2011/09/22 - 2011/09/26
1544位(同エリア2330件中)
倫清堂さん
貴重な3連休が取れたため、いつもより遠くまで足を伸ばすことにしました。
木曜午前の仕事を休めば4連休も可能だったのですが、待っていてくれる人がいることを考えると、やはり趣味を優先することには躊躇いが生まれます。
というわけで、午前の仕事を終えてから午後の便で飛ぶ予定にしていたところ、直前に台風15号が上陸した影響で、午前の便は欠航になってしまいました。
台風が1日遅れても、午前の便を予約していても、今回の旅は危ないところでした。
木曜午後に乗った便は、多少揺れたもののほぼ予定通り伊丹に着き、この日は京都の知人に久しぶりに会うだけで暮れました。
三ノ宮に宿泊し、23日から本格的に活動開始です。
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中国道から米子道へと乗り継ぎ、途中で同行者を迎えたり休憩なども挟めながら約5時間の運転の後、1日目の目的地、松江市に到着しました。
まず真っ先に向かったのは八重垣神社。八重垣神社 寺・神社・教会
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荒ぶる神の素戔嗚尊が高天原を追放された後にたどり着いた先が出雲ですが、そこで出会った稲田姫命をヤマタノオロチから救い、2神は八重垣を造って結婚しました。
その時に素戔嗚尊が詠んだ歌は
八雲立つ出雲八重垣妻込みに
八重垣造るその八重垣を
で、初めて詠まれた和歌として有名です。 -
その故事にちなんで創建されたのがここ八重垣神社で、2神の他、御子神の青幡佐久左彦命と大国主命が合祀されています。
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境内にある連理玉椿は、かつて稲田姫命が立てた2本の椿の枝が根付いたものとされ、時に2つの葉がひとつになった葉をつけます。
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社殿は大社造りで、1000年以上前に本殿の壁面に描かれた素戔嗚尊などの壁画は国の重要文化財に指定され、宝物殿で保存・展示されています。
現在、素戔嗚尊の姿はほとんど顔しか見えませんが、荒ぶる神のイメージはなく、とても品の良い顔立ちをしていたのは、それが書かれた時代の空気がそうさせたのかも知れません。 -
境内には、稲田姫命がヤマタノオロチの難を避けるために身を隠し、渇きをいやしたとされる泉もあります。
非常に透き通った色をしており、現在は参拝客が縁結びの占いを行う場所となっています。 -
昼食時を過ぎたので、松江市内の蕎麦屋に入り、割子そばを注文しました。
ピークを過ぎているというのに空席待ちで、ようやく席につくことができた後も、店の外には行列ができていました。
割子蕎麦は3段になっていて、上から順につゆをかけて食べます。
思ったよりも薄味で少々物足りなさも感じましたが、出雲名物を食べることができたので善しとします。 -
次に向かったのは、出雲国二之宮とされる佐太神社。
中心部から少し離れているせいか、八重垣神社のような観光客の姿は見られず、地元の方が時々参拝に訪れる程度のひっそりした様子でした。 -
イチオシ
しかし社殿の規模は大きく、大社造りの本殿が横に3社並んでいる姿はいかにも荘厳な感じです。
佐太神社のことは『出雲国風土記』にも記載されており、その歴史は垂仁天皇54年とされています。
主祭神の佐太大神は現在、猿田毘古大神のこととされていますが、その解釈は明治新政府によって強制されたものであり、実際は別な神であったらしいです。佐太神社 寺・神社・教会
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正面から見て左側の南殿は、通常の大社造りとは真逆の構造をしており、非常に珍しいとされます。
社殿によると、御祭神の伊弉冉尊の陵墓である比婆山の神陵を遷したのが現在の佐太神社であるため、神無月に諸国の神々は母神を偲んでこの地に集まり、出雲だけは神有月と呼んでいるとのこと。
今年の神有月には、神様の会議に震災からの復興が議題として上げられるのでしょうか。 -
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佐太神社の参拝を終え、松江の市街地に戻って来ました。
ここまで来たからには、やはり松江城を見ておかなければなりません。
休日は無料で開放されている県庁の駐車場に車を停める際、近くに騎馬像が立てられていることに気付きました。
傍まで寄ってみるとそれは、松江藩初代藩主松平直政公のものでした。
直政公は結城秀康公の三男で、家康公の孫に当たります。
