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横浜市営地下鉄「センター南」駅下車、徒歩約8分の茅ヶ崎城(ちがさきじょう、神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎東)は現在「茅ヶ崎城址公園」の一部として存在しています。<br /><br />茅ヶ崎城は14世紀末から15世紀初めの築城と推定され、築城者は当時相模から武蔵国南部にかけて勢力を有していた扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と言われていますが定かではありません。<br /><br />その後16世紀中頃には二重土塁とその間に空堀が設けられ、この施設はおそらくその後北進し、扇谷上杉氏に替わって支配下に収めた小田原北条氏の影響下のもとで改修されたと思われます。<br /><br />歴史展開としてはとしては暦応元年(1338)、室町幕府成立後鎌倉に関東を統治する出先機関として鎌倉府を創設、鎌倉公方足利氏と補佐役の関東管領上杉氏により政治が執り行われることとなります。<br /><br />15世紀半ばになりますと、鎌倉公方と上杉氏が対立(享徳の乱)、更に上杉氏内部(本家山内家と分家扇谷家)の権力闘争(長享の乱)が激化しこれを契機に関東全土に大規模な戦乱が繰り広げられ、更に文明8年(1476)の山内上杉氏家臣の長尾景春(ながお・かげはる、1443~1514)の乱が発生しますと主城である小机城(こづくえじょう)が太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)に攻め落とされることになります。<br /><br />15世紀終り頃、北条早雲は関東支配を着々と推し進め、やがて関東各地に支城を造りいわゆるネットワーク化を構築、茅ヶ崎城は周辺の支城と共に小机城を中心とする南武蔵エリア体制に組み込まれる中で役割を果たします。すなわち茅ヶ崎一帯の領主は小机衆を構成する武将座間氏であったことから同氏が城代の役割を果たしていたと考えられます。<br /><br />天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原合戦で5代目小田原北条氏直(ほうじょう・うじなお、 1562~1591)は小田原城開門し約100年に亘る小田原北条氏は滅亡、支城である茅ヶ崎城その役割を終え廃城となります。<br /><br />地勢的には茅ヶ崎城は早渕川中流右岸の三角山(現「センター南駅」付近に相当)から東に連なる丘陵の先端部に築かれた城となっています。<br /><br />当城は相模国に接する武蔵南端に位置し、東側には現在の中原街道、西側には矢倉沢街道が通じており、又早渕川沿いの道は武蔵国府である府中市と横浜市神奈川区を結ぶルートになっており茅ヶ崎城はこの交通の要地に自然の地形を利用して築城されています。<br /><br />当城は平成2年度から平成17年度に亘り公園の整備事業に伴い発掘調査を実施、ようやく平成20年6月に公園として発足しました。<br /><br />自分が訪問した日は雨がシトシト降るあいにくの悪天気でしたが城跡の手入れは充分行届いており、肝心の土塁・空堀・郭等がよく観察できる上に、各ポイントでは説明板が建てられ判りやすく説明されて生きた事例を学ぶ事ができました。<br /><br /><br /><br />「 茅ヶ崎城の移り変わり<br /><br />茅ヶ崎城は早渕川に張り出す自然の丘のくびれ部を掘り切りして築かれています。規模は、東西330m、南北200m、総面積はおよそ55,000m2あります。複数の郭が連なる形式で、郭を取り巻く空堀、郭の外濠部に築かれる土塁などで構成されています。天守閣のような大きな建物や石垣はありませんでした。<br /><br />発掘調査の結果、築城年代は14世紀末~15世紀前半頃と考えられ、少なくとも2度にわたる大規模な改築のあとが認められました。<br /><br />築城当初は、東西2つの郭のみでしたが、15世紀後半頃には、土塁の改築と空堀の掘り直しが行われ、郭が西郭・中郭・東郭・北郭の4つになったと考えられます。中郭(当初の西郭)の南東部から、倉庫と考えられる建物などが見つかっています。この時期に相模国と武蔵国を支配していたのは関東管領上杉氏であり、茅ヶ崎城に改築にも影響を与えていたと推定されています。<br /><br />16世紀中頃には、二重土塁の間に空堀をめぐらせるなど、後北条氏独特の築城方法による防備の強化がなされています。中郭の東寄りには新たに「中堀」も掘られています。この堀の脇に土塁が見られない点から、防備の強化は未完成のままであた可能性もあります。この頃の城主については、後北条氏の家臣団で小机衆のうちの座間氏や深沢備後守という説があります。<br /><br />茅ヶ崎城の南側の谷に望む山すそから、かつては14・15世紀のものと考えられる常滑産の蔵骨器や板碑が発見されています。墓地に伴うこれらの出土品は、「根小屋」と呼ばれる平時の生活拠点エリアが形成されていた可能性があることを物語っています。<br /><br />中世城郭は、軍事拠点としてだけだはなく、戦時における地域の避難施設でもありました。<br /><br />城内に、籠城の備えとしての食べ物を貯え、井戸を掘ることが行われました。また食料になるように植物も植えられ、管理されていたと考えられます。」

