2012/01/14 - 2012/01/14
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横浜臨海公園さん
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我が国に於ける電車運転は、明治33年(1900年)5月4日に東京上野公園に於いて開催された第3回内國勧業博覧会に於いて、米ブリル(J.G.Brill)社製造の車輌2両が、現在の東京都記念文化会館から国立博物館付近まで約308mを運転したのが嚆矢である。
此れは、運行主催者たる東京電燈株式會社(とうきょう でんとう かぶしきがいしゃ)技師長の藤岡市助(ふじおか いちすけ)(安政4年(1857年)4月8日〜大正7年(1918年)3月5日)が技術開発目的調査の為に渡米中に、中古車輌を入手輸入した物で、スプレーグ式2軸車で直流500V、単線架線式だった。
然るに、前途展開が明るいと思われた電気配電事業は、翌明治24年(1891年)1月20日に発生した帝國議会議事堂全焼事件は、発火原因が漏電とされた事が電気に対する未知への期待が失墜不信化し、折角の契約者数低下現象と云う予想外の事態に発展し将来への頓挫に見えた。
他方、日清戦争(にっしん せんそう)(明治27年(1894年)7月25日〜明治28年(1895年)11月30日)で清国に対し大勝した我が国は国内経済成長が急上昇し国際社会に於いても認知される機会を得たが、それまで、大都市部に限定された電燈配電事業は忽ち全国に波及し、駿豆地方に於いても例外とは為り得ず、田方郡凾南村出身の仁田大八郎(にった だいはちろう)(明治4年(1871年)11月1日〜昭和20年(1945年)3月1日)、小柳津五郎(おやいず ごろう)、渡邉萬作(わたなべ まんさく)、及び、贄川耕作(にえかわ こうぞう)、等々の地元有力者達が発起人になり、明治29年(1896年)5月3日に資本金50万円を以って、三島町六反田に本社登記を行い、駿豆電気株式會社(すんず でんき かぶしきがいしゃ)が設立された。
駿豆電気は凾南村平井の冷川(ひえかわ)に交流275kW発電能力を有する水力発電所が建設され、駿東田方両郡は勿論、契約者数の増加に拠り配電区域を熱海町を経て神奈川縣湯河原町まで拡大した。
因みに、当時の電気課金契約は現在とは著しく異なり、ソケット1個に対し1件契約と云う形態であり、故に、現在の如き消点燈を反復させる事で電気料金節電等と云う概念など当時の人々に存在する筈も無く、契約者は一般家低ですら昼間も点燈状態が当然とし、電球のフィラメントが切れると言うのは配電会社の停電復旧の際に送電時に切れると言う限られた状況だった。
全国多数の配電会社は明治35年(1902年)から明治40年代にかけて自社電力を動力源として電車運行事業展開志向傾向が強まる。
駿豆電気は将来を見越し、当時の道路管理官庁たる内務省に対し、三島六反田-沼津三枚橋間軌道敷設申請を提出し、此れに対し、内務省は、明治36年(1903年)11月12日を以って、該申請要件に対し建設許可免状を交付した。
駿豆電気は追加建設予定線として、
沼津三枚橋-官設沼津停車場間
三島六反田-大中野-小中野-三島町停車場間
小中島-傳馬町間
更に、第3次建設計画候補線として、
沼津-鈴川間
沼津-江ノ浦間
三島-箱根湯本間
吉原-静岡間
修善寺-湯ヶ島-伊東間
各区間が発表された。
第1期敷設工事は、免許状交付済区間たる三島六反田-沼津三枚橋間が明治38年(1905年)11月に着工された。
更に、内務省に対し追加工事申請中だった沼津三枚橋-上士間が明治39年(1906年)6月25日、同年同月30日に沼津三枚橋-志多町-城内間工事敷設認可免状が交付され直ちに工事着工に漕ぎ付ける。
此れら敷設工事の進捗を受け、駿豆電気株式會社は鉄道事業を主体とすべく、同年10月1日附を以って駿豆電気鐵道株式會社(すんず でんきてつどう かぶしきがいしゃ)に社名変更を実施した。
此の間に於いても、
同年4月 三島六反田車庫建設竣工
同年5月 黄瀬川木造渡河橋建設竣工
同年6月 旧東海道幅拡張工事竣工
同年7月 軌道敷設工事竣工
同年9月 架線吊張工事竣工
を経て、同年11月10日に無事全工事が完了した。
開通は、明治39年(1906年)11月28日である。
規格は軌間1067mm、架線電圧直流600V、架線吊線は他鉄道が採用せざるを得なかった複線式では無く単線式だった。
此れは、当時の帰線マイナス回線を軌道に求めた場合、漏電要因で地中に埋設した下水道管、都市ガス管等々の鉄管を腐蝕させると考えられていた為で、大都市に於ける開業区間は電蝕を避ける為に複線式をさせざるを得なかったが、然し、当時の駿豆地方は上下水道、及び、都市ガスの普及が無に等しい実態が、寧ろ、駿豆電気鐵道側に幸いした。
開通当時は、木町-千貫樋間、及び、黄瀬川橋梁のみ軌道専用区間で、残区間は悉く東海道上に設置された併用軌道だった。
開通時に用意された車輌は、全車輌共、ボギー車では無く4輪車で、電動車6輌、付随車1輌、有蓋貨車2輌、無蓋貨車2輌、計11輌と記録されている。
