2011/08/12 - 2011/08/16
9283位(同エリア11805件中)
かとぽんさん
長崎グルメから精霊流しまで長崎を満喫した親子3人。
翌日は次男が大学の研究室に出て行かねばならないとのことで早目の帰還をと考えていたのに
前夜相方が「帰る前に原爆資料館へいこう!」と言い出した。
出島で長崎さるくのガイドさんに
原爆資料館を見ずして長崎を語るなかれ!と戒められたのが
こたえたのか??
そんなわけでやむなくホテルから直行し、原爆資料館へと急ぎます。
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 自家用車
-
衝撃の精霊流しから一夜明け、長崎最後の朝がやってきました。
今からノンストップで走っても次男の福井まで940km、12時間半もかかるのに
B型の相方はどーしても原爆資料館へいきたいというw
まぁ、予定通りいかないのは我が家の常なので諦めてさくっと原爆資料館へむかうことに。 -
例によって大混雑の朝食会場であわただしく朝食を済ませ、
-
大渋滞のフロントでチェックアウトを済ませる。
ここは完全後払い制なのでした。
最近は合理化してチェックイン時に支払いを済ませ、
チェックアウト自体消滅したホテルが多いのにこーゆうとこは
昔ながらの旅館方式なんですね〜
街側トリプルルーム3名2泊朝食付きで23,000円+駐車料金1,000円(2日分)
オドロキの低価格。 -
朝食会場の箸袋にHMIホテルグループと書いてあったので
ネットで調べてみました。
ホテルマネージメントインターナショナル株式会社
(Hotel Management International Co.,Ltd.)
兵庫県神戸市に本社を置く、ホテルクラウンパレス、パールシティホテルチェーンなどを運営する企業である。 既存のホテルを買収して再建し、チェーン化する手法で近年急成長している。・・・だそーです。
部屋も内装とか要所要所だけ改装して整備されているが
窓枠や間仕切りとかドアのカギなど目立たない所は
昔ながらの旅館風でした。
でもムダをできるだけ省いて合理化し、経営努力により宿泊料金をここまで安くできるのだからお客にとっては願ったりかなったりです。 -
車中で見たカーナビのTVからは
昨夜の精霊流しの中継録画が・・・
へー、こんなのTVで流すんですねー
県庁前の中継会場の前を通る精霊船のひとつひとつを
あらかじめ入手してある故人の生前のエピソードなど織り交ぜつつ
精霊流しの模様を中継してました。
東北など、お祭りのパレードだと実況中継とか珍しくないですが
精霊流しという厳かな行事で??
やはり愛知県民には少々驚きです。 -
2日目に駐車した平和公園の地下に車をとめ、
原爆資料館をめざします。 -
路上には昨夜の残骸がまだ派手に残ってました。
大きな通りだと昨夜のうちに片付けられるのだが
1本中へ入った通りだとまだ手がまわらないのでしょーか。 -
地元住民の方がお掃除しておられます。
これも長崎市民の方には毎年のことなんで慣れっこなんでしょーか。 -
10分ほど歩くと原爆資料館へ到着。
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全国の学校から寄贈された千羽鶴などが飾ってあります。
-
館内に入るとゆるやかなスロープで
大きな弧を描きながら地下へと歩いていきます。
これなら車椅子の方も健常者も一緒に歩けます。
うまく考えられているな〜
こういった施設を訪れる人は年々高齢の方も増えているだろうから
こーいう配慮はありがたい。 -
スロープ沿いの壁にはものすごい長さの連鶴が飾られています。
-
「平成22年8月10日
オランダ芸術家マナ・オリ氏 寄贈
幅15cm、長さ150mの1枚の紙で折られています」と書いてあります。 -
観覧券 大人200円
すごくリーズナブルです。 -
薄暗い展示室へ足を踏み込むと
まず目に入るのは原爆投下時11時2分の映像。 -
爆心地より800mの山王神社近くの民家にあった柱時計。
