝に降ることになったのを見ると、この一族の精神的な脆さは否定できないようです。一宮城址(徳島県徳島市) 名所・史跡
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八倉比売神社へ向って車を走らせると、神社の手前に縄文遺跡の公園を発見したので寄ってみることにしました。
あとで調べたところ、徳島市制100周年を記念して整備された阿波史跡公園であるとのこと。
一帯は国府町という地名を持つ古墳地帯で、かつては阿波国の中心部であったと思われます。
一宮神社や八倉比売神社が鎮座していることや、小笠原氏が城を構えていたことも、それを裏付ける証拠と言えるでしょう。阿波史跡公園 名所・史跡
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復元された高床式倉庫を間近で見ると、伊勢神宮などの神明造と全く変わらないことが分かります。
今回気付いたのは、一本の木を削って段を作った階段が、写真で見た伊勢神宮の宝殿に据え付けられる階段と、まるっきり同じ造りだということです。
この階段を降りる際には、建物にお尻を向けることが出来ないだろうと思いました。
のんびり散策してみたい空間ですが、蜂が多く飛んでいることには対策が必要だと感じました。 -
八倉比売神社の正式名称は天石門別八倉比賣神社で、こちらも阿波国一之宮の論社のひとつ。
御祭神の大日霊女命は天照大神の別名です。
社伝には天照大神の葬儀執行の詳細な記録があり、鎮座する杉尾山全体を御神体として、奥の院の神陵を拝する形になっています。
安永2年3月に書かれた古文書には、気延山頂から遷座し、現在地に鎮まってから2千105年が過ぎたと記されており、逆算すると御創建は古墳時代に当たることになります。 -
今の社殿も古格ゆかしい造りですが、現在の銅板葺きになる前の社殿には一対の龍が刻まれており、水の女神との習合を示していたとのことです。
拝殿の奥に本殿があり、そこまでは確認したのですが、更に奥に行くと五角形の磐座があるらしいのですが、一説には卑弥呼の墓ではないかと言われています。
自分が信じている天照大御神=卑弥呼説を補強する一つの証拠になりそうですが、水を司る神であるとなると話はややこしくなります。
謎の解明を目指すにも、今回は下調べを全くしておらず、ここで何かしら結論めいたものを導くにはあまりに材料が少なすぎます。
今回訪れることのできなかった上一宮大粟神社の参拝も合わせ、いつか再調査に来ることになりそうです。 -
参道には、野イチゴのような赤い実が散乱していました。
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徳島での活動は午前中には終わり、次に香川を目指します。
四国へ来たら、讃岐うどんを食べずには帰れません。
前回、卵の天ぷらを食べ損ねた高松市にある竹清で念願を果たし、坂出市に移動して日の出製麺所の1日1時間限定のうどん、まごころの釜卵うどんにありつくことできました。
いつも思うのですが、たった1杯でも並んで食べる価値もある個性的なうどんばかりです。
グルメで町おこしを目指す地方都市が多くなっていますが、まず地元、特に近所の人たちから愛されなければ、一過性のブームで終わってしまうのがオチです。日の出製麺所 グルメ・レストラン
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思ったよりも早く丸亀市に入ることができたので、まず丸亀城へ登ることにしました。
丸亀の平地の中心地にある亀山に築かれた石垣と天守閣は、かなり離れた場所からも見ることができ、ほれぼれするような姿が目に映った時、姫路駅から姫路城を見た時と同じ感動が押し寄せました。
慶長2年に豊臣秀吉公から讃岐国を賜った生駒正親公が築き、3代目藩主正俊公の時に一国一城令によって廃城となりますが、立ち入りを制限するなどして破却を免れることができました。
生駒氏の支配は4代続きますが、高俊公の時に御家騒動によって所領没収。
次に入封した山崎氏も3代で転封となり、万治元年に京極高和公が入封して以後、幕末の版籍奉還まで京極氏が治めるところとなりました。丸亀城 名所・史跡
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大手門二の門から入ったところにある枡形は十間十一間という、他に例を見ない広さ。
大手一の門・二の門と桝形は、京極氏の支配に入ってから、南方から現在地へ移築されたものです。
一の門の楼上には太鼓を置き、城下に時刻を知らせていたことから、別名太鼓門とも呼ばれています。 -
見返り坂にある算木積みの石垣は「扇の勾配」と呼ばれる美しい石垣で、丸亀城のなかで最も高い20メートル以上の高さがあります。
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天守閣まではずっと上り坂が続き、息が切れて来た頃に到着しました。
万治3年、京極高和公の時に完成した天守閣で、現存する木造天守閣としては国内で最も小ぶりとなっています。
あまり観光客の姿もないようなので、中へ入ってみることにしました。 -
3層3重楼の構造となっており、外から見た以上に中は狭く感じます。
戦時はともかく、天守閣は生活の場ではなく、飽くまで藩のシンボルとしての建物であったということが分かります。 -
