
2011/06/22 - 2011/06/22
153位(同エリア730件中)
近鉄バッファローズさん
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6年ぶりに四泊六日ではありますが、ドイツへ行く機会に恵まれました。
以前お世話になった方々のところを訪問することと、
まだ行ったことがないところを行くことが、今回の目的です。
目的地は、ラインラントプファルツ州のMaria Laach(マリア ラーハ)と
Schloss Buerresheim(ビュレスハイム城)、Wuerzburg(ヴュルツブルグ)のResidenz(レジデンツ)、
Nuernberg(ニュルンベルグ)のDoku-zentrum(ドク−ツェントルム)、Burghausen(ブルグハウゼン)です。
6/22は、Burghausenを訪れます。
その八でBurghausenを御紹介しきるつもりでしたが、写真が多く二つに分けることに。
本丸を見学し終わりましたので、二の丸以降と旧市街を歩きます。
なお、旧市街については、http://www.altstadt-burghausen.de/の情報を主に参考にしています。
追伸
旅行記は随分前から作り始めていたのですが、諸事情から中断し、今頃の上梓となりました。何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
本丸を出て、二の丸の中庭です。左手にはレストランが見えます。
中世後期にはここは本丸内にあったそうです。
奥に見えるのはゲオルグ門です。左手のレストランになっている建物はもともとビール醸造所だったそうです。その奥手には馬小屋や井戸もあったそうです。また、右手の建物の手前には、私も登ってきた城への登り口があります。 -
ゲオルグ門の中です。ここより向こうは三の丸です。
門の向こうには、橋が見えます。
夏の日差しが大変暑く、このあたりを歩いているときにはちょっと脱水症状でした。 -
ゲオルグ門をくぐった後の橋を渡ります。
橋からは、Burghausenの街並みがよく見えます。
パステルカラーの壁が立ち並びます。 -
橋を渡りきったところから、ゲオルグ門を振り返ってみました。
とても立派な門です。重厚な作りになっています。
門の壁面には、紋章が二つ並んでいます。
橋の下は、空堀になっています。 -
ゲオルグ門の真ん中辺りには、二つの紋章が並んでいます(後期ゴシック様式)。
これは、左がバイエルンの紋章で、右がポーランドの紋章になります。これは1475年に行われたバイエルン公ゲオルグとポーランド王女Hedwigとの婚姻を記念して作られたものだそうです。右のポーランドの紋章には、今も国章になっている白い鷲と当時の同君同盟にあったリトアニアの騎士が図柄として入っています。 -
ここは、かつての武器庫になります。
三階建てで、1427年にはすでに存在していたとのこと。
1692年と19世紀後半の二回、改装されたそうです。 -
武器庫の向かいの城壁には、小さな塔が立ち並びます。
この城壁の下には、町へ下りる道があります。
これらは「Pfefferbuechsen」と呼ばれる見張り塔です。 -
その奥には「Buechsenmeisterturm」が見えます。
ここは、武器庫の番人が住んでいたそうです。その西側には女墻があり、下にある小さなダム湖(Woehrsee)に続く道や見晴らしのいい場所への道があるそうです。 -
三の丸から四の丸へ続く木製の橋です。
三の丸は、この稜線で一番幅が狭く、歴史上もあまり建物はたくさん建てられなかったとのことです。 -
四の丸へ渡る橋からすぐ右に見えるのは「穀物番の塔」です。
その奥にある「Langer Kasten」を管理する人が住んでいたそうです。のちには、城付属教会の小間使いの住居となったそうです。また、軍が駐屯していたときには、従軍酒保商人の店だったそうです。 -
こちらがLanger Kastenです。
1400年頃に建てられた馬小屋で、餌の貯蔵庫もあったそうです。駐留軍が居るときは、兵士の食料庫でもあったそうです。1878年には破壊され演習場になったそうです。1960〜61年にはユースホステルとして再建されましたが1993年には使用を中止し、1995年からは「Athanor」という演劇アカデミーとなっているそうです。私が行ったときも何かの上演があるようでした。 -
通称「Aventin-Haus」と呼ばれる建物です。
見張り塔を建て増した建物で、城の礼拝堂の司祭が住んだり、駐留軍の司祭が住んだりしたそうです。言い伝えでは、バイエルン公アルブレヒト4世の息子でErnstとLudwigの教育係としてバイエルンの詩の父にして、稀代の人道主義者と呼ばれるJohannes Turmair von Abensberg(Aventinus)が1509年〜10年にこの建物に住んでいた、とされています。 -
