サラエヴォ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
11月8日、22:30ベオグラード発の夜行バスでサラエボに向かった。夜中の2時過ぎに国境でパスポートと荷物をチェックし5:40にサラエボのセルビア人共和国側バスターミナル着。まだ外は暗く、石炭ストーブが暖かいバスターミナルのカフェでコーヒ(1KM−マルカ・80円)を飲みながらボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナルへはバスで2KM・160円、タクシーなら10ユーロ・1500円などの情報を、ベオグラードからバスで一緒だったセルビア人から教えてもらった。<br />サラエボはボスニア・ヘルツェゴビナの首都なのだが街の中にセルビア国がある。サラエボは1992年から1995年の3年半の間にセルビア人がボスニア人(モスリム人)やクロアチア人らを攻撃し1万人以上の死者を出した。ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナルでプライベート・ルームの勧誘に来たクロアチア人女性は父と夫をセルビア人との戦闘で失い、現在女手ひとつで娘を育てているという話しを聞かせてくれた。現在戦闘は無いが、民族の地域分断という形で民族対立の実態を示している。また1991年以降の旧ユーゴスラビア内戦での残虐行為を裁くオランダのデン・ハーグにある旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷ではサラエボでのセルビア人の残虐行為を裁いており戦後処理はまだ終わっていない。<br />サラエボも仕事が無いのだろう。タクシーがずらっと並んでいて客が無い。運転手がボスニア側ターミナルまで半額の5ユーロ・750円で行くと呼び込みしてきたので乗った。ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナルで22時発クロアチア・ザグレブ行き夜行バスのチケット(54マルカ・4050円)を買って、荷物を預け(3.5ユーロ・530円)街に出た。<br />サラエボで思い浮かぶのは1914年にセルビア人青年がオーストリアの皇太子を暗殺し、第1次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件、1984年に開催されたサラエボ冬季オリンピック、そしてその後勃発した激しい内戦だ。<br />中でもサラエボオリンピックは身近にテレビで応援したので印象に残っている。日本人では北沢欣浩選手がスピードスケート男子500メートルで銀メダルを獲得した。イギリスのアイスダンスペア、 ジェーン・トービル、クリストファー・ディーンがモーリス・ラヴェル作曲のバレエ音楽ボレロの曲に乗って観客を魅了し、オリンピック史上初めて9人の審判全員から6点満点を得て金メダルを獲得したのもこの大会だ。ボレロと言えばトービル、ディーンを思い出すほどインパクトの強い素晴らしい演技だった。現在、日本の村主 章枝(すぐり ふみえ)選手がトービル、ディーンと同じボレロをショート・プログラムで使っているのは嬉しいことだ。<br />日本に身近なところでは、サッカーの日本代表監督イビチャ・オシム氏はサラエボ出身。選手時代の1960年から1978年の18年間、ユーゴスラビアの代表として東京オリンピックなどで活躍し、プロとして85得点をあげ、選手時代イエローカードが一度も無いという名選手だった。1986年から国が崩壊した1991年までユーゴスラビアの代表監督を務め、1990年のワールドカップイタリア大会ではベスト8に導いた。民族間の問題が噴出する中でユーゴスラビアチームをまとめあげた手腕はたいしたものだと思う。<br />バスターミナルに近い鉄道のサラエボ中央駅からセルビア人狙撃兵が狙い撃ちしたというスナイパー通りを渡り、ミリャツカ川沿いを歩いた。ブルバニャ橋は1992年4月5日に女子大生が狙撃された場所。紛争の最初の犠牲者とのことだ。1995年11月の和平から11年になるのに戦車やヘリコプターの残骸が残り、銃弾の痕が痛々しい民家がかなり残っている。ブルバニャ橋から500mのところにはサラエボオリンピックでスケート会場だったスケンデリアがある。現在はテレビ局のオフィスとバスケットなどの体育館になっていた。そこから1キロ進むとサラエボ事件現場のラティンスキー橋がある。この近くは旧市街の職人街、バシチャルシアと呼ばれる。オスマン時代のモスクや観光名所になっているセビリ・水飲み場があり、観光客で賑わっている。セビリア正教会、カトリック大聖堂、戦死者を慰霊する聖火などが周囲にある。繁華街から2キロ北に進むと旧オリンピックスタジアムに出る。グラウンドは内戦犠牲者の墓地となっており、五輪マークを掲げた塔がポツンと残っているのを見るとむなしくなる。1984年はユーゴスラビア国民がチトー大統領のもとにひとつになって盛り上がった、一番いい時代だったのだろう。オリンピック競技場だったゼトラの前はサッカーグラウンドになっており、プロ選手らしい20人ほどが2チームに分かれて練習をしていた。スタンドで見ていると選手が「どこから来たんだ」と声をかけてきたので、「日本からだ。オシム監督は素晴らしい」と言うとにっこり笑った。悲惨な戦禍の中を生き抜いてきた旧ユーゴスラビアの人達、頑張って生きてほしい。<br />ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナルに戻って22時発の夜行バスでクロアチアのザグレブに向かった。<br /><br />サラエボを訪問して5年近くになるが、戦闘の傷跡が残っていた街並みは復興したのだろうか、人々の生活は楽になったのだろうか、と出会った人たちを思い出す。<br />関連旅行記--欧州・バックパッカーの旅【61】 ボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボ--- http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10120339/<br />(写真はミリャツカ川とサラエボ事件現場のラティンスキー橋の光景)<br />