武蔵横浜 扇谷上杉氏の勢力を駆逐し小田原北条氏の武蔵国南部の拠点とした小机城の支城として見事な土塁と空堀に改修された『茅ヶ崎城』訪問

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2011/11/11 - 2011/11/11

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滝山氏照

滝山氏照さん

横浜市営地下鉄「センター南」駅下車、徒歩約8分の茅ヶ崎城(ちがさきじょう、神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎東)は現在「茅ヶ崎城址公園」の一部として存在しています。

茅ヶ崎城は14世紀末から15世紀初めの築城と推定され、築城者は当時相模から武蔵国南部にかけて勢力を有していた扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と言われていますが定かではありません。

その後16世紀中頃には二重土塁とその間に空堀が設けられ、この施設はおそらくその後北進し、扇谷上杉氏に替わって支配下に収めた小田原北条氏の影響下のもとで改修されたと思われます。

歴史展開としてはとしては暦応元年(1338)、室町幕府成立後鎌倉に関東を統治する出先機関として鎌倉府を創設、鎌倉公方足利氏と補佐役の関東管領上杉氏により政治が執り行われることとなります。

15世紀半ばになりますと、鎌倉公方と上杉氏が対立(享徳の乱)、更に上杉氏内部(本家山内家と分家扇谷家)の権力闘争(長享の乱)が激化しこれを契機に関東全土に大規模な戦乱が繰り広げられ、更に文明8年(1476)の山内上杉氏家臣の長尾景春(ながお・かげはる、1443~1514)の乱が発生しますと主城である小机城(こづくえじょう)が太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)に攻め落とされることになります。

15世紀終り頃、北条早雲は関東支配を着々と推し進め、やがて関東各地に支城を造りいわゆるネットワーク化を構築、茅ヶ崎城は周辺の支城と共に小机城を中心とする南武蔵エリア体制に組み込まれる中で役割を果たします。すなわち茅ヶ崎一帯の領主は小机衆を構成する武将座間氏であったことから同氏が城代の役割を果たしていたと考えられます。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原合戦で5代目小田原北条氏直(ほうじょう・うじなお、 1562~1591)は小田原城開門し約100年に亘る小田原北条氏は滅亡、支城である茅ヶ崎城その役割を終え廃城となります。

地勢的には茅ヶ崎城は早渕川中流右岸の三角山(現「センター南駅」付近に相当)から東に連なる丘陵の先端部に築かれた城となっています。

当城は相模国に接する武蔵南端に位置し、東側には現在の中原街道、西側には矢倉沢街道が通じており、又早渕川沿いの道は武蔵国府である府中市と横浜市神奈川区を結ぶルートになっており茅ヶ崎城はこの交通の要地に自然の地形を利用して築城されています。

当城は平成2年度から平成17年度に亘り公園の整備事業に伴い発掘調査を実施、ようやく平成20年6月に公園として発足しました。

自分が訪問した日は雨がシトシト降るあいにくの悪天気でしたが城跡の手入れは充分行届いており、肝心の土塁・空堀・郭等がよく観察できる上に、各ポイントでは説明板が建てられ判りやすく説明されて生きた事例を学ぶ事ができました。



「 茅ヶ崎城の移り変わり

茅ヶ崎城は早渕川に張り出す自然の丘のくびれ部を掘り切りして築かれています。規模は、東西330m、南北200m、総面積はおよそ55,000m2あります。複数の郭が連なる形式で、郭を取り巻く空堀、郭の外濠部に築かれる土塁などで構成されています。天守閣のような大きな建物や石垣はありませんでした。

