2011/08/13 - 2011/08/18
75位(同エリア259件中)
きっちーさん
瀋陽市内から、頻繁に行き来している乗り合いバスで、2時間チョイ。
歴史ある炭鉱の街、『撫順』へ行きますぞ!
古代王朝を育んだ瀋陽に比べると、観光地としてはマイナー部類ですが。
お洒落な観光地スポットとして知られずとも、撫順は日本と関わり深い土地です。
そう。
行かずばなるまい。
1932年9月16日、ちいさな村落が丸ごと消失した事件。
皇軍によって引き起こされた惨案、『平頂山事件』を知るために。
学生時代に読んだ、かっつー(注:本多勝一)の『中国の旅』以来、南京と並んで1度は訪れたいと強く願っていた、場所。
「いつか、実際の現場に立たなくては」
焦燥にも似た子どもの原動力を、しつっこく34歳まで引きずったんですから、そーとう心に焼き付いていたんでしょうね(笑)。
ちなみに、瀋陽故宮とあわせて今回の一連の旅行記タイトルのメインが、この撫順の平頂山地区になります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 家族旅行
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 高速・路線バス タクシー 徒歩 飛行機
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
「途中でおなか痛くなったらどうするの?バスの中にトイレあるの?トイレ休憩は・・」
「すぐにつくから。ダイジョブ、ダイジョブ」
「あんたはホントいい加減なんだからっ」
旅先での移動となると、トイレのことばっか気にして、思っきしテンション低いママ上を宥めすかして、瀋陽駅までやってきます。 -
宿泊している遼寧賓館から、瀋陽駅までは徒歩で17分ほど。
赤煉瓦がまぶしい、瀋陽站(駅)が見えてきました。 -
駅正面に向かって左手に建つ、やはり赤いレンガのビル。
その角に、撫順往きの乗り合いバスが停まっています。
←曲がり角に停車しているバスがそうです。
たまに『○○の迷い方』になる某有名ガイドブックですが、今回はバッチ☆ -
バスの前では、ラフなスタイルのおいちゃんが、「撫順、撫順往きだよーっ!」と声を張り上げています。
「えと〜、到、撫順。リャンジャン、ピャオ」(撫順までの切符2枚)
声をかけると、
「ハンゴォ?」(韓国人)
目を丸くして訊ねられます。
どーしても、日本人に見られないな(笑)。
ひとり旅をしているときもそうなんですけど、韓流ドラマの影響・・・てか、失恋したように見えるのか(笑)?
中国でも韓国ドラマチャンネル数は多いし、アジア系旅行者=韓国の人。
そんな韓国の人は、なにか傷心を抱えると外国留学したり、旅に出るステレオタイプってなくないす?
中国語が不自由だと知れると必ず、まじまじと見返されて、
「どこの人?(この場合はイントネーションが異なる中国の地方出身者も含む)外国人?ひょっとして韓国の人?」
ときかれます。
もう慣れたけど。 -
「不是ハンゴォ。我是、ルィーベンレン(日本人)」
最初のころは、日本人と知れたら当然嫌がられるかもと、コリアンのふりしたり、中国の地方出身者を装ったりしてましたが。←オイ
旅を続けていると、日本で報道されるような悪感情を、中国の人から向けられることはまず無いし、それどころか女性に対してはかなり紳士なお国柄だということを実体験してからは、もう素直に「日本人です」と答えられるようになりました。
ひとり22元(約260円)の料金を支払い、おじさんからバス・チケットを受け取って、ママ上と乗り込みます。
中国でのこうした乗り合いバスでは、出発時間がとくに決まっておらず、座席が8割ほど埋まったら出発。
日本だと、電車でヒョイと行くような距離ですが、外国を旅しているとよほどの都市部をのぞけば、電車よりも路線バスで地域をつなぐのが標準的なようです。
韓国や台湾も、きめ細かいルートは列車に比べると、バスのが絶対つかえます! -
時間は9時をややまわったくらいでしたが、あんま乗客が集まらず、道路に即席看板を立てるおいちゃん。
使っているレンガは、道路工事用のを勝手に拝借してます。
いいのか(笑)?
30分ほど待たされて、ようようバスが動き出します。
瀋陽→撫順は、距離的には1時間ほどなのでしょうが、道路が事故車両で渋滞していたり、途中のバス停で人の乗り降りがあったりで、2時間以上かけて撫順市内に入ります。
バスに揺られる道中、舗装も無くバラックのような市場が密集する「まだこんな所があるのか・・」というような地区を走ったり、逆に福陵周辺の超高級住宅街を走ったり――。
格差の恐ろしさは、日本を含めどこの国でもギョッとなります。 -
いつの間にかゆれる車内でママ上同様、爆睡こいているうちに、撫順南站(駅)まえ広場の『撫順長距離客運站』に到着です!