ここは四の丸最北端の東側に見える「魔女の塔」です。
地下牢や牢屋のある監獄の塔です。
Burghausenでは1751年まで魔女裁判があり、最後の処刑は1831年にあり、剣によるものだそうです。 -
木の影で見にくいですが、右がZuchthaus(刑務所)です。左がFolterturm(拷問塔)です。
Zuchthausは、1661年には建物が出来、1661年の計画では「新しい武器庫」として、後には「武器見張り番住居」や病院とされていたそうです。1751年から52年には古い城壁に沿って屋根付きの通路(Foltergang)を設け、Zuchthausとして改築されたそうです。1811年には使われたなくなったそうです。 -
Zuchthausを裏から見ると、こんな感じです。
-
Folterturmは、中が博物館になっていて、お土産物やスナック、ドリンクも売っています。
「捕吏の塔」、「役人の塔」、「鉄の堅城」などとも呼ばれているそうです。建物には、拷問部屋、牢獄、地下牢があるそうです。拷問部屋は1918年までオリジナルの設備を維持していたのですが、その後住居になったそうです。数年前から博物館として中には入れるようになっていますが、個人の経営で別料金になります。 -
魔女の塔の手前からは、Burghausenの旧市街が見渡せます。
城からは、何ヶ所か旧市街が見渡せる場所があります。どこから見てもパステルカラーの旧市街は綺麗です。 -
城壁も見渡すことが出来ます。
旧市街地は渓谷にありますが、氷河期には氷河が流れていた跡であるとのことです。 -
五の丸へと行きます。もう、空堀はありません。
-
糸紡ぎ小屋(Spinnhaeusl)と呼ばれる建物です。
女性受刑者の監獄だったそうです。16世紀中頃に建てられ、1968年に改築されたそうです。 -
庭師の塔(Gaertenerturm)です。
1963年に建て替えられ、見晴台になっています。その前には、庭園が広がっていました。 -
庭師の塔から見える風景です。
旧市街の後ろにザルツァッハ川が流れているの見えます。 -
庭師の塔から見える風景です。
川の向こうは、オーストリア領になります。崖の上にはいくつかの建物も見えます。 -
庭師の塔から見える風景です。
ザルツァッハ川は、画面上に向かって流れています。 -
「外の城の礼拝堂(Aeussere Schlosskapelle)」です。
Hedwig礼拝堂とも言われます。ゲオルグ富貴公とその公妃Hedwig(ポーランド王カジミール4世の娘)の依頼で1479年から89年にかけて宮殿・要塞建築家であるUrlich Pesnitzerによって建設されたそうです。 -
五の丸の西側は城壁が低くなっており、見晴らしがいいところです。
ここからは、城の西側にあるWoehr湖や火薬塔がよく見えます。 -
上記の場所から撮ったWoehr湖の写真です。
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右に見えるのがKastenamtと呼ばれる建物で、左に見えるのがKastengegenschreiber-Turmと呼ばれる建物です。
Kastenamtは、バイエルン公あるいは選帝侯領を管理する役所の建物で、支配地からの税金を集め、経理する中心地だったそうです。南側の建物は17〜18世紀に住居となり1961年までは営林署だったそうです。1966年から69年にかけて内部を改装したそうです。
Kastengegenschreiber-Turmは、もともとKastenamtと門の上の渡り廊下で繋がっていたそうです。1805年の火災の後、建て替えられたそうです。1997年には建物が倒壊するおそれがあるため塔の基礎の上にあった建物は取り除かれたそうです。 -
このあたりから最後の六の丸になります。六の丸は特に役所や作業場、城の役人や雇い人の住居が建ち並びます。
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聖職録受給者の塔です。
14世紀の建物で、1557年に改築されたそうです。城の司祭の住居だったそうです。 -
煙突掃除人の塔です。
選帝侯お抱えの宮廷煙突掃除マイスターFranz Carl Cura(1716-1769)の住居だったそうです。 -
裁判所書記官の塔です。
14世紀の建物で、16〜17世紀に住居の翼になったそうです。 -
干し草納屋と呼ばれる建物です。
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手前に見える池のようなところは、馬洗場です。
