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JR東北本線宝積寺駅より分離するJR烏山線の終点烏山駅から徒歩約20分、源平合戦・屋島の戦いで扇の的の功名により歴史に名を残した那須与一で有名な那須氏の居城烏山城(からすやまじょう、栃木県那須烏山市城山)を訪問しました。<br /><br />城跡は約88へクタールの山城で、別名「臥牛城」とも呼ばれています。沢村五郎資重(那須与一の子孫)が応永25年(1417)築城したと伝えられています。<br /><br />那須氏は藤原道長系を祖と言われ、平安末期から江戸時代初期まで、下野那須地方に勢力を有していた一族です。<br /><br />源平時代に屋島の戦いで名を挙げた那須与一の孫・光資(みつすけ)の時、源頼朝の那須野巻狩が行われ、その際の功績により御家人の地位を得ます。室町時代に入りましても鎌倉公方の足利氏に従いながら周辺所領を拡大、鎌倉以来の名門武士を貫きます。<br /><br />然しながら応永年間(1349~1428)、内部勢力の紛争により資之(すけゆき、生没不詳)と弟の沢村資重(すけしげ、生没不詳)が対立、資之の福原城の上那須氏と資重が離れ烏山城に入った下那須氏とに分裂します。<br /><br />16世紀初期、分裂後の上那須氏に家督相続を巡る争いがもとで滅亡し、下那須氏の資房(すけふさ、生誕不詳~1552)が両家を統一し百年ぶりに那須氏が統合されます。<br /><br />戦国時代では大関氏、大田原氏と言った旧上那須氏らが反旗を挙げ、常陸の強豪佐竹氏の支援を受けて当時の城主資胤(すけたね)を攻めますが、資胤軍は強く防戦、ついに敗退させます。<br /><br />その後も南の宇都宮氏、北の白河結城氏、東の佐竹氏等の強大な勢力を幾たびも跳ね返し那須氏は華々しい武名を高めます。<br /><br />天正18年(1590)豊臣秀吉が北条氏征伐に掛かりますと、関東諸大名の動静が注目を浴びますが、城主資晴(すけはる)は結果として小田原へは動かず、その結果秀吉が奥州仕置で会津若松に赴く途中、小山駐在の秀吉に拝謁するも時既に遅く所領没収されるに至ります。<br /><br />那須氏が立ち退いた烏山城は三河・遠江・駿河への転封を拒否したと言われた織田信長二男である織田信雄(おだのぶかつ、1558~1630))が2万石に減封されて入城、2ヵ月後武蔵忍城・成田氏長(なりた・うじなが、1542~1596)が任じられています。<br /><br />さて那須資晴はその後許され福原城周辺に5千石を与えられ、子の資景(すけかげ)時代に大名に復帰し一時烏山城主に戻りますが、江戸時代に入った貞享4年(1687)後嗣問題により改易となりここに那須氏は滅亡となります。<br /><br />過去に自分が勤務していました会社の生産工場が栃木県大田原市にあり度々出張していましたが、当時はお城についてはなんら関心なく、今般久方ぶりに宇都宮の延長という事で、加えて鉄道旅行も楽しみたいと言う想いから烏山線と烏山城をターゲットとした経緯があります。<br /><br />さすがに山城と言うことだけに体力消耗度は激しく休憩しながら前進せざるを得ずという環境下でしたがそれだけにひじょうに見応えのある訪問でありました。(笑)<br /><br />当地でも室町時代から戦国時代の足利公方・関東管領上杉氏・小田原北条氏を中心とする油断できないほど目まぐるしい攻防とそれに連動する佐竹氏・宇都宮氏・結城氏等有力勢力の打ち続く戦いに明け暮れていました。その中で鎌倉時代からの名門那須氏と言えども格下立場の為、周辺大勢力から武力介入を受けさぞかし難儀な対応だった事と察します<br /><br />それだけに特に城主の器量とともに先を見通す力量が求められる所ですが、城主資晴とて精一杯の熟慮をした事でしょう。それでも秀吉の全国統一という大きな渦に対応できなかったのは諸大名を含め当然の事かもしれません。<br /><br />何はともあれ、ささやかなローカル線の旅と併せて充分楽しんだ烏山城跡訪問でありました。<br /><br /><br /><br />2022年3月22日築城<br /><br />城跡に建立されている説明板には次の通り記載されています。<br /><br />「烏山城跡<br /><br />烏山城は、応永24年(1417)那須氏一族の沢村五郎資重(さわむら・ごろう・すけしげ)により築城されたと言われます。以後、約600年余り、幾多の変遷を重ねながら、歴代烏山藩の居城として威容を誇りました。<br /><br />烏山城は、中心市街の北西に位置する独立状の丘陵の頂上を中心に築かれている連郭式の山城です。東西約350m、南北約600mの範囲に、通称、五城三郭(古本丸・本丸・中城・西城・北城・常盤曲輪・若狭曲輪・大野曲輪)と呼ばれている曲輪群が築かれ、万治2年(1659)、時の烏山藩主堀親昌(ほり・ちかまさ)により城の東山麓に新たな藩主のp居館(通称:三の丸)が築かれました。<br /><br />城を防御する施設として、土塁、空堀、堀切などが曲輪の各所に設けられ、堅固な城砦を形成しています。また、本丸や常盤曲輪などの重要部分には石垣が築かれています。本城は本格的な石垣を持つ城として東日本では珍しく、貴重な城と言えます。」