「暑っつくなってきた!ここから遠いの?」
日傘を振り回して、まわりの通行をさまたげるママ上をタクシーに押し込み、
「我想去、『撫順平頂山惨案記念館』」
と運転手さんに頼みます。 -
駅からタクシーで10分ほど。
『撫順平頂山惨案記念館』の門が見えてきました。
撫順南站→撫順平頂山惨案記念館、タクシーで11元(約130円)。 -
記念館の周りは、商業施設などがまったく見られない、バリバリ郊外。
正面に伸びる道路は、車の行き来は若干あるものの、帰りの足が非常に心配です。
案の定、
「帰りはどうするの?」
ママ上が、いっそう不安顔になります。
まあ、少し先にバス停が見えてるし、交通量多いトコまでとりあえずバスで行って、タクシーに乗り換えるとか。
いざとなったら記念館の人に頼んで、タクシー呼んでもらうって手も・・。 -
幸い時間はたっぷりあるので、焦らずに見学しましょー☆
ゲート監視室のおじさんにパスポートを見せると、名前とパスポートナンバーを大学ノートに転記されます。
中国では、こういった戦争被害の記念館で、入場料を取る所は知りません。
南京でも、ハルビンでも、瀋陽でも、入場無料。
かわりに中国国籍者なら身分証明(IDカード)、外国籍者はパスポート提示が求められます。
入場チケットは、場所によって有ったり無かったり。
無料でも身分証明提示の際、きちっと入場チケットを渡されて、再度施設の受付でもぎってもらわなきゃいけない場合もあります。
撫順平頂山惨案記念館では、とくに発券はしていないようで、
「そのまま通ってください」
記載が済むと、そのままパスポートを返されます。
「謝謝」
おじさんに手を振って、日陰ナシの敷地を建物へ向かって歩き出します。
「ちゃんと日傘差しなさい。もう年なんだから、ますますシミが増えるわよ」
うるはいっ。
なにげに失礼なこと言うな〜。
つか、この不必要に広大な敷地面積に、中国の国土のデカさを感じる! -
さて。
ここまで引っ張っといて、「平頂山事件??」と疑問に思われる方もいらっしゃるかもなので、ちょっち解説を。
表紙で軽く触れましたが、中国東北地方有数の炭鉱都市撫順近郊の、まさにこの場所。
事件の現場となった「平頂山」集落の場所は、もとは採砂場でした。
小高い丘から砂を採り、撫順炭鉱の地盤沈下の予防などに使われているうちに、いつしか頂上が平らになり、やがてくぼ地に集落がうまれました。
「平頂山」集落の由来とされます。
1932年9月16日、炭鉱労働者や農家、小売業など、約400世帯3000人あまりが暮らしていた平頂山集落を日本軍が襲い、住民を皆殺しにしたうえ集落をすべて焼き払う陰惨な事件がおこりました。 -
当時、撫順には日本の国策会社満鉄の社員とその家族を含め、日本人が約1万8000人が暮らしており、中国人を酷使して炭鉱で掘り出された大量の石炭が、日本へ略奪されていました。
満州事変以降、上海・南京の都市部を中心とした、抗日集会や抗議集会が広がりをみせ始めると、中国東北地方でも抗日義勇軍が結成されます。
関東軍による厳重警戒のなか、事件前夜の9月15日深夜から16日未明にかけて、抗日義勇軍『大刀会』による撫順炭鉱攻撃事件が発生。
情勢にかんがみて警備体制を強化していたにもかかわらず、死者5名、負傷者7名を出し、面目を潰されたカタチとなった日本軍は、恐ろしい暴挙にでます。
大刀会が去ったあと、16日未明の独立守備隊の首脳会議で、
「大刀会が撫順鉱区へ進攻する際に、通った村の村民は派出所へ報告を怠った。ゆえに匪賊と通じている」
と判断し、
「徹底的に殺しつくし、焼きつくす」
という命令が下されます。 -
抗日義勇軍がたまさか通った村落を皆殺しという、とんでもない決定を下したわけです。
16日午前、数台の乗用車とトラックに分乗した、独立守備隊兵士と憲兵隊は、平頂山に向けて出発します。
集落へ到着すると、「記念写真を撮る」「匪賊の攻撃から住民を守る」と騙したり、脅したりして、住民を南西の崖下に追いたて重軽機関銃で一斉掃射。
倒れている住民のうえを隊列を組んで歩き、息のある者を銃剣で刺し殺し、集落に火を放ちました。
さらに、翌17日。
日本兵は、虐殺現場の死体の山をガソリンをかけて焼却。
数日後、今度は崖をダイナマイトで崩して遺体もろとも隠滅したのです。
こうして、村落丸ごとを標的としておこなわれた住民虐殺、『平頂山事件』は日本側の隠蔽工作にもかかわらず、2ヵ月後の11月15日には中国国内の新聞で報道され、国際連盟の理事会でも非難されました。 -
事件を覆い隠したい日本軍によって、奇跡的に生き残った住民に対しても、追跡が始まります。
平頂山事件は封印され、身の危険を感じた幸存者は名前を変えたり、家族にさえ平頂山出身であることすら明かせない状況が続きます。
日本の敗戦後、中国では国共内戦がおこり、引き続き政局の混乱のなかで、被害者の訴えを汲みあげる場はありませんでした。
そして、日中国交も長く途絶えたまま。
中国国内も、まして加害側の日本でも、平頂山事件は死者も生者の声さえも届かない、置き去りの時間へ埋没するかに思えました。
しかし、やられた側は忘れない―――。
日本でも、日中国交正常化以前の1971年6月、本多勝一記者が平頂山を訪れ、朝日新聞に連載された『中国の旅』で、事件をおおきく報じます。
まあ、うっかり生まれる前なんで、タイムリーには知らないのですが。
かっつーのルポはテーマ別に30巻の全集として書籍化されてますので、図書館などで読まれるとイイかなっと思います☆
ちなみにワタクシは、ヤフオクで(興味があるのだけですが)かっつー集を購入しまシタ!
けっこう新品同様で出品されてます。
話を戻します。
1996年、戦後補償を求めた、「平頂山事件訴訟」が東京地裁に提訴され、虐殺事件を奇跡的に生きのびた幸存者、
莫徳勝さん(当時7歳)
楊宝山さん(当時9歳)
方素栄さん(当時4歳、生まれたときの名は韓暁鐘だが事件後出身を隠すため名を変えた)
3人が弁護団と共に、平頂山事件を広く日本社会に知らしめました。 -
とりあえず、概要はそんな感じで!
