2009/10/05 - 2009/10/20
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アクアマリンさん
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ライフワークで「日本統治時代の台湾」を調査・研究しています。対象は、「台湾で日本人たちがどう暮らしていたか」に関することです。
1895~1945年の50年間日本の統治下にあった台湾。終戦時点で台湾にいた日本人は50万人(軍人含む)というのですから、50年の間に台湾で日本人が繰り広げたドラマはどれほどの数にのぼったでしょうか。
それなのに、現代の日本ではあまりに影が薄い扱いを疑問に思い、細々と調べ始めました。
同時にそれは、観光ルートにもあまり上らない台湾の旅でもありました。ありきたりではない内容や、もっと深く台湾を知りたい人の参考にしてください。
今回は嘉義編ですが、力を入れているのは台南エリアなので、そちらも紹介していきます。
*アメーバブログ『海王星の魚座だより』で、この旅行記にも関連した日本統治時代の台湾に関する解説をしていますので、そちらも合わせてご覧ください。http://ameblo.jp/kozakura11/theme-10050795795.html
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今回の取材の第1目的地は、東石郡副瀬村。大変な田舎で宿はおろか、台湾にどこにでもあるコンビニすらありません。で、宿泊は最寄りの町・朴子市にしました。
朴子までは、台北〜嘉義(新幹線)からバス(本数は多い)です。都会ではありませんが、店は多く、非常に賑やかな町でした。
*ある程度都会がいい人は、嘉義市内(新幹線ではなく、台鉄の方)がいいでしょう。
これは、朴子の配天宮という廟。 -
配天宮の参道をまっすぐ進むと、復元された駅舎と機関車が置いてあります。日本統治時代の台湾中部以南では製糖産業が盛んで、朴子にも明治製糖が鉄道を敷いていました。
この周辺には役場や警察署がありますが、日本統治時代も官公庁街となって、多くの日本人が住んでいました。今もその日本家屋がかなり残っていて、台湾人の住まいとなっています。 -
朴子から副瀬村まではバスもありますが、1日5本程度、それも朝夕のみなので、通訳(北京語は少しできますが、台湾語は全くできないので)に頼んだ朴子の学生さんのお父さんの運転で向かいました。
嘉義市街〜副瀬村は、タクシーで片道(往復だったかな?)600元ぐらいと聞いたことがあります。
村で乗り捨てると帰りが大変なので、せめて朴子までは乗っていけるよう、タクシーを待たせておいた方がいいです。
副瀬村に行ったのは、義愛公(詳細はネットで。たくさん検索できます)について調べるためです。義愛公をお祀りする富安宮は、2009年当時工事中。仮宮の訪問となりました。
ただ仮宮といっても、祭壇等は元の廟と同じようにしたようです。
これはたくさんの神様を祭る祭壇です。
義愛公で有名な富安宮ですが、義愛公をお祀りする前からある廟なので、たくさんの神仏の像がご安置されています。台湾の神様は日本とちがって、きらびやかな装束を付けておられますね。
◎富安宮は無事に完成し、2014年3月28日、神像も元にお戻しもうしあげたそうです。参拝されることがあれば、お気持ちでよいので、お布施をしてさしあげてください。 -
義愛公の神像。明治34〜35年の8か月の赴任期間中、自腹を切り、寝食を削って村民のために尽くした警察官です。
当時の台湾では、台湾人による日本人襲撃が絶えず、しかもこの時妻子を日本から呼び寄せていました。約300世帯の台湾人に対し、日本人がたったの3人、ち2人は女子供です。それでも村民を心から愛し、村の発展のことだけを考えた、私はお金を出したことよりも、そちらの方が「並みの人間にできることではない」と思うのです。
だからこそ、今でも村挙げて大切にしているのでしょう。村長さんの「義愛公は今も特別な人」という言葉が胸に残りました。
なお、村長さんの祖父は、義愛公が息子と朝散歩する姿をよく見かけたそうです。伝説のようになりつつある義愛公の姿が、目の前に現れたような不思議な感じがしました。 -
廟を出て村を歩いてみました。
集落(廟のあたりが一応村の中心)以外は、こんな風景が広がります。カキの養殖・加工と、農業が主な産業のようです。
