2011/08/20 - 2011/08/20
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morino296さん
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久々の京都、朝の散歩を楽しみました。
この日は午後から、高校時代の仲間と美山へ行くため、午前中だけのフリータイム。
ホテルで見つけた「龍馬と歩く京のまち」(京都市産業観光局発行)を参考に、幕末の志士たちが奔走した待ちを歩いてみることにしました。
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六角堂 山門
7:30過ぎにホテルを出発。
烏丸通りから六角通りを東へ入るとすぐに立派な山門があります。
この前は何度も通っていたのですが、お参りするのは初めてです。 -
六角堂 手水舎
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六角堂 本堂
寺号は紫雲山頂法寺。聖徳太子創建、いけばな発祥の地。
六角堂の北面に、太子が沐浴されたと伝えられる池跡があり、この池のほとりに小野妹子を始祖と伝える僧侶の住坊があったので「池坊」と呼ばれるようになりました。
池坊の祖先は、朝夕宝前に花を供えてきましたが、ついには代々いけばなの名手として知られるようになり、いけばながひろがりました。
現在は、いけばな研修のための道場・教室や、財団法人池坊華道会があります。 -
六角堂 本堂
本尊は聖徳太子の護持仏といわれる一寸八分(約5.5cm)の如意輪観世音菩薩です。
「西国三十三所巡礼」の十八番目の札所です。また、「洛陽三十三所巡礼」の一番目の札所でもあります。 -
六角堂 境内の石仏
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六角堂
六角堂の隣にあるビルの上から六角形の本堂が確認できます。
六角堂の詠歌に「わが思う心のうちは六の角ただ円かれと祈るなりけり」とありますが「六の角」とは六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって生ずる六欲のことを言います。人間の欲望、つまり煩悩を脱して角を無くし、円満になること。つまり「六根清浄を願う」という祈りを込めて六つの角を造ったと伝えられています。 -
六角堂 石不動
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六角堂 鐘楼
六角通り南側の隔てた場所にあります。
第二次大戦の金属供出によって失われた鐘は、地元の寄金で昭和29年に再鋳されたものです。
その鐘楼には、燭台や木株が置かれ、花をいけられるようになっています。
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誓願寺
六角通りを東に進み、新京極まで来ました。 -
誓願寺
本尊は阿弥陀如来。
誓願寺は飛鳥時代、天智天皇6年(667)、天皇の勅願により創建。
もともとは奈良にありましたが、鎌倉初期に京都の一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川)に移転し、その後、天正19年(1591)に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在の三条寺町の地に移されました。
清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺として知られるそうです。 -
誓願寺 境内にある扇塚
由来によれば、
世阿弥の作と伝えられる謡曲「誓願寺」は、和泉式部と一遍上人が主な役となって誓願寺の縁起と霊験を物語ります。
この謡曲の中で、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることが、能楽をはじめ舞踊など芸能の世界で尊崇され、江戸時代から誓願寺へ参詣するその筋の人が数多くありました。特に舞踊家が多く、文化・文政・天保(1804−44)のころに京都で活躍した篠塚流の祖・篠塚文三郎(梅扇)は、幸若の系を引く能楽的な色彩と歌舞的な色彩を調和させた優れた芸風を示したといわれ、天保年間には山村舞とともに京阪で大いに流行しましたが、彼ら舞踊家の中に誓願寺の和泉式部信仰がありました。
その信仰を、昭和・平成の時代まで伝承した舞踊家がありました。誓願寺の「扇塚」に芸道上達を祈願して「扇子」を奉納することには、このような深い歴史的な意味が秘められているのであります。