さっそく、記念館を見学していきましょう!!
チケットは渡されなかったので、そのまま館内入り口の受付を素通りしたところ、カウンターの小姐に呼び止められます。
一応、ここでも再度身分証の提示が必要とのコト。
ママ上とそろってパスポートを見せると、小姐は普通にノートに記載してくれましたが、そばで覗き込んでいた制服のおじさんは、
「ルィーヴェンレン・・」(日本人かよ)
と、顔をしかめます。
うっ・・。
すいません。 -
いつもウェルカムな反応ばかりじゃないことは重々承知ですが、やっぱへこむな。
まあ、同じ中国の人でも、事件があった現場で暮らしてる人と、まったく違う地域に暮らしてる人じゃ、対日感情にも温度差って絶対あると思うし。
少々イヤな顔されるくらいは、事件のあった地元なら、こういった反応のほうが当たり前って気もします。
でもへこむな。 -
めげずに見学。
-
館内のパネル展示は、いきなり事件のことをつらつら追っていくのではなく、撫順炭鉱の歴史から入ります。
日本が入り込んでくる以前の、鉱山によって活気に満ちた地域のようすなども興味深いです。
そして注目は、事件が起こる背景となった、当時の炭鉱の悲惨な状況を丁寧に解説している部分。
抗日義勇軍『大刀会』が、なぜ中国労働者が働く炭鉱を襲ったのか、関連がイマイチ分かり難かったのですが。
←こーいうパネルを読むと、中国人労働者は奴隷労働に近い有様であったことが分かってきました。
子どもですら平気でこき使っていた日本の経営に、中国の人たちが怒るのも無理ないです。 -
館内展示は、ほかの施設同様、中国語・英語・日本語の並列表記です。
←「このシャトー系ラブホっぽい建物、何っ?」
軽く引いたら、これって当時の日本人の住まいだそうです。 -
これが、中国の人たちが暮らしていた集落。
-
韓国で日本の植民地時代の一般家庭の写真を見ましたけど、よく似たものを感じます。
ごく身近にある産業を収奪されきって、貧困の元に縛り付けられる暮らしは、やった側には想像もつかないものがあります。 -
大官橋で殺される抗日兵士。
あとでガイドブックを確認しましたが、名前が変わっちゃってるのか、「大官橋」って見つけられませんでした。 -
いよいよ平頂山事件のパネルに入ります。
旧暦8月15日中秋節(1932年9月15日)、中国三大節句であるこの夜は、1年で月が最も丸くなることから、円卓を囲む家族がひとりも「欠けない」ことを願い、縁起物の月餅を買ったりして、親族がつどう特別な日です。
のちに平頂山事件対日訴訟の原告団となる、当時4〜9歳だった方達の回想を読むと、事件前夜の中秋節は家族との食卓の思い出が滲んでいます。
深夜、パネルでは『遼寧民衆自衛軍』――当時の日本語新聞、撫順新報では『大刀会』――が、真夜中に撫順鉱山の日本侵略者と炭鉱施設を攻撃します。 -
←遼寧民衆自衛軍の襲撃を受けた、撫順採炭所。
ちょっと見づらいんですが、なんか色々ひっくり返ってます。 -
これが遼寧民衆自衛軍のルートです。
写真クイックで、デカくすると見やすいと思いますが〜。
赤旗のところが、集合地点。
濃い赤の矢印が、行きのルート。
爆発マークみたいのが戦闘箇所。
帰りは、点線赤矢印。
日本軍の動きは、ブルーの矢印です。
おおまかに遼寧民衆自衛軍は、3つのルートでゲリラ戦を仕掛けていたことが分かります。
つまり、平頂山集落以外の地域も通っているわけで。
もしかしたら、ほかの2つのルート上で名前が出ている集落の住民も、日本軍によって皆殺しにされていたかも知れないわけです。 -
炭鉱へのアタックに激怒した独立守備隊首脳部は、翌16日の早朝6時、小川憲兵分遣隊長執務室に集結。
その席で、川上精一中隊長が、
①大刀隊(大刀会)の撫順鉱区進攻は、栗家溝などの村を通った
②派出所の報告によれば、村の村民は知っていながら、派出所へ報告をしていない
③そのため大きな損失をこうむった
④村人は大刀隊と通じていると判断できる
⑤この場で、村の処理問題について相談したい
そう主張します。
これに対して、山下満男東郷採炭所労務係が「どう処理しますか?」とたずねると、「徹底的に殺しつくし、焼きつくす」という返答があったそうです。 -
川上精一中隊長(写真右)との協議のあと、小川憲兵分遣隊長(写真左)は別途憲兵隊の会議を招集します。
憲兵隊は、独立守備隊による平頂山住民虐殺実行行為・住宅の焼却・死体処理の「援護」を任務とすることを告げ、住民を集める具体的な方法が検討されました。 -
さらに、14名が集まった2度目の謀議がおこなわれます。
その席で、久保孚炭鉱次長から「抗日義勇軍に通じていた事実があっても、住民を殺しつくすのは反対だ」という意見が出されますが、川上中隊長は一蹴します。 -
住民虐殺の謀議に関わった首脳陣のプロフィール。
-
平頂山事件の首謀者ともいえる川上精一中隊長は、事件後帰国しているので、中国の法廷に立つことはありませんでした。
しかし日本敗戦後、極東国際軍事法廷に逮捕され、自殺しています。
皮肉なことに、2回目の謀議で住民虐殺に反対を唱えた久保孚炭鉱次長は、蒋政権下の裁判で死刑にされたそうです。(本多勝一集14) -
平頂山虐殺に参加した、撫順守備隊。
-
そして警察。
-
←4行目。
警察署長も、2回目の虐殺謀議から加わっていました。 -
殺戮部隊は平頂山集落に入る前に、小村『楊柏堡』で匪賊容疑の約20名を逮捕・虐殺し家を焼き払い、住民虐殺の謀議で名前を挙げられた『栗家溝』の住民も合わせて、平頂山へ追い立てました。
かっつーのルポによれば、「夜明けと同時に3台のトラックで第一陣がやって来て村を包囲」したのを、平頂山の幸存者が目撃しています。
やはり当時幼かった平頂山事件対日訴訟の原告たちも、平頂山の北の方角からトラックが数台やってきて、荷台から次々と日本兵が降りてくるのを目撃します。 -
かっつーは1971年の訪中で、50代〜60代(事件当時20代前後)の幸存者に聞き取りを行なっています。
いま2011年ですから、『中国の旅』取材時からざっと40年近く経っています。
本多記者が取材から24年後に再訪した時には、平頂山事件を証言された方々は、いずれも故人となっていました。
ただ、あらたな証言者を含め、現場を歩いてナマの声を拾っただけあって、平頂山事件のルポタージュは、いま読み返してもまったく時代の古さを感じさせません。
機会があったら、ぜひ読んでいただきたい本なんですけど。
ただひとつ、難点が。
どーしても平頂山集落の視覚イメージは、文章ではつかみにくい。 -
「戦時中の、中国の炭鉱地区郊外の集落」っていわれて、パッと思い浮かぶ人はそーんな居ないんじゃないでしょうか?
