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この駅はロ−カル線ながら瀟洒な構えの駅で、ちょっとしたコンコ−スには売店やレストラン、カフェなどもそろっている。彼と連れだってコンコ−スに出ると、売店のオバサンに何やら尋ねている。アウシュビッツ行きのバス乗場を聞いてくれているのだ。彼がいうには、この売店でバスのチケットを買い、玄関前の1番スポットから出るバスに乗ればよいとのこと。徒歩でも二十分で行けるそうだ。彼に「ジンクイエ ドヴィゼニャ(ありがとう、さよなら)」と礼をいって別れを告げる。<br /> <br /><br />帰りのチケットも一緒に買うと、間もなくやって来たバスに乗ってアウシュビッツへ向かう。町並みを過ぎて町外れに差しかかると、十分足らずで最寄りの停留所に到着、乗客に教えてもらいながら下車する。降りた乗客はたったの私一人だけで、人通りもなくひっそりとしている。道路は広いのだが、くるまの姿もほとんど見掛けない。降りた場所は緑の並木と畑が見えるだけで、建物も何もない殺風景なところである。やっと一軒だけぽつんと建っている小さな食品店を見つけ、そこでアウシュビッツの場所を尋ねる。<br /> <br /><br />ちょうど買物に来ていた一人の婦人が、その方向に行くというので一緒に連れだって歩き出す。道路沿いに五分足らず歩いたところで、この先が入口門だと教えてくれる。確かにコ−ナ−にはアウシュビッツ博物館と小さな表示が出ている。道路から直角に曲がって歩いて行くと、その前方に緑の木々に覆われた広大な敷地が現れる。構内まで続く広い道路の途中に、フェンスの門が設けてある。その手前に数台の乗用車が駐車されているが、人影はどこにもなくて猫の仔一匹見当たらず、人の気配が感じられない。果たして、ここから入門して間違いないのだろうかと、少し不安になりながらフェンスの端に開いている通用門をくぐって構内へと歩き進む。<br /><br /> <br />中の方へ向かって数百メ−トル歩いて行くと、やっと前方に建物が見えてきて、付近に見学者の姿が目にとまりほっとする。見学者はみんな貸し切りバスかタクシ−で来るらしく、その正面入口は別の所にあったのだ。そこには駐車場があって、その奥にレンガ造りの建物がある。ここがサ−ビスセンタ−で、その中にはインフォメ−ションがあり、資料・記念品などを売っている店もある。それにレストランやカフェ・郵便局・宿泊施設もある。また、アウシュビッツの記録映画が、一日数回上映されている。それも観てみたいが、滞在時間が短いので省略せざるを得ない。<br /> <br />アウシュビッツ収容所<br />ここを通り抜けて進むと、いよいよ収容所の入口ゲ−トに差し掛かる。その鉄のゲ−ト上には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」と、鉄をくり貫いて作られたドイツ語文字が掲げられている。収容者が作ったというそれをよく観ると、「ARBEIT」の“B”の文字がひっくり返したように上下逆さまになっている。つまり、上の部分のふくらみが大きくなっているのだ。こんなところで、収容者たちがささやかながら抵抗を示したのだろうという。<br /><br /><br />強制労働に駆り出される収容者たちは、毎日どんな気持ちでこのゲ−トをくぐり抜けて行ったのだろうか。彼らの中には、このドイツ語文字のアピ−ルを信じて、かすかな希望を抱きながら労働に勤しむ者もいたのだろうか。この下に立つと、今でもナチス兵士の軍靴の音や収容者たちの失意に満ちた足音が聞こえてくるようだ。<br /> <br /><br />第二次大戦中、ナチスドイツ占領下の土地からユダヤ人、ジプシ−、共産主義者、反ナチス活動家などが捕えられ、各地に設けられた強制収容所へ送られてきた。そして、ある者は即座に殺され、またある者は劣悪な条件下で過酷な労働を強いられた後、殺されたという。その最大の殺人工場ともいえるアウシュビッツ収容所では、実に二十八の民族、四〇〇万人もの人々が殺されたのである。この恐るべき収容所は、オシフィエンチムの郊外に、今は博物館として何事もなかったかのように、ただひっそりとたたずんでいる。