2011/08/26 - 2011/08/26
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みにくまさん
広島旅行初日、まずは原爆ドームを見るために平和記念公園へ行ってきました。
ここには高校の修学旅行・2007年の個人旅行に続き3回目の訪問となります。
◎ 関連旅行記
2007/10/01 ① 広島旅行1日目 市内観光 「平和公園」
http://4travel.jp/traveler/minikuma/album/10231186/
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平和記念公園・原爆ドーム
◎ 平和記念公園
1945年8月6日、アメリカ軍が投下した原子爆弾は、広島市を一瞬にして壊滅させた。
第二次世界大戦後の1949年同日、「広島平和記念都市建設法」が制定された。世界に向けて人類の平和を願い訴える目的と過去の過ちを繰り返さないために、爆心地に近いこの周辺に公園の建設が計画され、1954年4月1日に完成した。設計は丹下健三。
毎年8月6日には平和記念式典が開催され原爆が投下された午前8時15分には黙祷が捧げられる。式典では、市内中学校、高校の吹奏楽部による「ひろしま平和の歌」の伴奏、広島市の合唱団等による合唱が行われる。
2007年2月6日に国の名勝に指定された。戦後完成した公園・庭園として初の例である。このときは平和公園の中央部分のみの指定であったが、2008年3月28日には公園全体に指定部分が拡大された。 -
平和記念公園・原爆ドーム
◎ 平和記念公園
原爆死没者慰霊碑、原爆供養塔、平和の鐘、原爆の子の像、レストハウスなどが主な建築物。
南側に広島平和記念資料館、広島国際会議場、北東に原爆ドームがある。 -
平和記念公園・原爆ドーム
◎ 世界遺産 原爆ドーム
原爆ドーム(英: Atomic Bomb Dome)の名で知られる広島平和記念碑(英: Hiroshima Peace Memorial)は、日本の広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑(被爆建造物)である。
元は広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、特に負の世界遺産と呼ばれている。 -
平和記念公園・原爆ドーム
◎ 世界遺産 原爆ドーム
1945年8月6日午前8時15分17秒(日本時間)、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾を投下した。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約580メートルの地点で炸裂した。
原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達した。0.8秒後には前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風(参考として、気温30℃時の音速は秒速349メートルである)が襲い、350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされた。このため建物は原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊したが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、枠組みと外壁を中心に残存した。 -
平和記念公園・原爆ドーム
◎ ドーム部分が全壊しなかった理由
・衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと
・窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける(ドーム内部の空気圧が外気より高くならない)条件が整ったこと
・ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったこと。銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなったこと
などが挙げられている。
ドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃を受けなかったため、爆心地付近では数少ない被爆建造物(被爆建物)として残った。 -
平和記念公園・原爆ドーム
◎ 世界遺産への登録 ①
1992年に日本政府が世界遺産条約を受諾したことを契機に、同年9月に広島市議会が「原爆ドームを国の世界遺産候補リストに登録するよう要望する」意見書を採択。市長は翌年1月に要望書を文化庁に提出した。全国的な署名運動も始まり、1994年に165万人分超の署名を添えた国会請願が衆議院・参議院両本会議で採択された。
1992年当初、日本政府は「世界遺産への推薦には『その遺産が国内法(文化遺産であれば日本では文化財保護法)で保護されていること』が条件」であるとしており、「原爆ドームは歴史が浅く、文化財に指定できないため、推薦要件を満たさない」として原爆ドームの推薦には消極的であった(しかし日本国外では、アウシュヴィッツや、アパルトヘイトに反対する政治犯を収容したロベン島、ベルリンのモダニズム集合住宅群など、「歴史が浅く」ても、国内法によって保護された上で世界遺産に登録された例は複数あった)。
文化庁が消極的だった背景には、アメリカや中国・韓国を刺激したくないという政治的配慮が強く働いていたが、結果としてこれが署名運動の盛り上がりにつながり、上記のような多数の署名者を得ることになった。 -
平和記念公園・原爆ドーム
◎ 世界遺産への登録 ②
1995年3月、文部省(当時)は文化財保護法に基づく史跡名勝天然記念物指定基準を改正し、同年6月に原爆ドームを国の史跡に指定した。これをうけて、日本政府は同年9月に原爆ドームを世界遺産に推薦した。
原爆ドームの登録審議は、1996年12月にメキシコのメリダ市で開催された世界遺産委員会会合において行われた。このとき、アメリカ合衆国は原爆ドームの登録に強く反対し、調査報告書から、「世界で初めて使用された核兵器」との文言を削除させた(アメリカ国民の中では「原爆使用は百万人のアメリカ軍将兵をダウンフォール作戦での戦没から救った」とする原爆投下を肯定的に捉えている傾向が強い)。また、中華人民共和国は、「日本は戦争への反省が足りない」として審議を棄権している。 -
平和記念公園・原爆ドーム
◎ 保存についての問題点
原爆ドームは単なる戦争遺跡というだけでなく、核兵器による破壊の悲惨さの象徴・人類全体への警鐘といったメッセージ性のある遺産という性格をもつため、保存に際しては「可能な限り、破壊された当時の状態を保つ」という特殊な必要性をはらんでいる。
作業は鉄骨による補強と樹脂注入による形状維持・保全が主であり、崩落や落下の危険性のある箇所はそのたびに取り除かれている。定期的な補修作業・点検や風化対策にもかかわらず経年による風化も確認されるが、他の世界遺産で施されるような一般的な意味での修復や改修・保全とは別種の困難が伴う。