←そこで今回、おおいに助かったのが、この展示☆
平頂山集落のようすを描いた絵画を、壁一面に拡大したもの。
文章だと↓
中央に南北に走る大通りがあり、交差して東西につながる不規則な小道。
大通り沿いには800棟ほどの小さな家々に、約400世帯3000人あまりが暮らしています。
集落の西側は店舗が並び、主に炭鉱労働者相手の商売が盛んで、また平頂山集落は南側にある千金堡などの農村から、工場地帯へ農産物を供給する交易地としての賑わいも、うにゃうにゃうにゃ・・・―――。
・・・・まあ、ディテールは大事ですが、ぶっちゃけ絵で見せてもらったほうが分かりやすい! -
←反対側の壁。
9月16日。
平和な平頂山集落が一転して、住民は血を流して倒れ、民家には黒い煙が吹き上がっています。
徹底して踏みにじられたようすが、牧歌的な光景とは対照的に浮かび上がります。
手前には、機関銃が設置されて・・。
まさに、視覚的に現場を再現しています。 -
ここでも、曖昧だった部分がひとつ解消されました。
事前に読んでいた本で、つまずいた部分。
「平頂山は平らな地域だと書いてあるのに、突然『崖』が登場して、住民がそこへ追い立てられて殺されたって、どういう流れ???」
まったく意味がわかりませんでした。 -
崖といっても、谷になってるんじゃなくて、小高い丘のような斜面があったってコトなんですね。
ダイナマイトで、崖を爆破して村人を埋めたっていうのも、この絵を見てようやく理解できました。
細かいことなんですけど、現地に来て見聞きしたのをプラスすると、被害証言の中身により深く寄り添うことができます。 -
それにしても、おどろおどろしい絵です。
累々と折り重なり、死臭さえ漂うような遺体のさまを、執念深く奥の奥まで描写している、作品。
自分、絵画が大好きでフラっと画廊へ行ったり、旅行先でも美術館&博物館があれば時間の許す限りチェックしてまわるんですけど。
「この絵を描いた人は、どんな気持ちだったんだろうな〜」
しばし、見入ってしまいました。
壁に張り付いているのは、正確には絵画を引き伸ばした写真なので、ホンモノではないんですけど。
(実物はもっと小さい作品で、展示の最後のほうに飾ってありました)
まだ、どこかでうめき声が聞こえるような惨憺たる光景は、画家さんたちが希求する、鑑賞者を魅了する『独自の美の提示』とは対極のものに見えます。
どちらかっちゃ、淡々と事件を描写することに重きを置かれたジャーナリズム的な作品。
おそらく参照はされても、絵画そのもとして賛美はされないでしょう。
それでも、これを描きあげた画家さんの気持ちを聞いてみたいなーと感じました。 -
土砂に埋もれた平頂山の虐殺現場は、戦後25年近く経過した1970年7月、撫順市によって発掘調査が始まりました。
かっつーが、ここに取材に来たのが71年6月ですから、地元で本格的な調査が行なわれ始めて、ほぼ1年しか経っていない時だったんですね。
ほんの少し時間がずれていたら、当時の取材記事の中に平頂山事件は載っていなかったかも知れません。 -
現在、遺骨館で目にすることの出来る、発掘された遺骨のパネル。
-
撫順平頂山惨案記念館では、殺害された人々の遺骨写真を撮ることを禁止していません。
撮影禁止の表示もされていませんし、警備員さんも常駐していますが、セキュリティーチェックするようなことはありません。
遺骨館を見学されている中国の団体さんたちも、絶句しながらも写真を撮っていました。
ただ、自分にはどうしても写真を撮る気持ちになれなかったので、館内で紹介されているパネル写真を転写したものだけご紹介します。 -
日本人が「記念写真を撮る」と騙し、脅して、あつめた住民を皆殺しにし、白骨になった人々を・・・・日本人が写真に撮る?