発掘調査の結果、築城年代は14世紀末~15世紀前半頃と考えられ、少なくとも2度にわたる大規模な改築のあとが認められました。

築城当初は、東西2つの郭のみでしたが、15世紀後半頃には、土塁の改築と空堀の掘り直しが行われ、郭が西郭・中郭・東郭・北郭の4つになったと考えられます。中郭(当初の西郭)の南東部から、倉庫と考えられる建物などが見つかっています。この時期に相模国と武蔵国を支配していたのは関東管領上杉氏であり、茅ヶ崎城に改築にも影響を与えていたと推定されています。

16世紀中頃には、二重土塁の間に空堀をめぐらせるなど、後北条氏独特の築城方法による防備の強化がなされています。中郭の東寄りには新たに「中堀」も掘られています。この堀の脇に土塁が見られない点から、防備の強化は未完成のままであた可能性もあります。この頃の城主については、後北条氏の家臣団で小机衆のうちの座間氏や深沢備後守という説があります。

茅ヶ崎城の南側の谷に望む山すそから、かつては14・15世紀のものと考えられる常滑産の蔵骨器や板碑が発見されています。墓地に伴うこれらの出土品は、「根小屋」と呼ばれる平時の生活拠点エリアが形成されていた可能性があることを物語っています。

中世城郭は、軍事拠点としてだけだはなく、戦時における地域の避難施設でもありました。

城内に、籠城の備えとしての食べ物を貯え、井戸を掘ることが行われました。また食料になるように植物も植えられ、管理されていたと考えられます。」

交通手段
私鉄 徒歩
  • 茅ヶ崎城址公園入口<br /><br />平成2年から平成20年の間7次に亘る発掘調査後、整備されて公園となっています。

    茅ヶ崎城址公園入口

    平成2年から平成20年の間7次に亘る発掘調査後、整備されて公園となっています。

  • 茅ヶ崎城址説明<br /><br />江戸時代後期に編集された「新編武蔵風土記稿」によりますと平安時代末期の摂津守頼盛の子、多田太郎が城主として伝え、多田山城塁跡とも呼ばれていたそうです。<br />築城者は不明ですが、城は東西350m、南北220mの範囲で6つの郭と根古屋地区から構成されています。<br />(横浜市指定史跡 平成21年11月2日指定)

    茅ヶ崎城址説明

    江戸時代後期に編集された「新編武蔵風土記稿」によりますと平安時代末期の摂津守頼盛の子、多田太郎が城主として伝え、多田山城塁跡とも呼ばれていたそうです。
    築城者は不明ですが、城は東西350m、南北220mの範囲で6つの郭と根古屋地区から構成されています。
    (横浜市指定史跡 平成21年11月2日指定)

  • 城跡全体図<br /><br />6郭と根古屋とで構成されています。6郭は即ち東郭(主郭に相当)の他西郭、中郭、北郭、東北郭そして腰郭となっています。

    城跡全体図

    6郭と根古屋とで構成されています。6郭は即ち東郭(主郭に相当)の他西郭、中郭、北郭、東北郭そして腰郭となっています。

  • 城跡内部への登り道<br /><br />偽木の階段を登ってゆきます。

    城跡内部への登り道

    偽木の階段を登ってゆきます。

  • 西郭と北郭の分岐点(全景)<br /><br />階段を登りますと堀が左右に分かれ、右手が西郭そして左手が北郭への道となります。<br />

    西郭と北郭の分岐点(全景)

    階段を登りますと堀が左右に分かれ、右手が西郭そして左手が北郭への道となります。

  • 分岐点(近景)

    分岐点(近景)

  • 西郭への通路<br /><br />中郭の端(左手)に沿って堀を進むと右奥に西郭が見えます。

    イチオシ

    西郭への通路

    中郭の端(左手)に沿って堀を進むと右奥に西郭が見えます。

  • 虎口<br /><br />虎口(=城の出入口)はいざという時に即座に閉鎖できるように又敵が進入しにくいようにできるだけ幅を狭くしてます。<br />城の防御と攻撃の両面において極めて城の重要な位置付けとなります。