<br /><br /><br />その広大な敷地内には、レンガ造りのがっしりした二階建ての屋舎二十八棟が三列に整然と並んでいる。それが木造の仮設物ではなく、レンガ造りの強固な建物であるところをみると、ナチスは半永久的なユダヤ人抹殺施設として考えていたのに違いない。今はポプラの並木に囲まれて静かに建ち並ぶ屋舎だが、こののどかな風景からは当時の凄まじい殺戮の光景などはとてもうかがい知ることはできない。<br /><br /> <br />これらの建物のうちいくつかは、そこで何が行われていたかを物語る展示がなされている。そこで、その主要な展示建物を見学して回ることにする。それほど多くはないが、観光客もボツボツ見えている。引率された中・高校生の参観者も結構来ている。まず、収容者からの略奪品が展示されている五号棟に入る。展示室は壁に囲まれた部屋のスペ−スをつぶして、そこに集めた略奪品を山積みし、それを大きなガラス窓で仕切って内部を観れるようにしてある。<br /><br /><br />最初の展示室はブラシ類の山である。何に使ったブラシなのだろうか。恐らくヘア−ブラシや服用ブラシ、あるいは靴用のブラシなどもあるのだろうが、そのうずたかく積まれたおびただしい数のブラシの山には、ただ息をのむばかりである。これら一本一本のブラシには、それぞれの所有者が確かにいたのだと思うと、やりきれない気持ちにさせられる。写真を写そうとするのだが、光線がガラスに反射してなかなかうまく撮れない。<br /> <br /><br />次の部屋に入ると、義手・義足が山と積まれている。恐らく死の直前に取り外されたのだろうが、それにしても収容者の中にはこれほど多くの障害者がいたのだろうかと驚かされる。これらの全てが、かけがえのない身体の一部として愛用されていたのかと思うと、今にも体温の温もりが伝わってきそうだ。<br /><br /><br />次の部屋はナベ・カマ類の山積みである。アルミやアルマイト製の調理用ナベやボウル類で、大小さまざまのサイズのものがうずたかく積まれている。恐らく強制連行される時、必要最小限の生活用品として大事に持参したものだろう。これらを必要としなくなったとき、それは死を意味するのである。<br /><br /> <br />次の部屋はカバンの略奪品の山だ。これも大小さまざまの革製トランクが、折り重なるようにして積み上げられている。そしてその蓋の上には、どれも住所や氏名がしっかりと書かれている。中には、自らユダヤ人であることを証明する星マ−クを書き入れいているカバンもある。それも消えないようにペンキでしっかりと……。これらの持ち主たちは、その文字をどんな気持ちで書いたのだろうか。もう二度と戻ることのない自分の住所を悲壮な気持ちで書き込む姿を思い浮かべると、心の奥まで痛みを感じずにはいられない。 <br /><br /><br />次の部屋に回ると、今度はメガネの山である。その細いフレ−ムが絡み合い、もつれ合って大きなメガネの山をつくり出している様は、なんとも異様である。そして、そのほとんどはレンズがないのだが、たまに残っているメガネのガラスがキラリと光っているのがなんとも無気味である。<br /><br /><br />もう一つの部屋には、これも大小さまざまのビンやカンが山積みされている。これは一体何なのだろうか? これが殺人用毒薬の入っていた空ビン類なのだろうか。そのおびただしい数を見ていると、背筋が凍る思いがする。<br /> <br /><br />この第五号棟で略奪品が展示されているのはこれだけなのだが、その一つひとつの所持品からは、今なお所有者の怨念がほとばしり出てくるようだ。ナチスによるホロコ−ストの凄まじさと恐ろしさを、これらの品々が紛れもない事実として、そのことを雄弁に物語っている。<br /> <br /><br />次の六号棟の展示内容は、収容者の生活状態を示すものである。そこには収容所で着せられていたパジャマスタイルのダボダボの衣服が展示されている。そして、一つの広い部屋の中には、粗末な布地で作った布団が床板の上に隙間なく三列にぎっしりと並べられている。