シニカルなのは嫌いじゃないですが、これは酷すぎる。
つまんないこだわりかも知れませんが。
とてもじゃないけど、デジカメを向ける資格なんぞ無いっつーか。
ホントは、よく考えるとさして楽しくは無いこの旅行記に、目を通してくださった方々に「こんなだったんです!」って、納得して見てもらいたい気持ちはあるんですけど。
それでも、やっぱダメ!
冒涜しているようで、ホンモノは撮れなかった。
「あんた、ここはともかく遺骨館では写真なんか撮っちゃダメよ。失礼よ」
ママ上も同じ気持ちのようです。 -
ほかのトラベラーさんの中国旅行記を読むのはとても楽しいし、私なんぞ足元にも及ばない、中国語もペラペラなベテランがたくさんいらっしゃいます。
ですから、中国旅行好きだし得意だという方々のなかで、たった一人でもいいから現地へ足を運んで、自分の目で見ていただけたらなーと思います。
←写真は、平頂山の虐殺現場で奇跡的に助かった、韓樹林さんが証言を行なっている場面。
聞いている人たちが、体育座りをしている・・。
中国でも、グラウンドで話を聞く時は体育座りなんだろうか?? -
ちなみに韓樹林さんは、1971年のかっつーの平頂山事件の取材で、証言をされた方のおひとりです!
-
虐殺現場発掘時の、流れを追ったパネル。
さきほどのパネルでは、1970年7月から発掘とありましたが、ここでは71年とあります。
本格的に発掘作業が進められたのは、71年に入ってからなんでしょうか?
責任者や技術者のおじさんたちが、おそろいの帽子をかぶっているのが、なんか可愛いv -
土をどかして、区画ごとに発掘しているようす。
-
日本で発掘現場っていうと、腹の出た教授とガリガリの学生と、近所のおばあちゃん達が数人、スコップ持ってしゃがんでるイメージですけど。
すごい、人出!
学生さんも参加してるのかな?
写真を見ると、そーとうな人数が作業に携わったんですね。
次々と人骨が露出し始めます。
ところで、土から出た遺骨というのは、風化が進んでしまうのだそうです。
なので、掘り出された遺骨には防止の塗料が施されているそう。 -
集落丸ごと地図から消された平頂山事件は、こうして徐々に解明が進められましたが、この事件の前後して皇軍に襲われた他の集落については、いまだ不明な点が多いそうです。
平頂山集落に入る前に、約20名が逮捕・虐殺され、家々が焼き払われた、『楊柏堡』。
謀議で名指しされた『栗家溝』住民が、平頂山へ追い立てられた、という証言もあります。
遺骨の群れの中には、そうした知られざる人々も入っている可能性があるのです。
平頂山の隣村『千金堡』では、惨劇を聞いた住民が避難を始めていましたが、逃げ遅れた約40名が殺害されています。
さらに中国側の証言で、平頂山事件のあと日本軍には撫順の周囲10キロ以内の全村を一軒残らず焼き尽くす計画があり、一村へ実行されましたが、炭鉱経営者から「これ以上の破壊と虐殺を続けると人手が足りず、経営面で困る」と申し入れがあり、他の村は難を逃れたというものまであります。
虐殺や住居・財産の焼き討ちは、平頂山のみで局地的に起きた事件ではなく、前後して続けられていたことが浮き彫りになります。 -
「瓦の一部?」
発掘品の展示コーナーです。
ガラスケースに入った、黒い模様の入った物体。 -
私も大好物、月餅!!!
持って逃げた人がいたのかなあ。
なんだか、落ち着かない気持ちです。 -
「やだ、恥ずかしい!」
ママ上が声を上げます。
「どしたの?」
「見てよ、これ」
おう!
かっつー(注:本多勝一)じゃん!
恥ずかしいって何が??
「こういう写真までサングラスかけるなんて、恥ずかしいと思わないのかしら」
ええっ?
そこ?
イヤ、それは時代的なものもあるのでは(汗)。
たとえば、藤子不二雄Aのサングラス。
ゴルゴ13のはみ眉サングラス。
タモさん構成要素一部なサングラス。
ハワイ帰りの芸能人アイテムなサングラス。
港署タカ&ユージの・・(横浜ネタv)。
たぶん、そんな時代臭漂うノリなのでは?
わかってあげないと。
「いいえ、分かんないわー!」
かっつー可哀相。 -
価値観(サングラス)の相違で、分かり合えないママ上と本多記者。
ルポ『中国の旅』が、日本における平頂山事件のターニングポイントであったという認識は一致しているらしく、かなりのデカ写真です。
ちゃんと丁寧なプロフィールもあがってますね。 -
←日本側からのアクションは、古くてもちゃんと紹介してくれています。
名古屋テレビ局の取材。
関東人なもんで、関西のテレビ事情は分かんないのですが、ハルビンの『侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館』にも名古屋テレビがむかし撮影に来たパネルがありました。
ちょっとー!
どうなってるの、関東テレビ系列は!
負けてる、負けてる。 -
負けてる関東テレビ局のかわりに、ワタクシめがひと役かいまっせ☆
ピ、ピントがっ!! -
くそっ!
ダメだ〜。
見づらくて、スミマセン(汗)。
えー、何を撮りたかったのかというと・・。 -
銃弾が刺さったままの骨があったそうで。
骨のぶっとい箇所に、やすやすと潜り込んでる機関銃の弾の大きさにビックリしました。
こんなデカイのがびゅんびゅん飛んでくるって、すっげコワいわ。
『CSI:科学捜査班』で観るようなの(38口径?)と違って、大きいんですよ。 -
お。
これも『中国の旅』で紹介されてたパネル。
平頂山事件で生き残った、『幸存者』の名簿です。
1991年に撮られたパネル写真と比べると調査が進み、当時記載漏れになっていた方が載っかっているようです。
91年の名簿では、把握されている幸存者の人数は30名でしたが、55名になってます。
とはいえ、集落がほぼ全滅したわけですから、本人が名乗り出ない限り生存者の調査は難しいでしょうし。
おそろしい記憶を誰にも打ち明けず、ひっそり亡くなっていった方もいるんでしょうね。 -
死者たちの言葉は、どこまで届いているのでしょうか?