越前松平家は、一度は長兄の忠直公が継ぎましたが、2代将軍秀忠公との衝突が原因で配流となり、上総姉崎で1万石ながら所領を持っていた直政公は何度も加増移封され、寛永15年に松江藩の大名となったのでした。 -
松江城は、別名千鳥城。
天守閣は明治の廃城令からも逃れ、風格あるたたずまいを残しており、国の重要文化財に指定されています。
国宝にしてもよさそうな気がすると思っていたら、地元ではそのための運動が行われているようでした。 -
松江城を築いたのは豊臣家の重臣であった堀尾吉晴公の子、忠氏公。
関ヶ原の戦いでは東軍に与し、出雲24万石を与えられますが、27歳という若さで世を去り、子の忠晴公の時に堀尾家は断絶。
小浜藩から入封となった京極忠高公の時に城は完成しますが、嫡子がなかったためにその死後に松平氏が入封となったのでした。 -
イチオシ
天守閣以外の城閣は廃城令によって全て取り除かれ、現在は松江城山公園となっています。
松江城 名所・史跡
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天守閣に向かう階段を上って行くと、松平直政公や堀尾吉晴公が祀られる松江神社が鎮座しています。
ここには寛永16年に立てられたというとても古い手水舎があります。 -
また城の北側には、松江護國神社が鎮座しており、島根県の中で出雲と隠岐出身の御英霊が祀られています。
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松江護國神社からすぐの所には、城山稲荷神社が鎮座しています。
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小高い山の頂上にある社殿の周りには、数え切れないほどの稲荷像が置かれています。
かつてラフカディオ・ハーンは、この稲荷神社から堀をひとつ隔てた場所に住み、その著書のいくつかで稲荷神社を紹介しています。 -
どことなく神秘的な雰囲気が漂う境内に、ハーンお気に入りの一対の稲荷像も置かれていました。
古くなったためにかなり朽ちてしまったので、現在はそれを模した像が、神門を守っていました。城山稲荷神社 寺・神社・教会
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堀を渡り5分ほど歩くと、小泉八雲記念館と小泉八雲旧居があり、一般に公開されています。
この度に先立ち、代表作『怪談・奇談』を取り寄せて読みました。小泉八雲記念館 美術館・博物館
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小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、アイルランド人の父とギリシャ人の母の間に生まれ、幼少の頃に左目を失明するハンデを負いながら、アメリカに渡ってジャーナリストとして活躍します。
その後、日本の学校で英語教師として教鞭を執り、日本人の妻を得て、世界に向けて日本文化を紹介することを生涯の仕事としました。小泉八雲旧居 名所・史跡
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日本人以上に日本を愛していたハーンは、急激に近代化する日本に対し、どのような気持ちを持っていたのでしょうか。
日本といえば黄金の国・わびとさび・武士と芸者・茶と禅などのイメージで語られる中、特に怪談に着目したセンスは風変りながら本質を的確にとらえています。
古代から現在まで、日本人の行動を縛って来た見えざる存在に気付いたハーンの感性は、他のどの日本研究者よりも優れているのではないかと思います。 -
出雲市駅前のホテルに泊まりました。
翌朝、ホテルの前の道路に素戔嗚尊が八岐大蛇に戦いを挑むオブジェが置かれているのを見つけました。
それを見て、神話の国に来たことを実感したのでした。
それにしても、先週までエアコンを利用していたことが嘘のような冷たい風です。
この日は最初の目的地を日御碕神社に決めていましたが、その途中で出雲大社の前を通り、人出の少ない時間の方がよろしかろうと、予定を変更することにしました。
早い時間とあって、駐車場はまだまだ余裕が
あり、観光バスの姿も僅かしか見えません。
車を降りて歩くと、すぐに出雲大社神楽殿の圧倒させられそうな巨大な社殿が見えました。 -
ちょうど国旗掲揚の時間に当たり、神職の方が直径何メートルもある掲揚ポールに日の丸を結び付けていました。
警備員の方に訊ねたところ、この日の丸の重さは約25キログラム、畳75枚分の大きさとのことです。 -
そのまま境内へと進むと、巨大な向上のようなプレハブの建物が見えて来ました。
今はちょうど平成の大遷宮の修造の期間に当たっているため、御本殿は全てプレハブにて覆われていました。