これらは薄いワラ布団で、その丈も短く、毛布や枕の一つさえ揃えてない。たったこのワラ布団一枚のみである。恐らく彼らは、この短くバサついたワラ布団の上で、着の身着のまま身を縮めるようにして寝ていたのだろう。<br /><br /> <br />別の部屋に進むと、そこには三段ベッドがこしらえてある。ベッドというと聞こえはよいが、それはとんでもないベッドなのだ。間仕切り兼支柱として、レンガ造りの衝立壁がベッドの長さの間隔でつくられており、その壁に横木を通して板を張り付け、その上に少しのワラを敷いて薄い毛布を一枚あてがってある。下段はもちろん地べたの上、その上に中段と上段が乗っかっている。ここでは中段が特等席になるのだろうか。<br /><br /><br />先ほどの板張りの部屋に敷かれたワラ布団に寝るのと、この土間に作られた三段ベッドに寝るのとでは、果たしてどちらが寝ごごちはいいのだろうか。やはり板張りの部屋のほうが、少しは暖かくていいのではないだろうか。いずれにしても、氷点下に下がるポ−ランドの厳しい冬を過ごすには、あまりにも酷な処遇だといえよう。<br /> <br /><br />次は衛生状態を展示する七号棟へ移動する。そこのトイレ室を見ると、そこには便座も付いていない洋式便器が五、六個、七〇センチぐらいの間隔で一列に整然と並んでいる。その周りには、プライバシ−を守るための目隠しの設備など、何一つないスッポンポンのお見通しである。これでは人権もへったくりもあったものではない。収容者たちは、皆どんな気持ちで用を足していたのだろうか。慣れてしまえば、羞恥心もなくなってしまうのだろうか。自分をその身に置き換えて考えれば、それは想像するに余りある光景である。だが、ただ一つ感心させられるのは、その全部が水洗トイレらしく、各便器に水道パイプが通っていることだ。<br /><br /> <br />ここを出て次は十一号棟のほうへ回る。この十一号棟と十号棟の間に設けられた高いレンガ塀の壁がある。その間隔は十メ−トルもあのだろうか。実はこれが「死の壁」と呼ばれるもので、かってここで二万人が銃殺されたとされている。そのうち、銃殺よりもっと効率のよい方法はないものかと考え出されたのが、あの有名な“ガス室”だったのである。そのガス室は、ナチスが逃走時に証拠を隠滅するため爆破してしまったそうで、今ではその場所を見ることはできない。<br /> <br /><br />その塀の中央部には、さらに厚い石組の壁が設けられている。恐らく、この前に立たされて銃殺されていたのだろう。今では、その前の地面に、色とりどりの小さな容器の灯明が絶えることなく灯され続けている。この「死の壁」を前にして立っていると、死者たちの魂の悲痛な叫び声が聞こえてくるようだ。これらの魂の鎮魂のために、われわれはどんなことをすればよいのだろうか。 <br /><br /><br />主要な展示棟を一時間足らずの駆け足で見終わると、後は広い構内を散策しながら出口のほうへ歩いて行く。展示棟以外の建物は、すべて入口は施錠されており、中へは入れない。構内の端に差し掛かると、そこには二重に張り巡らされた鉄条網が敷地内を取り囲んでいるのが目に入る。その厳重な警備体制には驚くばかりで、いったんこの収容所内に閉じ込められたら、もはや脱出逃走することは不可能であろう。この非情な鉄条網に、どれだけ多くの人たちの怨念が染み付いていることだろうか。<br /><br /> <br />再び「ARBEIT MACHT FREI」の文字が掲げられた門をくぐり、元来た人気のないフェンスの出入口門へと足を運ぶ。そして、フェンス門をくぐり抜けて外に出ると、もう一度収容所のほうを振り向いて眺め渡す。それまで、私の体内に嵐のように吹きまくっていた激情の興奮も、ここにきてどうにか収まり始めてくる。この収容所を訪れるすべての人たちは、その希にみる大量殺戮の戦慄に心の動揺なしには決して立ち去ることはできないであろう。四〇〇万人の犠牲者たちの鎮魂を心の中で祈りながらアウシュビッツ博物館を後にする。<br /><br />(この続きはこちらへ⇒ http://yasy7.web.fc2.com/ )<br /><br />