当初、三島六反田-官設沼津停車場間の運転時間は40分を要した。
此れは、内務省は将来の軌道建設発達を見越し、明治23年(1890年)に軌道条令を発布し、1時間最大速度を12.9kmに設定していたからである。
駿豆電気鐵道は、内務省より明治40年(1907年)9月25日附で、三島六反田-三島町間0.8kmの建設許可免状が交付され、翌明治41年(1908年)2月より建設工事を着工し同年8月3日に該区間が開通した。
該区間での電車運転は、朝、六反田車庫から当時の伊豆鐵道、即ち、現在の伊豆箱根鉄道駿豆本線広小路踏切上に、大人4人で仮渡り腺を設置して電車を送込み、該区間運転終了と同時に逆の作業で戻すという煩瑣な物だった。
因みに、別文献で、明治41年(1908年)10月1日附で三島六反田踏切にクロッシングを設置したが如き記述を散見した事があるが、事実は開通から廃止に至るまで、前述の作業反復であり、該文献喜寿は事実無根である。
然るに、同時に着工した大社線は、途中道路幅用地収用が不成立に終わり開通不可能になる。
予てから、駿豆電気鐵道は地元に於いて先発鐵道会社たる豆相鐵道(ずそう てつどう)買収を目論んでいたが、それに先立ち、明示40年(1907年)7月19日附で豆相鐵道は動産不動産経営権一切を新設企業たる伊豆鐵道に譲渡したが、伊豆鐵道社長で銀行経営者たる花島兵右衛門(はなじま へいうえもん)に依る鉄道会社経営は芳しい結果をもたらさず漸次経営が悪化した事から、明治44年(1911年)10月1日附で駿豆電気鐵道に吸収合併され傘下に収めた。
折から第1次世界大戦勃発に拠り我が国は未曾有の好景気となり電力業界は買い手世界の典型となったが、反面、経営経費も増大の一途を辿り、大正2年(1913年)3月28日に開催された株主総会では11万円余の欠損が生じ、社長以下重役全員が48500円を負担、贄川常務は所有する有価証券全部を放出し役員から退任を余儀無くされ会社は3年間無配当状態が続く。
従来から電力供給契約を行使していた富士水力電気株式會社との確執が表面化し、藤山社長は東京に於ける自身の事業に専念する事となったが、代った社長は長続きせず、大正5年(1916年)10月15日附を以って、甲州系財閥支配下に在った富士水力電気に吸収合併され、同社駿豆鐵道部となる。
然し、此の状態も継続せず、翌大正6年(1917年)11月5日附で三島六反田-沼津停車場前間電気軌道路線、及び、三島停車場-大仁間鐵道線動産不動産資産一切を新設 駿豆鐵道株式會社に譲渡し今日の伊豆箱根鉄道株式会社の基礎が成立した。
第1次沼津大火(だいいちじ ぬまづ たいか)(大正2年(1913年)3月3日)、及び、第2次沼津大火(だいにじ ぬまづ たいか)(大正15年(1926年)12月10日)で三枚舞橋-沼津駅間沿線が全焼したが、軌道線架線吊木柱が全焼し電車運行に差支えが生じたが翌日には復旧運行した。
関東大震災(かんとうだいしんさい)(大正12年(1923年)9月1日)で大岡村に於いて田畑の地割から温泉湧出が発生した程度で軌道腺沿線に特に被害はじていない。
大正末期頃から全国各地に於いて軽快な乗合バスが勃興し、殊に、地方短距離鉄道事業者にとって経営的苦境に立たされる諸例が続出したが、駿豆軌道線は必ずしも利用者減が顕著では無く、寧ろ、昭和4年(1929年)10月24日に米国ニューヨーク・ウォール街に端を発した世界的大恐慌の影響で我が国主要輸出品たる繭生糸製品輸出量激減は、駿豆軌道線沿線所在の東京麻糸株式会社沼津工場女性従業員大量解雇に拠る乗車減の影響の方が駿豆鐵道にとって遙かに深刻な事態だった。
昭和12年(1937年)まで、三島広小路-沼津駅前間は24分で運転され、三島広小路発5時24分〜23時00分、沼津駅前発5時48分〜23時24分まで、早朝夜間を除き12分間隔のフリーケントサービスで運行された。
盧溝橋事件(ろこうきょう じけん)(昭和12年(1937年)7月7日)勃発を契機に日華事変(にっかじへん)(昭和12年(1937年)7月7日〜昭和16年(1941年)12月8日?)へと発展し、我が国は平時体制から漸次戦時体制へと移行を余儀無くされたが、次々と駿豆軌道船沿線に軍需工場がせ設置され、ガソリンが政府統制品に指定された為にガソリンバスは木炭車に改造使用されたが、故障続出で使用に耐えず、寧ろ、電車利用乗降客数は記録的状態となり、乗車は始発駅で2、3本待って超満員の電車に潜り込む状況だった。
駿豆鐵道では軌道線用車輌新製を計画したが、当時は鉄道車両は兵器の一環とされ政府統制品指定で大都市用から優先され、中規模都市用は呉、広島だけが新造認定される現状では駿豆軌道線用新造は却下された為に、駿豆鐵道では已む無く中古車輌を探し、同時期に廃止された武蔵野中央電鐵からモハ、西武鐵道新宿線からモハ204〜8を購入し続行運転も実施したが、激増した旅客には追い付けず、駿豆鐵道では已む無く昭和16年(1941年)8月23日に吸収合併した旧大雄山鐵道が購入使用していたモハ16型を軌道線に転属使用する事にした。