プレハブは、5階建てのビルほどの高さがあるように思えました。 -
御本殿を直接見ることができないのは残念ですが、考えてみると、50〜60年に一度の御遷宮に参拝できることこそが珍しいわけで、神様が仮に鎮まられている拝殿で、柏手を4回打って参拝したのでした。
出雲大社の正式な呼び方は、いずもおおやしろ。
御祭神の大国主大神は、国津神の代表的な神で、記紀神話には素戔嗚尊の子孫として描かれており、出雲大社では特に縁結びの神として信仰されています。
多くの兄弟の中でも特に心の優しかった大国主大神は、兄弟たちによる迫害で何度も命を失いますが、その度に甦り、ついに葦原中国を治めることになります。
しかし天津神が高天原だけでなく葦原中国を「しらす」ことを望んだため、そこを「うしはく」大国主とその一族を説得、時に武力による闘争を行い、大国主大神は巨大な神殿で末永く祀られることを条件に、天津神に葦原中国の統治を譲ったのでした。
「しらす」という言葉によって、それまでの大国主による統治を差別化を図った天津神の志操は、明治憲法にも引き継がれています。
さて、大国主を祀る巨大な神殿が立てられましたが、その祭祀を行うことになったのは、天照大御神の御子で大国主大神に服従した、天菩比命でした。
出雲大社の宮司は天菩比命の子孫である出雲国造の千家氏が代々引き継いでいます。出雲大社 寺・神社・教会
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ムスビの御神像や御慈愛の御神像などを見ながら、松の参道を境内の外に向かって歩きます。
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イチオシ
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鳥居をくぐった先あたりに、古代出雲大社の模型を展示している「雲太」という施設があるはずでした。
しかしそこは、建物が全て撤去された工事現場へと変貌していました。
近くにいたご婦人に訊ねたところ、「雲太」の模型は道の駅に引越ししてしまったとのことでした。 -
しかし道の駅には向かわず、次に島根県立古代出雲歴史博物館を見学することにしました。
ここにも古代神殿の模型が展示されている他、発掘調査で出土した宇豆柱など貴重な資料を見ることができるからです。島根県立古代出雲歴史博物館 美術館・博物館
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料金を払って中央ロビーに入ると、まず見えるのがその宇豆柱。
平成12年からの発掘調査で出土した、かつての出雲大社の本殿を支えていた柱で、3本の杉を1つの束ねた姿は、出雲国造家に伝わる古代神殿の設計図に描かれたものとまるっきり一緒でした。
平安時代、「雲太・和二・京三」という口遊が流行し、これは日本国内の建造物の高さの順を表わしたものとされています。
和は大和の東大寺大仏殿、京は京都御所の大極殿のことですが、1位に輝くのが出雲大社で、中世までは96メートルの高さがあったと伝えられています。 -
その模型は、この博物館にも納められていたので、道の駅まで行く必要はなくなりました。
古代の人々は機会を使わずに100メートル近い高さの木造建築物を立てたわけで、機会文明が優れているという観念は一度捨て去るべきではないかという思いが強まった次第です。 -
展示品はもちろん模型だけではなく、国宝に指定される銅鐸や銅剣など、多くの見どころがありました。
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イチオシ
出雲大社の参拝と周辺の散策を終え、最初の目的地であった日御碕神社に向かいます。
その途中、稲佐の浜と呼ばれる海辺に寄りました。
稲佐の浜は、神有月に全国の神様が上陸する浜であると言われていますが、それだけではありません。
国譲りを迫る天津神と国津神との、交渉の舞台として知られています。
葦原中国を統治するのは天照大御神の子孫であるべきとした高天原の神々は、葦原中国にまず命を遣わしますが、とても手に負えないとして何もせずに帰還します。
次に送られた天菩比命は、大国主の家来となってしまい、その後は出雲大社の祭祀を司ることになったのは前述のとおりです。
次に送られた天若日子は、大国主の娘の下照比売と結婚し、天津神に反逆して高天原に向けて矢を放ちますが、高木神が投げ返した矢に射抜かれて死んでしまいました。
天津神たちは話し合い、建御雷神を遣わすことにしました。
建御雷神は十束剣を逆さまに地面に突き刺し、その上に胡坐をかいて座り、事代主神を説得、建御名方神を力比べで諏訪に追いやりますが、それを行った場所がこの稲佐の浜と伝えられています。
