2010/11/11 - 2010/11/11
2118位(同エリア4327件中)
杏仁豆腐さん
上野の東京国立博物館で開催されている、「東大寺大仏 天平の至宝」を見に行きました。
その後、現在公開されている庭園を歩いてみました。秋の気配を感じながら、庭園を巡りました。
庭園を歩いたのは、初めてでした。
庭園は、春と秋に開放されています。
秋の庭園開放:2010年10月30日(土)〜12月12日(日)
春の庭園開放:2011年3月12日(土)〜4月17日(日) となっています。
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 私鉄
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JR上野駅を降り、国立博物館に向かいます。上野公園は秋の気配を感じます。
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もうしばらくすると、きれいでしょうね。
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上野公園の噴水です。
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空に向かって噴水が伸びていきます。
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国立博物館に近づいていきます。
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国立博物館に入りました。
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まずは、東大寺大仏を見に、平成館に行きます。
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大仏の手の実物大レプリカです。
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休憩所「鶴屋吉信」です。
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東大寺大仏を鑑賞した後は、庭園に行きました。
五重塔です。
高さ570センチメートルの銅製の塔。最上部の相輪には龍が絡み付き、垂木(たるき)、斗拱(ときょう)の組み物の細部まで入念に作られています。基壇に第五代将軍徳川綱吉(1646〜1709)が法隆寺に奉納した旨の銘文「大和国法隆寺元禄元年十二月日常憲院徳川綱吉」が線刻されています。 -
春草廬(しゅんそうろ)です。
江戸時代、河村瑞賢(かわむらずいけん1618〜1699)が摂津淀川改修工事の際に建てた休憩所で、その後大阪へ、さらに原三渓(1863〜1939)によって横浜の三渓園に移され、昭和12年(1937)に埼玉県所沢市にある松永安左エ門(耳庵・1875〜1971)の柳瀬荘内に移築されました。
昭和23年に柳瀬荘が国立博物館館に寄贈し、昭和34年に春草廬は現在の位置に移されました。
入母屋(いりもや)の妻に掲げられた「春草廬」の扁額は、能書家として知られる曼殊院良尚法親王(1622〜1693)の筆で、三渓が耳庵に贈ったものです。 -
春草廬
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春草廬
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町田久成の碑です。
初代博物局長(館長)町田久成(1838〜1897)の顕彰碑です。
町田久成は天保9年(1838)薩摩(現在の鹿児島県)に生まれました。
19歳で江戸に出て学び、慶応元年(1865)に渡英、大英博物館などを訪れ日本での博物館創設を志し、帰国後初代博物局長として日本の博物館の基礎を築きました。
文化財調査や保護を提唱し、自らの財産を投げうって書・古美術品を買い求め文化財の散逸を防ぐことにも尽力しました。
明治15年に退職、仏門に入り、明治30年9月15日上野で没しました。
寛永寺津梁院(しんりょういん)に墓があります。 -
第二回内国勧業博覧会の碑です。
明治政府は勧業政策の一環として博覧会を開催、その第一回から第三回の会場が上野公園でした。
明治10年(1877)の第一回博覧会では、本館北側のバルコニーのあたりに、日本で初めて美術館という名の煉瓦造りの建物が建てられました。
この美術館の前面にジョサイア・コンドル(イギリス 1852〜1920)設計の博物館旧本館が建てられ、明治14年の第二回内国勧業博覧会で使用されました。
第一回は会期102日、入場者数は45万人を超え、第二回は会期122日、入場者数は82万人に上りました。
博覧会は産業の振興におおいに役立っただけでなく、美術作品の出品も多く美術の振興にも寄与しました。
ちなみに、博覧会への出品物は特別に購入予算が計上されて博物館に買い上げられており、現在も明治の工芸作品の展示の重要な一部分になっています。
博物館に碑が残っているのは、この第二回のみです。 -
裏門です。台東区立忍岡中学校が見えます。
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転合庵(てんごうあん)です。