また誓願寺第五十五世、策伝日快上人(1554−1642)が「醒睡笑(八巻)」を著作して落語の祖と仰がれておられることも、「扇子」との強い絆を保持するゆえんであります。 -
誓願寺 奉納された扇子が並びます。
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本能寺
寺町通りを北に上がります。 -
本能寺 織田信長廟
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京都市役所前
河原町通と御池通の交差点です。 -
京都オークラホテル
長州屋敷跡に建っています。 -
桂小五郎像
京都オークラホテルの河原町通側にあります。
桂小五郎(木戸孝允)は、維新三傑の一人。芸妓・幾松との恋物語でも知られます。 -
長州屋敷跡碑
ホテルオークラの前にあるのですが、建物の陰でちょっとわかりにくいです。
傍にある解説によれば、
高瀬川一之舟入の南側から御池通までの、河原町通から木屋町通に至る一帯が、江戸時代初期に長州藩毛利氏の藩邸が置かれたところで、幕末維新期の重要な政治拠点となった。
藩邸は、初め南北2か所に分かれ、北側屋敷は表口39間(約70m)、裏行31間(約56m)、南側屋敷は表口30間(約54m)、裏行8間(約14m)に及んだ。
元治元年(1864)、蛤御門の変で会津・薩摩を中心とする朝廷、幕府側に敗れた長州藩は、自らこの邸内に火を放ち京都を逃れたが、邸内の放火はたちまち市中に延焼し、数日間にわたり燃え続けたという。 -
鴨川 御池通からの眺め
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桂小五郎・幾松寓居跡
現在は、旅館幾松となっています。 -
桂小五郎・幾松寓居跡
桂小五郎(木戸孝允)は、花街三本木の芸妓幾松と恋仲となり、時に新選組に追われながら苦難の時代を過ごした。両人は鴨川西岸に住み、蛤御門の変のあとには新選組に追われて、幾松の機転で助かったこともあると伝える。幾松は維新後木戸孝允夫人松子となり、明治10年(1877)夫を亡くした松子は剃髪して翠香院と号し京都に住まい、明治19年(1886)44歳で没した。 -
佐久間象山・大村益次郎遭難之地碑
旅館幾松の前、高瀬川の対岸にあります。
左が大村益次郎、右が佐久間象山。 -
高瀬川に沿って南に下ります。
この辺りには、加賀藩邸があったそうです。
高瀬川は京と伏見、大坂をつなぐ重要な水運ルートであり、深夜の入洛や逃亡に便利であったことから、幕末の志士たちの寓居が多かったようです。 -
佐久間象山寓居之址碑
駐車場の看板に隠れて通り過ぎてしまいました。 -
武市瑞山先生寓居之跡碑
現在は、金茶寮という川床・京界石の店です。
幕末には、ここに「丹虎」という料亭があり、その離れ屋敷(鴨川縁)が、土佐の志士である武市瑞山(半平太)の在洛中の居でした。
武市瑞山(半平太)は土佐藩郷士で江戸に学び尊王攘夷を志し、土佐勤王党を結成。
藩内の主流であった公武合体派を退け藩論を尊王攘夷に導いた。
文久2年(1862)山内容堂に従い上洛、この地に住んで応接役として各藩士と交わったという。
翌年京都留守居役となったが、8月18日の政変以後、尊王攘夷派は弾圧され、9月に土佐で投獄され、慶応元年(1865)切腹を命じられた。 -
吉村寅太郎寓居之址
木屋町三条上ル 幕末の勤王志士・吉村寅次郎が文久3年(1863)に仮住まいをしていた場所。
この辺りは、高瀬川の舟運によって賑わい、幕末の志士たちの絶好の隠れ家となったところ。
吉村寅太郎は、土佐藩の庄屋に生まれ、武市瑞山(半平太)に剣術を学び、尊攘思想に傾倒し、武市が土佐勤王党を結成すると加盟。
久坂玄瑞・平野国臣らと交流し尊攘倒幕思想に影響を受ける。
文久2年(1862)坂本龍馬らと脱藩して上京し国事に奔走するが、寺田屋事件で捕えられて土佐に送還され投獄される。保釈後、再度上京、武市の寓居「丹虎」の隣に居を構える。
文久3年、侍従中山忠光らと天誅組を組成し、大和国で倒幕の兵をあげ、五條代官所を占拠するが、8月18日の政変で情勢が一変、幕府軍の攻撃を受け、文久3年(1863)9月大和国吉野で戦死。(解説より) -
佐久間象山・大村益次郎遭難之碑
高瀬川三条小橋の袂にあります。
佐久間象山
信州松代藩の出身。儒学や朱子学を修め、西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力。彼の塾からは、勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬ら傑物を輩出。元治元年に上洛し、開国論を唱えて公武合体に努めたため、同年7月ここで攘夷派の刺客に斬殺されました。