欧州の旅・思い出のアルバム ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボ

45いいね!

2006/11/09 - 2006/11/09

33位(同エリア371件中)

2

50

さすらいおじさん

さすらいおじさんさん

11月8日、22:30ベオグラード発の夜行バスでサラエボに向かった。夜中の2時過ぎに国境でパスポートと荷物をチェックし5:40にサラエボのセルビア人共和国側バスターミナル着。まだ外は暗く、石炭ストーブが暖かいバスターミナルのカフェでコーヒ(1KM−マルカ・80円)を飲みながらボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナルへはバスで2KM・160円、タクシーなら10ユーロ・1500円などの情報を、ベオグラードからバスで一緒だったセルビア人から教えてもらった。
サラエボはボスニア・ヘルツェゴビナの首都なのだが街の中にセルビア国がある。サラエボは1992年から1995年の3年半の間にセルビア人がボスニア人(モスリム人)やクロアチア人らを攻撃し1万人以上の死者を出した。ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナルでプライベート・ルームの勧誘に来たクロアチア人女性は父と夫をセルビア人との戦闘で失い、現在女手ひとつで娘を育てているという話しを聞かせてくれた。現在戦闘は無いが、民族の地域分断という形で民族対立の実態を示している。また1991年以降の旧ユーゴスラビア内戦での残虐行為を裁くオランダのデン・ハーグにある旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷ではサラエボでのセルビア人の残虐行為を裁いており戦後処理はまだ終わっていない。
サラエボも仕事が無いのだろう。タクシーがずらっと並んでいて客が無い。運転手がボスニア側ターミナルまで半額の5ユーロ・750円で行くと呼び込みしてきたので乗った。ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナルで22時発クロアチア・ザグレブ行き夜行バスのチケット(54マルカ・4050円)を買って、荷物を預け(3.5ユーロ・530円)街に出た。
サラエボで思い浮かぶのは1914年にセルビア人青年がオーストリアの皇太子を暗殺し、第1次世界大戦のきっかけとなったサラエボ事件、1984年に開催されたサラエボ冬季オリンピック、そしてその後勃発した激しい内戦だ。
中でもサラエボオリンピックは身近にテレビで応援したので印象に残っている。日本人では北沢欣浩選手がスピードスケート男子500メートルで銀メダルを獲得した。イギリスのアイスダンスペア、 ジェーン・トービル、クリストファー・ディーンがモーリス・ラヴェル作曲のバレエ音楽ボレロの曲に乗って観客を魅了し、オリンピック史上初めて9人の審判全員から6点満点を得て金メダルを獲得したのもこの大会だ。ボレロと言えばトービル、ディーンを思い出すほどインパクトの強い素晴らしい演技だった。現在、日本の村主 章枝(すぐり ふみえ)選手がトービル、ディーンと同じボレロをショート・プログラムで使っているのは嬉しいことだ。
日本に身近なところでは、サッカーの日本代表監督イビチャ・オシム氏はサラエボ出身。選手時代の1960年から1978年の18年間、ユーゴスラビアの代表として東京オリンピックなどで活躍し、プロとして85得点をあげ、選手時代イエローカードが一度も無いという名選手だった。1986年から国が崩壊した1991年までユーゴスラビアの代表監督を務め、1990年のワールドカップイタリア大会ではベスト8に導いた。民族間の問題が噴出する中でユーゴスラビアチームをまとめあげた手腕はたいしたものだと思う。
バスターミナルに近い鉄道のサラエボ中央駅からセルビア人狙撃兵が狙い撃ちしたというスナイパー通りを渡り、ミリャツカ川沿いを歩いた。ブルバニャ橋は1992年4月5日に女子大生が狙撃された場所。紛争の最初の犠牲者とのことだ。1995年11月の和平から11年になるのに戦車やヘリコプターの残骸が残り、銃弾の痕が痛々しい民家がかなり残っている。ブルバニャ橋から500mのところにはサラエボオリンピックでスケート会場だったスケンデリアがある。現在はテレビ局のオフィスとバスケットなどの体育館になっていた。そこから1キロ進むとサラエボ事件現場のラティンスキー橋がある。この近くは旧市街の職人街、バシチャルシアと呼ばれる。オスマン時代のモスクや観光名所になっているセビリ・水飲み場があり、観光客で賑わっている。セビリア正教会、カトリック大聖堂、戦死者を慰霊する聖火などが周囲にある。繁華街から2キロ北に進むと旧オリンピックスタジアムに出る。グラウンドは内戦犠牲者の墓地となっており、五輪マークを掲げた塔がポツンと残っているのを見るとむなしくなる。1984年はユーゴスラビア国民がチトー大統領のもとにひとつになって盛り上がった、一番いい時代だったのだろう。オリンピック競技場だったゼトラの前はサッカーグラウンドになっており、プロ選手らしい20人ほどが2チームに分かれて練習をしていた。スタンドで見ていると選手が「どこから来たんだ」と声をかけてきたので、「日本からだ。オシム監督は素晴らしい」と言うとにっこり笑った。悲惨な戦禍の中を生き抜いてきた旧ユーゴスラビアの人達、頑張って生きてほしい。
ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナルに戻って22時発の夜行バスでクロアチアのザグレブに向かった。