17から18世紀のものだそうです。 -
営林官の塔です。
14世紀の建物で、1551年に建て増しされたそうです。建物にはバイエルン選帝侯の紋章が着いています。 -
時計塔と井戸小屋です。
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行政と財政当局を担当する建物だったそうです
1661年には現在の建物の形になったそうです -
クリストフ門です。
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行政や財政当局の長が住んでいた建物が奥の建物です
この奥が城郭の最北端になっています。 -
一通り、Burghausen城を見学しました。
旧市街へと下りていきます。一旦二の丸まで戻り、そこにある上り口を下っていきます。 -
階段を下りる途中には、街並みも見えます(右上)。
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本当に、町がカラフルです。
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下から見上げると、城はこんな感じに見えます。
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聖ヤコブ教会の塔がよく見えます。
下から見るのとは、また感じが違います。
あとで、もっと近くに寄ります。 -
階段を下り続けると、別方向からの下りてくる階段と合流しました。向かいの階段は、本丸から下りてくる階段です。
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聖ヤコブ教会です。
1140年に創建され、1353年と1504年の火災で建て替えられ、1853から55年にはネオゴシック様式でリフォームされたそうです。塔の高さは78.55mになるそうです。 -
教会の周りには、複数のレリーフがありました。
教会ゆかりの聖人でしょうか?髭文字が読めません。 -
ここで、疲れと脱水症状でダウンです。
レストランがあったので、ここで食事と休憩です。
Hotel Postと言う名前です。ウェイトレスさんがDirndlを着ています。
16世紀前半の建物で、一階や地下の天井が目を惹く建物だそうです。 -
Frische Reherl in Kraeuterrahm auf Bandnudeln(平らな麺の上にハーブクリームをかけた新鮮なアンズタケ)を頼みました。
あっさりした味付けで、キノコのこりこり感もよく、大変美味しかったです。 -
市薬局(Stadtapotheke)です。
バイエルンで一番古い薬局で、1596年からこの場所にあるそうです。スタッコのオーナメントがロココ調のファサードが付いています。1945年には隣家と共に爆撃で損壊したそうです。 -
精霊酒場の小路?(Geistwirtgassl)です。
1555年に「城への登り口小路」として作られ、1740年からは「町の入り口小路?(Stadtgangsteig)」、19世紀からは「兵舎山?(Kasernberg)」との呼ばれていたそうです。 -
バイエリシャ ホフ(Bayericher Hof)です。
17〜18世紀の建物で、かつてのビール醸造所だそうです。
1705年には反乱軍の指導者やバイエルンの愛国者ヨハンゲオルグ マイントルの宿舎となったそうです。 -
いわゆる「煙の家?(Rauchhaus)」です。
かつての「アルトマンの家」で16〜17世紀の建物だそうです。1762年には切り妻壁に「神の目」のある美しいロココ調のファサードを作ったそうです。 -
「ブッフライトナの家?(Buchleitner-Haus)」です。
17世紀の建物で、1762年には「将校の家」となり、のちには駐屯軍の中央監視所となったそうです。 -
ルードヴィヒ山?(Ludwigberg)です。
取り壊された北側のZwingerの石を使って1835〜36年に作られたそうです。山の中腹には、バイエルン王ルードヴィヒ1世の名が刻まれた記念の石版があるそうです。 -
宮殿の山?(Hofberg)です。
1466年からそう呼ばれているそうです。1332年には城の山?(Schlossberg)と呼ばれていたそうです。1500年には既に舗装されていたそうで、中世の道路をまだ見ることも出来るそうです。市の防壁の高いところにあった「拍車の塔」は1805年に焼け落ちたそうです。かつては、北へ向かう唯一の出撃路だったそうです。 -
かつての「司教神学校」です。