また、日本列島は常に地震の脅威にさらされているため、保存工事では大型地震に対しての耐震性も考慮されている。ただし、耐震強度計算および工事計画はあくまでも理論上の数値に基づいているため、地震の規模や加重のかかり方が想定外の場合、崩落する危険性を常に抱えている。
なお2001年3月24日の芸予地震では、広島市中区は震度5弱の揺れに遭遇したが、この時は目立った被害はなかった。 -
平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
◎ 危機遺産への登録問題
2006年、原爆ドーム周辺の緩衝地帯で高層マンション建設計画が進んでいることが明らかになった。周辺の景観が破壊され、同様の景観問題を抱えていたケルン大聖堂のように危機遺産リストに登録されてしまうのではないかと問題になった(ケルン大聖堂の危機遺産リスト登録は、ケルン市が条例で建造物の高さを規制するなどして状況が改善されたため2006年をもって解除)。しかし、原爆ドームは大聖堂と異なり負の世界遺産であり、原爆ドームの存在が都市の発展を阻害するという状況はむしろ本末転倒ではないかという声もある。
※ 「負の世界遺産」という表現そのものには厳密な定義はないが、他にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所や、バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群などがその例とされる。 -
平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
◎ 旧広島県物産陳列館
竣工 1915(大正4)年4月5日
建立者 広島県(1953年に広島市へ譲渡)
設計者 ヤン・レツル(現在のチェコ出身の建築家)
形状 レンガ(一部鉄筋コンクリート)モルタル仕上げ、玄関部分は石造りで地上3階一部5階建て、地下1階のセセッション様式と呼ばれる建築物で曲面を多用しているのが特徴。 -
平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
★ トップ写真 ★
あまり私は極端な写真の加工をしないのですが、今回は特別にアレンジしてみました。 -
平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・動員学徒慰霊塔
第二次世界大戦中、労働力の不足を補うため、勤労奉仕に動員され戦禍にたおれた学徒と、原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒の霊を慰めるために建設されました。
建立 1967(昭和42)年7月15日
建設者 広島県動員学徒犠牲者の会
設計者 村田相互設計 円鍔(えんつば)勝三 -
平和記念公園・動員学徒慰霊塔
平和の女神像と8羽のハトを配した高さ12mの有田焼の陶板仕上げで、末広がりの5層の塔の中心柱に慰霊の灯明がついている。
塔の左右にある4枚のレリーフは「食糧増産作業」「女子生徒の縫製作業」「工場における作業状況」「広島の灯ろう流し」を表し、その裏に全国戦没学徒出身校352校の校名と動員学徒悼歌“ほのお果てては”が記されている。 -
平和記念公園・動員学徒慰霊塔
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平和記念公園・原爆ドーム
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平和記念公園・平和の灯
建立 1964(昭和39)年8月1日
建立者 平和の灯建設委員会
設計者 丹下健三(当時・東大教授)
◎ 建立の目的
水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求するため。
◎ 燃えつづける火
この火は、1964(昭和39)年8月1日点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっています。
◎ 広がる平和の灯
毎年、核兵器廃絶と被爆者援護の充実を訴えて、広島県内の市町村を一周する「平和の灯リレー」が行われています。また、1994(平成6)年に広島市で開催されたアジア競技大会の聖火に点火されるなど、各種行事において平和のシンボルとして採火されています。 -
平和記念公園・原爆の子の像
建立 1958(昭和33)年5月5日
建設者 広島平和を築く児童・生徒の会
制作者 菊池一雄(当時・東京芸大教授)
三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像(平和な未来への夢を託している)が立ち、左右に少年少女の像(明るい未来と希望を象徴)がある。(高さ9m) -
平和記念公園・原爆の子の像
◎ 碑文
「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」
◎ 折り鶴台(ブース)の整備
この「原爆の子の像」に捧げられる数多くの折り鶴を雨露から守るため、2002(平成14)年4月に、像の周囲に新たに屋根付きの折り鶴台(ブース)が整備されました。 -
平和記念公園・折り鶴台
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平和記念公園・折り鶴台
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平和記念公園・折り鶴台
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平和記念公園・折り鶴台
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平和記念公園・折り鶴台
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平和記念公園・折り鶴台
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平和記念公園・折り鶴台
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平和記念公園・原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)
建立 1952(昭和27)年8月6日
建立者 広島市
設計者 丹下健三(当時・東大助教授)
世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して設立したもの。
◎ 碑文
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」(雑賀忠義)
◎ 原爆死没者名簿
中央の石室には、国内外を問わず、原子爆弾に被爆し、亡くなられた方の名前を記帳した原爆死没者名簿が納められています。名簿は関係者の申し出により書き加えられ、2010(平成22)年8月6日現在で、97冊(269,446人の名前が記帳された96冊と「氏名不詳者 多数」と記された1冊)になっています。
◎ おしまい
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