前述したとおり平頂山事件直後、1932年11月24日。
国際連盟理事会で、中国代表がおこなった平頂山事件への非難に対して、日本政府は次のように主張していました。
①隣接する村々に身を隠していた不正規軍や共産党員の男たち、約2000人からなる部隊が撫順の町に奇襲攻撃をかけた
②奇襲部隊は、多くの建物に火を放ち、駐屯していた日本軍隊を攻撃した
③翌日、日本兵の一中隊が千金堡村へ捜索に出たところ、村に入ったとたん攻撃され、30分間戦闘状態になった
④奇襲部隊は追い払ったが、戦闘で大半が炎に焼かれ壊滅した
⑤以上が真相で、虐殺事件は中国政府の誇張発表である
国際連盟事務総長宛に提出された、虐殺事件は無かったとする説明文書の中身です。
住民虐殺は無かった。
死者たちの、そして生者の存在を、「まぼろし」化する答弁。 -
日本政府の驚くべき見解は、今もなお、正式に改められていません。
-
生き残った、幸存者たちの言葉。
-
彼/彼女たちの中から、3人の老人が対日訴訟に立ち上がります。
-
詳細は、『平頂山事件とは何だったのか〜裁判が紡いだ日本と中国の市民のきずな〜』(平頂山事件訴訟弁護団)という本が詳しいです。
事件当時まだ4〜9歳だった幸存者、莫徳勝さん楊宝山さん方素栄さんが、平頂山事件訴訟弁護団と市民団体の協力を得て、肉親をすべて殺され、精神的・経済的苦難をこうむったことに対し日本国の賠償を求め、1996年8月14日東京地方裁判所へ提訴しました。
3人はそれぞれ、家族と共に虐殺現場となった崖の前に、皇軍によって連れ出されました。
発砲が始まり次々に人が倒れていくなか、莫さんの父親は自分の麦藁帽子を息子にかぶせ、恐怖で動けなくなっている子どもをかばいました。
楊さんの母親は、彼の頭を抱きかかえるようにして地面に伏せました。
方さんを誰よりも可愛がってくれた祖父は、最期まで身を盾にして、幼い彼女の命をつなぎとめました。 -
長い虐殺の時間が過ぎ―――。
3人は、ひとりぼっちになっていました。
しかし目の前で絶命した家族を悼む間もありません。
姿が見えなくなっても、いつ戻ってくるかわからない皇軍への恐怖におびえながら平頂山を脱出し、子ども達は遠く離れた親戚のもとへ逃避行に出ます。
当時、4〜9歳だった3人がよく道の途中で命を落とさなかったと思いますが。
道中、平頂山の生き残り孤児を不憫に思い、子どもらに手を貸した人たちも命がけでした。
日本が敗戦したのち、動乱の時代を生き抜いて、老境にさしかかる3人の声が、ようやく海の向こうへ響きだしたのです。 -
90年代は平頂山事件訴訟をはじめ、山西省「慰安婦」訴訟・七三一部隊・南京虐殺・無差別爆撃訴訟など、対日賠償請求訴訟が大きく動いた時代でした。
1994年5月法務大臣永野茂門が、就任記者会見で「南京大虐殺はでっちあげだ」と発言し、国内外から強い非難をあびて辞任します。
法相発言をきっかけに、背後にあるアジア太平洋戦争の侵略性を否定する動きを警戒して、日本民主法律家協会を中心に、有志の弁護士による被害調査が実施されます。
これが、1995年8月の「中国人戦争被害賠償請求事件弁護団」の結成につながりました。 -
いっぽう中国でも、90年代に賠償請求をめぐって新しい道が拓かれます。
1991年全国人民代表者大会で、法学者童増さんが
「日中共同声明で放棄されたのは国の賠償請求であり、個人の賠償請求権は放棄されていない」
という建議書を提出します。
←童増さん
思ってたよか、全然若くてビックリ。
お名前しか知らなかったので、白髪まじりの老人かと思ってました。 -
童増さんが建議書を出した当時、中国政府は対日外交上の配慮と、国内への影響を考慮して、戦争被害者の日本への賠償請求には抑圧的な態度を続けていました。
童増さんの行動は、かなり勇気のあるものといえます。
中国国内では、対日賠償請求を担当する弁護士もおらず、また多くの被害者は裁判を闘おうにも金銭的な余裕がありません。
しかし被害者要求の高まりと、童増さんの働きかけによって、1995年3月7日「民間人の対日賠償請求について、政府は阻止することも干渉することもない」とする、銭外相発言へ至ります。
これは事実上、個人の賠償請求権に対する、中国政府の不干渉宣言でした。
←パネルを読むと、童増さんは建議書を出しっぱなでなく、その後も被害者救済に携わっているみたいですね。 -
国を相手に訴訟を起こすなんて、自国ですら厳しいのに。
ましてや、外国政府を相手取っての裁判です。
お年寄りには、2度目の。
文字通り命がけの覚悟であったことが、記録を読むとよく伝わってきます。
原告の中には、
「日本政府に拘束されるのではないか?」
「日本兵の犯罪行為を暴けば日本国民は憤激し、右翼に命を狙われるのではないか?」
そんな恐怖を抱きつつも、来日を果たします。
2002年6月28日、東京地方裁判所は、
「日本側守備隊は、中国側自衛軍の進軍形路上にあった平頂山村の住民が自衛軍と通じてたとして、同村の住民を掃討することを決定し、同日朝、独立守備隊第二大隊第二中隊等の部隊が平頂山村に侵入した。旧日本兵らは、同村住民のほぼ全員を同村南西側の崖下に集めて包囲し、周囲から機関銃などで一斉に銃撃して殺傷した後、生存者を銃剣で刺突(しとつ)するなどして、その大半を殺害し、同時に村の住家に放火して焼き払った」