ポーランド:アウシュヴィッツの旅

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1996/06/04 - 1996/06/04

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yasyas

yasyasさん

この駅はロ−カル線ながら瀟洒な構えの駅で、ちょっとしたコンコ−スには売店やレストラン、カフェなどもそろっている。彼と連れだってコンコ−スに出ると、売店のオバサンに何やら尋ねている。アウシュビッツ行きのバス乗場を聞いてくれているのだ。彼がいうには、この売店でバスのチケットを買い、玄関前の1番スポットから出るバスに乗ればよいとのこと。徒歩でも二十分で行けるそうだ。彼に「ジンクイエ ドヴィゼニャ(ありがとう、さよなら)」と礼をいって別れを告げる。
 

帰りのチケットも一緒に買うと、間もなくやって来たバスに乗ってアウシュビッツへ向かう。町並みを過ぎて町外れに差しかかると、十分足らずで最寄りの停留所に到着、乗客に教えてもらいながら下車する。降りた乗客はたったの私一人だけで、人通りもなくひっそりとしている。道路は広いのだが、くるまの姿もほとんど見掛けない。降りた場所は緑の並木と畑が見えるだけで、建物も何もない殺風景なところである。やっと一軒だけぽつんと建っている小さな食品店を見つけ、そこでアウシュビッツの場所を尋ねる。
 

ちょうど買物に来ていた一人の婦人が、その方向に行くというので一緒に連れだって歩き出す。道路沿いに五分足らず歩いたところで、この先が入口門だと教えてくれる。確かにコ−ナ−にはアウシュビッツ博物館と小さな表示が出ている。道路から直角に曲がって歩いて行くと、その前方に緑の木々に覆われた広大な敷地が現れる。構内まで続く広い道路の途中に、フェンスの門が設けてある。その手前に数台の乗用車が駐車されているが、人影はどこにもなくて猫の仔一匹見当たらず、人の気配が感じられない。果たして、ここから入門して間違いないのだろうかと、少し不安になりながらフェンスの端に開いている通用門をくぐって構内へと歩き進む。

 
中の方へ向かって数百メ−トル歩いて行くと、やっと前方に建物が見えてきて、付近に見学者の姿が目にとまりほっとする。見学者はみんな貸し切りバスかタクシ−で来るらしく、その正面入口は別の所にあったのだ。そこには駐車場があって、その奥にレンガ造りの建物がある。ここがサ−ビスセンタ−で、その中にはインフォメ−ションがあり、資料・記念品などを売っている店もある。それにレストランやカフェ・郵便局・宿泊施設もある。また、アウシュビッツの記録映画が、一日数回上映されている。それも観てみたいが、滞在時間が短いので省略せざるを得ない。
 
アウシュビッツ収容所
ここを通り抜けて進むと、いよいよ収容所の入口ゲ−トに差し掛かる。その鉄のゲ−ト上には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」と、鉄をくり貫いて作られたドイツ語文字が掲げられている。収容者が作ったというそれをよく観ると、「ARBEIT」の“B”の文字がひっくり返したように上下逆さまになっている。つまり、上の部分のふくらみが大きくなっているのだ。こんなところで、収容者たちがささやかながら抵抗を示したのだろうという。


強制労働に駆り出される収容者たちは、毎日どんな気持ちでこのゲ−トをくぐり抜けて行ったのだろうか。彼らの中には、このドイツ語文字のアピ−ルを信じて、かすかな希望を抱きながら労働に勤しむ者もいたのだろうか。この下に立つと、今でもナチス兵士の軍靴の音や収容者たちの失意に満ちた足音が聞こえてくるようだ。
 

第二次大戦中、ナチスドイツ占領下の土地からユダヤ人、ジプシ−、共産主義者、反ナチス活動家などが捕えられ、各地に設けられた強制収容所へ送られてきた。そして、ある者は即座に殺され、またある者は劣悪な条件下で過酷な労働を強いられた後、殺されたという。その最大の殺人工場ともいえるアウシュビッツ収容所では、実に二十八の民族、四〇〇万人もの人々が殺されたのである。この恐るべき収容所は、オシフィエンチムの郊外に、今は博物館として何事もなかったかのように、ただひっそりとたたずんでいる。


その広大な敷地内には、レンガ造りのがっしりした二階建ての屋舎二十八棟が三列に整然と並んでいる。それが木造の仮設物ではなく、レンガ造りの強固な建物であるところをみると、ナチスは半永久的なユダヤ人抹殺施設として考えていたのに違いない。今はポプラの並木に囲まれて静かに建ち並ぶ屋舎だが、こののどかな風景からは当時の凄まじい殺戮の光景などはとてもうかがい知ることはできない。

 
これらの建物のうちいくつかは、そこで何が行われていたかを物語る展示がなされている。そこで、その主要な展示建物を見学して回ることにする。それほど多くはないが、観光客もボツボツ見えている。引率された中・高校生の参観者も結構来ている。まず、収容者からの略奪品が展示されている五号棟に入る。展示室は壁に囲まれた部屋のスペ−スをつぶして、そこに集めた略奪品を山積みし、それを大きなガラス窓で仕切って内部を観れるようにしてある。