11時2分を指したまま永遠に時を刻むのを止めてしまった。 -
原爆投下後の長崎市内。
-
爆心地より800mの三菱長崎製鋼所の鉄骨アングル
最大風速200m/秒の爆風を受けて
飴細工のようにぐにゃりと曲がってしまった。 -
爆心地より東北東500m
浦上天主堂の玄関上部のステンドグラスの破片。
爆風で粉々に砕け散った。 -
爆心地より600mの被爆消失した民家より発見されたロザリオ。
すさまじい熱線と炎のためガラス製のロザリオは飴のように溶けてしまった。
亡くなった母親の形見として保管されてきたものを
被爆40年を機に遺族から長崎市に寄贈された。 -
東洋一の規模を誇った浦上天主堂は
一瞬のうちに大半が倒壊。
辺り一面原子野と化した。 -
わずかに残る天主堂の側壁。
-
見るも無残なキリスト像
-
原爆投下直後に湧き起こるきのこ雲
死者 73,884人
重軽傷者 74,909人
合計 148,793人
罹災人員 120,820人
罹災戸数 18,409戸
全焼 11,574戸
全壊 1,326戸
半壊 5,509戸 -
その影響力は半径4kmにも及んだ。
ことごとく破壊しつくされた長崎の街 -
爆心地より南南東1.5km
銭座国民学校校舎階段の一部
爆風によりガラス片が突き刺さった。 -
長崎市に投下された原子爆弾。
その形状からファットマン(ふとっちょ)と呼ばれた。
周りの火薬でプルトニウムを内側に爆縮して核分裂を起こす。
長さ3.25m
直径1.52m
重さ4.5t
爆発力TNT火薬21kt相当 -
爆心地より南へ4.4kmの要塞司令部
兵士が屋上から下へ下りて来たとき
熱線の直射を受けた。
光が当たった部分はコールタールが剥げ、
影の部分だけが黒く残った。 -
爆心地より700mの岩川町で被爆した
堤郷子さん(当時14歳)の遺品。
弁当箱の中の米飯はその後の火災で炭化した。 -
爆心地付近で発見された
人間の手の骨とガラスが高熱のため溶けてくっついたもの。
この頃時刻はちょうど長崎の原爆投下時刻の11時2分を指し、
館内にはそれをお知らせするアナウンスと音楽が流れました。
【動画】長崎原爆資料館11:02
http://www.youtube.com/watch?v=2LwUMcp-gZk -
被爆者の証言の数々
40歳にして家族は全滅、
1人残された悲しみに
生き残ったことへの苦悩にさいなまれ
自殺することしか考えられなかった男性。 -
当時の浦上第一病院医長秋月辰一郎氏の証言。
爆心地から1.4kmで被爆、医師として被爆者の治療に当る一方、
永年に渡り被爆者の証言の収集を行った。 -
5歳のときに被爆し母を失い
小学校の運動場で母の遺体を焼いた辻本一二夫くんの証言。 -
「のどが乾いてたまりませんでした」
山口幸子さん(当時9歳)
平和公園の平和の泉の碑にも刻まれていました。 -
被爆後かけつけた我が家で
幼な子(4歳と1歳)、中一の長男、そして妻を
次々に看取った地獄の1週間の手記が淡々としたためられていました。
胸が締めつけられる思いです。 -
重苦しい気持ちで出口への道をたどる。
愚かな戦争から学び取ることをせず
いまだに続く現代の核兵器の開発。 -
出口へでました。
まばゆい陽の光に急にわれにかえります。
長崎さるくのキャラクターにさよならし、
ついに長崎に別れを告げます。 -
関門海峡を渡る前に門司のSAで休憩。
にわか雨の合間をぬって売店に駆け込む。 -
変り種のドロップ。
長崎ちゃんぽん飴とミルクセーキ飴を購入w -
門司側から下関側を見渡す。
-
ついに九州ともお別れです。
ここから渋滞を避けつつ中国道を上ります。 -
福井の次男のアパートに到着したのは午前3時。
次男の部屋でしばし仮眠し、
自宅にたどり着いたのは翌日の午前11時。
全走行距離2,433kmの旅でした〜
長崎の皆さま、ありがとうございました〜
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