2011/10/23 - 2011/10/23
280位(同エリア438件中)
滝山氏照さん
徳川四天王の一人井伊直政(いい・なおまさ、1561~1602)の二男直孝(なおたか、1590~1659)を始めとする井伊家の菩提寺である豪徳寺(ごうとくじ、東京都世田谷区豪徳寺)を訪問しました。
小田急電鉄本線豪徳寺駅は当寺の近くにありますが、東急世田谷線宮の坂駅が最も近い下車駅となります。自分は当日先に世田谷城跡を訪問しましたが、その隣接地に広大な敷地に豪徳寺があります。
豪徳寺の前身は南北朝時代に当地域を所領とした足利氏と祖を同じくする世田谷城主吉良氏によって城内に建てられた弘徳院と号する臨済宗の寺院でしたが、天正18年(1590)の小田原合戦で北条氏滅亡に関連し世田谷城は廃城となります。
江戸時代に入りますと慶長20年(1615)家康から家督を継ぐように命ぜられ上野白井藩(1万石)から近江彦根藩(15万石)に移封した井伊直孝がのちに幕府より世田谷郷を与えられます。
彼の庇護の下で当寺は曹洞宗寺院として壮大な寺に発展、ついには直孝以降彦根藩井伊家藩主及びその家族の菩提寺となります。
墓地に入りますと一般の墓地と区分けされ井伊家の藩主・正室・子息女らの墓が整然と並んでいます。その中には直孝と共に桜田門外で水戸・薩摩浪士らに殺害された大老職井伊直弼(いい・なおすけ、1815~1860)の墓もあります。
自分が訪問した日は著名なお寺だけに多数の参拝者の来場と共に法事で参集している方々も数組ほど見受けられました。
さすがにかつての城郭を転用しただけに境内が広く、また徳川四天王の一人として家康並びに秀忠から絶大なる信任の厚い井伊家の菩提寺だけに格別な印象を受けました。
2023年4月01日追記
井伊家墓所入口に建てられた説明板には下記のごとく記載されています。
『 国指定史跡
彦根藩主井伊家墓所
豪徳寺井伊家墓所
井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。井伊家二十四世とされる直政は天正3年(1575)、15歳で徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。合戦後、直政は近江国などに18万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。続く2代直孝も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて30万石を有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。
寛永10年(1633)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。
墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、13代直弼(宗観院殿)墓がある。直政墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院殿・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。
墓所内で最も古い墓は、直時(広度院殿・直孝4男)のもので、万治元年(1658)に建てられた。直孝が没したのは万治2年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で造られている。以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。
また、墓所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は300基余になる。
彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清凉寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)の3ヶ所にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。角墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成20年3月28日、国史跡に指定された。
平成20年3月
世田谷区教育委員会 』
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
-
豪徳寺入口
城山通りに臨む入口に石柱が堂々と建っています。 -
豪徳寺参道
通りから長い参道を見ますと左右の石門が構えています。 -
山門までの参道
石門の先、参道の左右には大杉の並木が続いています。 -
イチオシ
豪徳寺山門
長い参道を経てやっと山門に着いた感じです。 -
井伊直弼墓所石碑
山門を入るとすぐ左手に都史跡の井伊直弼墓と刻した石碑が眼に入ります。直弼の墓は区分けされた井伊家の墓所の一角にあります。 -
香炉
山門を過ぎると黒く重厚な香炉があります。 -
鐘楼
香炉の右手には大きな鐘楼があります。大晦日には鐘を鳴らします。 -
梵鐘の説明
製作者は藤原正次で当時江戸で有名な鋳物師だそうです。 -
豪徳寺の由来
世田谷城主吉良政忠が亡くなった叔母の菩提の為建立した弘徳院を前身とし、その後臨済宗から曹洞宗に改宗されました。
徳川時代初期幕府より世田谷郷を付与されたのを機に井伊家の菩提寺に取り立てられ、亡き直孝の法号から豪徳寺に改称された経緯があります。 -
三重塔
完成してまだ新しいようです。 -
仏殿
この仏殿には釈迦如来、阿弥陀菩薩、阿弥陀如来の三体の仏像を納めていることから三世仏と名付けられたとのことです。 -
仏殿の説明
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本堂
荘厳な本堂が控えています。 -
本堂正面
「豪徳禅寺」と揮毫されてます。 -
本堂前の庭全景
本堂の右手から庭を臨みます。広い庭園で驚かされます。 -
八角の灯篭
白亜の見事な灯篭です。 -
土塁?
灯篭の右手奥は土塁に見えますが・・・・・ -
井伊家墓所説明
井伊家の墓所は他の墓と区分けされていますがその入口横に説明版が配置されています。 -
井伊家墓所レイアウト
江戸で亡くなった藩主やその家族が当墓所に葬られています。 -
井伊家墓所へのアプローチ
途中で路が左右に分かれますが右手突き当りはは2代目藩主直孝の墓、左手奥には「安政の大獄」を主導した大老直弼の墓がそれぞれあります。 -
2代目藩主直孝墓地
父直政死後家督を受継いだのは兄の直勝(なおかつ、1590~1662)ですが、2代将軍秀忠の近習を勤める直孝は大阪冬の陣では井伊家の大将に指名され、夏の陣では家督を継承(直勝は上野安中藩3万石に分地される)する中で数々の戦功をたて、以降3代将軍家光の後見役として大政参与(後の大老)に任ぜられる地位を占めるに至ります。
法名は「久昌院殿豪徳天英大居士」で彼の法号から豪徳寺と改称されました。 -
大老直弼墓石
大老となった直弼は勅許を待たずに日米修好通商条約を締結、更に第13代将軍家定の後継者を家茂に自ら決定して反対派の一橋慶喜らを抑えると言う強力な政治を行いました。加えて安政の大獄を徹底して行ったため逆に直弼命を狙われる事態となります。ついに安政7年3月桜田門外にて水戸・薩摩の浪士らによって殺害されました。 -
直弼墓石遠景
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井伊直弼説明文
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この旅行記へのコメント (2)
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- 一歩人さん 2011/12/30 08:41:50
- 江戸歴代藩主の草分けですよね
- 滝山氏照さんへ
ふ、ふ、江戸東京紀行へのご訪問と投票ありがとうございます。
ふ、ふ、旅行記にも発見!ご関心と投票がつながりました。
ふ、ふ、なつかしい菩提寺です。数回行きました。
ふ、ふ、大阪城、彦根城とめぐりましたので、思い出深いです。
ふ、ふ、桜田門(城門散策で)もちょっぴり失礼します♪
失礼しま〜す♪
- 滝山氏照さん からの返信 2011/12/30 21:04:57
- 拝復
- 一歩人さん、こんばんは。
訪問頂きましてありがとうございます。
豪徳寺の壮大さに感銘を受けています。
また機会を見つけて再訪したいと思います。
今後とも宜しくお願いします。
滝山氏照
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