最初の展示室はブラシ類の山である。何に使ったブラシなのだろうか。恐らくヘア−ブラシや服用ブラシ、あるいは靴用のブラシなどもあるのだろうが、そのうずたかく積まれたおびただしい数のブラシの山には、ただ息をのむばかりである。これら一本一本のブラシには、それぞれの所有者が確かにいたのだと思うと、やりきれない気持ちにさせられる。写真を写そうとするのだが、光線がガラスに反射してなかなかうまく撮れない。
 

次の部屋に入ると、義手・義足が山と積まれている。恐らく死の直前に取り外されたのだろうが、それにしても収容者の中にはこれほど多くの障害者がいたのだろうかと驚かされる。これらの全てが、かけがえのない身体の一部として愛用されていたのかと思うと、今にも体温の温もりが伝わってきそうだ。


次の部屋はナベ・カマ類の山積みである。アルミやアルマイト製の調理用ナベやボウル類で、大小さまざまのサイズのものがうずたかく積まれている。恐らく強制連行される時、必要最小限の生活用品として大事に持参したものだろう。これらを必要としなくなったとき、それは死を意味するのである。

 
次の部屋はカバンの略奪品の山だ。これも大小さまざまの革製トランクが、折り重なるようにして積み上げられている。そしてその蓋の上には、どれも住所や氏名がしっかりと書かれている。中には、自らユダヤ人であることを証明する星マ−クを書き入れいているカバンもある。それも消えないようにペンキでしっかりと……。これらの持ち主たちは、その文字をどんな気持ちで書いたのだろうか。もう二度と戻ることのない自分の住所を悲壮な気持ちで書き込む姿を思い浮かべると、心の奥まで痛みを感じずにはいられない。 


次の部屋に回ると、今度はメガネの山である。その細いフレ−ムが絡み合い、もつれ合って大きなメガネの山をつくり出している様は、なんとも異様である。そして、そのほとんどはレンズがないのだが、たまに残っているメガネのガラスがキラリと光っているのがなんとも無気味である。


もう一つの部屋には、これも大小さまざまのビンやカンが山積みされている。これは一体何なのだろうか? これが殺人用毒薬の入っていた空ビン類なのだろうか。そのおびただしい数を見ていると、背筋が凍る思いがする。
 

この第五号棟で略奪品が展示されているのはこれだけなのだが、その一つひとつの所持品からは、今なお所有者の怨念がほとばしり出てくるようだ。ナチスによるホロコ−ストの凄まじさと恐ろしさを、これらの品々が紛れもない事実として、そのことを雄弁に物語っている。
 

次の六号棟の展示内容は、収容者の生活状態を示すものである。そこには収容所で着せられていたパジャマスタイルのダボダボの衣服が展示されている。そして、一つの広い部屋の中には、粗末な布地で作った布団が床板の上に隙間なく三列にぎっしりと並べられている。これらは薄いワラ布団で、その丈も短く、毛布や枕の一つさえ揃えてない。たったこのワラ布団一枚のみである。恐らく彼らは、この短くバサついたワラ布団の上で、着の身着のまま身を縮めるようにして寝ていたのだろう。

 
別の部屋に進むと、そこには三段ベッドがこしらえてある。ベッドというと聞こえはよいが、それはとんでもないベッドなのだ。間仕切り兼支柱として、レンガ造りの衝立壁がベッドの長さの間隔でつくられており、その壁に横木を通して板を張り付け、その上に少しのワラを敷いて薄い毛布を一枚あてがってある。下段はもちろん地べたの上、その上に中段と上段が乗っかっている。ここでは中段が特等席になるのだろうか。


先ほどの板張りの部屋に敷かれたワラ布団に寝るのと、この土間に作られた三段ベッドに寝るのとでは、果たしてどちらが寝ごごちはいいのだろうか。やはり板張りの部屋のほうが、少しは暖かくていいのではないだろうか。いずれにしても、氷点下に下がるポ−ランドの厳しい冬を過ごすには、あまりにも酷な処遇だといえよう。
 

次は衛生状態を展示する七号棟へ移動する。そこのトイレ室を見ると、そこには便座も付いていない洋式便器が五、六個、七〇センチぐらいの間隔で一列に整然と並んでいる。その周りには、プライバシ−を守るための目隠しの設備など、何一つないスッポンポンのお見通しである。これでは人権もへったくりもあったものではない。収容者たちは、皆どんな気持ちで用を足していたのだろうか。慣れてしまえば、羞恥心もなくなってしまうのだろうか。自分をその身に置き換えて考えれば、それは想像するに余りある光景である。だが、ただ一つ感心させられるのは、その全部が水洗トイレらしく、各便器に水道パイプが通っていることだ。

