2011/10/25 - 2011/11/02
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menchiさん
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旅の三日目、10月27日木曜日
今回のイタリア旅行で、一番の目的にしていたラヴェンナ。
ボローニャから、9:06発の普通列車でラヴェンナへ向かった。
1時間20分程の鉄道の旅。
期待で気持ちが高まって行く。
ラヴェンナでまず思いつくのは、ユリウス・カエサル。
カエサルが兵士を引き連れ、ルビコンを渡る前に滞在していた町がラヴェンナではなかったか。
そして、古代ローマ帝国初代皇帝アウグストス対アントニウスの戦いが繰り広げられた町。
4世紀後半、国土が巨大化し、一つの国としての統治に限界があったローマ帝国は、テオドシウス大帝の二人の息子を皇帝に定め、西と東に分割した。
弟ホノリウスが西ローマ帝国の皇帝に就いたのは11歳の時であった。
西ローマ帝国の首都はミラノに定められた。
ローマで無いのが不思議だが、ローマの位置が南に偏りすぎて、国境での戦いに都合が悪かった為。
しかし、ミラノも外敵からの攻撃を受けやすい位置にあり、有力な基地とは言えなくなり、結果ラヴェンナが西ローマ帝国の首都となる。
この度のラヴェンナの旅は、西ローマ帝国の首都になってからの初期キリスト教教会を巡り、きらめくモザイクに出会う事が最大の目的。
【日程】
10/25 11:40 SASにて成田出発 コペンハーゲン経由
10/25 16:55 ミラノ・マルペンサ空港着 ミラノ泊
10/26 10:15ミラノ中央駅発 フレッチャロッサ 11:20ボローニャ中央駅着
鉄道にてパルマ パルマ観光 ボローニャ泊
10/27 鉄道にてラヴェンナ ラヴェンナ観光 ボローニャ泊
10/28 ボローニャ観光
17:53ボローニャ中央駅発 フレッチャロッサ 20:05トリノポルタノーヴァ着
トリノ泊
10/29 トリノ、エジプト博物館見学
15:50トリノ発 17:45ミラノ着サッカー観戦
00:15 ミラノ中央駅発 02:06トリノポルタスーザ着 トリノ泊
10/30 08:00トリノ発 10:18サヴォナ着 サヴォナ観光
10/31 プルマンにてアルバ アルバ白トリュフ祭り観光
11/01 7:00トリノポルタスーザ駅前のバス停からミラノマルペンサ空港行きバス乗車
11:20 SAS コペンハーゲン経由成田着
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス
-
10時過ぎにラヴェンナ到着
-
駅から10分位歩いて最初に訪れたのは、サンタ・ポッリナーレ・ヌオーヴォ聖堂。
まず、ここで5つの施設に入れる共通券を求めました。
・サンタポッリナーレ・ヌオーヴォ聖堂
・サン・ヴィターレ教会
・ガッラ・プラチディア霊廟
・ネオーネ洗礼堂
・大司教博物館
9.5ユーロ也 -
サンタポッリナーレ・ヌオーヴォ聖堂
中は広くて明るい。 -
建てられたのは、6世紀前半。西暦525年に完成。
ラヴェンナを征服したテオドリクス王が、アリウス派のために建てた。
その後カトリック正統派の聖堂となった。
9世紀半ば(11世紀半ばの説も)には、ラヴェンナの初代司教、聖アポッリナーレの遺骨(遺品のみの説も)を、クラッセ聖堂からこちらに移した。それが、この聖堂の名前の由来。 -
テオドリクス王の下、モザイク製作にあたった集団は、ガッラ・プラチディアがビザンチンから連れてきたモザイク製作者ガルスの3代目、孫のガルスが責任を負っていた。
-
コリント式列柱の上部に美しい壁画が描かれている。
右側の壁画は26人の殉教者がキリストへ向かって続いている。
