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東高津宮(ひがしこうづぐう)は仁徳天皇の皇居であるとする1898年の大阪府の調査報告がある仁徳天皇社と称していたこともある神社。元は生國魂神社の南にあったが、大阪城築城の折遷座したとの説があり、1932年の上本町駅拡張工事の折移転、戦災で社殿を焼失していたが1967年に復興している。摂末社として王仁神社と白豊稲荷神社がある。<br />王仁(わに、生没年不詳)は百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる人物。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記され高句麗に滅ぼされた漢人系の学者とされる日本に重要な文化を伝えた恩人の一人とされるが東高津宮になぜ王仁が祀られているのかは不明だ。<br />久しぶりに誓願寺の井原西鶴の墓参りをした。誓願寺(大阪市中央区上本町)の井原西鶴の墓には「仙皓西鶴」と刻まれている。この墓について藤原秀憲氏は、「発見した功労者は朝日新聞記者木崎好尚。明治二十年代に探しあぐねて同寺境内の片隅に座り、何げなく枯れ枝で地面に転がっていた石をこすってみると、それが西鶴の墓であった。うれしく泣きだした好尚は、さっそく幸田露伴に連絡、二人でお金を出し、墓地で一番いい場所に移建した」とのこと。傍らに「鯛(たい)は花は見ぬ人もあり今日の月」の西鶴句碑が立っている。<br />誓願寺の山門横には 武田麟太郎(たけだ・りんたろう1904−1946年)の小説『井原西鶴』の一節が刻まれている。武田麟太郎は大阪市に生まれ大阪のドヤ街をえがいた「釜ヶ崎」等の市井事ものを発表し庶民の日常生活をあざやかに描いた。<br />(写真は東高津宮)<br /><br /><br />

日本の旅 関西を歩く 大阪市天王寺区の東高津宮(ひがしこうづぐう)周辺

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2011/09/27 - 2011/09/27

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さすらいおじさん

さすらいおじさんさん

東高津宮(ひがしこうづぐう)は仁徳天皇の皇居であるとする1898年の大阪府の調査報告がある仁徳天皇社と称していたこともある神社。元は生國魂神社の南にあったが、大阪城築城の折遷座したとの説があり、1932年の上本町駅拡張工事の折移転、戦災で社殿を焼失していたが1967年に復興している。摂末社として王仁神社と白豊稲荷神社がある。
王仁(わに、生没年不詳)は百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる人物。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記され高句麗に滅ぼされた漢人系の学者とされる日本に重要な文化を伝えた恩人の一人とされるが東高津宮になぜ王仁が祀られているのかは不明だ。
久しぶりに誓願寺の井原西鶴の墓参りをした。誓願寺(大阪市中央区上本町)の井原西鶴の墓には「仙皓西鶴」と刻まれている。この墓について藤原秀憲氏は、「発見した功労者は朝日新聞記者木崎好尚。明治二十年代に探しあぐねて同寺境内の片隅に座り、何げなく枯れ枝で地面に転がっていた石をこすってみると、それが西鶴の墓であった。うれしく泣きだした好尚は、さっそく幸田露伴に連絡、二人でお金を出し、墓地で一番いい場所に移建した」とのこと。傍らに「鯛(たい)は花は見ぬ人もあり今日の月」の西鶴句碑が立っている。
誓願寺の山門横には 武田麟太郎(たけだ・りんたろう1904−1946年)の小説『井原西鶴』の一節が刻まれている。武田麟太郎は大阪市に生まれ大阪のドヤ街をえがいた「釜ヶ崎」等の市井事ものを発表し庶民の日常生活をあざやかに描いた。
(写真は東高津宮)


交通手段
私鉄 徒歩

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  • 地蔵坂の光景。「地蔵坂」の名前には由来がある。<br />むかし、相模国に千代という下女がおり毎日お地蔵様に「私をお守ってください」と拝んだ。千代が、あるときあらぬ疑いをかけられてお地蔵様の前で折檻にあい焼けた火箸を頬に押し付けられるとお地蔵様から煙があがって頬に焼跡がつき、千代は何一つ傷がつかなかった。それ以来お地蔵様を手厚く祭るようになってお地蔵様を頬焼地蔵と呼んでお参りの人が絶えなくなった。ある高僧の夢のお告げによって、そのお地蔵様を大坂の専修院に移したところ頬焼け地蔵の話は多くの大阪の人にも伝わって、お寺の前の坂道は地蔵坂と呼ばれるようになった。<br />お地蔵様は木造で戦争で焼けてしまったが伝説は語りつがれ、専修院の前には「頬焼け地蔵尊 地蔵坂」と彫られた石柱が建てられたそうだ。 <br />