大村益次郎(旧名は村田蔵六)
長州藩出身で梅田幽斎や緒方洪庵に医学、蘭学を学び、兵学者となりました。長州藩の兵制改革で功績をあげて新政府に入り、維新後、兵部大輔に任命され、近代兵制樹立に尽力。しかし廃刀論で士族の反感を買い、明治2年、三条木屋町にて反対派士族に襲われ、敗血症で亡くなりました。 -
池田屋騒動之址碑
古高俊太郎の捕縛で発覚したクーデター計画を阻止すべく、元治元年(1864)6月5日、新選組が池田屋で密談していた志士を急襲。
突入した新選組は近藤勇、沖田総司ら4人。志士たちは20人以上いたが、9人の死者をだし大多数が捕縛された。 -
旅館・池田屋の址は、居酒屋となっています。
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瑞泉寺
三条木屋町、三条小橋のすぐ南にあります。 -
瑞泉寺
太閤記の寺、豊臣秀次一族の墓所。
豊臣秀吉の甥の豊臣秀次の菩提を弔うために建立された寺です。
秀次は、今年のNHK大河ドラマ「江」にも登場し、切腹させられたシーンが放送されていました。 -
瑞泉寺 山門の扁額「漸到確境」
この門の中には、「漸く確かな悟りの境地に到った人々の霊位が眠る」との意訳が添えられていました。 -
瑞泉寺 境内
豊臣秀次(母ともは秀吉の実姉)は秀吉の養子となって関白を継ぎましたが、秀吉に嫡男秀頼が生まれたことから疎んじられ、秀吉の命により文禄4年(1595)7月高野山にて自害させられました。
そして8月には、秀次の子女、妻妾たち39人が三条大橋西畔の河原で死刑に処せられた。遺骸はその場に埋葬、石塔が建てられていたが、その後、鴨川の氾濫などで荒廃。
慶長16年(1611)角倉了以(すみのくら・りょうい)が高瀬川の開削中にこの墓石を発掘、墓域を再建し、堂宇を建立したのがこのお寺の起こりだそうです。
僧桂叔を開基とし、寺号は秀次の法号、瑞泉寺殿から瑞泉寺と名付けられました。本堂には阿弥陀如来を安置し、寺宝として秀次、妻妾らの辞世の句を蔵しています。 -
瑞泉寺 休憩所には関係資料が展示されています。
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瑞泉寺 地蔵堂
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瑞泉寺 地蔵堂
中央の地蔵菩薩像は、秀次一族の処刑の際、四条・大雲院の僧貞安上人が刑場の一隅に持ち込み引導を授け続けたといわれる引導地蔵尊です。
左右の脇壇に安置する人形は、寺宝「秀次並びに一族・三幅」に描かれた女性と子供、殉死した家臣の像を写したもの。
昭和16年、松下幸之助らの財団法人「豊公会」が秀次一族没後350年の記念事業として、地蔵堂の改修や五輪塔の奉立などとともに作られたものだそうです。 -
瑞泉寺 前関白豊臣秀次公墓
中央の秀次の墓を中心に女、子供たちの小さなお墓が両側に並びます。 -
瑞泉寺 石塔「寶篋印塔」
元文5年(1740)建立。
塔身に刻まれた経文の最後に
「伏して祈る 願わくばこの塔の功徳を以って この世の全ての人々が苦しみから平等に救われますように」とあり、秀次一族の供養のために建てられたものと思われるそうです。 -
瑞泉寺 本堂
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高瀬川
龍馬通から。 -
酢屋
龍馬通にある坂本龍馬寓居趾・海援隊屯所跡「酢屋」。
享保6年より創業288年続く材木商の屋号。
江戸末期の商家の面影を伝える風格のある建物。
龍馬は、2階に海援隊京都本部を置き、定宿としていた。
現在は、「ギャラリー龍馬」となっています。 -
先斗町 歌舞練場
酢屋から少し東に歩き、先斗町の小路へ。 -
先斗町通
土曜の朝9:30過ぎ、一日で一番静かな時間帯ではないでしょうか。 -
先斗町
先斗町通から路地を抜け木屋町通に戻ります。
幕末の志士たちも、このような路地を行きかったのでしょうか。 -
角倉了以(すみのくら・りょうい)顕彰碑
角倉了以が開削した高瀬川沿い、元立誠小学校の玄関脇にあります。
昭和60年(1985)、高瀬川開削375年記念に建立されました。
戦国期の京都の豪商。
朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城の大堰川、高瀬川を私財を投じて開削。
また幕命により富士川、天竜川等の開削を行った。
商人と言うより琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名である。(Wikipediaより) -
元立誠小学校の玄関
高瀬川 夏祭り灯籠流し盆踊り の提灯が下がります。 -