モハ16型は鐵道院が明治42年(1909年)に中央山手線用に製造した車輌で、電圧昇圧と共に大雄山鐵道に払下され使用されていた物であるが、元来は明治期の高速電車でたる車輌で、自動連結器を撤去し撤去跡に排除器を取付け、更に、乗降用ステップを取り付けた為に全体的に珍妙なスタイルとなった感は否めなかったが、輸送強化に貢献した事は確かだったが、元来ギア比が低めに設定されている為にスピードが出過ぎて運転技術には苦労が伴った。
昭和16年(1941年)3月13日には、黄瀬川橋梁上に於いて、運転送度を超過し制動効果低下の電車が橋上において脱線転覆し川面に落下したが、春季で流水量が僅少だったことで死者0名、重軽傷者24名を出す軌道線開業以来の惨事が発生した。
昭和19年(1944年)4月のダイヤ改正では、始発時間に変化は無かったものの、終電が繰上げられ、三島広小路発19時12分、沼津駅前発19時46分発と言う酷い状況が発生した。
我が国は大東亜戦争末期には殆どの全国主要都市が連合軍の空爆に曝されたが、沼津市も昭和20年(1945年)7月17日1時から3時にかけての大空襲で市民罹災比率77.8%が焼け出される全国第9位の大被害を生じせしめたが、軌道線も石田坂付近に於いて空襲被害に拠りモハ1型2が被災焼失した。
大東亜戦争終結後、軌道線乗車率は終日超満員状態に変化は無かった。
然るに、朝鮮動乱(ちょうせん どうらん)(昭和25年(1950年)6月25日〜昭和28年(1953年)7月27日)勃発の頃より我が国は石油自由化の波を受け再びバスが台頭し軌道線は苦境に立たされる。
駿豆鉄道は、昭和32年(1957年)6月1日附で現社名たる伊豆箱根鉄道(いずはこね てつどう)に変更し、更に、同年9月6日に駿豆本線は直流600Vを1500Vに昇圧した。
此れは、駿豆本線沿線に長岡、修善寺等々の温泉地を控え、当時国鉄が設計中だった準急用新系列電車乗入を前提に対応したものだった。
此の為に、軌道線車輌は架線電圧が異なる三島広小路-三島田町間直通運転は不可能になったが、線路は三島広小路構内で接続されており、軌道線車輌は検査の都度、駿豆本線用電車に牽引され大場工場に入出場した。
昭和36年(1961年)6月は梅雨前線が活発で長雨が継続したが、寒冷前線の影響で同年同月28日に集中豪雨の為に黄瀬川橋梁が流失した。
黄瀬川橋梁は木造構造故に脆弱性と老朽化が進行し、橋梁架替工事が進捗し正に竣工直前の出来事だった。
伊豆箱根鉄道では軌道線運転を三島広小路-国立病院前間とし、国立病院前-沼津駅前間は自社バス代替輸送で対処した。
因みに、某文献では電車運転区間を沼津駅前-国立病院前間とした物が存在するが、該区間内に黄瀬川橋梁が存在する為に、電車運転など理論的にも不可能であり、故に、該記述は資料精査無く事実無根である。
此の頃から建設中だった国道1号線三島バイパス交差問題や旧東海道木町-石田間未舗装区間に於ける舗装促進問題等々が噴出する形で一気に表面化した事から、伊豆箱根鉄道では軌道線運営を止めバスに代替させる事にさせ、全線廃止を決定し昭和38年(1963年)2月5日を以って廃止された。
伊豆箱根鉄道軌道線が廃止され49年を迎えようとしている。
旧軌道線跡は全区間舗装され一部では歩道さえ設置された。
然し、目を凝らすと全区間に於いて軌道線電車が存在したと思われる痕跡は何気なく残存している様に思われた。
表紙写真は
旧玉井寺停留所電車交換所跡
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
-
三島町(みしままち)駅
→三島田町(みしま たまち)駅三島田町駅 駅
-
三島田町駅
→旧 鉄道線軌道腺三島工場跡
昭和34年(1959年)9月5日を以って大場工場に全面移転。
跡地は日本電電公社に売却後、現在はNTT西日本北田町ビル。
三島市北田町3−32
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島田町駅 徒歩1分 -
三島田町駅
特急 踊り子号
初代三島駅(現 御殿場線下土狩駅)時代から駿豆鐵道駿豆本線を介し戦前から東京から修善寺まで乗入れを実施していた。
国鉄旅客車輌と軌道腺用車輌が同一線路使用では通常使用例は全国で三島田町-三島広小路間のみ。 -
三島田町駅
駅構内
軌道線電車は右手3番線から発着していた。
駿豆本線1500V昇圧に伴い三島広小路-三島田町間軌道線電車乗入は中止を余儀無くされる。 -
三島広小路-三島田町間
三島広小路方面
俯瞰
駿豆本線600V時代は軌道線電車が三島広小路-三島田町間を直通運転し左手3番線から発着。
昭和34年(1959年)9月6日に駿豆本線1500V昇圧に伴い三島広小路-三島田町間軌道線電車乗入は中止されたが線路は繋がっており、車輌全般検査必要の都度、本線電車に連結され大場工場で実施していた。
昇圧後線路を切断し乗入不能との文献を散見するが切断されたのは架線だけで軌道は従来通り接続し、故に、該文献記述は事実無根である。
三島市北田町2−19
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島田町駅 徒歩1分 -