    地蔵坂の光景。「地蔵坂」の名前には由来がある。
    むかし、相模国に千代という下女がおり毎日お地蔵様に「私をお守ってください」と拝んだ。千代が、あるときあらぬ疑いをかけられてお地蔵様の前で折檻にあい焼けた火箸を頬に押し付けられるとお地蔵様から煙があがって頬に焼跡がつき、千代は何一つ傷がつかなかった。それ以来お地蔵様を手厚く祭るようになってお地蔵様を頬焼地蔵と呼んでお参りの人が絶えなくなった。ある高僧の夢のお告げによって、そのお地蔵様を大坂の専修院に移したところ頬焼け地蔵の話は多くの大阪の人にも伝わって、お寺の前の坂道は地蔵坂と呼ばれるようになった。
    お地蔵様は木造で戦争で焼けてしまったが伝説は語りつがれ、専修院の前には「頬焼け地蔵尊 地蔵坂」と彫られた石柱が建てられたそうだ。 

  • 専修院の前の「頬焼け地蔵尊 地蔵坂」と彫られた石柱。 <br />

    専修院の前の「頬焼け地蔵尊 地蔵坂」と彫られた石柱。 

  • 専修院の光景。

    専修院の光景。

  • 東平公園の光景。

    東平公園の光景。

  • 大阪市中央区上本町「東平公園」にある薄田泣菫の『金剛山の歌』の碑。<br />この詩は、作者が本長寺に仮住まいしていた頃、散歩の途中、朝日に輝く金剛山を見て、詠んだと言う。薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877−1945年)は、岡山県生れ、24歳で大阪に出て文芸雑誌、詩集を刊し名声を得た。<br />『暮笛集』『白羊宮』などで島崎藤村、土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人、象徴派詩人として蒲原有明と併称された。<br />

    大阪市中央区上本町「東平公園」にある薄田泣菫の『金剛山の歌』の碑。
    この詩は、作者が本長寺に仮住まいしていた頃、散歩の途中、朝日に輝く金剛山を見て、詠んだと言う。薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877−1945年)は、岡山県生れ、24歳で大阪に出て文芸雑誌、詩集を刊し名声を得た。
    『暮笛集』『白羊宮』などで島崎藤村、土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人、象徴派詩人として蒲原有明と併称された。

  • 東平公園の光景。

    東平公園の光景。

  • 薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877−1945年)の説明。

    薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877−1945年)の説明。

  • 東平公園の光景。

    東平公園の光景。

  • 「東平公園」にある薄田泣菫の『金剛山の歌』の碑。<br />

    「東平公園」にある薄田泣菫の『金剛山の歌』の碑。

  • 誓願寺の井原西鶴の墓の紹介碑。

    誓願寺の井原西鶴の墓の紹介碑。

  • 誓願寺の井原西鶴の墓と墓の傍らの「鯛(たい)は花は見ぬ人もあり今日の月」の西鶴句碑。

    誓願寺の井原西鶴の墓と墓の傍らの「鯛(たい)は花は見ぬ人もあり今日の月」の西鶴句碑。

  • 誓願寺の井原西鶴の墓の説明。

    誓願寺の井原西鶴の墓の説明。

  • 誓願寺(大阪市中央区上本町)の井原西鶴の墓。「仙皓西鶴」と刻まれている。この墓について藤原秀憲氏は、「発見した功労者は朝日新聞記者木崎好尚。明治二十年代に探しあぐねて同寺境内の片隅に座り、何げなく枯れ枝で地面に転がっていた石をこすってみると、それが西鶴の墓であった。うれしく泣きだした好尚は、さっそく幸田露伴に連絡、二人でお金を出し、墓地で一番いい場所に移建した」とのこと。

    誓願寺(大阪市中央区上本町)の井原西鶴の墓。「仙皓西鶴」と刻まれている。この墓について藤原秀憲氏は、「発見した功労者は朝日新聞記者木崎好尚。明治二十年代に探しあぐねて同寺境内の片隅に座り、何げなく枯れ枝で地面に転がっていた石をこすってみると、それが西鶴の墓であった。うれしく泣きだした好尚は、さっそく幸田露伴に連絡、二人でお金を出し、墓地で一番いい場所に移建した」とのこと。