 
ここを出て次は十一号棟のほうへ回る。この十一号棟と十号棟の間に設けられた高いレンガ塀の壁がある。その間隔は十メ−トルもあのだろうか。実はこれが「死の壁」と呼ばれるもので、かってここで二万人が銃殺されたとされている。そのうち、銃殺よりもっと効率のよい方法はないものかと考え出されたのが、あの有名な“ガス室”だったのである。そのガス室は、ナチスが逃走時に証拠を隠滅するため爆破してしまったそうで、今ではその場所を見ることはできない。
 

その塀の中央部には、さらに厚い石組の壁が設けられている。恐らく、この前に立たされて銃殺されていたのだろう。今では、その前の地面に、色とりどりの小さな容器の灯明が絶えることなく灯され続けている。この「死の壁」を前にして立っていると、死者たちの魂の悲痛な叫び声が聞こえてくるようだ。これらの魂の鎮魂のために、われわれはどんなことをすればよいのだろうか。 


主要な展示棟を一時間足らずの駆け足で見終わると、後は広い構内を散策しながら出口のほうへ歩いて行く。展示棟以外の建物は、すべて入口は施錠されており、中へは入れない。構内の端に差し掛かると、そこには二重に張り巡らされた鉄条網が敷地内を取り囲んでいるのが目に入る。その厳重な警備体制には驚くばかりで、いったんこの収容所内に閉じ込められたら、もはや脱出逃走することは不可能であろう。この非情な鉄条網に、どれだけ多くの人たちの怨念が染み付いていることだろうか。

 
再び「ARBEIT MACHT FREI」の文字が掲げられた門をくぐり、元来た人気のないフェンスの出入口門へと足を運ぶ。そして、フェンス門をくぐり抜けて外に出ると、もう一度収容所のほうを振り向いて眺め渡す。それまで、私の体内に嵐のように吹きまくっていた激情の興奮も、ここにきてどうにか収まり始めてくる。この収容所を訪れるすべての人たちは、その希にみる大量殺戮の戦慄に心の動揺なしには決して立ち去ることはできないであろう。四〇〇万人の犠牲者たちの鎮魂を心の中で祈りながらアウシュビッツ博物館を後にする。

(この続きはこちらへ⇒ http://yasy7.web.fc2.com/ )

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
一人旅
交通手段
鉄道 高速・路線バス
旅行の手配内容
個別手配
  • 収容所入口ゲート<br />ドイツ語文字のアーチに注目<br /><br />

    収容所入口ゲート
    ドイツ語文字のアーチに注目

  • カトヴィツェ駅<br />

    カトヴィツェ駅

  • カトヴィツェ駅前の風景(裏口)<br /><br />

    カトヴィツェ駅前の風景(裏口)

  • カトヴィツェ駅前の公園<br />

    カトヴィツェ駅前の公園

  • カトヴィツェ駅前の風景<br />

    カトヴィツェ駅前の風景

  • オシフェンチム駅<br />

    オシフェンチム駅

  • アウシュビッツ博物館入口<br /><br />

    アウシュビッツ博物館入口

  • 整然と並ぶ収容所の建物<br /><br />

    整然と並ぶ収容所の建物

  • ブラシの山<br />

    ブラシの山

  • 義手・義足の山<br />

    義手・義足の山

  • 容器の山<br />

    容器の山

  • トランクの山<br />

    トランクの山

  • からみ合うメガネの山<br />

    からみ合うメガネの山

  • ワラ布団の列<br />

    ワラ布団の列

  • ワラ敷きのカイコ棚ベッド<br /><br />

    ワラ敷きのカイコ棚ベッド

  • 仕切りなし、便座なしのトイレ<br /><br />

    仕切りなし、便座なしのトイレ

  • 「死の壁」<br />地面にはカラフルな灯明が絶え間ない<br /><br />

    「死の壁」
    地面にはカラフルな灯明が絶え間ない

  • 二重に張り巡らされた鉄条網<br />

    二重に張り巡らされた鉄条網

  • オシフェンチム駅で出会った少女<br />

    オシフェンチム駅で出会った少女

  • 同 上:バーバラ<br />

    同 上:バーバラ

  • ワルシャワ中央駅コンコース<br /><br />

    ワルシャワ中央駅コンコース

  • 同上のホーム(この列車で帰着)<br />

    同上のホーム(この列車で帰着)

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