三島町-久保町間
左手 県道三島田町停留場腺上が旧軌道腺跡
三島市北田町3−62
伊豆箱根鉄道三島田町駅 徒歩30秒三島田町駅 駅
-
三島町-久保町間
県道三島田町停留場腺
三島市北田町7−12
伊豆箱根鉄道三島田町駅 徒歩1分三島田町駅 駅
-
三島町-久保町間
県道三島田町停留場腺
三島市中央町1−12
伊豆箱根鉄道三島田町駅 徒歩4分三島田町駅 駅
-
三島町-久保町間
田町駅入口三叉路 -
久保町停留所跡
田町駅入口交差点
軌道線は奥から右手へ向かっていた。
三島市本町1−9
東海道本線三島駅南口 沼津登山東海バス本町停留所降車 徒歩1分三島駅 駅
-
久保町-小中島間
田町駅入口三叉路
左手から直進していた。
三島市本町1−9
東海道本線三島駅南口 沼津登山東海バス本町停留所降車 徒歩1分三島駅 駅
-
久保町-小中島間
旧東海道
三島市本町1−9
東海道本線三島駅南口 沼津登山東海バス本町停留所降車 徒歩1分三島駅 駅
-
小中島停留所跡
本町交差点
三島市内最大の繁華街。
横の道路は県道433号 三島停車場取付道。
三島市本町12−1
東海道本線三島駅南口 伊豆箱根鉄道バス本町停留所降車 徒歩30秒三島駅 駅
-
小中島停留所跡
本町交差点
旧 小中島町
旧町名標柱
三島市本町12−1
東海道本線三島駅南口 伊豆箱根鉄道バス本町停留所降車 徒歩30秒三島駅 駅
-
小中島停留所跡
本町交差点
旧 小中島町
向い側道路は県道433号 三島停留場取付道。
現東海道本線開通時たる昭和9年(1934年)12月1日開通。
三島市広小路町12−1
東海道本線三島駅南口 伊豆箱根鉄道バス本町停留所降車 徒歩30秒三島駅 駅
-
大中島停留所跡
旧東海道
三島市広小路町13−4
伊豆箱根鉄道三島広小路駅 徒歩1分三島広小路駅 駅
-
大中島停留所跡
旧東海道
背後に見える山なみは丹那山地。
三島市広小路町13−4
伊豆箱根鉄道三島広小路駅 徒歩1分三島広小路駅 駅
-
三島六反田停留所跡
三島町-三島六反田間利用者は此処で電車を降り、踏切奥の沼津行電車に乗換を余儀なくされた。 -
三島広小路駅
広小路踏切
大多数の文献は踏切を介し軌道線線路が断絶していたかの記述を散見するが、実際にはクロッシングが設置され運転整理が監督し直通運行されていた。
三島市広小路町13−4三島広小路駅 駅
-
三島広小路駅
旧軌道腺乗場
手前屋根下からタクシー乗場が旧軌道腺乗降場跡。三島広小路駅 駅
-
三島広小路駅
全景三島広小路駅 駅
-
三島広小路駅
旧軌道腺乗場跡三島広小路駅 駅
-
三島広小路駅
旧軌道腺乗場跡
タクシー車高に対し該建築物屋根高さに注意。
軌道腺電車夜間留置施設を兼ねていた。三島広小路駅 駅
-
三島広小路駅
旧軌道腺乗場跡
軌道線乗降場痕跡を唯一残す段差。三島広小路駅 駅
-
三島広小路駅
旧軌道腺乗場三島広小路駅 駅
-
三島広小路駅
旧軌道腺乗場三島広小路駅 駅
-
三島広小路駅
本線軌道線分岐跡
昭和34年(1959年)9月6日に駿豆本線1500V昇圧に伴い三島広小路-三島田町間軌道線電車乗入は中止されたが線路は繋がっており、車輌全般検査入用等々の都度、本線用車輌に連結され大場工場で実施していた。
三島市広小路町13−9 -
三島広小路駅
本線軌道線分岐跡
殆どの文献で本線昇圧後は線路が切断されたが如き記述を散見するが、分岐器は残存し軌道線廃止後は軌道線車輌は該分岐器を経由して三島田町構内から移転した大場工場に集結。
三島市広小路町13−9 -
三島広小路駅
本線軌道腺分岐跡
左手空地が軌道腺連絡跡。三島広小路駅 駅
-
三島広小路駅
旧軌道腺本線連絡線跡
軌道腺廃止後は伊豆箱根鉄道関連企業が入居するビルに変身。
写真手前からビルに向かい線路が敷設されていた。
三島市広小路町13−6三島広小路駅 駅
-
三島広小路駅
旧軌道腺本線連絡線跡
写真右手空地が軌道腺連絡線跡
三島市広小路町13−6三島広小路駅 駅
-
三島広小路駅
三島広小路駅から左手道路に曲線を描き旧東海道に進入。 -
三島広小路
旧軌道線車庫跡
現在は伊豆箱根鉄道系列子会社経営の駐車場。
三島市広小路町10−24三島広小路駅 駅
-
三島広小路
通称「西」停留所三島広小路駅 駅
-
三島広小路-木町間
軌道線は該地点まで道路中央部に敷設されていた。三島広小路駅 駅
-
三島広小路-木町間
道路拡張痕
左手が幅広くなっている。三島広小路駅 駅
-
木町(きまち)停留所
→西本町(にし ほんちょう)停留所
三島市西本町7−1 -
木町
旧町名表示柱
三島市西本町7−1 -
木町
旧町名表示柱
三島市西本町7−1 -
茅町(かやまち)停留所
→加屋町(かやまち)停留所
三島市加屋町5−25 -
茅町
旧町名表示柱
三島市加屋町5−25 -
茅町-千貫樋間
旧軌道腺跡
左手の大根畑が旧軌道腺跡。
旧東海道木町-千貫樋間は昭和4年(1929年)に改良されるまで短区間ながら120‰を越える急勾配が存在していた為に電車通行は不可能であり、開通時から改良工事完了まで該地点を経由運行されていた。
