2011/09/30 - 2011/09/30
23位(同エリア46件中)
池彼方さん
今回、ウクライナで泊まったホテルは朝食ビュッフェが付いていました。
ウクライナでは朝から開いている店が少ないだけにこれは助かりました。
朝たっぷり食べてランチを省いた日もありました。
そういう融通がきくところが個人旅行の良いところなのでしょう。
ビュッフェの質に順位をつけるとするとヤルタ、リビウ、キエフの順で良かったです。
ヤルタとリビウのビュッフェにはブリヌイというロシアのクレープもありました。
ブリヌイはジャムなど甘いものと一緒に食べることが多いのですが、塩気のあるものとあわせて食べることもあります。
去年、『朝だ生です旅サラダ』で島谷ひとみがブリヌイにイクラを載せて食べているのを見たことがあります。
それに倣ってスモークサーモンとサワークリームをブリヌイの上に載せてみました。
恐る恐る口に運んでみたのですが、これが結構いけます。
なんだか上等のレストランで食べるオードブルのようで、えらく贅沢な朝食となりました。
クリミア半島の観光はタクシーを貸切ってまわることにしました。
ホテルのフロントにお願いすると8時に迎えに来てくれて、16時過ぎに空港まで送ってくれるそうです。
1日1万円ほどなので、日本ではできない贅沢です。
8時に自慢のメルセデスで迎えに来てくれたのはアレキザンダーという人でした。
以前は船乗りで世界各国を訪れたことがあるといいます。
1994年には八戸にも行ったことがあるのだとか。
今年、八戸の港は津波で大きな被害を受けましたが、アレキザンダーが知っているのかどうか。
八戸に良い印象を持っているようなので、津波のことは触れないでおきました。
車でまず訪れたのがリヴァーディア宮殿です。
今から100年前の1911年にニコライ二世の別荘として建てられた宮殿です。
1945年2月、ここに米英ソの三首脳が集まってヤルタ会談が行われた場所です。
ヤルタ会談の際、リヴァーディア宮殿にルーズベルトが滞在し、チャーチルとスターリンはヤルタの別の宮殿に滞在していたそうです。
ルーズベルトの滞在先に他の首脳が集まって会議をしたというのは、すでに棺おけに片足を突っ込んだ状態であったルーズベルトの病身をおもんばかってのことといわれています。
宮殿の内部公開は10時からとのことで、中に入ることができませんでしたが、外の窓から覗いて三首脳が会談した丸テーブルなどは見ることができました。
目にもまぶしい白亜の宮殿は、とても多くの人が命を落とし運命を狂わされたことが決められた場所とは思えません。
ところでカイロ会談が行われたカイロのメナ・ハウスを訪れたのが2000年の年末。
そしてヤルタが2011年の秋。
となるとポツダム会談が行われたポツダムの宮殿は2022年の夏頃に訪れることになるのでしょうか。
リヴァーディア宮殿の次に訪れたのはヴォロンツォフ宮殿でした。
こちらはロシアの伯爵が建てた19世紀の建物ですが、建築様式がごった煮状態です。
裏から見るとスコットランドの重厚な中世のお城のようですが、表に回ると華やかなイスラム様式になっています。
内部もイギリス風もあればフランス風、中国風の部屋もあります。
ヴォロンツォフ伯爵という人はよほどお金持ちだったらしく、壁にかけてある絵画もイタリアやオランダなど本場モノでそろえています。
この宮殿はヤルタ会談の時にチャーチルの宿舎にあてられたそうです。
ホテルではなく宮殿に泊るというのが、さすがチャーチルだけのことはあります。
庭にはチャーチルがワシに似ているわい(ただし葉巻はくわえていないけどね)とうそぶいたというライオンの石像がありました。
宮殿の広間にライオンならぬネコが座っていました。
観光客が入ってきても物怖じするところがありません。
ここはネコもチャーチルばりにふてぶてしいようです。
クリミア半島南岸のドライブはお天気にも恵まれすばらしい海岸美を楽しむことができました。
途中、ソ連末期にクーデタ事件でゴルバチョフが幽閉された別荘の近くも通りました。
軍港のセヴァストーポリの手前で車は険しい岩山が連なる山岳地帯にわけ入っていきました。
やがてトルコの田舎にでも来たかのような家並みが続くエリアになりました。