窓のある部分にも手を抜かないモザイク画が描かれているが、下からはっきり見ることが出来ないのが残念。
最上部にはキリストの生涯が一連の絵巻物として表現されているようだ。 -
玉座に座るキリスト
-
左側の壁画は、22人の聖女の行列
窓の間に描かれているのは、テオドリクス王の時代の政治家、司教、預言者等。
職業によって持ち物が異なっている。 -
聖女達は真珠や宝石の散りばめられた高貴な衣服を身にまとい、栄光の冠をヴェールで覆った手に、聖母とイエスに続いている。
-
聖女達を先導する3人の賢者
-
主祭壇
テオドリクス王がこの聖堂を建築していた頃、東ローマ帝国のユスティヌス帝は、アリウス派への弾圧強化の法令を公布した。
アリウス派は一神教の教義に基づき、キリストを神の後継者とは認めない、三位一体を認めない宗派らしいです。
ヨーロッパ、私はイタリアしか経験していませんが、この地の宗教の問題は大変入り組んでいて、難しいです。
宗教と権力と利権が絡み合っていて、迷宮に迷い込んでしまう。。。 -
大司教博物館
ここだけは、「No photo」
中にあった、サンタンドレア礼拝堂のモザイク画も綺麗でした。 -
ネオーネ礼拝堂
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ネオーネ礼拝堂はラヴェンナに残る最古の建造物らしい。
5世紀末その天井を改修して、モザイクの装飾を施したのは、ネオーネ司教。
現在、本来の床は3m下にある。
一部分が掘り出され、見られるようになっていた。 -
天井画
洗礼者ヨハネに洗礼を受けているキリストがヨルダン川につかっている。
その周りを12使徒が囲っている。 -
アリウス派のテオドリクス王が支配する前に建てられた洗礼堂。
そのため、正統派洗礼堂とも呼ばれているそうです。 -
ヨルダン川に浸かっているキリストと洗礼者ヨハネ
ヨハネが持っている杯は、後の時代の改修で付け加えられた、元の絵には無かったものらしい。 -
細かく美しい図柄が埋め尽くす。
-
目の前にモザイクが。
触ってみる事もできます。 -
ラヴェンナの中でも、一番期待度の高いサン・ヴィターレ聖堂とガッラ・プラチディア霊廟へ向かいます。
途中で出会った、どこぞの中庭と回廊。 -
サン・ヴィターレ聖堂の入り口がみえてきた。
-
サン・ヴィターレ聖堂の内陣
大きな立派な教会です。
クーポラの丸天井には、それなりに見応えのあるフレスコ画が描かれています。
しかし、圧巻はやはりその奥の部分に有りました。 -
クーポラを取り囲む柱廊を進みます。
-
柱廊の奥にモザイク画があった。
その素晴らしさに、息を呑みます! -
歴史的には非常に複雑な背景がある。
アリウス派を信仰するゴート族出身のテオドリクス王の時代526年あるいは527年に着工され、完成は548年、東ローマ帝国支配下になってから。 -
内陣の天井
中央に子羊のメダリオンが4人の天使に囲まれて描かれている。
天使の周りには、動物や花がいっぱい。 -
内陣左の側壁
全体をモザイク画が覆う。
半円形部分には、樫の木の下のテーブルに3人の天使が座り、アブラハムに息子イサクの誕生を告げている。
絵の右には、父アブラハムがわが子を神への生贄にしようと、剣を振りかざしているが、それを止めようとする神の手が天から現れた。 -
右の側壁
アベルの犠牲とメルキセデスのパンとワインの奉納 -
後陣の救世主キリスト
ひげが無い若いキリストが天使に挟まれている。
左端にいるのは、この聖堂の名にもなっている、聖人ヴィターレ。
右は聖堂の擁護者エクレシオ司教が聖堂のモデルを持ち、キリストに捧げている。 -
後塵のキリストの隣に描かれた、天使の足元
-
後陣のキリストの直ぐ左下には東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスのモザイク画
テオドリクス王亡き後、イタリアからゴート族を追い出し、支配した。
