2010/12/30 - 2010/12/31
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MechaGodzillaⅢ&703さん
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■西日本が大雪!急遽、東へ進路変更~
★赤穂城の大手門・・・兵庫県赤穂市
浅野長直の指示によって慶安元年(1648)から13年の歳月をかけて築かれた赤穂城は、近代城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城です。
☆龍野市の町並み
たつの市は兵庫県の南西部に位置し、旧脇坂藩五万三千石の城下町です。
≪ニュース≫西日本大雪の恐れあり
2010年12月31日 ... 強い寒気と低気圧の影響で、長崎市で10センチの積雪を観測するなど、九州などでは平地でも雪が強まっています。
【手記】
大晦日、友人と九州~鹿児島まで行こうかなって話していたのですが、西日本大雪の恐れあり↑のニュース!
雪渋滞は過去に何度も経験して時間の無駄をイヤと言うほど味わっている Godzillaくん、ここでシンキング、thinking 、一考~!^0^)/ポン! ETC1000円渋滞もないことだし、東へ向かって走って行けばいいのだ~♪るんるん~
・・・てなことで、今回の旅は急遽、東へ進路変更~/( =^ェ^=;)ヽ、播州赤穂~神戸異人館~大阪城へとのんびりゆったりと突っ走って来ました。行った観光地・道路はすべてガラガラでした。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 自家用車
-
☆赤穂城の大手門・・・兵庫県赤穂市
大晦日、友人と九州〜鹿児島まで行こうかなって話していたのですが、西日本大雪の恐れありのニュース! -
☆赤穂城の大手門と隅櫓
雪渋滞は過去に何度も経験して時間の無駄をイヤと言うほど味わっている Godzillaくん、ここでシンキング、thinking 、一考〜!^0^)/ポン! ETC1000円渋滞もないことだし、東へ向かって走って行けばいいのだ〜♪るんるん〜 -
☆赤穂城の大手門
・・てなことで、今回の旅は急遽、東へ進路変更〜/( =^ェ^=;)ヽ、播州赤穂〜神戸異人館〜大阪城へとのんびりゆったりと突っ走って来ました。
行った観光地・道路はすべてガラガラでした。 -
☆赤穂城の隅櫓
まずは、播州赤穂城&大石神社から…。
浅野長直の指示によって慶安元年(1648)から13年の歳月をかけて築かれた赤穂城は、近代城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城です。 -
☆赤穂城の隅櫓
藩の家老で軍学師範の近藤正純が設計し、そのうち二之丸門虎口の縄張は、当時の著名な軍学者であった山鹿素行の手が加えられたと伝えられています。 -
☆大石神社
大石神社は、赤穂義士たちが吉良邸に討ち入りを果たした事で有名な、赤穂四十七義士などを祀る神社で、大願成就に御利益があると言われています。 -
☆赤穂城 近藤源八宅跡長屋門
▼忠臣蔵ものがたりスタート!〜WEBサイトより
今からおよそ300年前(1702年、元禄15年12月14日)、お江戸で仇討ち事件がありました。
場所は両国は松坂町、回向院裏の「吉良邸」。播州赤穂浅野家の浪士四十七名が吉良上野介の屋敷に討ち入り、その首級を挙げたというおなじみのお話です。 -
☆赤穂城 大石内蔵助の屋敷門
元禄十四年(一七〇一)三月、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が江戸城内松の廊下において、 吉良上野介義央に対し刃傷。 -
☆赤穂城 大石内蔵助の屋敷門
内匠頭は即日切腹、御家断絶、領地没収となり、赤穂藩の城代家老大石内蔵助良雄は城明け渡しの後、同年六月二十八日、以前からこの付近の田地、 屋敷をもっていた親類の進藤源四郎の世話でこの地の移った。 -
☆大石神社
閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利で、事件の善後策を講じるのに何かと便利であり、この地でしばしば同志の会合を開いた。 -
☆大石神社 お正月の準備
また、敵の目を欺くため、 伏見撞木町、祇園一力亭などで遊興にふけった。はじめは、はやる同志をおさえて、 亡主内匠頭の弟大学長広をたてて主家の再興を謀った。 -
