2010/09/17 - 2010/09/17
510位(同エリア742件中)
granateさん
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ブエノスアイレス在住の、ベテラン日本語ガイドUさんにスーパーに連れて行ってもらった後は、単身、混載ツアーのタンゴディナーショーに参加します。
女一人で豪華ディナーもちょっと・・・と思い、当初は1ドリンクのみでのタンゴ鑑賞を考えておりましたが、文野旅行社のTさんの、「エスキーナ・カルロス・ガルデルのディナーはオススメですよ。」との声に誘われ、思わずお願いしてしまいました。
結果は、ディナーもショーも最高でした。
女一人旅でタンゴディナーショーの鑑賞をためらっている貴女、あきらめないほうが正解ですよ!
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
ホテルの部屋に戻り、そのわずか30分後にタンゴディナーショー・混載ツアーのお迎えのバスがやってきました。
大きなバスの中の客は、私1人だけでした。
バス運転手さんに、
「おひとりなの?」
と 聞かれ、
「そうです。一人だけです。」
と 答える私。
今回の旅の中では、上記やり取りが、行く所行く所で繰り返されました。 -
ホテル前を出発したバスは、次から次へとホテルを回り、
いつの間にか車内は人で一杯になりました。
でも、やっぱり1人で来ているのは、私だけのようです。 -
30分以上かかり、バスはエスキーナ・カルロス・ガルデルの前に到着しました。
バスは、ショーの終了後に再び迎えに来てくれるとのことでした。
「店の前で33番のプラカードを持っているから、それを目印に集まってくださいね!」
と 運転手さんは言いました。
お店の前は、送迎の大型バスやミニバスが何台も並んでおりました。
なるほど、これは目印が無ければ、どのバスに乗ったらいいのかさっぱり分からなくなってしまうことでしょう。
店の前には、彼、カルロス・ガルデルの銅像が建てられています。
この場所は、昔彼がタンゴ歌手をしながら働いていたという、市場の前にありますが、その市場跡も今や近代的なショッピングセンターになっています。 -
以下は、ウィキペディアに記載されている彼についての事項です。
カルロス・ガルデル(Carlos Gardel, 1890年12月11日? - 1935年6月24日)は不世出のタンゴ歌手として知られるアルゼンチンの歌手・俳優であり、その人気の絶頂期に飛行機事故で急逝した事と相まって、現在なおタンゴ界の偶像というにとどまらずアルゼンチンの国民的英雄としての地位を不動のものにしています。
1935年、彼はニューヨークでの映画撮影を終え、アルゼンチンへの帰途につきました。
アルゼンチンにたどり着くまでの道中にあたる南米諸国で、映画宣伝を兼ねたコンサートを催しながら、コロンビアまでたどり着きましたが、そのメデリン空港から飛び立とうとしたガルデル一行(伴奏ギタリストとしてアルフレッド・レ・ペラらも乗り合わせていた)を乗せた飛行機は離陸に失敗、
失速して墜落炎上し、ガルデルらは焼死してしまいました。
享年、44歳でした。 -
お店の中に入るのにも、すでに大行列になっています。
その最後尾について、受付に向かいます。
そして、受付でも、
「おひとりなの?」
と 聞かれ、
「そうです。一人だけです。」
と 答えました。
席はすでに指定されており、先ほどの送迎バスの中の人たちとは別々の席になりました。
もっとも、皆バラバラのようでした。
席に案内される前に、タンゴのポーズでの記念撮影があり、
(これは、後で「記念に写真を買いませんか?」とやるヤツだな?)
と 思ったら、やっぱりそうでした。 -
席は20番となっており、ステージ向かって右最前列の端でした。
ちなみにこの長いテーブルは、世界各国から来たおひとりさま達で固められており、一人参加でも気兼ねなくディナーとショーを楽しむことができました。
さっそく、水と赤ワインがやってきます。 -
ショーは ディナーが終了してからということで、まずはウェイターさんがオーダーを取りにやってきます。
メニューは、前菜から1品、メインから1品、デザートから1品を選びます。
選択肢は、3品からだったか4品からだったかは、忘れてしまいました。
それにしても、ウェイターさんにしてもここで働いている人たちは、皆美男美女揃いでした。
アルゼンチンには、男女問わず美しい人が多いと聞いてはいましたが、これは目の保養になります。 -
店内には2階席もあり、まるで劇場のようで、装飾品も豪華な物で揃えられておりました。
そういえばこの夕方、日本人ガイドのUさんから
「タンゴショーには、行かれるのですか?」
と 尋ねられ、
「エスキーナ・カルロス・なんとかというお店のディナー付きのショーに行きます。」
と 答えたところ、Uさんのオススメの品を教えてもらえました。 -
まずは前菜、カルパッチョです。
こちらはUさんのオススメに乗っかってみました。
すごいボリューム!