因みに、道路改修前は坂下に「押し屋」と称する連中が屯し人力車や大八車の後部を押し賃金を稼ぐ者達が存在した。
三島市加屋町3−37
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島広小路駅 伊豆箱根鉄道バス加屋町停留所降車 徒歩1分 -
境橋(さかい ばし)
旧 伊豆國 駿河國 境
昭和4年(1929年)架橋第2代目橋梁から道路軌道敷運行に変更。
現橋は昭和43年(1968年)架橋3代目。
三島市加屋町4−5
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島広小路駅 伊豆箱根鉄道バス加屋町停留所降車 徒歩2分 -
千貫樋(せんがいどい)停留所
→千貫樋停留所
駿東郡清水町新宿13千貫樋〔旧跡〕 by 横浜臨海公園さん千貫樋 名所・史跡
-
伏見(ふしみ)停留所
→伏見南(ふしみみなみ)停留所
区画整理で僅かながら道路幅が拡大。
駿東郡清水町伏見766 -
玉井寺(ぎょくせいじ)停留所跡
→玉井寺前(ぎょくせいじまえ)停留所
三島方から俯瞰
駿東郡清水町八幡155−1 -
玉井寺停留所跡
→玉井寺前停留所
沼津方から俯瞰
駿東郡清水町八幡155−1 -
玉井寺停留所跡
→玉井寺前停留所
沼津方から俯瞰
全景
三島広小路-沼津間軌道線に3ヶ所存在した交換所跡
右手に道路がはみ出すが如く膨らみが残存。
駿東郡清水町八幡155−1 -
玉井寺-八幡間
八幡交差点
現国道1号線と交差
三島方から俯瞰
駿東郡清水町八幡160
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島広小路駅 伊豆箱根鉄道バス玉井寺前停留所降車 徒歩1分 -
玉井寺-八幡間
八幡交差点
現国道1号線と交差
沼津方から俯瞰
当時新国道1号線バイパス建設工事開始是非も軌道腺存続に影響した。
駿東郡清水町八幡168
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島広小路駅 伊豆箱根鉄道バス八幡停留所降車 徒歩1分 -
八幡(やはた)停留所
→八幡停留所
日華事変途中から節電の為に急行運転を開始した際に休止。
戦後復活。
駿東郡清水町八幡172 -
八幡-長澤間
曲線
最小半径19m
該地点を軌道腺電車は最徐行で運転通過した。
駿東郡清水町長沢3−3
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島広小路駅 伊豆箱根鉄道バス八幡停留所降車 徒歩2分三島広小路駅 駅
-
長澤(ながさわ)停留所
→長沢停留所
駿東郡清水町長沢169 -
長澤停留所
→長沢停留所
駿東郡清水町長沢169 -
国立病院前(こくりつびょういん まえ)停留所
→医療センター入口(いりょうせんたー いりぐち)停留所
写真横は旧郷社格 八幡神社参道入口。
駿東郡清水町長沢32−1 -
臼井産業前(うすい さんぎょうまえ)停留所
→廃止
バスは手前 長沢交差点-沼津駅間は旧道を運転せず新道経由。
三島-沼津間に於いて江戸期の松並木が唯一残存。
駿東郡清水町長沢131−1
伊豆箱根鉄道駿豆本線三島広小路駅 伊豆箱根鉄道バス医療センター入口停留所降車 徒歩3分 -
臼井産業前-黄瀬川橋間
黄瀬川
旧木造橋梁跡
軌道線は写真中央部を直進していた。
駿東郡清水町長沢63
伊豆箱根鉄道三島広小路駅 沼津登山東海バス対面石停留所降車 徒歩5分三島広小路駅 駅
-
臼井産業前-黄瀬川橋間
黄瀬川橋梁(きせいがわ きょうりょう)
竣工は皮肉にも 昭和36年梅雨前線豪雨(しょうわ36ねん ばいうぜんせん ごうう)(昭和36年(1961年)6月28日)で旧橋が流失した1ヵ月後たる同年8月1日。
竣工当時は軌道線も設置されたが実際に走行する事は無く軌道線廃止後程無く撤去。
老朽化に加え耐震性に問題有りとして架替工事中。
駿東郡清水町長沢63
伊豆箱根鉄道三島広小路駅 沼津登山東海バス対面石停留所降車 徒歩5分三島広小路駅 駅
-
臼井産業前-黄瀬川橋前間
黄瀬川橋梁
背景に見えるのは霊峰富士。
駿東郡清水町長沢63
伊豆箱根鉄道三島広小路駅 沼津登山東海バス対面石停留所降車 徒歩5分三島広小路駅 駅
-
黄瀬川橋(きせがわばし)停留所
→廃止
大東亜戦争勃発前に節電対策から乗降数過少を理由に廃止。
皮肉にもバス化されて復活。
沼津市大岡町木瀬川58−1
東海道本線沼津駅南口 伊豆箱根鉄道バス木瀬川橋停留所降車前沼津駅 駅
-
黄瀬川(きせがわ)停留所
→黄瀬川停留所
川名は黄瀬川、地名は木瀬川。
沼津市大岡町木瀬川345
伊豆箱根鉄道三島広小路駅 伊豆箱根鉄道バス黄瀬川橋停留所降車 徒歩4分三島広小路駅 駅
-
黄瀬川停留所
玉井寺、山王と共に単線上に於ける電車交換が行われていた。
沼津市大岡345
伊豆箱根鉄道三島広小路駅 伊豆箱根鉄道バス黄瀬川橋停留所降車 徒歩4分三島広小路駅 駅
-
黄瀬川停留所
道路幅が広くなっているのは電車交換の為に線路が2本存在した跡。
沼津市大岡345
伊豆箱根鉄道三島広小路駅 伊豆箱根鉄道バス黄瀬川橋停留所降車 徒歩4分三島広小路駅 駅
