2011/10/17 - 2011/10/17
39位(同エリア581件中)
みにくまさん
欧州旅行3日目は、フランクフルト発のライン川1日観光に参加しました。
このツアーは所要時間8時間もあるのですが、ライン川の観光船に乗っている時間はほんの1時間半です。
今回は観光船からの景色を中心にお伝えします。
■■□□■■ ヨーロッパ旅行 2011 〜ダイジェスト版〜 ■■□□■■
http://4travel.jp/traveler/minikuma/album/10611562/
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ライン観光船ツアー
ドイツの父なる川といわれるライン川は、源をスイスの山中に発し、フランスとドイツの国境を流れ、オランダのロッテルダムで北海へと注ぐ、全長1230kmの国際河川。
その半分以上はドイツを流れ、岸辺を彩る古城とぶどう畑が造り出すロマンティックな景観は、ドイツを代表する風景だ。 -
ライン観光船ツアー
今回のライン川観光船ツアーでは、アスマンスハウゼンからサンクト・ゴアルスハウゼンまでの乗船になります。 -
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船の上から左右の山に見える古城。 -
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ラインシュタイン城
トレヒティングスハウゼンの上方に建っているこのお城はすでに1000年ごろの記録に出てきます。
1200年にハプスブルグ家のルドルフ皇帝は、隣国のライヒェンシュタインろゾーネックの両方の城主に対して、人々から金品を取り上げた事で死刑の判決を下し、首つりの刑に処されました。
代々の領主の中には歴史に残る人物もいましたが、1572年以降は城壁も崩れるに任せて、1632年にスウェーデン人が侵入してきたときは、既に城は廃墟となっていました。
1825年、プロシアのルートヴィヒ皇子によって復元され、ラインシュタイン城と命名されました。
現在は、一般に公開されています。 -
ライン観光船ツアー
この観光船は3階建てのようになっており、1−2階は屋内で3階が屋外になります。
外はかなり風が強いので寒いのですが、写真を撮るには外に出ないとね。 -
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観光船の先端部。 -
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教会と城 -
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この城は全体をツタのようなものに覆われています。
◎ ライヒェンシュタイン城。
ライヒェンシュタイン城は、11世紀にコルネリ修道院大聖堂(アーヘン近郊)の所有物守護の目的で建てられたと推定される。
しかし、13世紀には、城代が盗賊騎士として暗躍するようになったため、1254年にライン都市同盟によって破壊された。
さらに、その跡がまた武装強盗団の巣窟と化したため、1282年には、ハプスブルク家の皇帝ルドルフ1世がこれを一掃し、強盗どもをライン川沿いの街道で縛り首にして白骨になるまで吊り下げておいたという。
その後、1344年にマインツ大司教へと引き継がれ再建されたが、その200年後には再び廃墟と化した。
1834年に、フランツ・ヴィルヘルム、フォン・バルフース将官が買い受け、一時ファルケンブルクと改名し、門の丸屋根構造部を住居に改築した。
1899年、ニコラウス キルシュ・ブリチェリ男爵が買い取り、建築士シュトレーベルに新ゴシック様式による大々的な再建を委託した。
現在は、歴史主義的生活文化の他、価値ある芸術作品が展示され、私有コレクション(武器、狩猟トロフィー、鉱物等)やゆったりとしたレストランもある。 -
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こちらは砦か見張り台みたいなものか。 -
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山を見ると、ところどころ紅葉している木が。 -
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ライン川沿いの町並みを眺めるのも、このツアーの楽しみの一つです。 -
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◎ ゾーネック城
元々は11世紀頃建築の城であるが13世紀頃、前述のライヒェンシュタイン城同様いつの間にやら盗賊団の居城となった。が、やはりルドルフ皇帝の討伐により城は破壊、盗賊は成敗されることになる。
その後、城は新築されたがこれまた後のフランス軍に破壊され再度復旧され現在に至る。
現在は城内にラインの風景画などを展示してあり、春〜秋の間は城内参観が出来るそうです。 -
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◎ ゾーネック城 -
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川沿いには線路も引かれていて、時々電車が通り過ぎて行きます。 -
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少しずつ向こう側に青空が広がってきます。 -
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トレヒティングハウゼン村 -
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トレヒティングハウゼン村
ちょうど撮影している時に列車が通り過ぎました。 -
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★ トップ写真 ★
トレヒティングハウゼン村
教会と城。
このあたりの街にはセットになっている場合が多いです。 -
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イチオシ
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山の上に建つお城のシルエット。 -
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◎ シュタールエック城