1590年にバイエルン公の新しく建てられた塩倉庫の南側1/3の建物で、1852年までは90mもの長さがあったそうです。後には飲み屋になり、1920年から1986年までサレジオ会の神学校の学生寮だったそうです。今は市立音楽学校だそうです。 -
聖ヨゼフ神学生教会です。
1630年から31年にかけて建てられたかつてのイエズス会の教会で、北に修道院の建物も付いているそうです。美しい玄関(1781年製)の付いた初期バロック様式のファサードがあります。1863年の大火のあと1874年に再建されたそうで、創建当初のものはほとんど残っていないそうです。 -
マキシミリアン選帝侯ギュムナジウムです。
1662年〜64年に建てられたそうです。建築様式は後期ルネッサンスと初期バロックだそうです。1961年から63年には北側に増築されたそうです。63年には講堂も再建されたそうです。 -
「四季」と呼ばれる建物です。
今はカフェになっています。かつてはビール醸造所だったそうです。1863年の大火のあとに再建され、かつては二軒の建物だったものが、現在のように一軒の建物となったそうです。 -
受洗聖堂宮殿です。
1736年からは総督の住居だったそうです。1742年に町が砲撃されたときに火災で燃えてしまったそうです。1809年にナポレオンが四日間Burghausenに滞在したときには、ここに宿泊したそうです。ファサードにある二つの紋章は、Tauffkirchen家とLerchenfeld家の同盟の証だそうです。現在は、区裁判所です。 -
聖母マリアの泉です。
1440年には既にあった泉だそうです。マリア像の付いたの柱は17世紀後半のもので、大理石の池は19世紀から20世紀に部分的に新しくされたそうです。 -
守護天使教会です。
1683年に騎士修道会が定住したそうです。1731年には後期バロック様式のファサードが新たに付け加えられたそうです。 -
このあたりから城の方を眺めると、こんな感じです。
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よく見渡せますが、一枚では写真に収まりません。
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それにしても、長い城です。
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橋の小路(Bruckgasse)を通って、橋へと向かいます。
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この橋までが、Burghausenの町であり、ドイツ連邦共和国領となります。
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橋の上から城を眺めると、こんな感じです。
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ここでもまだまだ一枚の写真には収まりません
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川が入ると、また違った趣があります。
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川の向こうは、オーストリア共和国のアハ(Ach)と言う町です。
とても小さな町でした。
ここからもっと丘の上などに登ると、綺麗に見渡すところがあるのだと思いますが、この時はそこまで行く元気と時間がありませんでした。 -
かつての旧行政庁舎です。
16世紀中頃の建物です。三つのルネッサンス調の塔が付いています。ファサードにはバイエルン選帝侯の紋章が付いてます。18世紀中頃には主計局の管理センターでしたが、のちに選帝侯の行政庁舎となったそうです(1802年まで)。今は、市立図書館と市民ホールの建物となっているそうです。 -
かつてのテラスカフェです。
後期ゴシック様式で、16世紀中頃の建物だそうです。1639年まではレープクーヘンや蝋燭を作るところだったそうです。 -
ライオンの泉です。
1658年に作られたそうです。1945年の空襲で破壊されたそうです。1975年から77年の区画整備時に、新しい泉を作り、残っていた紋章を抱く獅子像を備え付けたそうです。 -
市庁舎です。
14から15世紀の建物で、かつては時計塔とダンスホールが付いていたそうです。1307年にはその名前が古文書に見えるそうです。1439年にはこの建物が町に売却されたそうです。1788年に町とバイエルンの紋章が入った古典様式のファサードが付けられたそうです。 -
かつての領邦等族議会の会議所です。