高瀬川 元立誠小学校の前の流れ
この小学校あたりは、江戸時代土佐藩の藩邸があったそうです。 -
日本映画発祥の地
元立誠小学校の前に建てられています。 -
本間精一郎遭難之地
木屋町四条上ルにあります。
本間精一郎は越後の商家に生まれ、江戸に出て勉強し、安政大獄ののち京都にのぼって尊王攘夷運動に身を投じた。どの藩にも属さなかったので自由に行動することができ、急進派に属した。しかし急進派の動きは伏見寺田屋の変でくじけ、精一郎はその頃から酒色に身をもちくずして、同志からも次第にきらわれるようになった。先斗町で遊んだ帰り道で襲われ、この南側の瓢箪路地を木屋町へ逃げようとしたが、はさみ討ちにされ惨殺された。時に年29才であった。 -
土佐稲荷・岬神社
高瀬川に架かる蛸薬師橋を渡って木屋町から河原町通に向かう途中にあります。
江戸時代には土佐藩邸内にありましたが、明治維新により土佐藩邸が売却され、神社も移転することになりました。
その後、幾多の変遷を経て、明治20年現地に移り、大正2年(1913)社殿が建立されたそうです。 -
土佐稲荷・岬神社
龍馬の銅像が立っていますが、龍馬にあやかろうと銅像を刻んで持って帰る人が多かったので、銅像は無残な姿になっていましたが、最近になって新調されたそうです。 -
坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地
河原町通にある近江屋(醤油屋)跡、現在はコンビニとなっています。
慶応3年11月15日に龍馬や慎太郎が暗殺された近江屋事件の現場。
今では、この石碑があるだけなので、気づかずに行き過ぎてしまいます。
龍馬はそれまで宿舎としていた薩摩藩の定宿であった寺田屋が幕府に目をつけられ急襲(寺田屋事件)されたため、三条河原町近くの材木商鮓屋を京都での拠点にしていたが、そこも幕府側に知られたため、慶応3年11月3日に近江屋に移った。11月13日、伊東甲子太郎が尋ねてきて、新選組に狙われているので河原町三条の土佐藩邸に移ったらどうかと勧めたが、龍馬は間近の近江屋に留まった。
11月15日夕刻、中岡が近江屋を訪れ、三条制札事件について話し合う。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出た。元力士の山田藤吉は客を龍馬に会わせようとするが後ろから斬られた。刺客は音もなく階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入し、龍馬は額を斬られた。(Wikipediaより) -
古高俊太郎邸址碑
四条通から一本北の細い路地を東に入ったところにあります。
古高俊太郎は、近江国大津生まれの幕末の勤皇志士。
新撰組に捕えられたことが、池田屋騒動の契機となりました。
勤王志士の一人、湯浅五郎兵衛の依頼で湯浅喜右衛門の養子となり、枡屋湯浅喜右衛門と変名して、この地に「枡屋」を構えたそうです。
密かに武器を集め、同士と連絡を取って援助をするなど、多くの志士が集う倒幕活動の拠点となっていました。
しかし、元治元年(1864)、新選組に捕縛され壬生の屯所で過酷な拷問を受けたとされ、これが三条小橋の池田屋における「池田屋事件」の端緒となったと言われます。 -
中岡慎太郎寓居之地碑
河原町通のあぶらとり紙の専門店にありますが、気付かずに通り過ぎてしまいました。 -
中岡慎太郎寓居之地碑
土佐藩郷士で坂本龍馬とともに薩長同盟成立に活躍した中岡慎太郎は、近江屋と通りを挟んで目と鼻の先である土佐藩御用達書林菊屋(鹿野安兵衛宅)に住んでいました。
この菊屋の息子は、龍馬と慎太郎が近江屋で暗殺された当日、龍馬に軍鶏を買ってくるように言付けられた峰吉で、事件発生後の第一発見者となりました。
これで「龍馬と歩く京のまち」三条〜四条界隈の史跡めぐりは終わりです。
10:00過ぎ -
そめどの地蔵
四条通寺町にあり、地元では「そめどのさん」と、親しまれている「安産祈願」のお地蔵さんです。
甘栗で有名な林万昌堂の奥にあるため、これまで素通りしていたようです。
この辺り一帯は当時の権力者、藤原良房の屋敷地であったため、世間では良房の邸宅を「染殿」と称していたことから、その名が付いたと言われています。 -
そめどの地蔵 染殿院
よこの出入り口は新京極の商店街にあります。
この後は、錦市場を抜けてホテルまで戻ります。 -
永楽屋 細辻伊兵衛商店
室町三条にある本店の前を通りかかり、ちょっと覗いてみました。
明治から昭和初期にかけて作られた手ぬぐいを復刻したそうです。 -
室町通で見かけた飾り物
友禅の林藤だったように思います。 -
今回、宿泊した京都ガーデンホテル(烏丸御池)
なんとシングル1泊3,900円、驚き値でした。
京都の中心で、この値段はGood!
