2009/03/14 - 2009/03/16
234位(同エリア266件中)
倫清堂さん
和歌山県から大阪府に入りました。
ここ河内は楠木正成公のふるさとであり、建武中興のために鎌倉幕府の軍勢を引き付けた場所でもあります。
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まずは観心寺へ。
入ってすぐの所に、後村上天皇御旧跡の碑が見えました。
第97代後村上天皇は後醍醐天皇の皇子で、御名は義良親王。
後醍醐天皇が建武中興に際して、(崇仁天皇に倣って)日本の四方に遣わされた「四道将軍」のうち、北畠父子の補佐のもとで奥州の経営に赴かれたのが義良親王です。
東北鎮撫のための行在所は宮城県の多賀城に残されており、この旅行の直前にも訪れ、後村上天皇が祀られる多賀城神社に参拝して来ました。
建武中興は足利氏をはじめとする利に敏い武将たちの謀叛によって失敗しますが、義良親王は後醍醐天皇が崩御する直前に譲位され、理想を貫くために戦い続けるのでした。
この場所は、後村上天皇が約10ヵ月間、住まわれた場所です。 -
後醍醐天皇の御信任が最も厚かった楠木正成公も、この寺にゆかりがあります。
中院への門の脇に、楠公学問所の碑が立っておりました。
中院は楠木家の菩提寺で、正成公が8歳から15歳までの間に学んだ場所であり、また嫡子正行公がまだ幼い時、足利から送れらた父の首級を見て切腹しようとした場所でもあります。観心寺 寺・神社・教会
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国宝に指定されている金堂は、後醍醐天皇が正成公を奉行として造営の勅を発せられ、建てられたものです。
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金堂から東の方に、更に山を登る階段が備えられていました。
ここを登ると、後村上天皇陵にたどり着きます。
賊軍と京の争奪戦を繰り返し、一時的な奪回は何度かできたものの賊軍の平定には至らず、理想の政治を実現できないまま、正平23年に住吉行宮で崩御しました。後村上天皇檜尾陵 名所・史跡
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後村上天皇陵へ向かう階段の昇り口には、大楠公の首塚もあります。
時期的には、こちらが建てられたのが先になります。
湊川で討死した大楠公の御首級は、足利側から楠公の婦人のもとへ送られました。
ただ送られたのではなく、嫡子正行公が宮方から幕府側に寝返ることを、報償をちらつかせながら迫る目的からでした。
しかし、利よりも義を重んじた大楠公のその嫡子のことだけはあり、父の御首級のみを受け取って、使者を丁重に送り返しました。
「七生滅賊」の精神は、確実にこの後継ぎによって受け継がれたのでした。 -
楠公生誕の地は水分という珍しい地名です。
現在の大阪府千早赤阪村にあるこの場所は、山の中にある小さな集落といった感じの場所ですが、大楠公は村人たちからも慕われる慈悲深い領主だったのではないかと想像できます。
その出自や生年は詳しくは伝わっておらず、日本の歴史において危機的な時代に、まさに流星のように現れて散った一人の英雄でした。
生誕地の石碑は、大久保利通が建てたものです。 -
小さな男の子を連れた父親が、楠公さんを顕彰する石碑を子供に見せて、偉大な人物なんだよと説明している姿を見かけました。
楠公さんが命がけで追い求めた理想に対し、はたして今の世が少しでも近づいているのかを考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
しかし逆に考えると、理想は実現してしまえば理想ではなくなるということもできます。
理想を実現できないことが問題ではなく、理想を求めたり追ったりすることができない社会にしてしまったことが、いまの一番の問題なのかも知れません。 -
楠公さんが崇敬していた建水分神社がすぐ近くにあるので、参拝しました。
たけみくまり神社と読み、富田林市に鎮座する下水分宮と一対の神社なのだそうです。
御祭神は天御中主神をはじめとする5柱の神で、水に関係する神々です。
第10代崇神天皇5年に創建され、後醍醐天皇の御代に大楠公によって再営されました。建水分神社(たけみくまり神社) 寺・神社・教会
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神社は金剛山の総鎮守で、楠木氏の氏神でもあります。
大楠公は勅を奉じて鎌倉幕府打倒の旗揚げをする際、戦勝祈願を行ったと伝えられています。
その際に詠んだ歌は
久方の天津朝廷(あまつみかど)の安かれと
祈るは國の水分(みくまり)の神 -
大楠公が、後醍醐天皇に背いた足利軍に敗れて湊川に戦死すると、後醍醐天皇は楠公の死を悼み、生前の姿を偲ばせる像を刻ませて、ゆかりの深いここ建水分神社に祀られました。