1400年頃には「小路そばの家」として古文書に載っているそうです。18世紀後半にバイエルンの領邦等族(中世末期以降、各領邦で特権を得、領邦議会を構成した聖職者・貴族・市民などの諸身分)に属するようになったそうです。美しい古典様式のファサードは19世紀初めのものだそうです。 -
旧市街は、ここより南側は趣がまた変わります。
「Grueben(窪地?)」と呼ばれる地区です。
手工業者の家々が立ち並び、先ほどのところよりも低いところに町があります。いわば「下町」になります。そのため、洪水には悩まされたそうです。1969年から71年にかけて洪水対策事業の一つとして河岸通りが整備されたときに、多くの家々も綺麗にされたそうです。 -
Gruebenには、二重の門をくぐって入ります。
-
画家の家と呼ばれる建物です。
Johann Groetz、Lorenz Kriner、Franz Xaver Groetz、della Crocesのアトリエだったそうです。その他にも近くには彫刻家や画家の住んでいた建物があるそうです。 -
「Am Bichl」という広場です。
19世紀までは市立ダンスホールの建物があったそうです。1860年に建物は壊され、1872年から1969年まで戦勝記念のオベリスクが飾られていたそうです。 -
かつてのパン屋さんだそうです。
16世紀前半の建物で、二階の壁には1598年の洪水の最高水位が刻まれています。 -
税関吏の城です。
16世紀中頃の建物で、バイエルン公あるいは選帝侯の関所だったそうです。1912年に建て替えられ、1976年から77年にはサニテーションが行われたそうです。今は、町の教育機関の建物になっています。また地下室はジャズホールだそうです。 -
Platzl(ミニ広場?)と呼ばれるところです。
元々は市の防壁の終端にあたり、塔の付いた門が1766年まであったそうです。1860年に広場となったそうです。 -
ここからは、城の本丸がよく見えます。
-
すぐそばには、かつての聖霊救貧院があります。その左には救貧院教会が見えます。
税関吏のFriedlich von Katzenbergの寄進で作られたそうです。1856年から1856年までは公立病院となり、その後司教の神学校にもなったそうです。
救貧院教会は1325年から30年頃に建てられ、オーバーバイエルン地方に残る数少ない14世紀の宗教的建築物のひとつだそうです。1777年にはバロック様式に改築されたそうです。 -
救貧院浴場です。
中世から1960年までここには救貧院の浴場の建物があったそうです。その後町のポンプ所になったそうです。 -
ここが現在の聖霊救貧院になります。
かつては聖ヨゼフ救貧院だったそうです。1503年にはすでに建物があったそうです。1955年に町が買い取り、、1965年から66年に改装し、聖霊救貧院となったそうです。 -
Riemerschmidの家です。
1862年に初めてドイツに女子商業学校を作ったAnton Riemerschmidの生家だそうです。 -
カプチン修道会修道院です。
修道会の関係者が1618年に初めて住んだそうです。修道院の創建は1654年だそうです。列聖されたKorad修道士は1851年にここでお勤めをしていたそうです。1892年からは修道会の司祭を養成する神学校にもなったそうです。1994年に修道院と神学校は閉鎖になり、現在はユースホステルと音楽学校として使われているそうです。 -
建物が大きくて、二枚に分かれてしまいました。
-
Salzach川沿いの道に出て来ました。
立ち並ぶ家々と川のコントラストが美しいです。 -
彫刻家の家と呼ばれているそうです。
16世紀からの住居兼作業所でJohann Georg LindtやThomas Jorhanと言うBurghausenの彫刻家が住んでいたそうです。 -
Messerzeileと言う通りで、1408年からあるGruebenに沿った通りで、城の関係者や芸術系の手工業者が特に多く住んでいたそうです。
-
Messerzeileを通ると、聖ヤコブ教会まで戻ってきました。
そのすぐ横には主任司祭の館があります。
元々の建物は1578年に火事で焼けてしまったそうです。1731年に再建されたが、1863年の大火のあと1898年に再建されたそうです。1802年からは教区長の所在地となったそうです。 -
城と旧市街を含めて一周しました。
また来た道を、バス、電車を乗り継いで、ミュンヘンまで帰りました。
不便なところにありますが、他ではなかなか見られないところでした。私にとっては、本当に来た甲斐がありました。
Burghausenで買った絵葉書の画像を載せておきます。
本当は、こんな写真が撮りたかったのですが‥‥ -
ホテルに預けておいた荷物を持って、空港へと向かいました。