こうして大国主大神は、ついに国譲りを決断したのでした。稲佐の浜 自然・景勝地
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次に向かった日御碕神社は、島根半島の最西端に鎮座しています。
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社殿は上の宮と下の宮の2社からなり、下の宮の日沈宮には天照大御神、上の宮の神の宮には神素戔嗚尊が祀られています。
日御碕神社 寺・神社・教会
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日沈宮は神代の頃、素戔嗚尊の御子神天葺根命が天照大御神の神託によって、日本の昼を見守る伊勢神宮に対し、夜を護る宮として、経島にお祀りしたのが最初です。
その後、村上天皇の御代の天暦2年、勅命によって現在地に遷座されました。 -
また神の宮は、素戔嗚尊が出雲の国造りを始めた頃、根の国の柏の葉を取り、この葉がたどりついた所に住もうと言って投げたところ、隠ヶ丘に落ちたため、天葺根命がお祀りしたのが最初とされます。
その後、安寧天皇13年に勅命によって現在地に遷座されました。
日本一の灯台である出雲日御碕灯台近くの隠ヶ丘は、素戔嗚尊の神陵地として尊崇され、柏の葉を印した化石などが出土しています。
今回は行けなかったので、出雲大社の御遷宮が完了した後に再び出雲を訪れる際に、そちらへも足を伸ばしたいと思います。 -
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出雲大社の前を通ると、駐車場はかなり混雑している様子でした。
観光バスもかなり多く来ています。
やはり朝一番で参拝して正解だったようです。
これから島根半島の反対側まで、少し長いドライブとなります。
島根半島には、記紀神話には描かれていない「国引き」の伝説があります。
かつて出雲という地名をつけた八束水臣津野命という人物が、この国は土地が狭いため他の国から土地を引っ張って来ようと考え、佐比売山と火神岳に綱をかけ、「国来国来」と呼びながら引っ張ったところ、島根半島が形成されたのでした。
次の目的地があと少しと迫った海岸に、しめ縄の張られた男女岩を見つけました。
少し沖にあるのは男性のシンボルで、手前側が女性のシンボルですが、女岩の上には釣りをしている男性の姿。
男女の関係から神聖さが失われた世の中では、信仰の対象である岩もただの釣りの足場でしかないようです。 -
島根半島東端に位置する次の目的地は、美保神社。
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「大社だけでは片参り」と言われており、古くから出雲大社と両方を参拝するしきたりがあります。
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美保神社の御祭神は美穂津姫神と事代主神で、全国的にも珍しい比翼大社造りの左右両殿に祀られています。
千木を見ると、向かって右の左殿は内削ぎ、向かって左の右殿は外削ぎで、陰陽の関係となっています。
御祭神の美穂津姫命は高皇産霊神の御姫神で、大国主神の后となり、高天原から稲穂を持って降臨したと伝えられます。
事代主神は大国主神の御子神で、漁業の守護神であるゑびす様と同一神とされています。 -
先にも述べたように、事代主神は高天原から使わされた建御雷神と交渉し、国譲りを素直に承諾しました。
神話の記述によると、娘神の五十鈴姫命が初代神武天皇の后となり、第2代綏靖天皇の后も事代主神の娘、第3代安寧天皇の后は孫娘と、皇室との血縁関係を強固なものにしたのでした。美保神社 寺・神社・教会
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美保神社の参道から脇の道に入ると、そこは青石を敷き詰めた風情のある青石畳通りです。
美保関港は、西回り航路の風待ち港として栄え、かつてはここに問屋42軒、船宿38軒が立ち並び、芸者や遊女100名が夜の街を彩っていました。青石畳通り 名所・史跡
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軒先に掲げられた表札を見ると、「鷦鷯」の姓が多いことに気付きました。
大学の後輩に鷦鷯君という人物がいたため、読み方は知っていましたが、美保関で栄えた庄屋も鷦鷯家でした。 -
無料開放されている美保関資料館には、鷦鷯家に代々伝わる貴重な資料や、美保神社の諸手船神事で用いられる御船の模型などが展示されています。
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青石畳通りを進んだ先には、仏谷寺があります。