シュターレック城(シュタールエック城)は、11世紀もしくは12世紀初頭、ケルン大司教によって築かれたと考えられている。当時バッハラハ周辺はケルン大司教領であった。
1135年に、初代城代として、ゴスヴィン・フォン・シュタールエックが任命される。ゴスヴィンの息子へルマンは、神聖ローマ帝国国王コンラート3世の妹と成婚し、1142年、宮中伯の称号を受けた。更に、その後継者コンラート・フォン・ホーエンシュタウフェンは、城を授与され、ライン地方にプファルツ領地を形成する。
1194年、ハインリッヒ若犬王子(ハインリッヒ獅子王の子)が、コンラートの相続王女アグネスと密かに成婚し、1195年に宮中伯を継承することになった。
その後、さまざまな経過を辿るが、1214年にヴィッテルスバッハ家のバイエルン大公オットー2世がライン宮中伯とシュターレック城を受け継ぎ、以降550年以上にわたってヴィッテルスバッハ家が続いた。
三十年戦争最中の1620年以降、シュターレック城とバッハラッハの町は、スペイン、スウェーデン、神聖ローマ帝国、バイエルン、スペイン、フランスと次々と占領され、著しく荒廃した。
そして、プファルツ継承戦争の際の1689年には、フランス軍によって城は爆破され、塔や城壁が吹き飛んだという。
1925年から27年にかけてその古城は元どおりにそっくり修復され、城の一部をユースホステルとして発足させ現在に至り、今ではドイツで最も美しいユースホステルに変身した。 -
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◎ シュタールエック城 -
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イチオシ
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手前の木の間から、一瞬だけ見えた教会の建物をとらえました。 -
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別の観光船とすれ違いました。 -
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なんだか良く分からないけど、手を振りあってみたり。 -
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◎ プファルツ城
バイエルン王ルートヴィヒ4世は、ライン右岸のカウプの町とグーテンフェルス城(カウブ城)で、ライン川を通過する船に通行税を課していたが、より厳しく通行税を取り立てるために、カウプの町の目の前の中洲に、1326年、五角形の塔の建築を開始し、翌年完成した。
1338〜42年に搭を取り囲む城壁が増設され、1607年には南端の稜保とアーケード内部が増設された。
1714年、城はバロック調に改修され、現在目にしている外容が整えられた。
もともと戦闘等のためではなく、徴税のための城であったため、プファルツ城は、その後も戦闘は経験せず、徴税基地としてのみ機能していた。
1866年の普墺戦争以後は、ライン川での徴税の必要もなくなり、1960年代までライン川航行の船のための信号塔として利用された。 -
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◎ グーテンフェルス城
グーテンフェルス城は、13世紀初頭(1200年頃)、神聖ローマ帝国の委託を受けたファルケンシュタイン・ミュンヒェンベルク一族の参事官によって築かれた。当初はカウプ城(Burg Kaub)と呼ばれた。
1257年までファルケンシュタイン家の所轄下にあったカウブ城とライン川通行課税権は、1277年にバイエルン公兼プファルツ伯(ライン宮中伯)のルートヴィヒ2世に売却された。
ルートヴィヒ2世の子ルートヴィヒ4世は、この城を好み、1326年には何度も逗留している。そして、カウプの眼の前の中洲にプファルツ城を築き、通行税の取り立ての強化をした。
バイエルン・プファルツ継承戦争時の1504年、カウブ城はヴィルヘルム・フォン・ヘッセンの軍に39日間にわたって包囲されたが、撃退した。
1508年に改修された際に、カウブ城は戦勝の記念としてプファルツ選帝侯ルートヴィヒ5世により「グーテンフェルス城(直訳すると「良岩城」、「堅固な岩の城」?)」と改称された。
1793年、フランス占領軍に降伏して間もなく、1806年にナポレオンによって城は廃され、1807年には木造城が、1813年には城壁が競売にかけられた。
1833年、廃墟となった城を城郭建築家のフリードリヒ・ハーベルが買い取り、修復が始まった。
1888年には、、ケルンの建築家グスタフ・ヴァルターの手に移り、1889年から92年にかけて再建された。
但し、グーテンフェルス城は、外郭を含めると、ライン河谷でも屈指の大規模な城であり、日本の城でいうところの本丸部分だけが再建され、現在は、古城ホテルとして利用されているのである。 -
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◎ グーテンフェルス城 -
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出航時には曇り空でしたが、この時にはかなり青空が広がってきました。 -
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◎ グーテンフェルス城 -
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◎ シェーンブルク城
シェーンブルク城は、10世紀にザクセン家の皇帝によって築かれたが、その時既に「シェーンブルク(Schonburg)=美しい城」という名を持っていたという。
1149年には、シュターレック城主ヘルマン・フォン・シュターレックに帰属していたことが記録されている。
1166年にシュタウフェン家の皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)から、戦功によってこの城と周辺の領地を与えられた家臣がシェーンブルク家を名乗るようになった。そして、ライン川かを通る船から徴収する関銭、領内で豊富に産するワインという財源に加えて、結婚と相続の関係でもシェーンブルク家はいろいろな所で新たに領地を獲得し、それらの財源を基に城を次第に増強し、ライン川でも屈指の壮大堅固な城に仕立て上げた。
1689年、フランス軍がこの城を攻撃したが、あまりにも堅固で、当時の火薬では破壊に手間取ったので、ついに途中で諦めて引き返したという。