小堀遠州(こぼりえんしゅう 1579〜1647)が桂宮から茶入「於大名(おだいみょう)」を賜った折、その披露のために京都伏見の六地蔵に建てた茶室です。
その後大原寂光寺に移築され、昭和38年(1963)、茶入とともに国立博物館に寄贈されて現在の位置に移されました。 -
転合庵
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転合庵から見た池。
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六窓庵(ろくそうあん)です。
慶安年間(17世紀中頃)に奈良の興福寺慈眼院(じげんいん)に建てられた金森宗和(かなもりそうわ 1584〜1656)好みの茶室。
もとは興福寺大乗院内にあり現在奈良国立博物館に移された八窓庵、東大寺塔頭四聖房の隠岐録(おきろく)とともに大和の三茶室といわれました。
明治8年(1875)に博物館が購入、解体輸送中に伊豆で船が難破しましたが、幸い材は流失をまぬがれて明治10年に当館に移築されました。
その後、第二次大戦中再び解体され疎開しましたが、昭和22年(1947)9月、数寄屋の名工木村清兵衛により現在の位置に再建されたものです。
水屋、寄付、腰掛などは明治14年に古筆了仲(こひつりょうちゅう)によって設計、増築されたものです。 -
六窓庵
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六窓庵
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手水鉢(ちょうずばち)は四方仏水盤といわれる形式のもので、延長3年(925)関白藤原忠平が建立した山城国法性寺の石塔のひとつでした。
その後、銀閣寺を経て所有者がいく人か変わり、明治18年に博物館の所有になりました。 -
石燈籠
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九条館(くじょうかん)です。
もと京都御所内の九条邸にあったものを東京赤坂の九条邸に移した建築で、当主の居室として使われていました。
昭和9年(1934)九条家から寄贈され、現在の位置に移築されました。床張付、襖などには狩野派による楼閣山水図が描かれており、欄間にはカリンの一枚板に藤花菱が透かし彫りされています。 -
九条館
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九条館
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応挙館(おうきょかん)です。
尾張国(現在の愛知県大治町)の天台宗寺院、明眼院(みょうげんいん)の書院として寛保2年(1742)に建てられ、後に東京品川の益田孝(鈍翁・1848〜1938)邸内に移築、昭和8年(1933)国立博物館に寄贈され、現在の位置に移されました。
室内に描かれている墨画は、天明4年(1784)、円山応挙(まるやまおうきょ 1733〜1795)が明眼院に眼病で滞留していた際に揮亳したものであると伝えられています。
床張付に老松と石と竹、腰障子に稚松と石と竹を描いています -
応挙館
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池を眺めます。
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座って、眺めるのもいいものです。
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庭園を出ました。桜の季節もよさそうです。
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この旅行記へのコメント (2)
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- 一歩人さん 2010/11/21 14:08:22
- 鶴屋吉信の老舗も
- 杏仁豆腐さんへ
そうなんですよね、以前から入り口付近で開店していましたが、
いよいよ館内でしたか、この季節は、外より家のほうが過ごしやすいですよね。
洋菓子より和菓子はカロリー的にもいいとか。
和菓子は、季節表現に優れており、いいですよね。
創作菓子の季節表現は有職故実に通ずるものがあるようで、
興味津々で都内の和菓子店を一時期追っかけましたが。
あ!ごめんなさい、庭園ですよね。
じっくり思い出しながら、拝見しました。
いいですねええ。落ち着けて。
ありがとうございました。
失礼しま〜す。
- 杏仁豆腐さん からの返信 2010/11/21 16:27:29
- RE: 鶴屋吉信の老舗も
- 一歩人さんへ
和菓子は奥深いですね。
京都に行くと、和菓子の名店を梯子してしまいます。
予約しないと手に入らないものもあり、それを手にした時の喜びはこの上もないものです。
やはり、季節によっても店に並ぶものが異なり、四季それぞれの顔がありますね。
去りゆく秋もあとわずか。残された秋を楽しみたいです。
それでは、また。
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