後鳥羽上皇と後醍醐天皇が隠岐島に御動座になる際、風待ちのために行在所とされたお寺です。
本堂には2方の天皇の木像が納められていますが、もちろん見ることはできません。
第82代後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒すために院宣を発しましたが、幕府軍の戦力ははるかに勝り、隠岐島へと流され、その地で崩御しました。
しかし、同じく鎌倉幕府討伐を兵を挙げた第96代後醍醐天皇は隠岐の島を抜け出すことに成功し、諸国の勤皇の士の働きによって鎌倉幕府は倒れ、建武の中興を成し遂げたのでした。
建武の中興は明らかに改革としては失敗でしたが、この時代に身命を賭して戦った武将たちの精神は、その後の江戸時代から明治にかけて、日本人の鑑とされました。 -
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もとの道を引き返し、境水道大橋を渡りました。
境水道の北側が島根県、南側が鳥取県です。 -
ちょうど空腹感を覚えたところなので、境港のおいしい蟹を食べることにしました。
大漁市場なかうらという大きな物産館の中に、御食事処弓ヶ浜という海鮮料理屋があり、そこでかにトロ丼を食べました。
あまりにも美味しかったため、自宅用に冷凍の土産品を送ってしまったほどです。御食事処 弓ヶ浜 グルメ・レストラン
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境港といえば漁業の町ですが、昨年のNHK朝の連続ドラマの影響もあり、妖怪漫画化水木しげる氏の故郷としても注目を集めています。
JR境港駅から東へ伸びる商店街は「水木しげるロード」と名付けられ、100種以上もの妖怪のブロンズ像が道路に置かれています。
軒を連ねる店は、ラーメン屋や和菓子屋までもが水木しげるにあやかって、オリジナルの商品を提供しています。水木しげるロード 名所・史跡
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一昔前まではさびれたシャッター通りだった商店街が、今では多くの家族連れでにぎわっており、住民はもちろん観光客からも愛されています。
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水木しげる記念館の前庭には、しげる氏に妖怪の話を語った「のんのんばあ」としげる少年の像が立っていました。
水木しげる氏の漫画の中で、妖怪はそれなりに恐ろしいものに描かれており、自分は小さい頃にそれを読んで、ちょっとした恐怖を味わったものですが、今の子供たちにとっては、愛すべき存在となっているようです。
子供たちが強くなったのか、それとも妖怪が弱くなったのか。 -
米子に泊まり、翌日も朝早くに出発しました。
これから日本海に沿って鳥取に向かい、帰ることになります。
そう簡単には訪れることができない地域なので、見どころをしっかり押さえて進みたいと思います。
ます最初にむかったのは名和神社。
後醍醐天皇の隠岐脱出に尽力し、南北朝時代には宮方の重臣として天皇を支えた名和長年公と、一族42柱をお祀りしています。 -
名和氏は村上源氏の流れで、もともとは伊勢に住んでおり、後に但馬に移りましたが、長年公の曾祖父である行明公の時に承久の変で官軍側についたため領地を没収され、この地方に移り住んで海運を営んでいました。
時代は下り、後醍醐天皇が鎌倉幕府によって隠岐へ遷され、判官清高によって命を狙われた際、天皇は長年公の弟の泰長公を通じて隠岐脱出の意志を伝えられます。
計画は露見してしまい、泰長公は出雲で自刃しますが、天皇の隠岐脱出は成功し、長年公は一族郎党を集めて船上山で挙兵、後醍醐天皇を迎え入れます。
この時後醍醐天皇は、
忘れめやよるべも波の荒磯を
みふねのうへにとめしこころを
との御製を長年公に賜ったのでした。
参拝に訪れたのはまだ早い時間だったため、授与所には人の気配はありませんでした。
社務所の呼び鈴を鳴らすと、少し経ってご高齢の神主さんが出て来られました。 -
名和一族の墓所の場所を訊ねるつもりでしたが、他に名和氏居館跡やその他の史跡などを自作の地図で丁寧に教えて下さり、貴重な資料まで頂いてしまいました。
物腰にも話し方にも気品を感じたため、最後に失礼をかえりみずに訊ねると、神主さんは宮司さんで、やはり名和氏の末裔の方でした。 -
名和長年公は、湊川で楠木正成公が敗れた後、足利軍との京都における戦いで討死します。
三木一草と称された宮方の重臣の最後の一人でしたが、長年公亡きあとは宮方は急激に勢力を衰えさせてしまうことになります。
その後、長年公の遺徳を顕彰しようという機運が高まり、名和一族の米蔵があった場所に小さな祠が建てられ、崇敬されるようになりました。