でも、とても美味しかったです。 -
こちらはメインの、チキンのグリルにグリルドポテトと、甘く煮たトマトの一品です。
こちらも、前菜以上のボリュームです。
Uさんのオススメは牛ステーキでしたが、こちらを選択しました。
また、サーモンもありましたが(横と斜め前の方が食べていた。)、
サーモンというと、どうしても去年行ったスペイン・マドリードでのフラメンコショーでのバカップルを思い出してしまうので、そちらもやめにしました。
こちらも、時間をかけながらも完食!
うん、美味しい!
ボリュームがありすぎて、パンをほとんど食べることができなくて残念でした。 -
デザートは、フランを選びました。
アルゼンチンの味、ドゥルセ・デ・レチェ(とても濃厚な、やわらかいキャラメルのようなもの)が、山のように乗せられており、ものすごく甘くてくどいのですが、それがまた、たまりません!
日本では、これほどのキャラメル様の物を一度に食べることはまず無いので、心して頂きました。 -
こちらのお水は、ガラスの瓶に入っています。
ちなみに、赤ワインは、少しでも減るとウェイターさんたちがやってきて、どんどん継ぎ足していきます。
美味しかったのですが、日本を出てきて以来、まとまった睡眠を取っておらず、ここで寝込んでしまっても困るので、程々にしておきました。 -
最後にカプチーノがやってきました。
タンゴショーを見る前から、すでにこれで大満足です。 -
私たちのテーブルの人たちは、大体食事が終わっているようでしたが、他のテーブルの方々は、まだまだゆっくりとディナーを楽しんでいる様でした。
-
私たちの席の後ろの廊下は一段高くなっていて、その後ろにもテーブル席がありました。
-
ステージのスクリーンでは、アルゼンチンタンゴのレトロな映像が流されています。
-
しばらくすると、ウェイターさんたちが、お客さんたちのディナーの終わり具合をしきりと気にしておりました。
そんなウェイターさんの画像を、私たちの隣のテーブルの欧米人と思しきお客さんが撮っておりました。
(ウェイターさんの画像を撮っているなんて、欧米人さんにしては珍しいな。)
と 思いつつ、私も一枚。 -
先ほどの方が、何故ウェイターさんの写真を撮っていたのかは、もう少し後になってから分かりました。
ステージ上のスクリーンも、上方に撤去されました。 -
そろそろ、タンゴショーが始まるのでしょうか?
-
そして、ついに幕が開きました。
スポットライトの下、着飾った御婦人たちの登場です! -
軽やかなメロディーに乗って、ショーが始まりました。
-
-
ちなみにステージ上方では、四重奏の生演奏がされています。
-
<CONTIGO QUIERO IR>
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<EL PORTEN~ONITO>
-
<EL APACHE ARGENTINO>
バンドネオンの軽快なメロディーに乗って、ショーが展開されていきます。
実は、美男美女すぎるウエイター、ウエイトレスといのは仮の姿で、本職はタンゴショーの俳優さんたちだったという訳です。 -
そしてここからは、ガルデルを思わせるような、男性歌手のソロナンバーの歌声が私たちを魅了します。
-
<MI BUENOS AIRES QUERIDO>
-
<VOLVER>
タンゴの予備知識も全く無いままにやってきた私でしたが、
だんだんとショーに引き込まれていきます。 -
そしてさらに
-
素晴らしい演奏と共に
-
タンゴショーが展開されていきます。
-
私も2台のデジカメと携帯で追いかけますが、技術が無いため、なかなか思うように良い画像が撮れません。
-
ショーは、所々にミュージカルのような手法も取り入れられておりました。
こちらは、GRUPAL ALMAGRO。 -
CLUB SOCIAL ALMAGROというお店に集まる男女の物語です。
最初は、その発祥を思わせるかのように、男性が2人でタンゴを踊っておりましたが、次第に女性たちが集まり、いつしか男女のタンゴの踊りが始まります。
しかし、一人のセニョーラが現れ、踊っていた娘と男性を引き離し、その娘を連れて行ってしまいます。
その後、いくつかの男女の駆け引きがあって、お店の前では再び何組かの男女の踊りが始まります。 -
・・・が、お店の清掃係(?)と思しき男性が現れて、踊る男女のグループは追い払われてしまいます。
その後、その清掃係の男性が何をしたのかと言いますと、
掃除ではなく、2本の箒とのタンゴなのでした。 -
その後は、女性歌手のソロナンバーが続きます。
彼女の歌も声量も素晴らしく、鳴りやまぬ拍手が続きました。 -
<YO SOY MARIA >
後出のタンゴディナーショーのDVDでは、歌と踊りで表現されており、
1人の女性は3人の男性を手玉に取るような、美しくも妖しい演出がされておりました。 -
<MALENA>
こちらもまた、後出のDVDでは、男たちが去り、1人となった彼女が、追憶の思いを歌う物悲しさと切なさの交錯するという演出がされておりました。 -
タンゴの踊りも音楽も、
-
こんなに素晴らしいものだったなんて!