その右隣は大司教マクシミアヌス。
左には、ゴート族との戦いに勝った戦士達。 -
ユスティニアヌスには、本来は神のみに許されている光輪が描かれている。
これは、ラヴェンナの教会が、皇帝に忠誠を誓っている証。 -
向かい合った、右側壁には妃テオドラ。
皇帝と同じスケールで描かれているのは、それだけの影響力を持っていた証拠であろう。 -
テオドラにも光輪が描かれている。
ユスティニアウス皇帝は「旧ローマ帝国の領土を取り戻す」事を念願して、長きに渡って、ヨーロッパ、アフリカに於いて戦闘を継続した。
このため、庶民は重税に苦しみ、国民の不満は増大していった。
西暦532年この不満はコンスタンチノーブルで爆発、ニカの乱が起こる。
聖ソフィア寺院、大浴場、宮殿や病院そして多くの教会などが焼き尽くされた。
ユスティニアウスは退位を迫られ、首都脱出、亡命必至の場面でテオドラが彼を救う。「逃亡は恥」と説くテオドラの言葉に、ユスティニアウスは抗戦に転ずる。
競技場に集結していた反皇帝派3万人を、将軍ベリサリウス等の率いる軍隊により虐殺した。 -
アリウス派を信仰するゴート族出身のテオドリクス王は、正統派クリスチャンに対しても、寛容にその信仰を認めていた。
正統派のための教会建築に対しても進んで計画をした。
そして、その王の計画に対し資金の援助を負担したのは、ギリシャ出身のユリアヌス・アルゲンタリウス。
彼の父はギリシャのアテネ南西のピレウスの町で漁師を細々営んでいた。
しかし、一念発起しラヴェンナ外港のクラッセで船を持ち貿易商を始めた。
彼は、ラヴェンナのクラッセ港は貿易に望ましいと直感したのだ。
後年、クラッセの直ぐ北に位置するヴェネチアが地中海の主要貿易港となったのだから、この直感は正しかった訳だ。
そんな父の元、ユリアヌスは、銀細工職人として成功する。
その後、父の会社は鉱山の発掘、海上輸送、職人への資金提供等、政府ぐるみの仕事の広がりを見ることになる。
父の死後、全ての仕事を引き継いだ彼は、敬虔なクリスチャンであった。
彼がサン・ヴィターレ寺院のために拠出したのはローマ金貨で2万6千ソリダスという大金であった。 -
ユリアヌスに教会建設のための資金援助を依頼し、建設を始めたテオドリクスであったが、建設開始1年後に亡くなってしまう。
テオドリクス亡き後のラヴェンナの混乱に乗じ、東ローマ帝国のユスティニアヌス皇帝はベリサリウス将軍を要し、ラヴェンナに攻入り、西暦540年頃から統治するようになった。
この戦闘の最中も教会の建設は続けられ、548年の完成時には東ローマ帝国の下、ラヴェンナにも、平和が訪れていた。
アーチは漆喰細工の柱で支えられている。
美しい浮き彫り。 -
テオドリクス王が統治していた33年間、王と共にイタリア入りしたゴートの兵士達は家族を連れて農民として農村部に定着し、国土の生産性向上に貢献した。
農作業と軍事訓練とに真面目に取り組む彼等の態度に、イタリア人達も好感を持つようになる。
そしてその影響で、国土全体が総就業という事になって行った。
平和と豊かさが訪れたイタリアに於いて、色々な産業の技術革新や、技術者養成のため同業者グループ、ギルドが発生する。
銀行家が、このギルドに対して、資金提供する事が活発に行われるようになった。
ラヴェンナのモザイクグループに対しても資金の提供、道具・材料の供給等充分に行われたであろう。
テオドリクス王の主権の範囲は南はシチリア、北はドナウ、東はベオグラード、西は大西洋にまで及んだ。
ゴート族テオドリクス王はイタリアにとって、大変重要な人物であった。
ラヴェンナはその偉大な王が宮殿を建て、住んでいた都市である。
ガラスの一粒一粒が計算され尽されて、そこにある。 -
左側壁最上部のアーチ型窓の部分
2本の柱はオニキス
柱頭には美しい浮き彫りの細工 -
緑のは豊饒の角・・・?
