2011/07/23 - 2011/07/23
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憲さん
いまから 2200年前の話。
秦から漢への歴史的変換点の地
項羽と劉邦が 鴻門(こうもん)の宴を開いた所に 行って来ました。
秦の時代が崩壊し、項羽と劉邦が秦の都に向かって先陣争いをして、早く入った劉邦ですが、強力な軍団の項羽に先陣の権利を譲るための宴会を開いたと言ういわれのある 鴻門の宴の地へ行ってきました。
ここは 秦始皇帝の兵馬俑から北へ4kmぐらいの所にあります。
華清池のバス停から バスに乗って15分ぐらいの所でした。
鴻門の宴は有名だし、兵馬俑からも近くなのに観光客は少なく 私たちが行った時には観光バスは2台しか停まっていませんでした。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 家族旅行
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
入口を入ってすぐに、司馬遷の書いた「史記」に書かれている「鴻門の宴」の章が石碑に刻まれていました。
5年前に来た時はなかったので、新しく建立したようです。 -
劉邦が先に秦の都の咸陽を落としたが、項羽は先を越されて激怒し、咸陽を争奪しようと四十万の大軍を率いてこの鴻門へやってきた。
劉邦軍はわずか十万人が咸陽郊外に駐屯していた。 -
この鴻門の宴以降は秦に対する反乱軍の戦いが終わり、楚軍の武将項羽が率いる軍隊と秦の低級官僚だった漢軍の劉邦が率いる軍隊が戦った「楚漢戦争」が始まりました。
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項羽
項羽は傲慢で、無謀な人だが、戦いには強かった。
日本で言ったら信長のタイプだったようです。 -
項羽の策士範増
この招宴の席で項羽の家来が剣舞のさなかに隙を見て劉邦を殺すように進言した。 -
劉邦
劉邦は狡猾な性格だが、人使いがうまかったと云われ、日本で言ったら秀吉のタイプだったようです。 -
劉邦の策士張良
項羽の叔父の項伯に口利きで鴻門の宴で 劉邦が項羽に謝罪することを薦めた。 -
鴻門の宴を再現したパビリオン
この実話から 「客人を陥れる宴会を開くこと」を、「鴻門の宴」というようになったそうです。 -
入り口を入ると 兵隊が警護しています。
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宴会が始まり、項羽の家来の項庄が剣舞をしています。
有名な「項荘剣を抜きて舞う、その意 常に沛公(劉邦)に在るなり」の場面だ。
ところが項羽の叔父項伯も一緒になって舞い、わざと劉邦の前に立って劉邦をかばい、劉邦に近づく機会を与えなかったそうです -
右側が楚王の項羽
左側の奥の人が劉邦
対等の席でないからか劉邦は小さくなっています。 -
「楚漢戦争」の資料館
楚漢戦争を題材にした作品には
長與善郎の戯曲、司馬遼太郎の小説、 横山光輝の漫画の題名は「項羽と劉邦」
京劇の「覇王別姫」
宝塚歌劇団作のミュージカル「虞美人」など、沢山ありようです。 -
資料館の陳列物
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資料館の陳列物
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資料館の陳列物
これは、多分 漢時代の兵馬俑
秦始皇帝の兵馬俑は、等身大の大きなものですが、咸陽博物館や陽陵で見た漢時代の兵馬俑は、このように30cmkほどの小さなものです。 -
項羽
やはり、信長に似てると思うのですが。 -
「覇王別姫」
項羽の妃・虞美人(ぐびじん)は 項羽の足手まといになってはと自害したそうですが、その別れの悲劇の場面です。
自殺した虞美人の伝説はヒナゲシに「虞美人草」という異名がつく由来となった有名な場面 -
漢代のトイレの遺跡
トイレの遺跡とは?びっくりした。 -
鴻門の宴の演武が始まって、劉邦の策士張良は劉邦に機会を見て逃げるようにと言った。そこで、劉邦は小用に行くと言い出し、部下たちを連れてこっそり自分の軍営へと逃げ帰ったそうだ。
多分、その故事に基づくこじ付けのトイレの遺跡と思う。
素人には、単に石あるだけだもの。 -
虞美人(ぐびじん)が使った井戸の遺跡
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その隣には 覇王(項羽)の井戸の遺跡の案内。