京都散歩、龍馬と歩く京のまち、幕末の志士たちが奔走した街角を垣間見ることができました。
預けていた荷物をピックアップし、京都駅へ向かいます。
12:30、八条口のホテル京阪の前で高校時代の仲間と待ち合わせ、美山へ向かいます。
(おしまい)
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この旅行記へのコメント (6)
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- ElliEさん 2011/09/15 05:26:08
- 本能寺って町中にあったんですね
- こんにちは!
本能寺は知っていても、どこにあるかは知りませんでした。
なんとなく、京都の端にあるものだと思ってましたが、
こんなに町中だったんですね〜。
私の勝手なイメージはどうやってわいたものやら。
良いお勉強をさせてもらいました。
hastings 改め ElliE より
- morino296さん からの返信 2011/09/15 06:53:56
- RE: 本能寺って町中にあったんですね
- ElliEさん
こんにちは。
書き込み&投票、有難うございます。
本能寺、商店街の横にある感じです。
元々は、別の場所にあったようですが。
次の帰国予定は、いつ頃でしょうか?
昭和記念公園ファン倶楽部コミュの皆さんも心待ちにされていますよ。
次回は、コスモスの撮影会も企画されていますので、タイミングが合えば良いですね。
morino296
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- rokoさん 2011/09/06 21:37:00
- 竜馬の足跡
- 296さん こんばんは
たった半日でずいぶん訪ね歩かれたのですね、
この辺りは何度も歩いてますが、知らないことがたくさん
丁寧に説明していただき、ありがとうございます。
本能寺は若かりし頃いけばなの本能寺未生流のお免状をいただいたお寺さんです。
酢屋などあの界隈は歩きました、桜の頃です。
木屋町辺りは京都らしい雰囲気がありますね。
泊まられたホテル、よかったみたいですね、
美山はいかがでしたか〜
roko
- morino296さん からの返信 2011/09/06 22:30:25
- RE: 竜馬の足跡
- rokoさん
こんばんは。
いつも有難うございます。
そして、この度は大変お世話になり有難うございました。
rokoさんのお膝元にお邪魔しました。
午前中という時間の制約がありましたので、あまり遠くまでは行けず、
三条から四条を散策しました。
これまで、なんとなく歩いていたところに、思いがけぬ史跡があり、
改めて京都の町を楽しめました。
美山、とても良かったですよ!
旅行記にUPできる写真が少なくて、ちょっと戸惑っているのですが。
morino296
-
- CANさん 2011/08/30 23:42:27
- 龍馬の足跡
- こんばんは!CANです。
「龍馬と歩く京のまち」いいですね〜。
でも龍馬の足跡がこんなに京都にあるんですね。
私も先日京都を訪れたときに、偶然龍馬が暗殺された「近江屋」見つけました。
NHKの龍馬伝をみていたので、あの跡がまさかコンビニになっているなんて・・
且つ、何度もあの前を通っていたのに、全く気が付きませんでした。
良い散歩できましたね!
- morino296さん からの返信 2011/08/30 23:51:26
- RE: 龍馬の足跡
- CANさん
こんばんは。
いつも有難うございます。
私も、河原町通、木屋町通、何度も通っているのですが、
案外見落として素通りしていたようです。
龍馬伝を思い出しながら、楽しめました。
morino296
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