-
黄瀬川-石田間
従是西沼津領 石碑
沼津市大岡442
東海道本線沼津駅南口 伊豆箱根鉄バス黄瀬川停留所 徒歩4分沼津駅 駅
-
黄瀬川-石田間
新旧東海道合流点
軌道線は新東海道区間は道路中央を走行。
沼津市大岡1135
東海道本線沼津駅南口 伊豆箱根鉄道バス下石田停留所 徒歩5分沼津駅 駅
-
石田(いしだ)停留所
→下石田(しも いしだ)停留所
沼津市大岡1448 -
麻糸前停留所
→東亜スポーツ前(とうあ すぽーつまえ)停留所
戦前に於ける我が国主要輸出品たる麻糸製造の為に途中乗降数が1番の停留所。
戦時体制になり生産品も軍需品生産に移行して乗降者数が再度激増。
沼津市大岡1431 -
麻糸前-山王前間
新旧東海道分岐点(沼津二ッ谷東交差点)
直進側が旧東海道。
沼津市大岡二ッ谷町1500−3
東海道本線沼津駅南口 伊豆箱根鉄道バス二ッ谷停留所降車 徒歩30秒沼津駅 駅
-
麻糸前-山王前間
左手築堤は狩野川堤防
大正期まで松の巨木連なる風光明媚な所だったが、狩野川が度重なる水害で地元が被害に遭い建設省指導で護岸工事が施工され川面は見えなくなる。
沼津市大岡にッ谷町1526
東海道本線沼津駅南口 伊豆箱根鉄道バス山王前停留所降車 徒歩3分沼津駅 駅
-
山王前(さんのうまえ)停留所
→移転
電車交換所跡
大東亜戦争中の沼津大空襲で周囲一帯は全滅し戦後再開発の際に道路拡張が施行された。
沼津市平町37
東海道本線沼津駅南口 伊豆箱根鉄道バス山王前停留所降車 徒歩1分沼津駅 駅
-
山王前-平町間
新旧東海道合流点
沼津市平町24−10
東海道本線沼津駅南口 伊豆箱根鉄道バス平町停留所降車 徒歩1分沼津駅 駅
-
平町(たいらまち)停留所
→平町停留所
沼津市平町25−10 -
平町-三枚橋間
三枚橋跡
沼津市三枚橋町15−10
東海道本線沼津駅南口 伊豆箱根鉄道バス三枚橋停留所降車 徒歩1分沼津駅 駅
-
三枚橋(さんまいばし)停留所
→三枚橋停留所
沼津市大手町1−1 -
志多町(しだちょう)停留所
→廃止
沼津市大手町4−1−1
東海道本線南口 徒歩6分 -
志多町-迫手町間
大手町交差点
軌道線電車は旧国道を右折して沼津駅へと向かった。
沼津市大手町4−4−1
東海道本線沼津駅南口 徒歩5分沼津駅 駅
-
迫手町停留所
→大手町停留所 -
追手町-沼津駅
沼津駅南口交差点
付近一帯は再開発が進行中で皮肉にも沼津駅本屋のみ痕跡を留める。
沼津市大手町3−4−32
東海道本線沼津駅南口 徒歩2分沼津駅 駅
-
沼津駅
バス降車場
付近は再開発に次ぐ再開発で痕跡無。沼津駅 駅
-
沼津駅
→バス降車場
マークス・ザ・タワー沼津(まーくす・ざ・たわー・ぬまづ)
本来の計画では岳南鉄道(がくなん てつどう)が沼津駅まで延長し該地に駅が開設予定だった。
岳南鉄道は貨物輸送主体の鉄道会社だが、昨年末、JR貨物から吉原駅に於ける貨物取扱業務廃止が通告され、今後の展開では岳南鉄道存続の是非となる深刻事態に発展。
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この旅行記へのコメント (16)
-
- Scottさん 2012/04/07 23:57:39
- 新潟駅情報ありがとうございました。また、投票をありがとうございます。
- 横浜臨海公園様
今回はどうもありがとうございます。
なんーーんと驚いたのは、この写真の玉井寺停留所交換所跡地は、私の生家のすぐそば。生家は、写真にはきわどいところで写っていませんが。
沼津へ行く途中の黄瀬川橋が流されたのは中学生のとき。それまで、三島や沼津に行くのには必ずこの電車を使っていました。流されなければ、沼津の高校に通うのに使っていたはず。ですので、通学は一時期、代替えバスだったかな。
やあ、奇遇でした。
新潟は今回、月岡温泉に行く途中の乗換駅です。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2012/04/08 05:25:19
- 拝復
- scottさま、おはようございます。
メッセージを賜りまして誠に有難うございました。
> なんーーんと驚いたのは、この写真の玉井寺停留所交換所跡地は、私の生家のすぐそば。生家は、写真にはきわどいところで写っていませんが。
→此の様な奇遇もあるのですね。
あの旅行記をご覧になり、見かけられた光景が多数有ったと思われます。
>
> 沼津へ行く途中の黄瀬川橋が流されたのは中学生のとき。それまで、三島や沼津に行くのには必ずこの電車を使っていました。流されなければ、沼津の高校に通うのに使っていたはず。ですので、通学は一時期、代替えバスだったかな。
→思わず年齢が解ってしまいましたね。
scottさまは団塊世代ですね。
それから、沼津の高校に通学されたとの事ですが、高校の凡その見当がつきそうです。
横浜臨海公園
- Scottさん からの返信 2012/04/11 00:01:21
- RE: 拝復
- 横浜臨海公園様