下野烏山 常陸佐竹氏らの攻撃に耐え秀吉の関東仕置で領地没収されるも大名復帰実現した北関東で名族那須氏本拠の『烏山城』訪問

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2011/12/18 - 2011/12/18

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR東北本線宝積寺駅より分離するJR烏山線の終点烏山駅から徒歩約20分、源平合戦・屋島の戦いで扇の的の功名により歴史に名を残した那須与一で有名な那須氏の居城烏山城(からすやまじょう、栃木県那須烏山市城山)を訪問しました。

城跡は約88へクタールの山城で、別名「臥牛城」とも呼ばれています。沢村五郎資重(那須与一の子孫)が応永25年(1417)築城したと伝えられています。

那須氏は藤原道長系を祖と言われ、平安末期から江戸時代初期まで、下野那須地方に勢力を有していた一族です。

源平時代に屋島の戦いで名を挙げた那須与一の孫・光資(みつすけ)の時、源頼朝の那須野巻狩が行われ、その際の功績により御家人の地位を得ます。室町時代に入りましても鎌倉公方の足利氏に従いながら周辺所領を拡大、鎌倉以来の名門武士を貫きます。

然しながら応永年間(1349~1428)、内部勢力の紛争により資之(すけゆき、生没不詳)と弟の沢村資重(すけしげ、生没不詳)が対立、資之の福原城の上那須氏と資重が離れ烏山城に入った下那須氏とに分裂します。

16世紀初期、分裂後の上那須氏に家督相続を巡る争いがもとで滅亡し、下那須氏の資房(すけふさ、生誕不詳~1552)が両家を統一し百年ぶりに那須氏が統合されます。

戦国時代では大関氏、大田原氏と言った旧上那須氏らが反旗を挙げ、常陸の強豪佐竹氏の支援を受けて当時の城主資胤(すけたね)を攻めますが、資胤軍は強く防戦、ついに敗退させます。

その後も南の宇都宮氏、北の白河結城氏、東の佐竹氏等の強大な勢力を幾たびも跳ね返し那須氏は華々しい武名を高めます。

天正18年(1590)豊臣秀吉が北条氏征伐に掛かりますと、関東諸大名の動静が注目を浴びますが、城主資晴(すけはる)は結果として小田原へは動かず、その結果秀吉が奥州仕置で会津若松に赴く途中、小山駐在の秀吉に拝謁するも時既に遅く所領没収されるに至ります。

那須氏が立ち退いた烏山城は三河・遠江・駿河への転封を拒否したと言われた織田信長二男である織田信雄(おだのぶかつ、1558~1630))が2万石に減封されて入城、2ヵ月後武蔵忍城・成田氏長(なりた・うじなが、1542~1596)が任じられています。

さて那須資晴はその後許され福原城周辺に5千石を与えられ、子の資景(すけかげ)時代に大名に復帰し一時烏山城主に戻りますが、江戸時代に入った貞享4年(1687)後嗣問題により改易となりここに那須氏は滅亡となります。