-
偉大な王テオドリクスが建築を計画した、サン・ヴィターレ聖堂であるが、後陣のモザイク画は、ラヴェンナには一度も訪れる事が無かった、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスと皇妃テオドラである。
私の胸に切ない思いがあふれてきます。
切がありません。
離れがたいけれど、ここまでにしましょう。 -
サン・ヴィターレ聖堂を出ると、すぐにガッラ・プラチディアの霊廟が見える。
ラヴェンナは石の産出地が近くに無いので、レンガ造りの建造物が多い。
ガッラ・プラチディアは、波乱に富んだ人生を歩んだ。
コンスタンティノーブルでテオドシウス大帝の娘として生まれた。
西ゴート族の人質になり王と婚姻関係を持つ。
しかし、結婚翌年に夫を暗殺で失う。
その後も幸せは長続きせず、東ローマ帝国の首都コンスタンティノーブルに二人の子供と逃げ暮らす事を選択した。 -
この小礼拝堂は、皇帝ホノリウス帝在位中建設が始まっていた。
皇帝が病死した後にラヴェンナに戻ったガッラ・プラチディアは、この建物の内部装飾にビザンチンモザイクを施した。
ガッラ・プラチディアは亡命したコンスタンティノーブルで、貴重な経験、交流を持った。
モザイク職人のガルス達との出会いもその一つ。 -
当時、コンスタンティノーブルのハギア・ソフィア聖堂は最大級のキリスト教聖堂であった。
ハギア・ソフィアに有ったモザイクパネルの美しさの虜になったプラチディアは、此処で出会った、熱心なモザイク職人のガルス達にラヴェンナで仕事をすることを持ちかける。 -
そして、大都市として繁栄するコンスタンティノーブルはブルケリアと言う女帝が統治していた。
ブルケリアの思慮深く慎重で、かつ敏速な行動による行政を知る事が、ラヴェンナに戻った彼女に大いに役立った。 -
ホノリウス帝が急死したことにより、ラヴェンナでは帝位の空白に混乱が起き、これを鎮圧するためイタリア遠征軍が組織された。
プラチディアは家族とガルス達と共に海路の軍勢に参加し、ラヴェンナに向かったが、猛烈な嵐に遭遇する。
命からがら、ラヴェンナに到着した遠征軍であったが、もともとラヴェンナの市民、兵士はプラチディアに好意を持っていたので、殆んど抵抗される事なく入城を果す事ができた。 -
6歳の息子ウァレンティアヌスの後見人として、影の女帝となったプラチディアには、ラヴェンナを、かつてのローマや、コンスタンティノーブルのように守り立てたいと言う希望があった。
その手始めに行ったのが、この小礼拝堂の内側の装飾である。
職人達と彼女は連日議論し、ガラスの質を高める研究をし、絵の構想について考え議論する事を厭わなかった。 -
プラチディア霊廟のモザイク画が斬新なのは、ローマやギリシャで見られるような、壁の枠に嵌められたパネル型なのでは無く、建物の壁全体を覆いつくす統合的な表現である事だ。
キリスト教と自然の融和、象徴としての動物や植物、暗い夜空に瞬く星と中央の十字架。
美しいガラスのモザイク画を見ようとする人々が、遠距離からも訪れるようになった。
ラヴェンナに於ける彼女の功績は大きい、しかし、西ローマ帝国の女帝としては大変な時代を迎えていた。
異民族のイタリア流入、東ローマの内政干渉等に対し、ローマに在住している元老院議員や政府高官との連携が取れず、首都としてのラヴェンナが機能していないのである。
蛮族がイタリアに侵攻する際はローマを目標にした。ラヴェンナの平和はこのような理由で保たれていた。
西暦450年、ローマを訪れていたプラチディアは、朝突然倒れ急逝した。
葬儀は密かにローマで行われ、石棺に収められた遺骸はこの小礼拝堂に安置された。
女帝の突然の死は西ローマ帝国の運命にも大きな影響を及ぼし、彼女の死から26年後、帝国は滅びる。 -
ポポロ広場
市庁舎と二人の守護聖人、聖アポッリナーレと聖ヴィターレを頂く円柱
この広場が、ラヴェンナの町の中心 -
サン・フランチェスコ聖堂
今回は入る事を忘れてしまいました、勿体無い事をしました。
私がフォローしているspumamiさんの旅行記に中の様子が有ります。
興味深いです。
http://4travel.jp/traveler/spumami/album/10449026/ -
カドゥーティ広場
イタリアの松の木は独特な形をしている。面白い!
この広場から、バスに乗ってサンタポッリナーレ・イン・クラッセ聖堂まで行きます。
近くの新聞スタンドで乗車券を買いました。1時間有効ですが、1時間では間に合いそうも無いので、往復分。
4番か44番のバスで行きます。 -
草原の中に大きな聖堂が見えました。
大分通り過ぎてからバス停がありました。
クラッセは、鉄道駅も近くにあるようです。
クラッセはこの聖堂が創建された時代、アドリア海に開かれた大きな港でした。
古代ローマ時代には軍港で、カエサルが創設したと言う。
今はクラッセ考古学公園となっていて、未発掘の遺跡が多数埋もれているそうです。 -
バスを降り聖堂へ向かった私たちですが、どうも入り口を見逃したようです。
お蔭で、聖堂の外郭をぐるりと見学する事になりました。
海に面した港町だったなんて今となっては、信じられません。
ポー川から繋がる河川の氾濫により土砂が堆積して港の機能が失われたそうです。
時代は違いますが、斜塔で有名なピサも似たような話でしたね。 -
後陣の真後ろにあった、頭文字?