  • 誓願寺(大阪市中央区上本町)の井原西鶴の墓。

    誓願寺(大阪市中央区上本町)の井原西鶴の墓。

  • 誓願寺(大阪市中央区上本町)の井原西鶴の墓周辺。

    誓願寺(大阪市中央区上本町)の井原西鶴の墓周辺。

  • 墓の傍らの「鯛(たい)は花は見ぬ人もあり今日の月」の西鶴句碑。<br />

    墓の傍らの「鯛(たい)は花は見ぬ人もあり今日の月」の西鶴句碑。

  • 誓願寺の山門横の武田麟太郎(たけだ・りんたろう1904−1946年)の小説『井原西鶴』の一節が刻まれた文学碑。武田麟太郎は大阪市に生まれ大阪のドヤ街をえがいた「釜ヶ崎」等の市井事ものを発表し庶民の日常生活をあざやかに描いた。<br />

    誓願寺の山門横の武田麟太郎(たけだ・りんたろう1904−1946年)の小説『井原西鶴』の一節が刻まれた文学碑。武田麟太郎は大阪市に生まれ大阪のドヤ街をえがいた「釜ヶ崎」等の市井事ものを発表し庶民の日常生活をあざやかに描いた。

  • 誓願寺の山門。

    誓願寺の山門。

  • 東高津宮(ひがしこうづぐう)に近い東高津宮公園の光景。

    東高津宮(ひがしこうづぐう)に近い東高津宮公園の光景。

  • 東高津宮(ひがしこうづぐう)に近い東高津宮公園の光景。

    東高津宮(ひがしこうづぐう)に近い東高津宮公園の光景。

  • 東高津宮(ひがしこうづぐう)に近い東高津宮公園の光景。

    東高津宮(ひがしこうづぐう)に近い東高津宮公園の光景。

  • 東高津宮(ひがしこうづぐう)。

    東高津宮(ひがしこうづぐう)。

  • 東高津宮(ひがしこうづぐう)は仁徳天皇の皇居であるとする1898年の大阪府の調査報告がある仁徳天皇社と称していたこともある神社。元は生國魂神社の南にあったが、大阪城築城の折遷座したとの説があり、1932年の上本町駅拡張工事の折移転、戦災で社殿を焼失していたが1967年に復興している。摂末社として王仁神社と白豊稲荷神社がある。<br />王仁(わに、生没年不詳)は百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる人物。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記され高句麗に滅ぼされた漢人系の学者とされる日本に重要な文化を伝えた恩人の一人とされるが東高津宮になぜ王仁が祀られているのかは不明だ。<br />

    東高津宮(ひがしこうづぐう)は仁徳天皇の皇居であるとする1898年の大阪府の調査報告がある仁徳天皇社と称していたこともある神社。元は生國魂神社の南にあったが、大阪城築城の折遷座したとの説があり、1932年の上本町駅拡張工事の折移転、戦災で社殿を焼失していたが1967年に復興している。摂末社として王仁神社と白豊稲荷神社がある。
    王仁(わに、生没年不詳)は百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる人物。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記され高句麗に滅ぼされた漢人系の学者とされる日本に重要な文化を伝えた恩人の一人とされるが東高津宮になぜ王仁が祀られているのかは不明だ。

  • 摂末社、白豊稲荷神社。<br />

    摂末社、白豊稲荷神社。

  • 東高津宮の光景。

    東高津宮の光景。

  • 摂末社、王仁神社の説明。<br />

    摂末社、王仁神社の説明。

  • 摂末社、王仁神社。<br />王仁(わに、生没年不詳)は百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる人物。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記され高句麗に滅ぼされた漢人系の学者とされる日本に重要な文化を伝えた恩人の一人とされるが東高津宮になぜ王仁が祀られているのかは不明だ。<br />

    摂末社、王仁神社。
    王仁(わに、生没年不詳)は百済から日本に渡来し、漢字と儒教を伝えたとされる人物。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記され高句麗に滅ぼされた漢人系の学者とされる日本に重要な文化を伝えた恩人の一人とされるが東高津宮になぜ王仁が祀られているのかは不明だ。

  • 東高津宮の心願成就の「としまいり石」。お百度石ではなくとしまいり石は本殿の拝殿前までを歳の数だけ廻るとのこと。

    東高津宮の心願成就の「としまいり石」。お百度石ではなくとしまいり石は本殿の拝殿前までを歳の数だけ廻るとのこと。

  • 「としまいり石」の説明。

    「としまいり石」の説明。

  • 東高津宮の拝殿周辺の光景。

    東高津宮の拝殿周辺の光景。

  • 東高津宮の拝殿周辺の光景。

    東高津宮の拝殿周辺の光景。

  • 東高津宮の遷宮の石碑。

    東高津宮の遷宮の石碑。

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