この米蔵は船上山での挙兵に当たり、幕府軍に利用されることを恐れた長年公の命によって焼かれたもので、境内の地下からは焼けた米が出土するとのことです。
宮司さんから教えていただいた名和家菩提寺の長綱寺へ向かい、小高い山の上にある墓所を参拝。 -
たくさんの石塔がひしめくように立ち並んでいます。
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また名和氏館跡と、弓矢の修練に使用していたという的石も、徒歩圏内なので見ることができました。
新しい道路が開通したことにより、利便性は増したものの、神社境内の社叢は危機に瀕しているそうです。
名和氏の精神とともに、美しい自然も後世に伝えて行かなければなりません。 -
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イチオシ
名和を去って日本海沿いに東へ進むと、道の駅はわいの案内標識を発見しました。
もちろんハワイではなく、羽合と書くれっきとした日本の地名ですが、同じ読みのご縁から姉妹都市提携をしているそうです。
池というにはあまりに大きい東郷池は、大昔は入り江だったのですが、砂の堆積によって海と隔てられてしまいました。
周辺には、当時の豪族たちによる古墳や遺跡が豊富にあるとのことです。 -
少し山の中に入ると、伯耆国一之宮の倭文神社へたどりつくことができます。
各地の一之宮は、そのほとんどが鉄道駅から歩いて行ける範囲にあります。
それは、鉄道が敷かれた明治時代の日本人が持っていた、敬神の精神によるものに他ならないのですが、ここ倭文神社はそのような文明から置き去りにされてしまったような場所に鎮座しています。
倭文とはしずおりのことで、この地方の主産業が織物であったことから、倭文部の祖神である建葉槌命が祀られたのが始まりと考えられます。
社伝によると、大国主神の娘神である下照姫命が出雲から渡り、この地に鎮まったとされます。
神門には獏など空想上の動物の立派な彫刻がほどこされています。 -
参道を歩くと、右手に経塚への入り口を示す看板が見えました。
下照姫命の墓と考えられていた塚を、大正4年に発掘調査したところ、観音菩薩立像などが出土したのです。
境内はひっそりとしていて、初宮参りでしょうか一家族が昇殿を終えて写真撮影をしていました。
倭文神社は、古くから安産の神としても広く信仰を集めているのです。倭文神社 寺・神社・教会
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鳥取の市街地に入る直前に、白兎海岸の道の駅に寄りました。
出雲神話の中でも最も有名な、因幡の白兎の物語の舞台となった場所です。
隠岐の島から本州に渡ろうとしたウサギが、どちらの種族が多いか比べようと言ってサメを騙し、本州まで一列に並べて数えながら渡りましたが、最後の最後で騙したことが露見してしまい、丸裸にされてしまいました。
そこに通りかかった大国主の兄たちは、海水を浴びて日光に当たればもとに戻ると嘘を言い、それに従ったウサギは肌がヒリヒリと焼けて大変に苦しんでいたのでした。
そんな様子のウサギを見つけた大国主が、川の水で身体を洗い、蒲の花粉を敷き詰めてその上で寝るようにと教えたため、ウサギはその言葉に従うと、もとの肌を取り戻すことができたのでした。
ウサギは大国主の性格に感銘し、今は召使のようなことをさせられて兄たちにいじめられていても、必ず将来は兄たちを従える立場に立つであろうと予言したのでした。白兎海岸 自然・景勝地
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近くには白兔神と保食神を祀る白兎神社が鎮座していますが、なんとなく観光地化しているような雰囲気だったので、参拝には向かいませんでした。
後で調べたところ、戦乱による荒廃によって由緒は伝わっていないとのことですが、天照大御神を案内したなどの伝承が残っており、興味深い神社であったことが分かったのでした。 -
鳥取砂丘に向かう途中に、絶景ポイントと書かれた案内標識が出ていたのでそちらへ向かうと、参拝しようと思っていた鳥取県護国神社と同じ方向でした。
というよりも、境内からの眺めが絶景だということらしいです。
鳥取県護国神社には、鳥取県出身の御英霊が祀られています。
神社の沿革によると、御創建は明治元年で、鳥取藩主池田慶徳公によって古海操練場に祠が仮設されたのが始まりで、その後軍事調練場・西町・大雲院跡と遷座を繰り返し、昭和49年に現在地に至ったとのことです。 -
鳥取砂丘を見下ろせる絶景の場所であることは間違いないのですが、工事のための重機や電柱・電線などが邪魔で、景観は損なわれてしまっています。