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副瀬村はほとんど海沿いに位置しているのですが、村から海岸まではどこまでも養殖池や畑が続き、道らしきものがありません(あぜ道みたいなのばかり)。そこで、港へ行くことにしました。
村から南西へ5kmほど行くと、東石郡の中心地・東石港があります。日治時代もやはり郡の中心地でした。現在は観光地というほどではないけれど、海や夕日を眺めに来る行楽客でそこそこ賑わっているようです。
写真は東石港から見た、台湾海峡に沈む夕日。 -
副瀬村には3日通いました。
写真は、村の中心街。といっても富安宮と雑貨店、海鮮料理屋があるぐらいです。
副瀬村を訪問する場合は、飲食物を持って行った方がいいでしょう、本当に何もない村ですから。
ただ義愛公の史実を日本人はもっと知るべきなので、もっと多くの日本人にも行っていただきたいです。立派なカラーパンフレットをくれますし、日本人とわかれば神像を祭壇から出してくれます。 -
富安宮のほとんど目の前にある「明華」という海鮮食堂で、村長さんたちと昼食。蒸し蟹(ワタリガニみたいな)、ゆでエビ、台湾名産からすみ(今まで食べたからすみの中で一番の美味!本当においしかった)などが並びます。
さすがに海沿いだけあって、どれもおいしかった〜。ごちそうになったので、値段はわかりませんが、台北の半分とか3分の1ぐらいじゃないかな。4人以上いないと、いろいろ食べられません、是非人数を募って行ってください。
東石郡ヘは、この店を含めて海鮮料理を遠方から食べにくるお客は多いそう。ここも、週末は昼夜とも予約が必要ですって。 -
嘉義市街。中部では、台中、彰化に次ぐ第3の都市だけあって賑やかです。文化路夜市の食べ歩きや鶏肉飯は是非。
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嘉義では、嘉義公園に是非行ってみてください。日治時代には「嘉義神社」でした。社務所は現在歴史資料館になっています。
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嘉義では、九華山地蔵尊もおすすめ。7階建のお寺で上からは市街地を一望できます。
私が泊まったのは。このすぐ近くの嘉義市教師会館という公共の宿。古いけど、トイレ・シャワー・テレビ・エアコン付で500元。変な客もいないので、静かでよく休めました。
今もあるのかな〜 -
嘉義から一足のばして、関子嶺温泉へ。日治時代に開発されたここは、泥湯で有名です。これは露天風呂。私も他のお客と同じように、顔や体に泥をぬりつけてパックしてみました。
水着が必要です。 -
関子嶺温泉は、泥湯もさることながら、自然いっぱいの環境も魅力。どこへ行っても人とバイクだらけの台湾の市街地に辛くなったら、こういう所で息抜きしたいもの。
周りは山なので、空気もすがすがしい。私は日帰り(300元)でしたが、立派なホテルはいくつもあります。嘉義駅からバスで片道78元でした。 -
いくつかの取材を終え、台北へ移動。
この日は基隆港へ。以前にも行きました(九フンの途中)が、日治時代の歴史を研究するようになって、改めて行きたくなったのです。
昭和21年3月前後に、ここから多くの日本人(南部は高雄港から)が引き揚げていきました。その時港には多くの台湾人が見送りに来て、小舟で追いかけて別れを惜しむ台湾人もいたそうです。
引揚げ=満州や朝鮮半島ばかりではない、台湾でもまた多くのドラマがありました。今の日本ではほとんど知られていないその史実を、多くの日本人に知ってほしいと思います。そしてそれは、日治時代を生きた台湾人の願いでもあるようです。 -
台湾人の知人に、内湾という町へ連れて行ってもらいました。日治時代は林業で栄えたそうで、当時の映画館や建物を飲食店などに利用した、レトロな観光地です。雨にも関わらず、賑わっていました。この町で食べた客家料理がおいしかった〜
この翌日、日本へ帰国しました。
でも、日治時代の台湾をめぐる私の旅はまだ始まったばかりです。
◎2012年春時点で、富安宮の建物は完成しているそうです。この廟に参拝されたら、ぜひ100元(300円弱)でもいいのでお布施をしてくださいますよう、私からもお願いします。蒋介石親子が政権を握っていた排日時代でも、日本人の神様を守ってくれた副瀬村へのお礼として。参拝者には、日本語版カラーパンフ(読み応えありますよ〜)をくれます
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