として、平頂山事件が歴史的事実であることを認定しました。
しかし、原告が求めた損害賠償については『国家無答責の法理』を理由に、棄却。 -
判示された『国家無答責の法理』が、なぜ平頂山事件の損害賠償を棄却できるのかというと~。
①国家賠償法が制定施行される以前の日本の法制度は、権力作用に基づく損害について国又は公共団体は賠償責任を負わないとする、『国家無答責の法理』が採用されていた
②加害行為(平頂山住民虐殺)は、旧日本軍の中国における戦争行為・作戦活動に付随する行為であり、これらの行為は公権力の行使にあたるので、『国家無答責の法理』により国又は公共団体は賠償責任を負わない
つまり、戦前は損害賠償の根拠となる法律が存在していなかったから、国は損害賠償責任を負わない、というリクツです。 -
けれど、戦前――国家賠償法が制定施行される以前――であっても、民法の『不法行為』(故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う)の規定が存在しています。
おなじ戦前の法律をいうなら、なぜ不法行為の規定が適用されないのか、不思議です。
そもそも、日本国法治下の権力的公務を前提とする国家無答責の法理は、外国人(外国籍)である原告には適用されないのでは?という、疑問も残ります。 -
結局、2002年6月28日東京地方裁判所は、被害事実を認めたのに国家無答責の法理をタテに救済はナシという、不当判決を下したのです。
翌2003年1月京都地方裁判所の強制連行・強制労働京都大江山訴訟判決、3月東京地方裁判所の強制連行・強制労働2次訴訟、7月東京高等裁判所のアジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件では、国家無答責の法理を退ける判例がつぎつぎと出ます。
しかし、2005年5月13日東京高等裁判所でおこなわれた、平頂山事件二審判決は国家無答責の法理によって、またしても敗訴―――。
果たして、コレでいいのかなーと苦くかみしめます。
いま同じことが起こったら?
いまと同じ判決が出るんでしょうか?
裁判官は、「むかしと今とは法律が違う」と言うかもしれません。
ですが、そのむかしの法解釈をタテにとり、いま、痛みの回復に手も耳を貸さないのであれば、未来においてもそれはやはり「同じ判決」になるのではないでしょうか。
不当を正すこと。少数であっても、平等に幸福を追求できること。
ロクでもない事が放置されるなら、誰に対してもくり返される可能性はあるだろうし、正されるなら、それは誰にとっても大切な前例になると思います。 -
『前事不忘、后事之師』(前の経験を忘れず、後の教訓とする)。
撫順平頂山惨案記念館パネル展示の、〆の冒頭の言葉です。
平頂山事件における日本の裁判官の判決文を読んでいると、この言葉の重みが現地の人たちと裁判官とでは、果てしなく開きがあるように感じます。
法の正義と公正が、回復不能な痛みを、同等に戻せないまでも、せめて被害者に手を差し伸べられるものに、ならないのであれば。
むしろ真逆方向へいくなら。
今はお互いをつなぐ言葉も、いつか不信や断絶を意味するキーワードになりかねない危惧を覚えます。
集落まるごと、3000人あまりが殺された事件で、家族を皆殺しにされ、なんとか生きのびた子ども達が長い沈黙を越え、人生の残り時間をかけて法廷までたどり着き、訴えた言葉を、裁判官がどこまで受けとめたのか。
法のために、人がいるのではなく。
人のために、法があるならば、こんな結果でいいのかなぁ、と。
ただ、個人的には紆余曲折はあっても、物事は少しずつ良い方向へ行くことを信じています。
踏ん張り続けた原告はもとより、手弁当で彼/彼女たちを支え続けた弁護団や、2003年に相次いだ国家無答責の法理をしりぞける判決といった動きは、法廷へ声を届けることも出来なかった大勢の人たちの小さな小さな積み重ねがなければ、実現しなかったでしょう。
裁判のことをつらつら書いちゃいましたが、もっと詳しくチェックしたい方は、書籍で『平頂山事件とは何だったのか〜裁判が紡いだ日本と中国の市民のきずな〜』(平頂山事件訴訟弁護団)を読んで頂くとイイかと思います☆ -
「さて、ここからどう行けばいいのじゃ??」
記念館の敷地内には、別棟で遺骨館があるハズなのですが〜。
館内を出てもそれらしき建物が見当たりません。
南京の侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館にある遺骨館は、本館からすぐ通路が整備されていて、ほとんど隣接しているような感じでしたが。
撫順平頂山惨案記念館の遺骨館は、崖下の虐殺現場を覆うように展示棟を建てたそう。
ってコトは、どっかに崖がある?
「崖なんていっても・・・」
あたりは見晴らしのいい真っ平らな土地で、部分的にこんもり茂った雑木林が見える程度。
それらしき建物は見えません。
「とりあえず、裏へまわってみよっか」
道順を聞こうにも、館内スタッフさんも見学者もいないので、キョロキョロと建物の裏側へ進みます。
少し歩けば、小さな広場と記念碑があり、その先に土嚢がつみあがった階段が、下へ下へと伸びています。 -
お!