    虎口

    虎口(=城の出入口)はいざという時に即座に閉鎖できるように又敵が進入しにくいようにできるだけ幅を狭くしてます。
    城の防御と攻撃の両面において極めて城の重要な位置付けとなります。

  • 虎口説明図<br /><br />北虎口を例にして判りやすく略図で説明しています。

    虎口説明図

    北虎口を例にして判りやすく略図で説明しています。

  • 虎口説明文

    虎口説明文

  • 土塁と空堀<br /><br />中郭と西郭の間を進みます。

    土塁と空堀

    中郭と西郭の間を進みます。

  • 空堀<br /><br />堀は水の有無により水堀と空堀に分かれますが、水がしみとおるローム層を基盤とする当城を含む関東地方はもっぱら空堀が造られています。<br />

    空堀

    堀は水の有無により水堀と空堀に分かれますが、水がしみとおるローム層を基盤とする当城を含む関東地方はもっぱら空堀が造られています。

  • 空堀図<br /><br />西堀北端部断面図と北堀東部断面図が描かれています。

    空堀図

    西堀北端部断面図と北堀東部断面図が描かれています。

  • 空堀説明文

    空堀説明文

  • 再び中郭<br /><br />中郭を左に見ながら堀を進みます。

    再び中郭

    中郭を左に見ながら堀を進みます。

  • 西郭入口<br /><br />やがて右手に西郭への登り口が見えます。

    西郭入口

    やがて右手に西郭への登り口が見えます。

  • 西郭標柱

    西郭標柱

  • 西郭中央部<br /><br />

    西郭中央部

  • 西郭<br /><br />

    西郭

  • 西郭からの展望<br /><br />樹木が邪魔をしますが風景からすると高い位置ではありません。当城は標高30m程度ですから丘陵地といった方が妥当です。

    西郭からの展望

    樹木が邪魔をしますが風景からすると高い位置ではありません。当城は標高30m程度ですから丘陵地といった方が妥当です。

  • 土塁説明板<br /><br />「土塁と堀」は一体となって造られるもので、表土を削り土盛をしたものが土塁で削った部分が堀となって、それぞれの土塁の高さと堀の深さの規模により敵の侵入を防御する度合いが異なります。<br />主たる土塁は堀底から7~8m、郭内から高さ2.5m以上、基底部の幅は7?8mあったと推定されます。<br />又土塁の側面は「武者走り」と呼ばれる施設がありますが、これは連絡用通路として使用される他土塁を越えようとする敵を上から攻撃する役割があります。

    土塁説明板

    「土塁と堀」は一体となって造られるもので、表土を削り土盛をしたものが土塁で削った部分が堀となって、それぞれの土塁の高さと堀の深さの規模により敵の侵入を防御する度合いが異なります。
    主たる土塁は堀底から7~8m、郭内から高さ2.5m以上、基底部の幅は7?8mあったと推定されます。
    又土塁の側面は「武者走り」と呼ばれる施設がありますが、これは連絡用通路として使用される他土塁を越えようとする敵を上から攻撃する役割があります。

  • 北廓南土塁試掘調査<br /><br />堀に面した外側は緩傾斜でしたが、廓内部は削られて垂直になっています。地層から判断するに、北廓南土塁は下半分を削り出し、上部に盛り土して築いた事がわかります。

    北廓南土塁試掘調査

    堀に面した外側は緩傾斜でしたが、廓内部は削られて垂直になっています。地層から判断するに、北廓南土塁は下半分を削り出し、上部に盛り土して築いた事がわかります。

  • 土塁の説明<br /><br />

    土塁の説明

  • 土塁<br /><br />土塁に囲まれる郭が見事です。

    土塁

    土塁に囲まれる郭が見事です。

  • 土塁

    土塁

  • 土塁

    土塁

  • 土塁

    土塁

  • 空堀<br /><br />更に堀を進みます。

    空堀

    更に堀を進みます。

  • 土塁

    土塁

  • 遺構説明板<br /><br />「遺構」とは土地や土中に残された基壇、柱欠及び墓などを言い当時の建物様式や配置を知る上の手がかりとなります。

    遺構説明板

    「遺構」とは土地や土中に残された基壇、柱欠及び墓などを言い当時の建物様式や配置を知る上の手がかりとなります。

  • 遺構の発掘<br /><br />中郭の住居域と見られた所を明らかにするため、郭内東南部の発掘調査を実施した結果、全面に多数の柱欠や土抗が分布し、東西・南北に軸を持つ堀建柱建物が並び、南土塁との間を塀が区切っている事がわかりました。<br />具体的には建物1〜3内の土抗は陶器の埋納抗と推定され、これらは倉庫と推定されます。建物5からは土壁の欠片が検出され土倉と判明しました。<br />このことから中郭東南部は倉庫地区であった事が判明しています。<br /><br />

