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京浜急行浦賀駅下車、深く入り込んだ浦賀港に沿って徒歩約20分、東叶神社を麓に配した浦賀城(うらがじょう、神奈川県横須賀市東浦賀)を訪問しました。<br /><br />築城時期及び築城者については定かではありませんが、平安時代末期から三浦半島を本領としている三浦氏が対岸房総諸国への交通起点として11世紀頃に築城したのち、16世紀初頭に三浦半島を支配下に置いた小田原北条氏の当主氏康(うじやす)の命により三崎城の支城として整備され、明神山の麓には造船所と共に水軍基地を設置したと思われます。<br /><br />鎌倉時代後期には磐石な執権政治を実現する為五代執権北条時頼(ほうじょう・ときより、1227~1263)による大勢力三浦一族を滅亡に追い込みます。ところが三浦一族の中で北条氏と婚姻関係にあったため北条側に立場を鮮明にした佐原氏は滅亡を免れますが所領は限定、半島南部に押込まれ北条氏の臣下としてその血筋を保ち続けます。<br /><br />戦国時代前期では勢力を回復し姓を三浦に戻し伝統の水軍力を頼みとする中、当城を含む住吉城及び新井城等周辺城郭を強固な城砦化に取り組み半島の大半を勢力下に収めます。<br /><br />やがて小田原を本拠とする小田原北条氏による三浦半島攻略が進みますと当時の三浦義同(みうら・よしあつ、1457~1516)は嫡男義意(よしおき、1496~1516)と共に新井城に立て籠もりますが3年後の永正13年(1516)、遂に陥落父子ともども自刃して三浦氏は滅亡、やがて浦賀城も小田原北条氏の属城となり玉縄城を拠点とする小田原北条氏のネットワークに組み入れられ対岸の里見氏の安房軍来襲に対峙する水軍主力基地及び造船所としての役割を担う事になります。<br /><br />然しながら天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原城討伐に際しては浦賀城水軍は伊豆水軍の支援軍として下田城防衛に当たりますが北条氏の滅亡に伴い廃城となります。<br /><br />自分は東叶(ひがしかのう)神社から入りましたが明神山頂上にある城跡までの階段は急勾配で相当汗をかきましたが、登り切った主郭は想像以上に広く城跡案内板から望む房総半島方面の展望は格別に清清しいものでした。<br /><br /><br />2023年5月5日追記<br /><br />主郭の広場に建立の説明板には下記の通り記載されています。<br /><br />「 浦 賀 城 址<br />戦国時代に小田原北条氏が三浦半島を支配した時に房総里見氏からの攻撃に備えて北条氏康が三崎城の出城として築いたといわれています。<br /><br />水軍の根城として山頂には空堀など城の遺構が残り、下田山・城山とも呼ばれていました。<br /><br />昔から眺望の素晴らしい所で対岸に房総半島、正面に浦賀八勝の一つ燈明堂がみられます。<br /><br />この明神山は自然の社業林で県の天然記念に指定されウバメガシ分布の北限とされます。<br /><br />嘉永6年(1853)ペリーの黒船四隻が浦賀沖に来航した時、眼下の左辺りに停泊しました。<br /><br />下の絵(略)は安藤広重の武相名所の旅絵日記の56景の一枚です。 」

相模浦賀 三浦一族に打ち勝って相模国を統一した小田原北条氏が房総里見軍急襲に備えるため旧来の水軍基地を整備拡充した『浦賀城』訪問

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2011/11/16 - 2011/11/16

914位(同エリア1540件中)

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滝山氏照

滝山氏照さん

京浜急行浦賀駅下車、深く入り込んだ浦賀港に沿って徒歩約20分、東叶神社を麓に配した浦賀城(うらがじょう、神奈川県横須賀市東浦賀)を訪問しました。

築城時期及び築城者については定かではありませんが、平安時代末期から三浦半島を本領としている三浦氏が対岸房総諸国への交通起点として11世紀頃に築城したのち、16世紀初頭に三浦半島を支配下に置いた小田原北条氏の当主氏康(うじやす)の命により三崎城の支城として整備され、明神山の麓には造船所と共に水軍基地を設置したと思われます。