サラエボを訪問して5年近くになるが、戦闘の傷跡が残っていた街並みは復興したのだろうか、人々の生活は楽になったのだろうか、と出会った人たちを思い出す。
関連旅行記--欧州・バックパッカーの旅【61】 ボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボ--- http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10120339/
(写真はミリャツカ川とサラエボ事件現場のラティンスキー橋の光景)

旅行の満足度
4.5
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス タクシー
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • サラエボのセルビア人共和国側バスターミナル近くの光景。<br /><br /><br />

    サラエボのセルビア人共和国側バスターミナル近くの光景。


  • サラエボのセルビア人共和国側バスターミナル。<br /><br /><br />

    サラエボのセルビア人共和国側バスターミナル。


  • サラエボのセルビア人共和国側バスターミナル周辺の光景。サラエボのセルビア人共和国側の街並み。<br /><br /><br /><br /><br /><br />

    サラエボのセルビア人共和国側バスターミナル周辺の光景。サラエボのセルビア人共和国側の街並み。





  • サラエボのセルビア人共和国側バスターミナル。<br /><br /><br />

    サラエボのセルビア人共和国側バスターミナル。


  • サラエボのセルビア人共和国側バスターミナル周辺の光景。サラエボのセルビア人共和国側の街並み。<br /><br /><br /><br /><br /><br />

    サラエボのセルビア人共和国側バスターミナル周辺の光景。サラエボのセルビア人共和国側の街並み。





  • ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナル近くの光景。

    ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナル近くの光景。

  • ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナル近く。セルビア人狙撃兵が狙い撃ちしたというスナイパー通りの近くに残る戦車。<br /><br /><br />

    ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナル近く。セルビア人狙撃兵が狙い撃ちしたというスナイパー通りの近くに残る戦車。


  • ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナル近くの光景。ヘリコプターの残骸。<br /><br /><br />

    ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナル近くの光景。ヘリコプターの残骸。


  • ミリャツカ川沿いの光景。<br /><br /><br />

    ミリャツカ川沿いの光景。


  • 弾痕が生々しい建物。<br /><br /><br />

    弾痕が生々しい建物。


  • ミリャツカ川沿いの光景。<br /><br /><br />

    ミリャツカ川沿いの光景。


  • 弾痕が生々しい建物。<br /><br /><br />

    弾痕が生々しい建物。


  • 弾痕が生々しい建物。<br /><br /><br />

    弾痕が生々しい建物。


  • ミリャツカ川沿いの光景。<br /><br /><br />

    ミリャツカ川沿いの光景。


  • 弾痕が生々しい建物。<br /><br /><br />

    弾痕が生々しい建物。


  • 弾痕が生々しい建物。<br /><br /><br />

    弾痕が生々しい建物。


  • ブルバニャ橋の慰霊碑。1992年4月5日に紛争の最初の犠牲者となった女子大生の名が刻まれている。<br /><br /><br />

    ブルバニャ橋の慰霊碑。1992年4月5日に紛争の最初の犠牲者となった女子大生の名が刻まれている。


  • ブルバニャ橋。1992年4月5日に紛争の最初の犠牲者となった女子大生が狙撃された場所。<br /><br /><br />

    ブルバニャ橋。1992年4月5日に紛争の最初の犠牲者となった女子大生が狙撃された場所。


  • サラエボオリンピックでスケート会場だったスケンデリア。現在はテレビ局のオフィスになっていた。<br /><br /><br />

    サラエボオリンピックでスケート会場だったスケンデリア。現在はテレビ局のオフィスになっていた。


  • サラエボオリンピックでスケート会場だったスケンデリアの内部。

    サラエボオリンピックでスケート会場だったスケンデリアの内部。

  • 戦死者を慰霊する聖火。<br /><br /><br />

    戦死者を慰霊する聖火。


  • 戦死者を慰霊する聖火台周辺の建物。弾痕が残っている。<br /><br /><br />

    戦死者を慰霊する聖火台周辺の建物。弾痕が残っている。


  • 観光名所になっているセビリ・水飲み場。<br /><br /><br />

    観光名所になっているセビリ・水飲み場。


  • 旧市街の職人街、バシチャルシアの光景。<br /><br /><br />

    旧市街の職人街、バシチャルシアの光景。


  • 観光名所になっているセビリ・水飲み場。<br /><br /><br />

    観光名所になっているセビリ・水飲み場。


  • 旧市街の職人街、バシチャルシアの光景。<br /><br /><br />

    旧市街の職人街、バシチャルシアの光景。


  • 旧市街の職人街、バシチャルシアの光景。<br /><br /><br />

    旧市街の職人街、バシチャルシアの光景。


  • 旧市街の職人街、バシチャルシアの光景。<br /><br /><br />

    旧市街の職人街、バシチャルシアの光景。


  • ミリャツカ川とサラエボ事件現場のラティンスキー橋。<br /><br /><br />

    ミリャツカ川とサラエボ事件現場のラティンスキー橋。


  • ミリャツカ川とサラエボ事件現場のラティンスキー橋。<br /><br /><br />

    ミリャツカ川とサラエボ事件現場のラティンスキー橋。


  • サラエボ事件現場のラティンスキー橋。<br /><br /><br />

    サラエボ事件現場のラティンスキー橋。


  • バシチャルシアの時計台。<br /><br /><br />

    バシチャルシアの時計台。


  • バシチャルシアの時計台近くの建物。弾痕が残っている。<br /><br /><br /><br /><br /><br />

    バシチャルシアの時計台近くの建物。弾痕が残っている。





  • バシチャルシアの時計台。<br /><br /><br />

    バシチャルシアの時計台。


  • カトリック大聖堂。<br /><br /><br />

    カトリック大聖堂。


  • セビリア正教会。<br /><br /><br />