-
四泊六日のドイツの旅もいよいよ終わりです。
帰りの飛行機も順調に飛び立ちました。
長らくお付き合い頂き、有り難う御座いました。
ドイツには、また来ます。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- kaz-ykさん 2014/01/29 00:36:39
- 初めまして
- 近鉄バッファローズさん 今晩は
無知無謀さんに、ご紹介頂き、貴方様のブログにお邪魔しました。
綺麗な写真で詳細な説明・歴史まで教えて頂き有難う御座いました。
4泊5日で、こんな中身の濃いブログは、初めて拝見しました。
ご駐在の経験あり、独語が出来るとは、羨ましい。さすがの出来映えです。
旅行記を拝見して、大好きなドイツに行きたくなりました。
お尋ね:家内が長い道は、車椅子必要ですが、大都市、ベルリン、
ハノーバー、ハンブルグなどで、車椅子を、貸して呉れる様な所
あれば、ご教示下さい。
滞在型の観光に、挑戦していと思っています。英語しか出来ません。
- 近鉄バッファローズさん からの返信 2014/02/06 23:33:31
- 御挨拶を御礼が遅くなり申し訳ありません
- kaz-ykさん、こんばんは。
近鉄バッファローズと申します。
この度は、たくさんの旅行記を御覧頂き、
また、清き一票を賜り、誠に有り難う御座います。
雑事にかまけてお礼が遅くなりましたことを改めてお詫び申し上げます。
大した写真で張りませんが、自分なりに綺麗に撮れたものを
旅行記には貼り付けるようにしています。
(没写真もかなりたくさんあります‥‥)
自分なりにそれぞれの建物などでは調べ物をして書くようにしています。
もっと立派な内容の方もいらっしゃる中で、
過分のお褒めのお言葉と恐縮しております。
もしよろしければ、他の旅行記もご覧いただければ幸いです。
お尋ねの件ですが、私も借りたことがないのですが、
調べてみると、車椅子をレンタルするところはあるようです。
ハノーファ
「Sanitaetshaus Bockhorn
Koenigstr. 38, 30175 Hannover, Tel. (05 11) 34 14 48, Fax 34 14 01
営業時間: 月曜から金曜の 9〜18時.
レンタル料金:10ユーロ/日, 20ユーロ/週」
ハンブルグでは、見つけられませんでした。
また、無知無謀さんにもお礼を申し上げておきます。
- kaz-ykさん からの返信 2014/02/07 14:09:25
- ご多忙中お返事有難う御座いました
近鉄バッファローズ 今日は
「この度は、たくさんの旅行記を御覧頂き、
また、清き一票を賜り、誠に有り難う御座います。
雑事にかまけてお礼が遅くなりましたことを改めてお詫び申し上げます。
大した写真で張りませんが、自分なりに綺麗に撮れたものを
旅行記には貼り付けるようにしています。 (没写真もかなりたくさんあります‥‥) 自分なりにそれぞれの建物などでは調べ物をして書くようにしています。もっと立派な内容の方もいらっしゃる中で、 過分のお褒めのお言葉と恐縮しております。 もしよろしければ、他の旅行記もご覧いただければ幸いです。」
是非お邪魔致したいと思います。
「お尋ねの件ですが、私も借りたことがないのですが、> 調べてみると、車椅子をレンタルするところはあるようです。> ハノーファ> 「Sanitaetshaus Bockhorn> Koenigstr. 38, 30175 Hannover, Tel. (05 11) 34 14 48, Fax 34 14 01
営業時間: 月曜から金曜の 9〜18時.
レンタル料金:10ユーロ/日, 20ユーロ/週」
ハンブルグでは、見つけられませんでした。」
貴重な有難う御座いました。20ユーロ/週は、激安助かります。
ハノバーは、お庭とお城を訪問した経験あり、懐かしい土地です。
また、無知無謀さんにもお礼を申し上げておきます。
ご丁寧に恐れ入ります。今後共宜しくご指導下さい。御礼まで
-
- utamiumiuさん 2013/08/18 23:57:03
- いかにも南ドイツらしい美しい街ですね。
- こんにちは。
抜けるような青空、脱水症状になるくらいの乾燥した晴天。
美しい古城や城壁。
碧の湖水。
可愛らしい街並み。
どの写真もいっぷくの絵画のようですね。
これだからドイツ詣ではやめられませんね(^○^)
次回、行くチャンスがあったら候補の一つにさせていただきます。
うーーん、それにしても美しい!
パスタも美味しそうだったし。
どの写真も魅入ってしまいました。
ありがとうございました。
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