そして後村上天皇によって「南木明神」の神号を賜ることになったのでした。
南木神社は、建水分神社より少し低い場所に鎮座しています。
また社務所では、大楠公が籠城した際に、敵を欺くために考案した藁人形を模した土鈴が売られていました。 -
後醍醐天皇の挙兵を知ると、大楠公はそれに呼応して下赤坂城に兵を挙げます。
下赤坂城跡は現在、中学校の敷地を通って行かなければならない場所にあります。
武運尽きた後醍醐天皇が幕府によって隠岐に遷されると、大楠公は死を装って姿を隠します。
これは、危険分子が生きていることが後醍醐天皇の玉体を危うくすると考えた彼の計略でした。下赤坂城跡 名所・史跡
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激戦の地、下赤坂城の周辺は、今は美しい棚田が広がる景勝の地となっています。
こののどかな風景は、いつの時代にできたものか、大楠公も見ることができたものなのかと、ふと考えてみました。 -
イチオシ
棚田百選にも選ばれるこの場所は、河内に入って最も多くの人を見た場所でした。
大楠公の偉大な事績を知ることもなく、美しい風景に見とれて日常生活を忘れることも、人間が持つ一つ真実の姿のなのかも知れません。
楠公が見た幸福と現代人が見る幸福の間は、遠く隔たっているようで、実は意外に近いような気がするのでした。 -
次に金剛山へ向かいます。
金剛山の名前も、太平記には何度も登場します。
現在は登山家や自然愛好家たちが訪れる観光地となっており、日本国内で唯一の村営のロープウェイが山頂近くまで通じています。
せっかく来たので、ロープウェイに乗ることにしました。 -
ロープウェイ乗り場に最も近い駐車場から、更に坂道を徒歩で登らなければなりません。
ロープウェイで行く先には、きっとすばらしい眺めと見物できる施設などがあるのだろうと期待していました。
しかし、すばらしい眺めはあったものの、それ以外の施設はほとんど見当たりません。
おまけに前日の荒天で積もったと思われる雪が溶け出しており、通常の靴では散策すらできないような状況でした。 -
もう少し下調べをしっかりしてから来ればよかったと反省し、せめて山なみでも写真に残そうとカメラを覗くと、レンズに黒い点。
ハンカチで拭いて、さて撮影しようとしても、なぜか黒い点は消えていません。
カメラの内部にホコリが入ってしまったようです。
ここに来て、不運が連続して起きてしまったのでした。 -
金剛山の散策は思ったより早く終わった、というよりほとんど何もできなかったので、時間に余裕が生まれました。
そこでせっかくなので、金剛山中腹に大楠公が築いた千早城跡へ登ることにしました。
千早城は、たかだか千人の兵で幕府軍を100日にわたって引きつけたことで、新田義貞による鎌倉攻めを可能にしたのでした。
城へ続く階段の脇に、復元された藁人形がぽつんと立って、出迎えてくれました。千早城跡 名所・史跡
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しばらく上ると鳥居が見えました。
間もなく本陣のあった場所にたどり着くのだろうと思ったのですが、それは甘い見当違いでした。
なにせ数十万の幕府軍が押し寄せても落ちることのなかった城です。
ちょっと登ったくらいで本陣にたどり着くわけがありません。
途中で一人、上から下りて来た人とすれ違いましたが、この人は目的地まで行けたのでしょうか。
また、もう少し登ると、女の子の声が聞こえてきました。
まだ幻聴がするほど疲れてもいないはずなのに…。
汗だくになり、肺に入る空気もとても重く感じながら、ひたすら足だけは前に進め続けたのでした。 -
ようやく少し広い所に出ました。
女の子が父親らしい人と遊んでいます。
やっぱり幻聴じゃなかった。よかった…。
いままで多くの山城跡に登りましたが、最も険峻な山城であると自信をもって言うことができます。
千早城は日本100名城にも挙げられています。 -
ここで引き返さずもう少し歩くと、千早神社の社号標が見えました。
このまま進めば、先ほどロープウェイで登った金剛山に行きつくことができるはずです。
またその途中には、大楠公の三男、正儀公の墓所があるようです。
正儀公は北朝へ投降したり南朝へ帰順したりと、乱世を揺れ動いた人物のようですが、まだ詳しくは知りません。 -
千早神社は、もともと千早城の鎮守として八幡大菩薩をお祀りしていましたが、その後正成公・正行公、そして正成公の婦人である久子刀自を合祀して、名前も千早神社となりました。
乱世にあって、それぞれが苦難に向かわねばならなかった父・母・子の3人は、生前ついに実現しなかった安らぎの時間を、この険しい山奥でようやく手にすることができたのでした。千早神社 寺・神社・教会
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