鎌倉時代後期には磐石な執権政治を実現する為五代執権北条時頼(ほうじょう・ときより、1227~1263)による大勢力三浦一族を滅亡に追い込みます。ところが三浦一族の中で北条氏と婚姻関係にあったため北条側に立場を鮮明にした佐原氏は滅亡を免れますが所領は限定、半島南部に押込まれ北条氏の臣下としてその血筋を保ち続けます。

戦国時代前期では勢力を回復し姓を三浦に戻し伝統の水軍力を頼みとする中、当城を含む住吉城及び新井城等周辺城郭を強固な城砦化に取り組み半島の大半を勢力下に収めます。

やがて小田原を本拠とする小田原北条氏による三浦半島攻略が進みますと当時の三浦義同(みうら・よしあつ、1457~1516)は嫡男義意(よしおき、1496~1516)と共に新井城に立て籠もりますが3年後の永正13年(1516)、遂に陥落父子ともども自刃して三浦氏は滅亡、やがて浦賀城も小田原北条氏の属城となり玉縄城を拠点とする小田原北条氏のネットワークに組み入れられ対岸の里見氏の安房軍来襲に対峙する水軍主力基地及び造船所としての役割を担う事になります。

然しながら天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原城討伐に際しては浦賀城水軍は伊豆水軍の支援軍として下田城防衛に当たりますが北条氏の滅亡に伴い廃城となります。

自分は東叶(ひがしかのう)神社から入りましたが明神山頂上にある城跡までの階段は急勾配で相当汗をかきましたが、登り切った主郭は想像以上に広く城跡案内板から望む房総半島方面の展望は格別に清清しいものでした。


2023年5月5日追記

主郭の広場に建立の説明板には下記の通り記載されています。

「 浦 賀 城 址
戦国時代に小田原北条氏が三浦半島を支配した時に房総里見氏からの攻撃に備えて北条氏康が三崎城の出城として築いたといわれています。

水軍の根城として山頂には空堀など城の遺構が残り、下田山・城山とも呼ばれていました。

昔から眺望の素晴らしい所で対岸に房総半島、正面に浦賀八勝の一つ燈明堂がみられます。

この明神山は自然の社業林で県の天然記念に指定されウバメガシ分布の北限とされます。

嘉永6年(1853)ペリーの黒船四隻が浦賀沖に来航した時、眼下の左辺りに停泊しました。

下の絵(略)は安藤広重の武相名所の旅絵日記の56景の一枚です。 」

交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
  • 浦賀港<br /><br />深く入り込んだ良港です。江戸末期の嘉永6年(1853)ぺリー率いるアメリカ艦隊4隻が来航した地でもあります。

    浦賀港

    深く入り込んだ良港です。江戸末期の嘉永6年(1853)ぺリー率いるアメリカ艦隊4隻が来航した地でもあります。

  • 東叶神社<br /><br />明神山の麓に当神社があり、この奥の本殿左の階段を登ります。

    東叶神社

    明神山の麓に当神社があり、この奥の本殿左の階段を登ります。

  • 東叶神社説明板<br /><br />祭神は応神天皇で、この神社は1181年(養和元年)京都高雄山神護寺の僧文覚が源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えた事に始まります。その後源頼朝によりその願いが叶った事から「叶神社」と呼ばれるようになったと伝えられています。<br />北条時代ではしばしば房総の里見軍が、三浦半島に攻撃をかけてきますので水軍が明神山に水軍を配置したそうです。

    東叶神社説明板

    祭神は応神天皇で、この神社は1181年(養和元年)京都高雄山神護寺の僧文覚が源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えた事に始まります。その後源頼朝によりその願いが叶った事から「叶神社」と呼ばれるようになったと伝えられています。
    北条時代ではしばしば房総の里見軍が、三浦半島に攻撃をかけてきますので水軍が明神山に水軍を配置したそうです。