    遺構の発掘

    中郭の住居域と見られた所を明らかにするため、郭内東南部の発掘調査を実施した結果、全面に多数の柱欠や土抗が分布し、東西・南北に軸を持つ堀建柱建物が並び、南土塁との間を塀が区切っている事がわかりました。
    具体的には建物1〜3内の土抗は陶器の埋納抗と推定され、これらは倉庫と推定されます。建物5からは土壁の欠片が検出され土倉と判明しました。
    このことから中郭東南部は倉庫地区であった事が判明しています。

  • 遺構説明板

    遺構説明板

  • 北郭と東郭・西郭の境界

    北郭と東郭・西郭の境界

  • 北郭<br /><br />広々と郭が展開しています。

    北郭

    広々と郭が展開しています。

  • 中郭の東南部<br /><br />当郭は発掘調査により倉庫地区であった事が判明しています。

    中郭の東南部

    当郭は発掘調査により倉庫地区であった事が判明しています。

  • 郭<br /><br />「郭」とは堀や土塁又は石垣で囲まれた区画をいいます。城の中心部は主郭といい、江戸時代では本丸と呼称しています。



    「郭」とは堀や土塁又は石垣で囲まれた区画をいいます。城の中心部は主郭といい、江戸時代では本丸と呼称しています。

  • 各郭の構成<br /><br />東郭を中心に西郭、北郭、中郭及び東北郭で構成されています。<br />また東北郭の東には腰郭が配置されています。

    各郭の構成

    東郭を中心に西郭、北郭、中郭及び東北郭で構成されています。
    また東北郭の東には腰郭が配置されています。

  • 郭説明板

    郭説明板

  • 中郭標柱

    中郭標柱

  • 中郭全景

    中郭全景

  • 井戸<br /><br />北郭の上端の直径約4m、深さ5mの井戸が発見されています。この井戸の湧水量は極めて多く、遺構確認面から井戸底まで水が溜まっていたと仮定すれば20リットルのポリタンクに約千本分にもなります。

    井戸

    北郭の上端の直径約4m、深さ5mの井戸が発見されています。この井戸の湧水量は極めて多く、遺構確認面から井戸底まで水が溜まっていたと仮定すれば20リットルのポリタンクに約千本分にもなります。

  • 井戸の詳細図面<br /><br />井戸跡詳細図面が描かれています。

    井戸の詳細図面

    井戸跡詳細図面が描かれています。

  • 井戸説明板

    井戸説明板

  • 北郭土橋<br /><br />「土橋」は虎口と呼ばれる城の出入口に設けられる設備です。一般的には郭周辺の空堀の一部を残して造ります。当城は北郭土橋と西郭土橋は空堀を残して造られていますが中郭土橋は東郭と結ぶために空堀の一部を埋めて造られています。

    北郭土橋

    「土橋」は虎口と呼ばれる城の出入口に設けられる設備です。一般的には郭周辺の空堀の一部を残して造ります。当城は北郭土橋と西郭土橋は空堀を残して造られていますが中郭土橋は東郭と結ぶために空堀の一部を埋めて造られています。

  • 北郭詳細図面<br /><br />北郭土橋は北郭空堀を残して造ったもので、上幅は2.9m下幅は4.5m以上もあります。横断面は幅広の台形で東壁は60度、西壁は70度となっていました。

    北郭詳細図面

    北郭土橋は北郭空堀を残して造ったもので、上幅は2.9m下幅は4.5m以上もあります。横断面は幅広の台形で東壁は60度、西壁は70度となっていました。

  • 北郭土橋説明板一部

    北郭土橋説明板一部

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