過去に自分が勤務していました会社の生産工場が栃木県大田原市にあり度々出張していましたが、当時はお城についてはなんら関心なく、今般久方ぶりに宇都宮の延長という事で、加えて鉄道旅行も楽しみたいと言う想いから烏山線と烏山城をターゲットとした経緯があります。

さすがに山城と言うことだけに体力消耗度は激しく休憩しながら前進せざるを得ずという環境下でしたがそれだけにひじょうに見応えのある訪問でありました。(笑)

当地でも室町時代から戦国時代の足利公方・関東管領上杉氏・小田原北条氏を中心とする油断できないほど目まぐるしい攻防とそれに連動する佐竹氏・宇都宮氏・結城氏等有力勢力の打ち続く戦いに明け暮れていました。その中で鎌倉時代からの名門那須氏と言えども格下立場の為、周辺大勢力から武力介入を受けさぞかし難儀な対応だった事と察します

それだけに特に城主の器量とともに先を見通す力量が求められる所ですが、城主資晴とて精一杯の熟慮をした事でしょう。それでも秀吉の全国統一という大きな渦に対応できなかったのは諸大名を含め当然の事かもしれません。

何はともあれ、ささやかなローカル線の旅と併せて充分楽しんだ烏山城跡訪問でありました。



2022年3月22日築城

城跡に建立されている説明板には次の通り記載されています。

「烏山城跡

烏山城は、応永24年(1417)那須氏一族の沢村五郎資重(さわむら・ごろう・すけしげ)により築城されたと言われます。以後、約600年余り、幾多の変遷を重ねながら、歴代烏山藩の居城として威容を誇りました。

烏山城は、中心市街の北西に位置する独立状の丘陵の頂上を中心に築かれている連郭式の山城です。東西約350m、南北約600mの範囲に、通称、五城三郭(古本丸・本丸・中城・西城・北城・常盤曲輪・若狭曲輪・大野曲輪)と呼ばれている曲輪群が築かれ、万治2年(1659)、時の烏山藩主堀親昌(ほり・ちかまさ)により城の東山麓に新たな藩主のp居館(通称:三の丸)が築かれました。

城を防御する施設として、土塁、空堀、堀切などが曲輪の各所に設けられ、堅固な城砦を形成しています。また、本丸や常盤曲輪などの重要部分には石垣が築かれています。本城は本格的な石垣を持つ城として東日本では珍しく、貴重な城と言えます。」

交通手段
JRローカル 徒歩
  • 烏山行車輌<br /><br />宇都宮駅から烏山線直通で出発します。久しぶり乗車のディーゼル車輌で感激です。「寿老人」のステッカー貼付が印象的です。<br />

    烏山行車輌

    宇都宮駅から烏山線直通で出発します。久しぶり乗車のディーゼル車輌で感激です。「寿老人」のステッカー貼付が印象的です。

  • 烏山線停車駅ステッカー<br /><br />車体には「宝積寺(宇都宮)ー下野花岡ー仁井田ー鴻野山ー大金ー小塙ー滝ー烏山」の停車駅と共に神々の絵が描かれています。

    烏山線停車駅ステッカー

    車体には「宝積寺(宇都宮)ー下野花岡ー仁井田ー鴻野山ー大金ー小塙ー滝ー烏山」の停車駅と共に神々の絵が描かれています。

  • ディーゼル車内風景<br /><br />出発前の車内ですがロングシートでは旅情が味わえませんネ。烏山線でも主たる乗客は学生さんのようです。

    ディーゼル車内風景

    出発前の車内ですがロングシートでは旅情が味わえませんネ。烏山線でも主たる乗客は学生さんのようです。

  • 烏山市街地図<br /><br />終点烏山駅に到着します。駅前の市街地図で城跡へのルートを確認、城山通りから烏山城跡に入りることにします。

    烏山市街地図

    終点烏山駅に到着します。駅前の市街地図で城跡へのルートを確認、城山通りから烏山城跡に入りることにします。

  • 周辺地図<br /><br />烏山城は東側の那珂川を水堀にみたてて防御としています。

    周辺地図

    烏山城は東側の那珂川を水堀にみたてて防御としています。

  • 「国鉄烏山駅舎(JR烏山線烏山駅舎)」(那須烏山市の近代化遺産)<br /><br />烏山線は東北本線の宝積寺から烏山までの20.7Kmの鉄道で大正12年4月15日開通し、烏山駅舎も同日に開設されています。