    セビリア正教会。


  • セビリア正教会。<br /><br /><br />

    セビリア正教会。


  • セビリア正教会。<br /><br /><br />

    セビリア正教会。


  • 旧オリンピックスタジアムとグラウンドに造られた内戦犠牲者の墓地。<br /><br /><br />

    旧オリンピックスタジアムとグラウンドに造られた内戦犠牲者の墓地。


  • 旧オリンピックスタジアムとグラウンドに造られた内戦犠牲者の墓地。<br /><br /><br />

    旧オリンピックスタジアムとグラウンドに造られた内戦犠牲者の墓地。


  • 旧オリンピックスタジアムとグラウンドに造られた内戦犠牲者の墓地。<br /><br /><br />

    旧オリンピックスタジアムとグラウンドに造られた内戦犠牲者の墓地。


  • 墓地に残る五輪マークを掲げた塔。1984年はユーゴスラビア国民がチトー大統領のもとにひとつになって盛り上がった、一番いい時代だったのだろう。<br /><br />

    墓地に残る五輪マークを掲げた塔。1984年はユーゴスラビア国民がチトー大統領のもとにひとつになって盛り上がった、一番いい時代だったのだろう。

  • 旧オリンピックスタジアムとグラウンドに造られた内戦犠牲者の墓地。<br /><br /><br />

    旧オリンピックスタジアムとグラウンドに造られた内戦犠牲者の墓地。


  • オリンピック競技場だったゼトラ周辺の光景。

    オリンピック競技場だったゼトラ周辺の光景。

  • オリンピック競技場だったゼトラ周辺の光景。

    オリンピック競技場だったゼトラ周辺の光景。

  • オリンピック競技場だったゼトラ周辺の光景。

    オリンピック競技場だったゼトラ周辺の光景。

  • オリンピック競技場だったゼトラ周辺の光景。

    オリンピック競技場だったゼトラ周辺の光景。

  • オリンピック競技場だったゼトラの前はサッカーグラウンドになっていた。プロ選手らしい20人ほどが2チームに分かれて練習をしていた。スタンドで見ていると選手が「どこから来たんだ」と声をかけてきたので、「日本からだ。オシム監督は素晴らしい」と言うとにっこり笑った。<br /><br /><br />

    オリンピック競技場だったゼトラの前はサッカーグラウンドになっていた。プロ選手らしい20人ほどが2チームに分かれて練習をしていた。スタンドで見ていると選手が「どこから来たんだ」と声をかけてきたので、「日本からだ。オシム監督は素晴らしい」と言うとにっこり笑った。


  • ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナル近くの光景。

    ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナル近くの光景。

  • ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナル近くの鉄道駅の光景。

    ボスニア・ヘルツェゴビナ側バスターミナル近くの鉄道駅の光景。

この旅行記のタグ

45いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (2)

開く

閉じる

  • ニナさん 2011/05/23 18:13:25
    お久し振りです♪
    さすらいおじさん、こんにちは。

    震災後、旅行や買い物も自粛気味でしたが、そろそろ旅行に出掛けたいと思います。
    夏ぐらいには…ヽ(^0^)ノウズウズ

    日本経済を盛り上げなくては!

    さすらいおじさん

    さすらいおじさんさん からの返信 2011/05/24 18:52:15
    RE: お久し振りです♪
    ニナさん
    訪問、コメントをありがとうございます。

    大震災以後、私も被災された方を思うと旅をしようという気にもなれませんでしたが、先日伊勢神宮に小学校の就学旅行以来、参拝しその後三重県を自動車でまわりました。
    伊勢神宮には日本の復興祈願の人たちなど大勢参拝されていました。

    しずんでばかりいないで旅行や買い物をどんどんすることが日本経済を盛り上げ日本復興のたすけになるのでしょうね。

    ニナさんもどうぞいい旅をなさってください。

さすらいおじさんさんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

ボスニア・ヘルツェゴビナで使うWi-Fiはレンタルしましたか?

フォートラベル GLOBAL WiFiなら
ボスニア・ヘルツェゴビナ最安 625円/日~

  • 空港で受取・返却可能
  • お得なポイントがたまる

ボスニア・ヘルツェゴビナの料金プランを見る

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP