横須賀旅行記(ブログ) 一覧に戻る
芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)(明治25年(1892年)3月1日~昭和2年(1927年)7月24日)は、大正初期から昭和初期にかけて活躍した日本の文豪である。<br /><br />芥川は関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)で当時横須賀に存在し震災で壊滅した為に横須賀での復興を断念し大正14年(1925年)3月に京都府舞鶴に移転した海軍機関学校に於いて、大正5年(1916年)12月から大正8年(1920年)3月まで英語科嘱託教官として赴任し、当時居住していた鎌倉から横須賀まで横須賀線に乗車して通勤していた。<br /><br />当時の海軍は、同じ夏目漱石(なつめ そうせき)(慶応3年(1867年)2月9日~大正5年(1916年)12月9日)の門下生、内田百聞(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日~昭和46年(1971年)4月20日)など、作家を教官として丁重に扱い、陸軍を頭から軽蔑嫌悪していた東京出身の芥川なども海軍には好意的作品が観られるのも、此の傾向が下地に存在したからであると思われる。<br /><br />短編『蜜柑』は芥川が海軍機関学校での講義を終え帰宅時に利用した横須賀線車内で自身が27才の時の体験を綴り、大正8年(1919年)4月に発表した短編作品である。<br /><br /><br /><br />   『蜜 柑』<br /><br />或曇つた冬の日暮である。私は横須賀發上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり發車の笛を待つてゐた。とうに電燈もついた客車①の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はゐなかつた。外を覗くと、うす暗いプラツトフオオムにも、今日は珍しく見送りの人影さへ跡を絶つて、唯、檻に入れられた小犬が一匹、時々悲しさうに、吠え立ててゐた。これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかはしい景色だつた。私の頭の中には云ひやうのない披露と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりとした影を落としてゐた。私は外套のポツケツトへぢつと両手をつつこんだ儘、そこにはいつてゐる夕刊を出して見ようと云う元気さへ起こらなかつた。<br />が、やがて發車の笛が鳴つた。私はかすかな心の寛ぎを感じながら、後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまへてゐた。所がそれよりも先にけたたましい日和下駄の音が、改札口の方から聞え出したと思ふと、間もなく車掌の何か云い罵る声と共に、私が乗つてゐる二等室の戸ががらりと開いて、十三四の小娘が一人、慌しく中にはいつて来た、と同時に一つづしり揺れて、徐に汽車は動き出した。一本づつ眼をくぎつて行くプラツトフオオムの柱、置き忘れたやうな運水車、それから車内の誰かに祝儀の礼を云つてゐる赤帽 - さう云うすべては、窓へ吹きつける煤煙の中に、未練がましく後へ倒れて行つた。私は漸くほつとした心もちになつて、巻煙草に火をつけてながら、始めて懶い睚をあえて、前の席に腰を下してゐた小娘の顔を一瞥した。<br />それは油気のない髪をひつつめの銀杏返しに結つ、横なでの痕のある皸だらけの両頬を気持の悪い程火照らせた、如何にも田舎者らしい娘だつた。しかも垢じみた萌黄色の毛糸の襟巻がだらりと垂れ下つた膝の上には、大きな風呂敷包みがあつた。その又包みを抱いた霜焼けの手の中には。三等の赤切符が大事さうにしつかり握られてゐた。私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかつた。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だつた。最後に二等と三等との区別さへも弁へない愚鈍な心が腹立たしかつた。だから巻煙草に火をつけた私は、一つにはこの小娘の存在を忘れたいと云う心もちもあつて、今度はポツケツトの夕刊を漫然と膝の上へとひろげて見た。すると其時夕刊の紙面に落ちてゐた外光が、突然電燈の光に変つて、刷の悪い何欄かの活字が意外な位鮮に私の眼の前に浮かんで来た。云ふまでもなく汽車は今、横須賀線に多い隧道の最初のそれへはいつたのである。<br />しかしその電燈の光に照らされ夕刊の紙面を見渡しても、やはり私の憂鬱を慰むべく、世間は余りに平凡な出来事ばかりで持ち切つてゐた。講和問題、新婦新郎、助K職事件、死亡広告 - 私は隧道へはいつた瞬間、汽車の走つてゐる方向が逆になつたやうな錯覚を感じながら、それらの索漠とした記事から記事へ殆機械的に眼を通した。が、その間も勿論あの小娘が、恰も卑俗な現実を人間にしたやうな面持ちで、私の前に坐つてゐる事を絶えず意識せずにはゐられなかつた。この隧道の中の汽車と、この田舎者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、 - これが、象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を抛り出すと、又窓枠に頭を靠せながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。<br />それから幾分か過ぎた後であつた。ふと何かに脅されたやうな心もちがして、思はずあたりを見まはすと、何時の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻に窓を開けようとしてゐる。が、重い硝子戸は中々思ふやうにあがらないらしい。あの罅だらけの頬は愈赤くなつて、時々鼻洟をすすりこむ音が、小さな息の切れる声と一しよに、せはしなく耳にはいつて来る。これは勿論私にも、幾分ながら同情を惹くに足るものに相違なかつた。しかし汽車が今将に隧道の口へとさしかからうとしてゐる事は、暮色の中に枯草ばかり明い両側の山腹が、間近く窓際に追つて来たのでも、すぐに合点の行く事であつた。にも関らずこの小娘は、わざわざしめてゐる窓の戸を下さうとする、 - その理由が私には呑みこめなかつた。いや、それが私には、単にこの小娘の気まぐれだとしか考へられなかつた。だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄へながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡げやうとして悪戦苦闘する容子を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るやうな冷酷な眼で眺めてゐた。すると間もなく凄まじい音をはためかせて、汽車が隧道へとなだれこむと同時に、小娘の開けやうとした硝子戸は、たうたうばたりと下へ落ちた。そうしてその四角な穴の中から煤を溶したやうなどす黒い空気が、俄に息苦しい煙になつて、濛々と車内に漲り出した。元来咽喉を害してゐた私は、手巾を顔を当てる暇さへなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆息もつけない程咳きこまなければならなかつた。が、小娘は私に頓着する気色も見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返しの丞揩フ毛を戦がせながら、ぢつと汽車の進む方向を見やつてゐる。その姿を煤煙と電燈の光との中に眺めた時、もう窓の外が見る見る明るくなつて、そこから土の匂や枯草の匂や水の匂が冷かに流れこんで来なかつたなら、漸咳きやんだ私は、この見知らない小娘を頭ごなしに叱りつけてでも、又元の通り窓の戸をしめさせたのに相違なかつたのである。<br />しかし汽車はその時分には、もう安々と隧道を辷りぬけて、枯草の山と山との間に挟まれた、或貧しい町はづれの踏切りに通りかかつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであらう、唯一旒のうす白い旗が償?ーに暮色を揺すつてゐた。やつと隧道を出たと思ふ - その時その蕭索とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立つてゐるのを見た。彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思ふ程、揃つて背が低かつた。さうして又この町はづれの陰惨たる風物と同じやうな色の着物を着てゐた。それが、汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊声を一生懸命に迸らせた。するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。私は思はず息を?んだ。さうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懐に蔵してゐた幾頼の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。<br />暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮な蜜柑の色と - すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はつきりと、この光景が焼きつけられた。そうしてそこから、或得体の知れない朗な心もちが湧き上つて来るのを意識した。私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るやうにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前に返つて、相変変皸だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱へた手に、しつかりと三等切符を握つてゐる。・・・・・・・・・・<br />私はこの時始めて、云いやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。<br /><br /><br />表紙の写真は『蜜柑』に登場する主人公が弟たちにミカンを投げたと推定される踏切

鉄道と文豪作品 ~芥川龍之介『蜜柑』~

166いいね!

2010/10/05 - 2010/10/07

17位(同エリア1403件中)

12

3

横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)(明治25年(1892年)3月1日~昭和2年(1927年)7月24日)は、大正初期から昭和初期にかけて活躍した日本の文豪である。

芥川は関東大震災(大正12年(1923年)9月1日)で当時横須賀に存在し震災で壊滅した為に横須賀での復興を断念し大正14年(1925年)3月に京都府舞鶴に移転した海軍機関学校に於いて、大正5年(1916年)12月から大正8年(1920年)3月まで英語科嘱託教官として赴任し、当時居住していた鎌倉から横須賀まで横須賀線に乗車して通勤していた。

当時の海軍は、同じ夏目漱石(なつめ そうせき)(慶応3年(1867年)2月9日~大正5年(1916年)12月9日)の門下生、内田百聞(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日~昭和46年(1971年)4月20日)など、作家を教官として丁重に扱い、陸軍を頭から軽蔑嫌悪していた東京出身の芥川なども海軍には好意的作品が観られるのも、此の傾向が下地に存在したからであると思われる。

短編『蜜柑』は芥川が海軍機関学校での講義を終え帰宅時に利用した横須賀線車内で自身が27才の時の体験を綴り、大正8年(1919年)4月に発表した短編作品である。



   『蜜 柑』

或曇つた冬の日暮である。私は横須賀發上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり發車の笛を待つてゐた。とうに電燈もついた客車①の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はゐなかつた。外を覗くと、うす暗いプラツトフオオムにも、今日は珍しく見送りの人影さへ跡を絶つて、唯、檻に入れられた小犬が一匹、時々悲しさうに、吠え立ててゐた。これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかはしい景色だつた。私の頭の中には云ひやうのない披露と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりとした影を落としてゐた。私は外套のポツケツトへぢつと両手をつつこんだ儘、そこにはいつてゐる夕刊を出して見ようと云う元気さへ起こらなかつた。
が、やがて發車の笛が鳴つた。私はかすかな心の寛ぎを感じながら、後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまへてゐた。所がそれよりも先にけたたましい日和下駄の音が、改札口の方から聞え出したと思ふと、間もなく車掌の何か云い罵る声と共に、私が乗つてゐる二等室の戸ががらりと開いて、十三四の小娘が一人、慌しく中にはいつて来た、と同時に一つづしり揺れて、徐に汽車は動き出した。一本づつ眼をくぎつて行くプラツトフオオムの柱、置き忘れたやうな運水車、それから車内の誰かに祝儀の礼を云つてゐる赤帽 - さう云うすべては、窓へ吹きつける煤煙の中に、未練がましく後へ倒れて行つた。私は漸くほつとした心もちになつて、巻煙草に火をつけてながら、始めて懶い睚をあえて、前の席に腰を下してゐた小娘の顔を一瞥した。
それは油気のない髪をひつつめの銀杏返しに結つ、横なでの痕のある皸だらけの両頬を気持の悪い程火照らせた、如何にも田舎者らしい娘だつた。しかも垢じみた萌黄色の毛糸の襟巻がだらりと垂れ下つた膝の上には、大きな風呂敷包みがあつた。その又包みを抱いた霜焼けの手の中には。三等の赤切符が大事さうにしつかり握られてゐた。私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかつた。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だつた。最後に二等と三等との区別さへも弁へない愚鈍な心が腹立たしかつた。だから巻煙草に火をつけた私は、一つにはこの小娘の存在を忘れたいと云う心もちもあつて、今度はポツケツトの夕刊を漫然と膝の上へとひろげて見た。すると其時夕刊の紙面に落ちてゐた外光が、突然電燈の光に変つて、刷の悪い何欄かの活字が意外な位鮮に私の眼の前に浮かんで来た。云ふまでもなく汽車は今、横須賀線に多い隧道の最初のそれへはいつたのである。
しかしその電燈の光に照らされ夕刊の紙面を見渡しても、やはり私の憂鬱を慰むべく、世間は余りに平凡な出来事ばかりで持ち切つてゐた。講和問題、新婦新郎、助K職事件、死亡広告 - 私は隧道へはいつた瞬間、汽車の走つてゐる方向が逆になつたやうな錯覚を感じながら、それらの索漠とした記事から記事へ殆機械的に眼を通した。が、その間も勿論あの小娘が、恰も卑俗な現実を人間にしたやうな面持ちで、私の前に坐つてゐる事を絶えず意識せずにはゐられなかつた。この隧道の中の汽車と、この田舎者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、 - これが、象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を抛り出すと、又窓枠に頭を靠せながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。
それから幾分か過ぎた後であつた。ふと何かに脅されたやうな心もちがして、思はずあたりを見まはすと、何時の間にか例の小娘が、向う側から席を私の隣へ移して、頻に窓を開けようとしてゐる。が、重い硝子戸は中々思ふやうにあがらないらしい。あの罅だらけの頬は愈赤くなつて、時々鼻洟をすすりこむ音が、小さな息の切れる声と一しよに、せはしなく耳にはいつて来る。これは勿論私にも、幾分ながら同情を惹くに足るものに相違なかつた。しかし汽車が今将に隧道の口へとさしかからうとしてゐる事は、暮色の中に枯草ばかり明い両側の山腹が、間近く窓際に追つて来たのでも、すぐに合点の行く事であつた。にも関らずこの小娘は、わざわざしめてゐる窓の戸を下さうとする、 - その理由が私には呑みこめなかつた。いや、それが私には、単にこの小娘の気まぐれだとしか考へられなかつた。だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄へながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡げやうとして悪戦苦闘する容子を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るやうな冷酷な眼で眺めてゐた。すると間もなく凄まじい音をはためかせて、汽車が隧道へとなだれこむと同時に、小娘の開けやうとした硝子戸は、たうたうばたりと下へ落ちた。そうしてその四角な穴の中から煤を溶したやうなどす黒い空気が、俄に息苦しい煙になつて、濛々と車内に漲り出した。元来咽喉を害してゐた私は、手巾を顔を当てる暇さへなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆息もつけない程咳きこまなければならなかつた。が、小娘は私に頓着する気色も見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返しの丞揩フ毛を戦がせながら、ぢつと汽車の進む方向を見やつてゐる。その姿を煤煙と電燈の光との中に眺めた時、もう窓の外が見る見る明るくなつて、そこから土の匂や枯草の匂や水の匂が冷かに流れこんで来なかつたなら、漸咳きやんだ私は、この見知らない小娘を頭ごなしに叱りつけてでも、又元の通り窓の戸をしめさせたのに相違なかつたのである。
しかし汽車はその時分には、もう安々と隧道を辷りぬけて、枯草の山と山との間に挟まれた、或貧しい町はづれの踏切りに通りかかつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであらう、唯一旒のうす白い旗が償?ーに暮色を揺すつてゐた。やつと隧道を出たと思ふ - その時その蕭索とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立つてゐるのを見た。彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思ふ程、揃つて背が低かつた。さうして又この町はづれの陰惨たる風物と同じやうな色の着物を着てゐた。それが、汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊声を一生懸命に迸らせた。するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。私は思はず息を?んだ。さうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懐に蔵してゐた幾頼の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。
暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮な蜜柑の色と - すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はつきりと、この光景が焼きつけられた。そうしてそこから、或得体の知れない朗な心もちが湧き上つて来るのを意識した。私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るやうにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前に返つて、相変変皸だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱へた手に、しつかりと三等切符を握つてゐる。・・・・・・・・・・
私はこの時始めて、云いやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。


表紙の写真は『蜜柑』に登場する主人公が弟たちにミカンを投げたと推定される踏切

同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

PR

  • 横須賀駅<br /><br /><br /><br />①

    横須賀駅



  • 田浦-横須賀間<br /><br /><br /><br />罅割れた少女が弟たちにミカンを投げ与えたと推定される踏切<br /><br />横須賀市吉倉1−105<br />横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス吉倉停留所降車 徒歩5分

    田浦-横須賀間



    罅割れた少女が弟たちにミカンを投げ与えたと推定される踏切

    横須賀市吉倉1−105
    横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス吉倉停留所降車 徒歩5分

  • 『蜜柑』の碑<br /><br /><br /><br />吉倉公園の一角に存在<br /><br />横須賀市吉倉町1−105<br />横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス吉倉停留所 徒歩1分

    『蜜柑』の碑



    吉倉公園の一角に存在

    横須賀市吉倉町1−105
    横須賀線田浦駅田浦町口 湘南京急バス吉倉停留所 徒歩1分

この旅行記のタグ

166いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

この旅行記へのコメント (12)

開く

閉じる

  • 旅空ーshinoさん 2014/10/16 14:29:09
    読書の秋…。
    横浜臨海公園さま。

    『蜜柑』に感動いたしました。
    最近は本を読んでいません…。

    若い頃は、いつも手元に本があったのに…。
    それが、懐かしくなってしまっているこの頃です。

    繰り返し読んだ本も、今読むと違うのでしょうね…。

    『蜜柑』の紹介、有難うございました。

    本を持って、旅がしたくなりました。



        旅空〜shino

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2014/10/23 15:03:43
    拝復
    旅空〜shinoさま、こんにちは。



    掲示板にメッセージを賜りながら、返事を差し上げるのが遅くなりまして、本当に申し訳ございませんでした。

    蜜柑が公刊された頃の横須賀線沿線風景と現在のソレは、約100年の歳月の結果、現在では人家が密集する地域となり、町全体に於いて昔の面影は激減してしまっております。
    然し、横須賀線は昔の経路を現在も使用し、例のトンネルも大正12年から電化工事の際に口径拡大化が施工されたものの、原則的に当時の隧道構造が現在も残存する特異な所です。

    昔の2等車と異なり、今のグリーン車は窓こそ開かない構造になりましたが、横須賀線に乗ると、自然当時のイメージが湧き出てくる様に思います。




    横浜臨海公園
  • yquemさん 2011/11/07 02:22:05
    萌黄色の中のオレンジに涙
    横浜臨海公園さん

    『蜜 柑』すばらしい作品ですね

      しもやけの手に三等席の切符

      小鳥のように声をあげた弟達

      そして暗く荒んだ気持ちの中に

      突如現れた『蜜 柑』…

    こんなところで拝読させていただけるとは思いませんでした。
    そして踏み切りの写真を拝見しながら
    いろんな世界を想像させられて涙してしまいました。
    萌黄色の中のオレンジ色がいっそう映えて写りだされていたのしょう。
    場面が夕刻というところも凄くにくいところです。。。

    そんな世界が広がる踏み切りが
    横須賀線にあったのですね。


    とても心を打たれる旅行記に出会えました。
    有難うございました。

    yquem



    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/11/08 14:12:02
    拝復
    yquemさま、こんにちは。


    拙稿へのお立寄りと旅行記への投票を賜りまして誠に有難うございました。

    蜜柑は芥川龍之介の作品としては地味な存在ですが、描写に使われた光景が90数年を経過しても全部現存する事が稀有の例だと言えると思います。
    兎に角、この旅行記で何が一番苦労したかと申せば、現場への立ち入りで隧道の写真は遂に諦めざるを得ませんでした。

    今後とも宜敷くお願い申します。



    横浜臨海公園


  • わんぱく大将さん 2011/09/22 05:09:37
    これは読んだことがなく
    横浜臨海公園さん

    口コミ、また、旅行記までと幅広い、投票を有難うございます。

    学生の頃は、文豪作品をよく読みましたが、これはいまだに読んでいませんでした。  昔の小説、いいですね。
    現代国語の時間を思い出しました。

     大将

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/09/23 06:35:43
    拝復
    大将さま、おはようございます。


    何時も拙稿にお立寄りを賜りまして誠に有難うございます。

    芥川龍之介の蜜柑は、短編小説故に、蜘蛛の糸などと異なり、中々目にする機会が無く、小生が旅行記を発表して初めて知ったという方が少なくなかった様です。

    時代背景を解説するのに苦労しました。



    横浜臨海公園
  • 空さん 2011/07/05 10:59:59
    『蜜柑』拝読 読む楽しさを思い出しました。
    今日は こちらは、梅雨の晴れ間で気持ちいい朝です。

     先ほど 『蜜柑』 拝読いたしました。
    最近 本から遠ざかっていました。
    これは、短編小説でこれで 完結なのでしょうか?

    久しぶりに 物語に集中しました。
    パソコンの中で 芥川さん小説を 読むとは思ってもいませんでした。
      ”有難うございました。。

    :関東地方も まだまだ 地震等 続いておりますね。
    これから 夏本番 電力節約とかあり大変ですよね。。
    ご身体大切に お過ごしくださいませ。

    … 空

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/07/10 00:56:08
    拝復
    空さま、こんばんは。


    メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。

    >  先ほど 『蜜柑』 拝読いたしました。
    > 最近 本から遠ざかっていました。
    > これは、短編小説でこれで 完結なのでしょうか?
    →仰せのとおり、蜜柑は短編小説です。

    > パソコンの中で 芥川さん小説を 読むとは思ってもいませんでした。
    >   ”有難うございました。。
    →過分なるお褒めのお言葉を賜り深謝しております。
    芥川龍之介の作品を用いた旅行記を、あと2篇考慮中です。

    > ご身体大切に お過ごしくださいませ。
    →空さまこそ、何卒お体をご自愛くださいませ。



    横浜臨海公園
  • 内蒙古人さん 2011/03/05 17:38:42
    身近に感ずることができました
     横浜臨公園さん、初めまして!

     中国内蒙古自治区オルドス市からお便りします。芥川龍之介さん、余りにも有名で、かつ、何のきっかけも無く、書いておられたのだとばかり思っておりました。彼の人となりついては、全く無頓着でした。今更に感動いたしました。
     実は小生、大学生のころ、全集を27時間くらい連続して、睡眠もとらずに読破したことが有ります。現在記憶に残っているのは、数篇しかありません。唯、読み終えたときに、自分の精神状態に異常をきたしてしまったことを記憶しております。何も手につかず、ただただ、数時間、下宿の近くを歩いていたのです。半日くらい過ぎてから、やっと眠ることができました。
     いつかきっと、目茶な読み方ではなく、じっくりと読み直したいと思うようになりました。
     ありがとうございました。
     

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2011/03/09 00:46:51
    拝復
    内蒙古さま、はじめてメッセージを差し上げます。


    この度はメッセージを賜りまして誠に有難うございました。
    また、拙稿にお立寄りを賜り深謝しております。

    拝見すれば、内蒙古さまは蒙古自治区に在住の由。
    商社マンの方で無ければ中国の、あんな奥地に在住は困難ではないかと思われました。

    芥川龍之介は夏目漱石の弟子の1人でしたが、作風は漱石が明治期に活躍だったのに対し、龍之介は大正期がメインだった為に、双方の写実性には異なりを見せます。

    今後とも何卒宜敷くお願い申します。



    横浜臨海公園
  • 前日光さん 2010/10/06 23:26:47
    好きな作品です!
    こんばんは。

    芥川の「蜜柑」。
    丹那トンネルに続いて、これも教科書に載っていたような?
    いや、もしかしたら、試験問題として出題されたのかも?

    いずれにしても、なんとも郷愁を誘う作品です。
    芥川の短編の中で、この「蜜柑」と「トロッコ」は、この時代
    の息吹を知っている者でないと、理解できない部分があるかも
    しれませんね。

    いつの間にか、ハイテク社会となり、この主人公の女の子のような
    貧しさというものが実感として共感できない時代となりました。
    童謡の「里の秋」なんていうのも、たぶん今の子どもにとっては
    さっぱり想像のつかない情景かもしれません。
    なぜか秋になって、栗の実など眺めていると、あの「し〜ずか〜な〜、
    し〜ずかな〜〜」というメロディーが浮かんできて、うっかりすると
    涙が出そうになります。
    センチメンタルとお笑いください。

    「蜜柑」、「トロッコ」、「里の秋」というのは、私にとりまして
    そんな存在です。
    小説の舞台、ご紹介くださいまして、ありがとうございます。

      前日光

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2010/10/10 12:53:56
    拝復
    前日光さま、こんにちは。


    横浜は昨日今日と雨天が続き鬱陶しい連休です。
    さて、メッセージを賜りながら返事を差し上げるのが遅くなりまして誠に申し訳ございませんでした。

    > 芥川の「蜜柑」。
    > 丹那トンネルに続いて、これも教科書に載っていたような?
    > いや、もしかしたら、試験問題として出題されたのかも?
    →大学入試で使用された可能性は高いと思います。

    > いずれにしても、なんとも郷愁を誘う作品です。
    > 芥川の短編の中で、この「蜜柑」と「トロッコ」は、この時代
    > の息吹を知っている者でないと、理解できない部分があるかも
    > しれませんね。
    →兎に角、PCへの入力が大正文語体で苦労させられました。

    > 「蜜柑」、「トロッコ」、「里の秋」というのは、私にとりまして
    > そんな存在です。
    > 小説の舞台、ご紹介くださいまして、ありがとうございます。
    →あと2週間ほどで完成の見込みです。
    何卒、ご期待下さいませ。



    横浜臨海公園

横浜臨海公園さんのトラベラーページ

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

この旅行で行ったスポット

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

この旅行記の地図

拡大する

PAGE TOP