1885年、この半ば壊された城を買い取ったニューヨークの銀行家J.J.オークリー.ラインランダーが1920年までに一部再建を行った。ラインランダーの先祖は、名前からも分かるようにライン地方の出身であった。
1950年にオーバーヴェーゼル市がラインランダーの息子から城を買い戻し、工事を続行した。
1957年からはヒュットゥル家がホテルとして改装し、現在も同家が営業を続けている。また、青年の家も隣接している。 -
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◎ シェーンブルク城 -
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◎ リープフラウエン教会 -
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◎ リープフラウエン教会 -
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◎ ローレライ Loreley
ローレライは、ライン川中流のザンクト・ゴアースハウゼンの上流(南方)右(東)岸にそびえ立つ高さ132mの巨岩の呼名である。
このあたりは川幅が狭く湾曲し、かつては浅瀬が多かったことから航海の難所であったが、現在は岸辺まで浚渫(しゅんせつ)されて安全に航行できるようになり、ライン名勝のエピックとなっている。 -
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◎ ローレライ伝説
上述のようにローレライ付近が航行の難所であったことが、ローレライにたたずむ金色の櫛を持った美しい少女に船頭が魅せられると船が川の渦の中に飲み込まれてしまう、という魔女伝説に変化したものである。
ライン川下りは、ドイツの観光として有名であるが、ローレライ周辺は、ブドウ畑や古城が建ち並ぶ、見所の多い辺りである。また、この岩山に向かって叫ぶと木霊が返ってくるため、舟人たちの楽しみにもなっていたともいわれている。 -
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◎ ローレライ -
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★ ローレライ
作曲:Friedrich P. Silcher 作詞:Heinrich Heine 日本語詞:近藤朔風
1 なじかは知らねど 心わびて
昔の伝説(つたえ)は そぞろ身にしむ
寥(さび)しく暮れゆく ラインの流(ながれ)
入日に山々 あかく映(は)ゆる
2 美(うるわ)し少女(おとめ)の 巖頭(いわお)に立ちて
黄金(こがね)の櫛とり 髪のみだれを
梳(す)きつつ口吟(くちずさ)む 歌の声の
神怪(くすし)き魔力(ちから)に 魂(たま)もまよう
3 漕ぎゆく舟びと 歌に憧れ
岩根(いわね)も見やらず 仰げばやがて
浪間に沈むる ひとも舟も
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◎ カッツ城(ネコ城)
ラインフェルス城を築いてから約100年後の1371年、カッツェネルンボーゲン家は、対岸の山上にもう一つ城を築いて「ノイカッツェネルンボーゲン城(Burg Neukatzenelnbogen)」と名付けた。しかし、この名は長ったらしくて面倒なので、世人は前後を省略して「カッツ城(Burg Katz)」と呼ぶようになった。猫を意味する「カッツェ(Katze)」に通じるので、言いやすく、覚えやすく、人は「猫城」と呼んだ。
カッツェネルンボーゲン家がこの城を築いたのは、1にも2にも、ライン川沿いの領地を守るためである。関銭徴収という甘い汁を吸い続けることができるので、ライン川沿いの領地は争奪の的になっていた。カッツェネルンボーゲン家も、はじめは左岸のザンクト・ゴア側にしか領地を持っていなかったが、後に対岸にも領地を手に入れ、それを守り通すためにカッツ城を築いたのである。ラインフェルス城とカッツ城と互いに呼応することにより、領地の守りはさらに固くなり、関銭の徴収もさらに確実になったであろう。 -
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◎ カッツ城(ネコ城)
1479年、ザンクト・ゴアハウゼンはヘッセン領となり、それに従属するライン方伯領は、トリーア選帝領に隣接していたので、城塞として重要な意味を持っていた。
1626年、ケルン選帝公爵が占領戦を展開したが、隊長D.ズアーレの必死の防衛策に阻まれた。しかし、結局ヘッセン方伯が降伏命令を下し、城の所有物全てと共に、退去することとなった。
ラインフェルス城と同様、カッツ城も大変堅固な城であったが、1806年、フランスのナポレオン軍に爆破された。
1896〜98年、枢密参事官兼部長のベルクが本来の姿に修復した。ライン川に突き出た部分に本丸が位置し、2隅の搭で強化され、城郭が搭に繋がっている。
その後、カッツ城は連邦福祉団体の休暇施設等々、いろいろな目的に使われたが、現在は日本人企業家が所有している。
尚、城下町のザンクト・ゴアスハウゼンは、もともとは「ハウゼン」という名の小さな漁村であったが、後に聖ゴアを町の守護聖人として仰ぐようになり、町の名を「聖ゴアさまのハウゼン」つまり「ザンクト・ゴアスハウゼン(St.Goarshausen)と改めた。そのことにより、ライン川を挟んで似たような名の町が位置するようになった。 -
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◎ カッツ城(ネコ城) -
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約1時間半のライン川観光ツアーは間もなく終了。
ザンクト・ゴアルスハウゼンに到着します。
ごく一般的なツアーはここまでで終了する場合が多いですが、ここから先も観光船は運航しています。 -
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観光船の2階部分。
中はレストランになっています。
ランチクルーズなどのツアーに参加すれば、食事をしながら景色を眺めることができるでしょう。 -
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こちらは観光船の1階部分。
2階と同じような作りです。
大人数の団体さんがいたのでしょうか、長ーいテーブルがセットされていました。
◎ おしまい
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