☆赤穂大石神社 謹賀新年
元禄十五年十二月十四日(正しくは十五日午前四時頃)大石内蔵助良雄以下四十七士は吉良邸へ。 -
☆赤穂大石神社 大黒様
表門には、 大石内蔵助を頭として片岡源五右衛門ら二十四名、裏門からは、大石主税を頭とし堀部安兵衛ら二十三名、 両門より襲撃し、六時頃本懐を遂げ、その後四十七士は、泉岳寺の長矩の墓前に、その首を捧げ復讐の報告をする。 翌、十六年二月四日、細川、松平、毛利、水野四候家にて切腹す。 -
☆赤穂大石神社
しかし、翌、元禄十五年夏、結局再興は許されず、 吉良邸討入りに方針を固め、同志は密かに江戸へあつまった。 -
☆赤穂大石神社 恵比寿様
原因はハッキリされていないのですが、朝廷接待の儀礼を教えてもらうべき吉良さんに賄賂を贈らなくて意地悪されたからだとされていますが、他にも色々あるのです。 -
☆赤穂大石神社 参道
この二人、実は同業者なのです。双方とも領地に塩田を持っていたのですが、瀬戸内の赤穂の塩の方が、三河の吉良の塩より品質が良く、たくさんとれた。
その辺の嫉妬や羨望もあり、意地悪を続けたという説もあるのです。 -
☆大石神社 お正月の準備
まだたくさん説はあるのですが、とにかく浅野の殿様は切腹、赤穂の城は没収、家臣は失職離散。 -
☆大石神社 お正月の準備
一方、吉良上野介はあくまでもお咎め無し。これじゃあ片手落ちだと仇討ちとなるのですが、実に1年と9ヶ月を要することになります。 -
☆赤穂大石神社 大石内蔵助銅像
家老の大石内蔵助はあくまでも恩赦特赦によるお家再興を働きかけ続けたのですが、虚しく日が過ぎていきます。 -
☆大石神社 お正月の準備
家臣達からの仇討ちの督促や想像以上の世論の期待に耐えきれず、ついに内蔵助は決断をすることになります。 -
☆大石神社 お正月の準備
元禄15年12月14日、大石内蔵助率いる総勢四十七名は殿様の命日に討ち入ります。めざすは両国松坂町「吉良屋敷」へ 。 -
☆赤穂大石神社 本殿
翌朝4時、まだ暗い。激闘2時間の末、見事、御首を挙げた四十七士は、主君の眠る高輪泉岳寺まで凱旋し、墓前に首級を供えたのです。 -
☆赤穂大石神社 うさぎさん
翌年2月、大名家(熊本細川家、松山松平家、三河水野家、長門毛利家の四つの下屋敷)にお預けとなっていた全員が名誉ある切腹を命ぜられました。
この時点で四十七士は義士とみとめられたのです。 -
☆赤穂大石神社
大願成就のお守りを一つ戴きました。 -
☆赤穂大石神社
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☆赤穂大石神社
一文字流し。水みくじは水につけると文字が浮き出ます。 一文字流しは嫌なこと、忘れたいことを漢字一文字で表わし、それを水に浮かべると文字が消えます。 -
☆赤穂大石神社 記念撮影用
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☆赤穂大石神社
忠臣蔵・赤穂大石神社義士史料館 -
☆赤穂大石神社 境内大絵馬
・忠臣蔵ものがたり
忠臣蔵、それは日本人なら誰でもよく知っている赤穂浪士の物語である。
浅野内匠頭の家来大石内蔵助ら47人の武士が、1年9ヶ月苦労を重ね、元禄15年12月14日吉良の屋敷へ討入り、美事主君内匠頭の無念を晴らし仇を報じた物語である。 -
☆赤穂大石神社
・松の廊下の刃傷
元禄14年3月14日、勅使接待役の播州赤穂城主 浅野内匠頭長矩は、指南役の高家 吉良上野介義央の度重なる意地悪に我慢の限度もこれまで、と江戸城松の廊下で刃傷に及んだが、幕臣の梶川与惣兵衛に抱きとめられて目的を果たせず、かえって将軍の怒りに触れて内匠頭は切腹、浅野家は断絶、赤穂城は没収されたが上野介は何のお咎めもなかった。 -
☆赤穂大石神社
・長矩田村邸で切腹
内匠頭は網乗で愛宕下の田村右京太夫邸へ送られ、側用人の片岡源五右衛門唯1人今生の別れを悔やみ、身は大名でありながら庭上で切腹させられた。辞世は
風さそう花よりもなほわれはまた
春の名残をいかにとか(や)せむ
時に35歳、泉岳寺へ葬られ、法号は冷光院先少府朝散太夫吹毛玄利大居士である。 -
☆赤穂大石神社
・早打ち赤穂へ飛ぶ
主君刃傷の悲報は第1の早かごの使者 早水藤左衛門、萱野三平の両名によって江戸から赤穂まで155里、普通なら158日もかかるところをわずか4昼夜半でふっ飛ばし、3月19日の午前6時ごろ赤穂城内大石屋敷へ到着した。