駿豆線の当時の写真があったはずで、捜してみましたが、やっと見つかりました。1枚ですが、旅行記として投稿しました。写真は、臨海公園さんが玉井寺停留所を撮ったところとは、同じ場所から逆向きに撮ったものと思います。
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10659958/
なお、臨海公園さんの旅行記もリンクさせていただきました。
ありがとうございました。
> scottさま、おはようございます。
>
>
> メッセージを賜りまして誠に有難うございました。
>
> > なんーーんと驚いたのは、この写真の玉井寺停留所交換所跡地は、私の生家のすぐそば。生家は、写真にはきわどいところで写っていませんが。
> →此の様な奇遇もあるのですね。
> あの旅行記をご覧になり、見かけられた光景が多数有ったと思われます。
> >
> > 沼津へ行く途中の黄瀬川橋が流されたのは中学生のとき。それまで、三島や沼津に行くのには必ずこの電車を使っていました。流されなければ、沼津の高校に通うのに使っていたはず。ですので、通学は一時期、代替えバスだったかな。
> →思わず年齢が解ってしまいましたね。
> scottさまは団塊世代ですね。
> それから、沼津の高校に通学されたとの事ですが、高校の凡その見当がつきそうです。
>
>
>
>
> 横浜臨海公園
- 横浜臨海公園さん からの返信 2012/04/12 00:16:56
- 再拝復
- scottさま、こんばんは。
メッセージを賜りまして誠に有難うございました。
さて、玉井寺停留所ですが、三島広小路方から撮影したショットが1枚、旅行記の中にございます。
scottさまの古い写真と同角度だと思われます。
如何でしょうか?
横浜臨海公園
- Scottさん からの返信 2012/04/12 11:01:03
- RE: 再拝復
- 横浜臨海公園さんへ
おはようございます
私の写真は三島広小路方からのものですが、臨海公園さんの「玉井寺停留場」写真より30−40M沼津寄りです。現国道1号線と停留所との中間くらいですね。「リンナイ」の看板が立っているお店屋さんは昔、雑貨屋さんでしたので、よく買い物に行かされました。
二十歳以前の写真はネガがほとんど残っていませんが、この白黒写真は珍しく残存している珍しいものです。掘り起こす機会で、ありがとうございました。
Scott
> scottさま、こんばんは。
>
>
>
> メッセージを賜りまして誠に有難うございました。
>
> さて、玉井寺停留所ですが、三島広小路方から撮影したショットが1枚、旅行記の中にございます。
> scottさまの古い写真と同角度だと思われます。
> 如何でしょうか?
>
>
>
> 横浜臨海公園
- 横浜臨海公園さん からの返信 2012/04/14 04:43:59
- 再々拝復
- scottさま、こんばんは。
度重なりメッセージを賜りまして誠に有難うございます。
リンナイの看板を掲げた店舗、街歩きをしながら記憶がございました。
それにしても、該旅行記作成段階での資料収集。
地元の静岡新聞の出版物内容の出鱈目ぶりには呆れさせされました。
軌道線が黄瀬川橋梁流失後に残存した沼津-国立病院前間でのみ電車の運転をして、三島広小路-国立病院前間は代替バス運行で対処したとの記述がありましたが、socottさまは地元の方で当時をご存知の筈ですので、此の記述が間違いなのは説明するまでもありませんね。
該書籍には、満豪開拓団団員乗車列車沿線送慶と称する写真が掲載されておりましたが、小生の解釈では、あれは誰が見ても、満州国皇帝溥儀乗車専用列車だったり、資料検証が乏しく記述のいい加減ぶりに驚かされました。
第一次資料収集段階で丹那隧道関連の旅行記と共に苦労させられました。
横浜臨海公園
- Scottさん からの返信 2012/04/14 20:41:55
- RE: 再々拝復
- 横浜海浜公園様
色々情報をありがとうございます。
確かに、黄瀬川橋流出時以降の代替えバスの区間は逆ですね。Scott
> scottさま、こんばんは。
>
>
> 度重なりメッセージを賜りまして誠に有難うございます。
>
> リンナイの看板を掲げた店舗、街歩きをしながら記憶がございました。
> それにしても、該旅行記作成段階での資料収集。
> 地元の静岡新聞の出版物内容の出鱈目ぶりには呆れさせされました。
> 軌道線が黄瀬川橋梁流失後に残存した沼津-国立病院前間でのみ電車の運転をして、三島広小路-国立病院前間は代替バス運行で対処したとの記述がありましたが、socottさまは地元の方で当時をご存知の筈ですので、此の記述が間違いなのは説明するまでもありませんね。
> 該書籍には、満豪開拓団団員乗車列車沿線送慶と称する写真が掲載されておりましたが、小生の解釈では、あれは誰が見ても、満州国皇帝溥儀乗車専用列車だったり、資料検証が乏しく記述のいい加減ぶりに驚かされました。
> 第一次資料収集段階で丹那隧道関連の旅行記と共に苦労させられました。
>
>
>
> 横浜臨海公園
-
- kuritchiさん 2012/04/01 07:39:27
- 大作ですね〜!