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やはり鳥取砂丘へ行って、自分の足で砂を踏む感覚を味わいたいと思いました。
車を停めてまず海鮮料理で腹ごしらえをし、砂の大地へと向かいました。 -
奥の海がなければ、まさしく砂漠と呼んで差し支えないような場所でした。
ラクダに乗って移動するサービスがあり、興味が湧きましたが、ただの写真撮影にも金銭を求めていることを知り、一気にイメージが低下。
他に見るべき施設もないし、観光客であふれている様子を不思議に思いながら、立ち去ったのでした。鳥取砂丘 自然・景勝地
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次に向かったのは鳥取城跡。
ほとんど下調べもせずに来たので、見どころなど何も知識はありません。
城郭は現存しておらず、石垣だけが山の斜面に続いていますが、規模では及ばないものの安土城の姿を思い出しました。
織田家臣であった羽柴秀吉が、山名豊国と吉川経家が城主であった時の2度にわたり、兵糧攻めでこれらを破ったことで知られています。
城は明治の廃城令でも残りましたが、陸軍省の判断によって破却されました。 -
現在、幕末期の姿へ復元する計画が進められています。
この日、休日のため工事そのものは行われていませんでしたが、あちこちに重機や警告板などが置かれていました。
天守台まで続く石段が復元中で、足元が悪かったため、下から見上げるだけで終わりにしました。鳥取城跡 久松公園 名所・史跡
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車を停めた鳥取城中の丸に、仁風閣という西洋館が建てられているのを知り、少しだけ覗いてみようという気になりました。
もともとここには、第11代藩主池田慶栄公の未亡人である宝隆院を慰めるため、扇御殿という池泉回遊式庭園がありました。
明治時代の近代化とともに扇御殿は取り壊されてしまいますが、明治40年に皇太子殿下(後の大正天皇)の山陰行幸啓に際し、御宿舎として建てられました。
仁風閣は、バルチック艦隊を破った東郷平八郎元帥による命名です。
日本式の庭園と白亜の西洋館が、風景の中によく溶け込んでいました。仁風閣 名所・史跡
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最後の目的地は因幡国一之宮の宇倍神社。
蘇我氏の祖である武内宿禰命が祀られています。
孝徳天皇の御代、大化4年の御創建と伝えられており、より古い史料によると因幡国造伊福部氏の祖である彦多都彦命が祀られていたとされます。
しかし時代が降って蘇我氏の勢力が強まり、いつの頃からか御祭神として祀られるようになったと考えられます。
羽柴秀吉による鳥取城攻めの際に社殿が全焼した際、貴重な文献も消失してしまったのでしょうか。 -
寛永10年、鳥取藩主であった池田光仲公によって社殿は復興し、その後は歴代藩主の崇敬を受けました。
歴代宮司は伊福部氏が継承していましたが、明治13年、65世をもって世襲は途絶えてしまいました。
映画ゴジラのテーマを作曲したことで知られる伊福部昭氏は、65世宮司の孫に当たります。宇倍神社 寺・神社・教会
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御祭神の武内宿禰は、孝元天皇の曾孫に当たります。
第12代景行天皇から、成務・仲哀・応神・仁徳と5代の天皇にお仕えし、日本で初めて大臣の称を賜りました。
記紀の記述をそのまま信じるなら、およそ300年も生き続けたことになり、最も長命であった天皇よりも更に長生きであったことになります。
そこで、武内宿禰は架空の人物であったのではないかという説も生まれましたが、武内氏数代をもって一人の人物とした方の説を支持したいと思います。
武内宿禰の死については、いろいろな言い伝えがありますが、宇倍神社には武内宿禰が昇天した際に地上に残したと草履であったと伝えられる双履石があります。 -
それは社殿の裏の小高い山の頂きにあり、長さ1メートルほどの平たい巨石が2枚、履き揃えられているように並んでいました。
この小高い山そのものが墳墓である可能性もあり、もしかするとここに武内宿禰が眠っているのかも知れません。
武内宿禰の家系で最も栄えた蘇我氏は、天皇を超える権力者となった蘇我馬子を生み、馬子は崇峻天皇弑逆の黒幕として歴史上の人物の中でも特に憎まれて来ました。
しかし武内宿禰は功績が多く、明治時代には5円紙幣の顔になります。
同時に描かれた宇倍神社は、紙幣をデザインする神社としては日本初であったそうです。
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