    「国鉄烏山駅舎(JR烏山線烏山駅舎)」(那須烏山市の近代化遺産)

    烏山線は東北本線の宝積寺から烏山までの20.7Kmの鉄道で大正12年4月15日開通し、烏山駅舎も同日に開設されています。

  • 烏山城跡入口<br /><br />駅前通から城山通りを経て徒歩約20分に入口がありす。然しながら城郭へはかなりの距離がある事が後で判ります。

    烏山城跡入口

    駅前通から城山通りを経て徒歩約20分に入口がありす。然しながら城郭へはかなりの距離がある事が後で判ります。

  • 登城への階段<br /><br />さすが山城への急勾配が待ち構えています。この後も別の階段が控えています。勾配が厳しいので休みながら登坂しなければなりません。

    登城への階段

    さすが山城への急勾配が待ち構えています。この後も別の階段が控えています。勾配が厳しいので休みながら登坂しなければなりません。

  • 「烏山防空監視哨」(那須烏山市の近代化遺産)<br /><br />戦時中にはこの一帯は監視哨があったようです。

    「烏山防空監視哨」(那須烏山市の近代化遺産)

    戦時中にはこの一帯は監視哨があったようです。

  • 展望台への階段<br /><br />この先に階段を登ると展望台があります。

    展望台への階段

    この先に階段を登ると展望台があります。

  • 石仏像

    石仏像

  • 烏山市内展望<br /><br />市街を見渡す展望台で一休みです。左側には那珂川が流れています。

    烏山市内展望

    市街を見渡す展望台で一休みです。左側には那珂川が流れています。

  • 展望台広場<br /><br />

    展望台広場

  • 烏山城跡及び寿亀山神社標識<br /><br />ここからしばらく歩き続けます。<br />

    烏山城跡及び寿亀山神社標識

    ここからしばらく歩き続けます。

  • 烏山城跡へ<br /><br />尾根を伝って城跡へ迫ります。

    烏山城跡へ

    尾根を伝って城跡へ迫ります。

  • 途中の崖<br /><br />山岳地帯に入っていますので急涯が所々に見られます。

    途中の崖

    山岳地帯に入っていますので急涯が所々に見られます。

  • 筑紫山の由来<br /><br />征夷大将軍、坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が東征の途上、宇佐八幡宮の神職、斎藤左衛門太夫宗隆をして神詞を建立し筑紫山と命名され、その後明応年間(1496)今の宮原に遷宮されました。烏の集り飛鳴せしにより烏山と号するなりと記されています。(説明文)

    筑紫山の由来

    征夷大将軍、坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が東征の途上、宇佐八幡宮の神職、斎藤左衛門太夫宗隆をして神詞を建立し筑紫山と命名され、その後明応年間(1496)今の宮原に遷宮されました。烏の集り飛鳴せしにより烏山と号するなりと記されています。(説明文)

  • 防空監視哨の土台<br /><br />戦時中の遺物です。

    防空監視哨の土台

    戦時中の遺物です。

  • 石垣崩落<br /><br />昨年の東日本大震災で烏山城石垣が崩落したそうです。<br />当地まで地震の影響があった訳で震災の大きさが今更ながらわかります。<br />

    石垣崩落

    昨年の東日本大震災で烏山城石垣が崩落したそうです。
    当地まで地震の影響があった訳で震災の大きさが今更ながらわかります。

  • 常盤橋御門跡(俗称:車橋)<br /><br />土橋の左右が深い堀となっています。

    イチオシ

    常盤橋御門跡(俗称:車橋)

    土橋の左右が深い堀となっています。

  • 土橋から堀を見る<br /><br />左右は深い空堀となっています。これでは大勢では渡れません。<br />(樹林で陽射しが遮られています)

    土橋から堀を見る

    左右は深い空堀となっています。これでは大勢では渡れません。
    (樹林で陽射しが遮られています)