何という名前の山かは分かりませんが、頂上から見えた山が非常に美しい姿をしていました。
四国を移動していると、山の形がどれも特徴的だと感じます。 -
登りとは違う道を通って、出口へと向かいます。
三の丸で勤王碑を発見。
丸亀出身の勤皇志士、土肥実光と村岡宗四郎が大正8年に贈位されたのを記念して建立されたものとのこと。 -
また、京極家の江戸屋敷の一部を麻布から移築した延寿閣別館もありました。
内部は藩政時代のままに保存されているとのことで、一般公開はされていません。 -
三の丸井戸は、山崎時代の絵図面にもありますが、空井戸となっており、抜け穴伝説もあるとか。
見逃してしまいましたが、二の丸にも井戸があって、そちらは石垣を築いた重三という人物が石垣を攻略する方法を知っていたために殺されたという伝説が残っているそうです。 -
イチオシ
下から見上げる天守閣の姿も堂々たるものでした。
京極家のその後をたどると、6代藩主高朗公の時に藩政再建のために倹約令が布かれ、うちわ作りが奨励されました。
また『西讃府誌』の編纂事業が始まり、次の7代藩主朗徹公の時に完成。
朗徹公は進んで版籍奉還・廃藩置県に協力し、初代丸亀藩知事・初代丸亀県知事に任じられた人物です。 -
京極氏によって奨励された丸亀うちわは、今も伝統工芸品として有名ですが、昔ながらの工法でうちわ作りを体験できる場所があります。
丸亀城を下りて向かった先は、うちわの港ミュージアム。
ちょうど予約していた時間だったので受付を行くと、係の方が笑顔で迎えてくれました。
所狭しと商品のうちわが置かれていますが、作成の体験をするスペースはその奥にあり、実際にうちわ職人の方や見習いの方(吉本所属の芸人だそうです)が作業をしています。
体験の指導をして下さるのは、2人の女性の方でした。丸亀うちわミュージアム 美術館・博物館
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まず竹を加工した骨組みに、糊付けをします。
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そこに、受付で選んだデザインの紙を、裏表がぴったり重なるように張り、たわしのような道具で間の空気を押し出します。
この時点では、骨組みの一部はまだ飛び出しています。 -
その飛び出した骨組みの部分を切り取り、形をそろえるために、木の切り株の台の上で型切鎌という道具を使って、形を整えます。
整えるというと細かい作業のようですが、この工程はかなり大胆で、型切鎌の刃を下にしてうちわの輪郭となるラインに合わせ、上から木の棒を思いっきり振り落とし、一気に切断するのです。
これをこなすのは思い切りのよさがポイントで、自分は迷うことなく木の棒を叩きつけることができたため、指導の女性からお褒めの言葉をいただきました。 -
輪郭が整ったので、そこを縁取りするように細長い紙を貼り、最後にその両端に舌と呼ばれる紙を貼ります。
この工程でも、「本当に初めて?」と質問されるほど器用にこなすことができ、今の職を失ったらうちわ職人になろうと考えてみたりもしたのでした。 -
糊が乾くまで、展示されている道具を見学します。
型切鎌はうちわの形を決める道具なので、種類も非常に豊富です。 -
体験では使用しなかった道具もたくさんあります。
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体験できる工程は素人でもこなせる工程ですが、職人さんの技を見て、骨組み作りこそが最も熟練の技が要る工程であることが分かりました。
最初に渡された骨組みは、よく観察していませんでしたが、細い骨の1本1本が全て手作業によって切られているのです。
その工程を、職人さんが披露して下さいました。
竹を板状に切った物を台にセットし、目にもとまらぬ速さで小刀で縦に裂いて行くのです。
柄の部分から細い骨まで、もとは長さ約30センチの1本の竹の板。
幅は2センチもありませんが、それを均等な幅で35?40に切り裂くのです。
これをうちわの形に広げて糸で固定する作業に、見習いの芸人さんが取り組んでいましたが、非常に苦戦を強いられていました。
職人さんに伺ったところ、この技を身につけるには、毎日千回近い作業を行って、何年もかかるとのことです。
よって、当然のことながら天然の素材によるうちわは、機械生産のうちわに駆逐されつつあり、次の世代の職人が育たないとのことでした。
伝統工芸の技は、途切れてしまえばそれまでとなってしまいます。
国は、こういう貴重な技術の伝承のためにこそ予算をつけるべきなのですが、価値の分からない政治家が多いので、伝統の技の未来は決して明るくありません。 -
うちわの港ミュージアムには、商品の他にもたくさんの全国のうちわが展示されています。
骨組みだけをつないだカーテンがかかっています。
職人さんの失敗作なのでしょうか。
東日本大震災からの復興のためのメッセージをデザインしたうちわも展示されていました。 -
手作りのうちわは、それなりに高価です。
今は町を歩いていると、ティッシュどころかうちわまで配られる時代です。
そういう時代だからこそ、手作りのうちわを購入することに意味があるのだと思いました。
がんばれ、日本の伝統工芸!
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