  • 東叶神社の社叢林案内板<br /><br />山頂まで53mで裏山一帯は浦賀城跡との事です。

    東叶神社の社叢林案内板

    山頂まで53mで裏山一帯は浦賀城跡との事です。

  • 叶神社配置図

    叶神社配置図

  • 勝海舟断食水<br /><br />江戸時代末期の勝海舟が当地で断食修行をした際使用の井戸から汲み上げられた水だそうです。

    勝海舟断食水

    江戸時代末期の勝海舟が当地で断食修行をした際使用の井戸から汲み上げられた水だそうです。

  • 説明文

    説明文

  • 拝殿全景<br /><br />山がすぐ迫っていますので急階段となります。

    拝殿全景

    山がすぐ迫っていますので急階段となります。

  • 浦賀湾遠望<br /><br />拝殿から振返りますと浦賀湾が良く見えます。

    浦賀湾遠望

    拝殿から振返りますと浦賀湾が良く見えます。

  • 城跡への登り階段<br /><br />いよいよ拝殿の左側階段を登ります。

    城跡への登り階段

    いよいよ拝殿の左側階段を登ります。

  • 城跡への登り階段<br /><br />更に階段が続きます。

    城跡への登り階段

    更に階段が続きます。

  • 階段途中<br /><br />途中を振返りますと勾配がきつい事がわかります。

    階段途中

    途中を振返りますと勾配がきつい事がわかります。

  • 勝海舟断食の記念碑<br /><br />咸臨丸で太平洋横断を前にして船玉明神を祀る当神社に航海の安全を祈願したものと思われます。

    勝海舟断食の記念碑

    咸臨丸で太平洋横断を前にして船玉明神を祀る当神社に航海の安全を祈願したものと思われます。

  • 勝海舟断食の場所

    勝海舟断食の場所

  • 説明文

    説明文

  • 断食の跡記念柱

    断食の跡記念柱

  • 城郭の一部

    城郭の一部

  • 主郭から展望<br /><br />

    主郭から展望

  • 浦賀城跡説明<br /><br />ぺリーが来航した時は眼下の左側に停泊したそうです。<br />

    浦賀城跡説明

    ぺリーが来航した時は眼下の左側に停泊したそうです。

  • 武相名所の旅絵日記<br /><br />安藤広重作の旅絵日記の56景の1枚だそうです。

    武相名所の旅絵日記

    安藤広重作の旅絵日記の56景の1枚だそうです。

  • 房総半島を望む<br /><br />展望抜群です。<br />手前の浦賀水道は手に取るように見えます。

    房総半島を望む

    展望抜群です。
    手前の浦賀水道は手に取るように見えます。

  • 房総遠望<br /><br />鋸山方面を見ます。度々の里見水軍による攻撃は北条氏にとって頭痛の種だった訳で、実際、弘治2年(1556)、里見義弘を大将とする里見水軍80艘が城ヶ島を上陸、北条氏守備軍が迎え撃ちますが結果三崎城及び新井城が占拠され周辺の領有を一時許した事があったそうです。

    房総遠望

    鋸山方面を見ます。度々の里見水軍による攻撃は北条氏にとって頭痛の種だった訳で、実際、弘治2年(1556)、里見義弘を大将とする里見水軍80艘が城ヶ島を上陸、北条氏守備軍が迎え撃ちますが結果三崎城及び新井城が占拠され周辺の領有を一時許した事があったそうです。

  • 主郭<br /><br />

    主郭

  • 土塁<br /><br />土塁が周辺を囲っています。

    土塁

    土塁が周辺を囲っています。

  • 土塁<br /><br />かなり崩れていますが確認できます。

    土塁

    かなり崩れていますが確認できます。

  • 麓から明神山を仰ぐ<br /><br />住宅敷地確保の為山麓の一部が削られています。

    麓から明神山を仰ぐ

    住宅敷地確保の為山麓の一部が削られています。

  • 明神山<br /><br />今でも人を寄せ付けない要塞の城であるとわかります。

    明神山

    今でも人を寄せ付けない要塞の城であるとわかります。

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