  • 城跡に向かう階段<br /><br />登りきるまで急階段でこれでは敵の軍勢も相当体力消耗します。

    城跡に向かう階段

    登りきるまで急階段でこれでは敵の軍勢も相当体力消耗します。

  • 城跡と十二曲り<br /><br />城跡の方を歩きます。

    城跡と十二曲り

    城跡の方を歩きます。

  • 城跡見取図

    城跡見取図

  • 烏山城説明

    烏山城説明

  • 正門跡

    正門跡

  • 二の丸跡(那須家時代)<br /><br />老杉がうっそうと茂っています。

    イチオシ

    二の丸跡(那須家時代)

    老杉がうっそうと茂っています。

  • 二の丸跡説明

    二の丸跡説明

  • 本丸跡(那須家時代)

    本丸跡(那須家時代)

  • 空堀<br /><br />山城だけに険しい空堀となってます。

    空堀

    山城だけに険しい空堀となってます。

  • 土塁<br /><br />しっかりした土塁が連なっています。<br /><br />

    土塁

    しっかりした土塁が連なっています。

  • 吹貫門跡

    吹貫門跡

  • 石垣<br /><br />逞しい石垣が詰まれています。どこで切り出したんでしょうか。

    石垣

    逞しい石垣が詰まれています。どこで切り出したんでしょうか。

  • 崩落注意の立札<br /><br />地震の影響が石垣にも表われています。

    崩落注意の立札

    地震の影響が石垣にも表われています。

  • 急涯の階段<br /><br />敵勢の侵入を一時的に阻止するには格好の配置です。

    イチオシ

    急涯の階段

    敵勢の侵入を一時的に阻止するには格好の配置です。

  • 烏山城三の丸跡説明

    烏山城三の丸跡説明

  • 説明文<br /><br />万治2年(1659)、山城を禁ずる幕令によって時の城主堀親昌(ほりちかまさ)は城山東麓に新築したそうです。(現地説明文)

    説明文

    万治2年(1659)、山城を禁ずる幕令によって時の城主堀親昌(ほりちかまさ)は城山東麓に新築したそうです。(現地説明文)

  • 三の丸見取図

    三の丸見取図

  • 寿亀山神社(じゅきさんじんじゃ)参道<br /><br />登り階段は一部通行禁止となっています。地震の影響が所々に散見されます。<br /><br />

    寿亀山神社(じゅきさんじんじゃ)参道

    登り階段は一部通行禁止となっています。地震の影響が所々に散見されます。

  • 寿亀山神社(じゅきさんじんじゃ)<br /><br />烏山藩2代目城主大久保常春(おおくぼつねはる)を祀っている神社です。<br /><br />大久忠隣は常春の本家藩祖でありまして、父忠世と共に徳川幕府創立に大きく貢献、小田原藩主で2代目将軍秀忠の側近でありました。<br />

    寿亀山神社(じゅきさんじんじゃ)

    烏山藩2代目城主大久保常春(おおくぼつねはる)を祀っている神社です。

    大久忠隣は常春の本家藩祖でありまして、父忠世と共に徳川幕府創立に大きく貢献、小田原藩主で2代目将軍秀忠の側近でありました。

  • 寿亀山神社立札

    寿亀山神社立札

  • 大久保常春顕彰碑<br /><br />延宝3年生まれ、元禄12年(1699)父の隠居に伴い近江の内1万石を相続、その後若年寄を経て老中となります。享保10年(1725)に下野烏山に移封、加増され最終的に3万石となります。享保13年(1728)、老中在職中に死去しました。

    大久保常春顕彰碑

    延宝3年生まれ、元禄12年(1699)父の隠居に伴い近江の内1万石を相続、その後若年寄を経て老中となります。享保10年(1725)に下野烏山に移封、加増され最終的に3万石となります。享保13年(1728)、老中在職中に死去しました。

  • 三の丸跡<br /><br />手入れがされてません。

    三の丸跡

    手入れがされてません。

  • 三の丸跡<br />

    三の丸跡

  • 土塁<br /><br />二段になっている土塁と見ます。

    土塁

    二段になっている土塁と見ます。

  • 土塁<br /><br />周辺には土塁が豊富に見られます。

    土塁

    周辺には土塁が豊富に見られます。

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