- 横浜臨海公園さん、おはようございます。
何気なく通っている道が、以前は伊豆箱根鉄道軌道線が走っていた…。
(別のサイトで伊豆箱根鉄道軌道線の写真も見つけました。)
未舗装の道に、伊豆箱根鉄道軌道線が車やバスと並んで走行する…。
想像力を働かせながら、横浜臨海公園さんの旅行記を拝見しました。
特に、三島広小路駅の旧軌道腺乗場跡は、興味深いですね。
現タクシー乗り場の屋根が高い!
本当に、よく調べられていらっしゃる…。
さすがは横浜臨海公園さんだと感心して拝見させていただきました。
ロマン!ですね
その地のかつての姿を想像?妄想?するのが大好きな!(笑)… kuritchi
- 横浜臨海公園さん からの返信 2012/04/02 02:54:27
- 拝復
- kuritchiさま、こんばんは。
何時も拙稿にお立寄りを賜りまして誠に有難うございます。
仰せのとおり、三島-沼津間の旧東海道には路面電車が走っておりました。
丹那隧道西口の旅行記の時もそうでしたが、時間の経過と共に資料類が散逸の傾向があり、地図を参照しても現地とは異なっていたりと旅行記を作成する上で苦労が伴いました。
それにしても、kuritchiさまが、あの界隈在住の方だったとは初めて知った次第で驚いております。
横浜臨海公園
-
- 潮来メジロさん 2012/03/11 16:44:15
- 700回目の訪問、ありがとうございました。ヾ(^o^)
- 横浜臨海公園さん、こんにちは! ヾ(^o^)
毎度、訪問ありがとうございました。
横浜臨海公園の訪問回数が、本日ちょうど700回目となっておりました。
拙いブログなのに、度々お越し戴き、ありがとうございました。
> 我が国に於ける電車運転は、明治33年(1900年)5月4日に東京上
> 野公園に於いて開催された博覧会で米ブリル(J.G.Brill)社製造
> の車輌2両が、現在の東京都記念文化会館から国立博物館付近まで約30
> 8mを運転したのが嚆矢である。
日本における電車の運転はずいぶん早かったんですね。
私が子供の頃は、まだ蒸気機関車ばかりでしたから、こんなに早く電車が走っていたとは思いませんでした。
いつも、綿密な調査による旅行記で、私どものようなお気楽旅行記は恥ずかしくなります。
今後とも、よろしくお願いします。(^o^)/~~~
(潮来メジロ)
- 横浜臨海公園さん からの返信 2012/03/12 02:23:52
- 拝復
- 潮来メジロさま、こんばんは。
この度は、700回訪問のご連絡を賜りまして誠に有難うございました。
> 日本における電車の運転はずいぶん早かったんですね。
→仰せの通り、我が国での電車運転は試運転ながら明治33年(1900年)5月4日で、日露戦争前の事でした。
此れの時使用した電車は博覧閉会後は転々としながら、戦前まで東京都電青山車庫で厳重に保管されておりましたが、昭和20年(1945年)5月25日の東京山手大空襲で青山車庫もろとも全焼し、戦後は台車部分のみ荒川車庫で保管されていたものの、管理不行き届きで、現物が何物たるかを理解していなかった当時の担当者がゴミとして処分してしまい、残っていれば歴史的産業遺産として高評価された事は間違いなかったと思われますが、なにも考えず邪魔なゴミとして処分してしまった事は、返す返すも残念な事です。
横浜臨海公園
-
- ムロろ~んさん 2012/02/10 17:22:35
- 伊豆箱根鉄道
- 横浜臨海公園様
ムロろ〜んです。
この度は、ブータン旅行記を拝見して下さりありがとうございます。まだまだ最初の旅行記なので、続きも書いておりますので続けてご覧頂ければ幸いです。
三島広小路周辺の旅行記を拝見しました。伊豆箱根鉄道の駅界隈が詳細に分かりました。自分が街歩きしているように旅行記を読みました。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2012/02/11 04:35:57
- 拝復
- ムロろ〜んさま、おはようございます。
この度は、小生の旅行記に閲覧、及び、投票を賜りまして誠に有難うございました。
実は、伊豆箱根鉄道軌道腺跡旅行記は、旅行記作成の構想は2年前に考えたのですが、資料を揃えるのに1年10ヶ月もかかってしまい、先日やっと完成した次第でした。
> この度は、ブータン旅行記を拝見して下さりありがとうございます。まだまだ最初の旅行記なので、続きも書いておりますので続けてご覧頂ければ幸いです。
→小生にとってプータンは未知の世界であり、続編を楽しみに期待しております。
横浜臨海公園
- ムロろ~んさん からの返信 2012/02/12 17:03:50
- RE: 拝復
- 横浜臨海公園様
いつも私の旅行記を読んで下さりありがとうございます。とても励みになります。
ブータンでのお寺は写真撮影が禁止(美術ではなく、崇拝しているものだから)されているので、なかなかうまく伝えることができないのですが、とても思い出に残る旅でした。僧侶との語らいも充実したものとなりました。
本当に細かく調べられるのですね。1年も資料を集められて、熱を感じられます。
-
- わんぱく大将さん 2012/02/05 06:00:13
- 三島といえば
- 横浜臨海公園さん
三島といえば、中学の修学旅行で富士山に行くのに降りた新幹線の駅を思い出します。
大将
- 横浜臨海公園さん からの返信 2012/02/07 13:36:45
- 拝復
- 大将さま、こんにちは。
掲示板にメッセージを賜りまして誠に有難うございました。
三島駅界隈は、小生が昭和39年に初めて降りた頃と余り変化が無い様に思えてなりません。
寧ろ、中心地たる広小路近辺はマンションが立ち並び、昔のよすがを見出すのに苦労させられます。
横浜臨海公園
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