これだ、これだ!
つまり記念館は、虐殺があった崖の上にあるという位置関係だったようで。
道理で見当たらないわけだ。
それにしても、土嚢って・・。
水ハケが悪いのか?
つか、水害(?)で閉まっちゃってたりして。
「やってそう?」
首をかしげながら階段を下りると、シンプルでまだ新しい小奇麗な建物です。
入り口のガラス戸に鍵はかかっておらず、ホッとします。
建物へ入ってすぐの受付には、ガードマン風の制服姿の若い男性が直立しており、ふたりしてパスポートを差し出すと、「パスポートは結構ですよ」と優しく答えてくれます。
示された方向へすすみ、廊下を行くと途中に平頂山事件を伝える石碑が、静かに鎮座しています。
石碑を囲む手すりにはカラフルな折鶴が掛けられ、根本を結わえた色とりどりのリボンに書かれている名称に目をやると、どうやら日本の労働組合や学校関係、平和団体などが寄贈したもよう。
廊下の突き当りから右手へ折れて、薄暗い部屋へ足を踏み入れます。
室内入口から、さらに細い廊下が続いており、その通路に沿うように、ガラスの壁が蛇行しながらどこまでも続きます。
ガラスの壁の向こうには、ざらざらとむき出しの黒い地面が、見えないほどの、無数の骨―――。 -
「ガラスに注意」のステッカーの向こうは、うっそうと骨が積み上がっています。
南京で一度見ているので、遺骨館がどんなのものかは、想像出来てたんですけど。
それでも人骨どころか、お葬式だってめったに体験したことが無いので、あまりの量に殺された住民の遺骨というより、丸かったり尖ったりの大小の白い物質みたいに思え、実感が湧きません。
怖いとか、嫌だとか、そういった感情がスルーするような、どこまでも続く白骨の群れ。
それでも、目を凝らして一体一体を見ると、骨同士が手を重ねたり、相手をかばうように折り重なり、必死に逃れるように這いずるさまは、今は見えなくなってしまっている、肉体が永遠に呼吸を止めてしまった時間の、人々のナマの表情を伝えてきます。
背丈も、自分とだいたい同じだとか、それよりグッと小さかったり、成人に抱かれたハッキリ赤ん坊だとわかる骨もあって、ようやくこの全てが人なんだと徐々に実感します。
ホントだったら、ひとりひとり家族や友人の記憶に刻まれながら老いて、いつかそれぞれのお墓に埋葬されていたんでしょうに。
家族全員が犠牲になり、探す人もいないような状況。
人数が人数なので、DNA検査とかも全員の関係者を見つけてって、難しそうだし。
こうなってしまうと、死んでからも名前や生い立ちを剥ぎ取られているようで、残酷さに愕然とします。
いくつかの骨やその周囲には簡単なプレートが置かれ、「死体を焼くように使われたガソリンの缶」とか「親子の骨」「銃創が残っている」などの解説が書かれています。
「生きている時のようすが、そのまま分かるようね・・」
ママ上が、ぽつりと呟きます。
終わりかとおもいきや、角度がついた屋内は奥へ奥へのびて、ガラスと廊下が「まだ続くのか」と息を呑むほど長く続きます。 -
「まだあるの?」
「終わらないね」
ガラスと壁にはさまれた廊下を、とぼとぼと歩きます。
数字で「どこそこで●●●●人殺された」という字面は理解できても、実際に目の前にその人らの骸がギッシリならぶと、数字という表現で事実がいかに軽くなってしまうかを痛感します。
裁判などで、原告側が「裁判官は現場に来て欲しい」と訴える気持ちが、すんなり腹に落ちます。
それが知識としての数字であるうちは、人の痛みや被害では無いのかも知れません。
こんなの、自分で目にしなきゃ分かんないよ。
ようやく、建物の端っこへ来ましたが、折り返しの廊下の足下にも小さなトンネルが穿たれ、地面から露出した白骨はその先へとつながります。
発掘され、人の目につくように整備されたのは、まだほんの一部なのでしょう。
土の中から浮き上がる死者は口はきけませんが、存在そのものが多くを語りかけます。
そして、生き残った人たちが発した声を、聞き逃したくないと思います。
その声は、あまりにもささやかだから。 -
見学を終え、正門まで照りつける日差しの中を歩くと、刈りこまれた植木の横に、日本の有志がおくった石碑がぽつりぽつりと顔をのぞかせています。
JR労組や、議員が寄贈したもの。
日本政府からの正式な謝罪も補償も無いなかで、「よく展示してくれてるな」と多少驚きます。
公式に認めもしない「日本人」側からの石碑なんて、感情的に「なんだこんなもの」ってなりそうじゃないですか。
平頂山事件そのものの事実認定は、裁判起こしてようやく司法には認められましたが、政府の公式見解は前述の「不正規軍や共産党員の男たち約2000人からなる部隊の奇襲攻撃を受け、捜索に出たところ戦闘状態になった」「奇襲部隊は追い払ったが、戦闘で大半が炎に焼かれ壊滅したというのが真相で、虐殺事件は中国政府の誇張発表」から、改っていません。
これらの石碑が象徴する良心が、果たして殺された人々や、ようよう生きのびた人たちにどれだけ伝わるのか。
戦後補償の裁判は、歴史的不正を正すのもそうですが、同時に被害者から加害者へ差し伸べられた手というか、当事者によって示された最大限のチャンスのように感じます。
これを潰したくないと感じるのは、被害者のためだけでなく、自分自身のためなんじゃないかなーと思いながら、撫順平頂山惨案記念館をあとにします。
『東北王朝~⑧』へ、つづく。
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