続いて第2の早かごの使者 原惣右衛門、大石瀬左衛門の両名が午後9時頃到着、内匠頭の切腹を知らせた。 -
☆赤穂大石神社
・藩士総登城大評定
主君内匠頭の切腹、江戸藩邸の受渡しなどの凶報に内蔵助は藩士300人余りに総登城を命じ19,20,21日の3日間、さらに27,28,29日と城中大広間で大評定が行われた。
籠城説、復讐説、開場殉死嘆願説など連日にわたって議論がなされ、結局無血開城ということになったが、内蔵助に従う者は50人余りにすぎなかった。
-
☆赤穂大石神社
・無念の城あけ渡し
4月14日幕府の収城使の龍野藩主、脇坂淡路守は大手門から4500人、備中足守の城主、木下肥後守は塩屋門から1500人の軍勢を引きつれて入城、内蔵助らは本丸玄関で収城使を迎え、赤穂城はここにあけ渡された。 -
☆赤穂大石神社
内蔵助は3代57年間のお城に名残を惜しみつつ清水門より退出していった。 -
☆赤穂大石神社
・祇園一力茶屋
内蔵助は城あけ渡しの残務処理も終わった6月の末、赤穂を出て京の山科の家へ移り、播州や上方あるいは江戸の同志と連絡をとりながら、浅野家の再興に努力をするとともに上野介に対する復讐の計画も進めた。
そして吉良や上杉(上野介の息子は上杉家当主)のスパイの目をくらますため、連日京の祇園や島原にいりびたって遊びほうけたという。 -
☆赤穂大石神社
・高田馬場の決闘
さかのぼって元禄7年、越後 新発田藩の浪人中山安兵衛は、堀内源左衛門道場を出、叔父甥の盟約を結んだ菅野六?左衛門から高田馬場の果し合いの助太刀を頼まれた。
安兵衛はおっとり刀で駆けつけ、村上兄弟ら4人を斬り伏せて美事六郎左衛門の仇を討った。
この事が機縁となって浅野家家臣の堀部弥兵衛に見込まれ、婿入した。 -
☆赤穂大石神社
・神崎与五郎詫証文
赤穂浪士神崎与五郎は同志と共に江戸へ下る途中、箱根の山中で馬子の丑五郎からしつこく馬をすすめられたが断った。そのため丑五郎は悪態の限りをついたので、与五郎は思わず刀の柄に手をかけ切り捨てようとした。
しかし大事の前の小事と涙を飲んで我慢をし、カンザケヨカロウと詫証文を書き、土下座して謝ったという。 -
☆赤穂大石神社
・恋の絵図面取り
赤穂浪士神崎与五郎の営む小豆屋善兵衛の小間物屋に手代として住み込んでいた同志の岡野金右衛門は、若くて美男子で独身であったから、いつしか吉良邸出入りの大工棟梁の娘お艶と恋仲となり、この事を幸に吉良邸の絵図面を入手しようと、お艶の父親が作った屋敷の図面を持ち出させて討入りのときに役立てたという。 -
☆赤穂大石神社
・南部坂雪の別れ
内蔵助は南部坂の下屋敷で毎日内匠頭の菩提を弔い、仇討ちを待っている瑶泉院(内匠頭の奥方)を訪ね、今夜吉良邸へ討入り、主君の怨みを晴らすことを告げようとしたが、万が一もれる事をおそれ、奥方の不興を承知の上で、西国大名に仕官のため別れに来たと嘘を言い、連判状を残してそれとなく別れを告げたという。 -
☆赤穂大石神社
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☆赤穂大石神社
・源蔵徳利の別れ
討入りを明日に控えて赤埴源蔵は、兄の塩山伊左衛門の家へ別れを告げに行ったが、留守であったため、その羽織を借りて一升徳利を据え、酒を酌み交わして兄弟の別れを惜しんだという。
源蔵の姓は赤垣ではなく赤埴(あかばね)が本当で、兄はなく、妹婿の家へ別れに行ったのが本当である。また源蔵は酒もあまりたしなまなかったという。 -
☆赤穂大石神社
・両国橋の源五と其角
討入りの当日、笹竹売りに身をやつした大高源五は吉良邸の偵察に出かけ、両国橋まで来ると、俳句仲間の宝井其角とばったり会った。其角は源五の姿を見て、
年の瀬や水の流れと人の身は
と一句詠んだのに対して
あしたまたるるその宝船
と源五が詠み返し、別れを惜しんだという。 -
☆赤穂大石神社
・吉良邸討入り
元禄15年12月14日の夜(今の時間でいうと15日の午前4時頃)本所松坂町の吉良邸へ向かった大石内蔵助ら23人は表門から、大石主税ら24人は裏門からそれぞれ討ち入った。
一般には雪の降る中、陣太鼓を打ち鳴らしながら討ち入ったように思われているが、実際はそんなことはなかった。
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☆赤穂大石神社
・浪士奮戦す
吉良邸に討入った47人は、目指す敵の上野介の姿を探し求めながら部屋の中や庭のあちこちで吉良家の家来や上杉の附人たちと刀を交え、近松勘六のように池に落ちた人もいた。