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こんな山の上に 二つも並んで井戸があった。
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当時も 将棋をしていたのでしょうか。
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項王管の前の覇王(項羽)の像
酒かめを投げようとしています
楚軍は兵力では優勢をもって、漢軍を何度も打ち負かしたが、短気な項羽は百姓を抑圧したりしたことから、民心を失い、徐々に弱くなっていった。
そして、劉邦は漢軍を率いて駭下(現在安徽省霊壁の南)で楚軍を包囲した。
項羽は四面楚歌の諺の生まれた戦いで敗れ、追いつめられて自害した。 -
封王澱
劉邦はつねに百姓に気をかけていたことから人々に支持され、勢力も強くなり、逆境を勝利へと変えていった。 -
封王澱の前の劉邦
劉邦は皇帝の座につき、中国史上二番目の漢王朝を打ち立てた。
司馬遼太郎氏の「項羽と劉邦」、横山光輝の「項羽と劉邦」を読んで感動し、鴻門の宴の地を訪れてみました。
展示物をみて、帰ってからは写真を見ながら謂れを探してみて楽しんでいます。 -
漢長安城
漢の時代の遺跡がないかと地図で探したら、西安の北部で咸陽との間に漢長安城跡と有ったので出かけてみました。
漢長安城のあった中を車で進むと、漢長安城跡の石碑が有ったので 登ってみました。 -
道端の漢長安城と書かれた石碑から登っていくと
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漢長安城未央宮跡が有りました。
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高台になっている所に、未央宮があったようです。
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未央宮跡から周りを見ると、この辺は農地が広がっていました。
結構高台になっています。
盛り土をして、その上に未央宮を建てたようですが、規模がでかい。
このような大きな宮殿が立ち並ぶ、漢の長安城域がこの辺に有ったのでしょう。 -
高台の下、先ほどの石碑までもとても広いです。
ここは、未央宮の前の広場でしょうか、それともここにも入場口の建物があったのでしょうか。 -
史跡の測量をやっていました。
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未央宮跡から北に行って、大通りを南に行ったところに遺跡の表示がありました。
石渠閣と書かれた遺跡で、小山がありました。
帰ってから調べたら、図書館のことだそうです。
秦の始皇帝が書物を焼いた故事がありますが、漢の時代になってまた本がつくられて、図書館が建った。中国文明はすごい。 -
もうすこし、西に進んだら、建章宮の石碑がありました。
漢長安城の西の門のはずです。 -
壊れかけた建物の跡
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建物の跡が二つありました。
2000年ほど前の建物ですから、風化しています。
未央宮も石渠閣も盛り土しか残ってなかったから、この風化した建物は館の建物でないかもしれません。 -
この遺跡の内部
だれか、住んでいる? -
車の運転手さんが、「もう少し西にも遺跡がありますよ」というので、行ってみました。
先ほどの建章宮の表示が有りましたが、ここも建章宮の宮殿の一画なのでしょうか。 -
遺跡跡の石碑の奥は、民家でした。
でも、なぜか梵鐘がぶら下がって、石臼見たいのがあって。
素人には、これ以上判りませんが、遺跡の物でしょうか。
でも、2000年も前の物は、風化して無くなっているともいますが。
しかし、先ほどの未央宮からかなり離れていますので、漢長安城はとてつもなく広かったようです。 -
それから、漢長安城の東門を見ようと、車を東に向かってもらいました。
そしたら、土塀が続いていました。 -
畑の中の土塀はかなり長い土塀で、土塀沿いに歩いてみたけど 遺跡の表示の石碑は見当たりませんでした。
2000年前にこんなに素晴らしい文明があったのに、びっくりしています。さすが、中国は 5000年の歴史と自慢するだけあります。
日本は、このころは新石器時代?
日本の先生だった中国の一端を見てきました。
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