ムスリムのタタール人たちが暮らすバフチサラーイです。
ここではクリミアを支配したハーンたちが暮らした宮殿が、現在は博物館として公開されていました。
宮殿では靴を脱いでソファーに腰掛けたりじゅうたんの上に直接座ったりして暮らしていたようです。
涼を取るために建物の中に噴水を設けているのも中東風で、寒いロシアでは考えられない発想です。
宮殿にはハーレムもありました。
もっともスルタンのハーレムとは異なり、第一夫人から第四夫人までそれぞれの夫人に対して与えられた一戸建ての館のことを指していました。
宮殿の前の広場にはモスクもあり、タタール人が集まっていました。
髪の毛も目の色も黒い人が多く、トルコ人よりもアジアっぽい容貌をしているように見受けられました。
バフチサライのタタール人の村からさらに奥へ、険しい断崖絶壁が続く峡谷へと分け入っていくとウスペンスキー修道院がありました。
ここは8世紀にギリシャ人が絶壁の洞窟を利用して造った修道院です。
以前、ギリシャのメテオラにあるそそり立つ岩山の頂上に立つ修道院を巡ったことがあります。
ここにしてもそうですがギリシャ人は人間が近寄りがたい地形のところに好んで修行の場所を作るようです。
ウスペンスキー修道院からさらに山道を奥へ歩いていくと、断崖の上に古代ギリシャの人々が穴居生活を送ったチュフテカレという村がありました。
ここは地球の歩き方には紹介されていませんが、ロンプラなどには載っていてそれなりに見物人もいました。
現在は廃墟となっていますが、立派な城壁や城門も残っていて19世紀までは実際に人々が暮らしていたのだといいます。
夕方のフライトでキエフに向かわなければならないので、残念ながら写真を数枚撮っただけで駆け足で山を下りました。
ギリシャ人の遺跡から1キロほど下るとさきほどのタタール人の集落があり、さらに数キロ進むとソ連時代の団地が見えてきました。
古代から中世、そして近代へとあっという間に時代を駆け抜けたかのようなドライブとなりました。
シンフェローポリ空港から国内線に乗って、いよいよキエフへと向かいます。
窓から下界を眺めるとウクライナの大平原が延々と広がっていました。
ウクライナは冬の寒さこそ厳しいものの、世界でも有数の肥沃な土地とされています。
古来、ウクライナの穀倉地帯を巡って幾多の民族国家がこの土地で覇権を争ってきました。
豊かさがかえって住民の不幸を呼んだといえるのかもしれません。
そのウクライナの人口ですが、20年前にソ連から独立したときが5200万人で、現在は4500万人まで減っているそうです。
日本も人口減少しつつあるというニュースが流れて年金はどうするのだ!とにぎやかですが、とてもそれどころのお話ではありません。
とはいえ不思議なことにウクライナを歩いていてあまり悲壮感のようなものを感じられませんでした。
キエフ空港に降り立ったときはすでに夜の帳が下りていました。
しかも氷雨が降っていて底冷えします。
とりあえず空港からキエフ駅までバスで向かいます。
空港からキエフ駅までの沿道には高層マンションが並んでいます。
ヨーロッパの都市というよりも中国のどこかの省都にでも来たかのような雰囲気です。
Wikipediaにはキエフの人口は250万人と書いてありましたが、ロンリープラネットには560万人とあります。
おそらくその差の300万人は郊外に住んでいるのでしょう。
まさにその郊外をバスは疾駆しています。
バスはキエフ駅の裏手に到着しました。
そこから駅構内の巨大な渡り廊下を通って駅の正面に回り、そこからホテルのある独立広場へは地下鉄で移動します。
キエフの地下鉄はソ連時代に整備されました。
ソ連の地下鉄のごたぶんにもれず、ここも地下深くに駅が設けられています。
いったいどうやって建設したのでしょうか。
こんなに地下深いのは核戦争にそなえた核シェルターだといわれますが、あまりのも深すぎるので果たして実用に耐えうるものかどうかは疑問です。
地下鉄の独立広場駅に到着し地上に出て振り返ると今夜泊る予定のウクライナホテルがそびえていました。
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