上杉の附人小林平八郎や二刀流を使った上野介の小姓清水一学の話は特に有名である。 -
☆赤穂大石神社
・炭小屋にいた上野介
戦うこと約2時間、目指す上野介はなかなか見付からなかった。
しかし午前6時ごろになって台所に続く炭小屋に隠れていた上野介に間十次郎が一番槍、武林唯七一番太刀をつけ、小屋の外に引き出し、合図の呼子笛で一同が集まった。
そこで内蔵助がとどめ一太刀を刺し、一番槍の十次郎が首を挙げて浪士たちは本懐を遂げた。 -
☆赤穂大石神社
・永代橋から引き揚げ
上野介の首を挙げた内蔵助ら47人は、吉良邸の裏門に近い無縁寺へ向かい休憩するつもりでいたが、一同の異様な風態に怖れをなした回向院が開門しなかったので、浪士たちは直接泉岳寺へ引き揚げることとなった。
内蔵助らははじめから江戸の中心部へ向かって架かる両国橋を渡るつもりはなく、隅田川沿いを下り、永代橋を渡って泉岳寺へ入った。 -
☆赤穂大石神社
・冷光院(内匠頭)に奉告
赤穂浪士が泉岳寺へ着いたのは午前10時過ぎであったが、ここで寺坂吉右衛門は1人、内蔵助からの密命を受けて門前から姿を消している。
内蔵助らはまず上野介の首を井戸で洗ってから冷光院の墓前に備え、主君の無念を晴らしたことを奉告し、一番に十次?、二番に唯七、そして三番目に内蔵助が焼香した。 -
☆赤穂大石神社
・内蔵助ら切腹す
細川・松平(久松)毛利・水野の4家にお預けになった46人に対して元禄16年2月4日、幕府は切腹死罪を申渡した。細川家では接待役の堀内伝右衛門が17人の遺言や辞世を書き留め、午後4時ごろから切腹が始まった。
まず内蔵助が切腹の座に着き、安場一平の介錯で首が落とされ、その後間新六郎を除いた45人が泉岳寺へ葬られた。 -
☆赤穂大石神社
・勅使差遣と神社創建
明治天皇は明治元年の東京行幸に際し、泉岳寺墓前に勅使を遣わされ、内蔵助らを弔って義士として深く賞賛する旨の勅宣と金幣を賜った。
そのことを契機に神社創建の話が起こり、全国崇敬者の奉賛によって明治33年神社創立が認可され、大石内蔵助良雄以下47人をまつる大石神社が、赤穂城三の丸に御鎮座になった。 -
☆赤穂大石神社
・大石神社参道47名の義士像
〜大石内蔵助 -
☆赤穂大石神社
・大石神社参道47名の義士像
〜大石内主税 -
☆赤穂大石神社
・大石神社参道47名の義士像 -
☆赤穂大石神社
・大石神社参道47名の義士像 -
☆赤穂大石神社
・大石神社参道47名の義士像
〜堀部安兵衛 -
☆赤穂大石神社
・大石神社参道47名の義士像 -
☆赤穂市立歴史博物館
少し歩いて歴史博物館へ向かいます。 -
☆赤穂市立歴史博物館
川面に映る土蔵景色〜きれいです。 -
☆赤穂市立歴史博物館
川面に映る土蔵景色 -
☆赤穂城〜お堀
城跡地は四方を石垣で囲まれています。 -
☆赤穂城〜お堀
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☆龍野城 隅櫓
〜ところ変わって、神戸市へ向かう途中、龍野市へ立ち寄りました。 -
☆龍野城 隅櫓
龍野城は今から四百八十年ほど前(室町時代明応の末期)鶏籠山山頂に築かれたものです。 -
☆龍野市の町並み
たつの市は兵庫県の南西部に位置し、旧脇坂藩五万三千石の城下町です。 -
☆龍野市の町並み
市内に残る歴史的な町並みは、市域のほぼ中央部を流れる清流の揖保川や緑の鶏籠山と良く調和し、「播磨の小京都」と言われています。 -
☆龍野市の町並み
龍野の町をいろどる江戸期の武家屋敷や寺町、白壁の土蔵や見通し窓のある白壁の土塀、醤油蔵が残る町屋風情、古い商家の華やかな表構え、細い路地・・・。往時のたたずまいを語っています。 -
☆龍野市の町並み
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☆龍野市の町並み
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☆龍野市の町並み
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☆龍野市の町並み
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☆神戸へ
つづく・・・
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