-
広い聖堂内は、明るく開放的な空気感にあふれる。
隣接して、ホテルとレストランがありました。
余談ですが、丁度この日、有名な若手のバイクのレーサーの葬儀があって、レストランではこの中継を店員が夢中で見ていました。
旅行中このレーサーの死を悼む話題は、色々な所で目にしました。
サッカーに次いで人気のあるスポーツらしいです。 -
前述のサン・ヴィターレ聖堂が建築中の6世紀前半に着工。
ウルチーノ司教の命によりクラッセの初代司教アポッリナーレを奉るため、計画が始まる。
建築の資金を寄進したのは、こちらもユリアヌス・アルゲンタリウス。
同時期に多額の寄進が出来る彼は、どれだけの財産の持ち主だったのか。 -
後塵の半円蓋のモザイクは、色使いが、爽やかです。
緑の草原に聖アポッリナーレと12使徒を現す12匹の羊が描かれる。
中央の十字架の交差する部分にキリストの顔がある。
半円蓋の最上部には、神の手が雲から現れ、この十字架を指し示している。 -
緑の草原に立つ聖アポッリナーレと羊
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半円蓋中央の十字架と神の手
後陣最上部、勝利のアーチ(ガイドブックに書いてあるので)のキリストの上半身像 -
十字架のキリストの顔
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神の手
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草原の上方左にいる羊
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右の方にはつがいで
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毛並みの悪い羊
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身廊の柱はギリシャの大理石
上部フレスコ画は18世紀の物で、ラヴェンナの大司教達の肖像画
初期キリスト教時代には最大の教会であった。 -
-
床のモザイクが一部見えるようになっています。
本当の床はこれなんですね。
今はカヴァーが掛けられ、保護されているようです。
これを私が見つけたきっかけは、 -
この子達が、写真を構えていたからです。
大型バスで遠足か、修学旅行に来ていた子供達でした。
ラヴェンナのモザイクにどっぷり浸った旅、終了です。
小さな町に初期キリスト教と、それにまつわる歴史がぎゅうっと詰まっていて、なんて凄い地域でしょう!
力が思いっきり入ってしまいました。
幾つかのガイドブックや研究書を紐解き、想像をしながら書きましたが、
稚拙な文章で恥ずかしい。
最後まで見て頂いて有難うございました。
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この旅行記へのコメント (7)
-
- ちょんたさん 2015/10/30 00:08:59
- 大変参考になりました。
- menchi様
初めまして、ちょんたと申します。
ひょんなことから、来年の2月にラヴェンナへ行くことになりました。
こちらの旅行記にお邪魔して、いろいろなことを知り、とても参考になりました。
それにしても、素晴らしい旅行記ですね。
解説が、まるで一冊の旅行論文を読んでいるようでした。
こういうことを知っていて直接自分の目で見ると、思いがより深くなるものでしょう、素晴らしい旅行をされましたね。
ありがとうございました。
ちょんた
- menchiさん からの返信 2015/11/04 14:51:50
- RE: 大変参考になりました。
- ちょんた様、旅行記読んで下さって、有難うございました。
自分の旅行を忘れない為に、この時調べた内容を拙い文章で綴っています。
そんな物を、良くぞ読んで下さいました。
ひょんな事から、ラヴェンナを訪問されるとの事、それは、素晴らしいひょんな事ですね!
私の場合は、恋焦がれる様な心持ちで訪問しましたが、ボローニャからの日帰りで、今にして思えば、一泊でも宿泊をすれば良かったと後悔しています。
私達は秋に訪れましたが、観光客も余りいない、静かな街でした。
ちょんた様も、きっと、大満足のラヴェンナ訪問になる事と思います。
私も、またいつか、この地を再訪する事を願っています。
少しでも参考に成ったのでしたら、嬉しいです。
有難うございました。
-
- satさん 2013/01/08 22:38:19
- またまたこの旅行記に来ちゃいました
- menchiさん
私の冥途の土産はなんといってもラベンナじゃないかと思うくらい、自分の中でラベンナに行きたい気持ちが膨らんでいます。
こちらの旅行記は、詳細な解説があり、本当に歴史に吸い込まれていくような気がします。
さて、質問ばかりで恐縮ですが、一つの教会にどのくらい時間をかけるとじっくり見学できたという感覚になりましたか?最低2泊はしたいと思いますが、心残りがないように準備できたらいいなあと思っています。
といっても、まだ、チケットもなにも準備していないのですけれど(笑わないでくださいね。。。)
素敵な旅行記をありがとうございます!
sat
- menchiさん からの返信 2013/01/09 18:09:30
- RE: またまたこの旅行記に来ちゃいました
- satさんコメント有難う
ラヴェンナの計画立てながらわくわくされていることでしょうね
私は、ボローニャからの日帰りでこの地を訪れたので、見逃してしまった場所がいっぱいあります。
ダンテ・アリギエーリの墓や、重要な教会も見る事が出来ませんでした。
夜の街の様子も見て置きたかった。
もう一日有ったら良かったな。。。と、心残りが沢山あります。
ラヴェンナの町は、とても静かで、まあ、田舎と言うか、お土産屋さんやレストランが賑やかに展開しているような町ではありません。
でも、satさんのように、モザイクに対する思いが強い方にとっては、これ以上の場所は無いと思います。
込み入った歴史の中で、時代の荒波を掻い潜って存在してくれている彼らに深く感動出来ると思います。
入場料も思いのほか安価な感じ。
あれだけの見応えで10ユーロ以下でしたから。
モザイク工房や教室なんぞもありましたよ。
モザイク画の販売もあったようでした。
2泊したら、そんな所もじっくり見られそうですね。
私は2月10日からシチリアの方に出かけます。
シチリアはバロック建築の宝庫だそうで、これまた楽しみです。
- satさん からの返信 2013/01/09 22:15:29
- RE: RE: またまたこの旅行記に来ちゃいました
- menchiさん こんばんは。
早速にご回答いただき、ありがとうございました。
実は「シチリアもモザイクが良いですよ」と教えていただいたばかりでしたので、すっごーく羨ましいです!!!
でもまた素敵な旅行記を拝見できますね^^
お気をつけていってらっしゃってくださいね。
sat
-
- spumamiさん 2011/12/05 10:19:15
- 蘇ります☆
- おはようございます!
教会内に入り、輝くモザイクを目にした時の高揚感が蘇ります!
かなり勉強してから行かれたようで詳細な解説には敬服致します。
モザイクも本当に細かく1つ1つを見てこられたのですね。
そして、私はピンボケばかりで写真撮影に大変苦労したのに
ボケることもなく撮れている写真を拝見するとデジイチっていいな〜って羨ましく思います。
(自分の腕を棚に上げ、道具のせいだと思っています)
私の旅行記まで紹介して下さり有難うございます。
次回は是非、サン・フランチェスコ教会を覗いてみて下さいね〜
ダンテの墓には興味はなかったのでしょうか???
この教会の横にあるので、ついでに拝んで来て下さい(笑)
spumami
- menchiさん からの返信 2011/12/07 00:20:34
- RE: 蘇ります☆
- こんばんは!
ダンテの墓、ガイドブックで真相を知りました。
今年の1月、フィレンツェのサンタクローチェ教会で、感慨深い思いに耽った私は裏切られていたんですね。。。
いつかは、あそこに入れたいと、フィレンツェは考えているのですね。
ダンテはどうなのでしょう?
やっぱり、帰りたいかな?
カメラの事ですが。道具の力は偉大だと思います。
偉大な力を持った道具も、使い手の無知で力を発揮できないでいる場合もありますけど。。。(私もまさにそれです。)
もっと上手くなりたいです。
ラヴェンナの旅では、モザイク画が私にとって余りに大きな存在で、力が入りすぎてしまって、現地でもモザイクしか目に入らないって感じになってしまっていました。
もう少し、ゆとりを持って、町歩きも楽しんで来られたら良かったと反省。
今度があれば良いのですが。
spumamiさんの旅行記、勝手に、貼ってしまいました。ごめんなさい。
そして、ああそうだ、紹介文書いて下さったんですね。ありがとう!
少し、恥ずかしいような、くすぐったいような気分でした。
でもとても嬉しかったです。私も、spumamiさんの紹介文書きますね。
少々待っていてください。
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