-
今まで知らなかった、私。
なんとももったいない話です。 -
今度は、3人の男性による、
ギターの演奏と歌になります。
<YIRA YIRA> -
<EL DIA QUE ME QUIERAS>
-
-
彼の背に、カルロス・ガルデルの姿を重ね合わせます。
-
<EL OPIO>
<ZORRO GRIS> -
<DESDE EL ALMA>
とタンゴは続き、 -
そして、ついにあの名曲が!
そう、アストル・ピアソラの
<LIBERTANGO>です!
以下は、ウィキペディアによる彼についての事項です。
アストル・ピアソラ(Astor Piazzolla, 1921年3月11日 - 1992年7月4日)はアルゼンチンの作曲家でバンドネオン奏者でもありました。
彼は、タンゴを元にクラシック、ジャズの要素を融合させた独自の演奏形態を産み出しました。 -
1921年、アルゼンチンのマル・デル・プラタにイタリア移民三世(イタリア系アルゼンチン人)の子として生まれた彼は、四歳の時に一家でニューヨークに移住し、15歳までを過ごしました。
この頃既にジャズに親しんでいたが、当初はバンドネオンやタンゴへの興味は薄かったといいますが、1931年にブロードウェイのラジオ局でバンドネオンのフォルクローレを録音し、以降ステージやラジオなどの演奏を行うようになりました。
その後アルゼンチンに移住し、父の開いたレストランでバンドネオン、ハーモニカを演奏していましたが、1938年にラジオで先鋭タンゴ「エルビーノ・バルダーロ楽団」に感動して初めてタンゴの音楽性を知りました。
1939年に当時最先端だったトロイロ楽団に参加し、バンドネオン奏者として徐々に頭角を表すようになりました。
また、アルベルト・ヒナステラに師事して音楽理論を学んだり、パリではナディア・ブーランジェにも師事しています。。 -
1954年、タンゴに限界を感じたピアソラはクラシックの作曲家を目指して渡仏し、パリでナディア・ブーランジェに師事します。
当初自分のタンゴ奏者の経歴を隠していたが、ナディアにタンゴこそがピアソラ音楽の原点であることを指摘され、タンゴ革命の可能性に目覚めました。
元来タンゴは踊りのための伴奏音楽であり、強いリズム性とセンチメンタルなメロディをもつ展開の分かりやすい楽曲でありました。
ピアソラはそこにバロックやフーガといったクラシックの構造や、ニューヨーク・ジャズのエッセンスを取り入れることで、強いビートと重厚な音楽構造の上にセンチメンタルなメロディを自由に展開させるという独自の音楽形態を生み出しました。
これは完全にタンゴの表現を逸脱しており、「踊れないタンゴ」として当初の評判は芳しいものではなかったそうです。
一方で、ピアソラの音楽はニューヨークなどのあまりタンゴと関わりを持たない街で評価を受け、現在では、タンゴの可能性をローカルな音楽から押し広げた功績は、アルゼンチンのみならず国際的に高く評価されています。
以上がウィキペディアからの情報になりますが、この前情報のないままに聞いても、彼の音楽は、とても素晴らしいものでした。 -
タンゴ界に革命を起こしたピアソラの後には、
「これぞ、まさにタンゴ!」と言うべき
<LA CAMPARSITA>の踊りが披露されました。 -
そして、そろそろショーも終盤というところで、踊りではなく、音楽だけの演奏がありました。
ピアノのソロに始まり、バンドネオンの響きがそれに加わります。
次いでバイオリンのソロが、メロディーを奏で、コントラバスがさらなる深みを与えます。
何でしょうか?
不勉強の私には、この曲の名が何と言うのかは分かりませんが、
心の奥深くにしみ渡っていくような、全く知らないはずなのに、
何でしょう、心のさらに深いところを締め付けられるなこの感じは・・・。
何でしょう?
何故でしょう?
なんだか、涙が出てきました。
周りの他のお客さんたちの集中具合が、今までとはさらに違った熱心さと一体感に溢れています。
(これは、きっと、ものすごい有名な名曲に違いない!)
そして演奏が終わると、会場はこの上ない熱気と、喝采に溢れておりました。 -
本当に恥ずかしくなる位 不勉強な私は、帰国するなり後出のショーのDVDを見て、その曲の名を知りました。
それこそが、あの名曲、アストル・ピアソラの
<ADIOS NONINO>だったのです!
1958年、ピアソラはそれまでの活動にマンネリを感じ、ブエノスアイレスを出てニューヨークに移住しました。
しかし、約束された仕事はなく、活動はまったのく期待外れでした。
経済的に困窮したピアソラは、食べるためにナイトクラブでタンゴダンスショーの伴奏を始めました。
1959年10月、彼はファン・カルロス・コーペス舞踏団とともにプエルトリコ巡業中、父親ビセンテ(愛称ノニーノ)が故郷で亡くなった知らせを受けました。
しかし、ピアソラにはアルゼンチンに帰る旅費を工面することができず、ニューヨークに戻りました。
失意のなかで亡き父に捧げて作曲した曲こそが、この<アディオス・ノニーノ>なのです。
イタリアの血を持ちながらもアルゼンチンに生まれ、ニューヨーク、アルゼンチン、パリ、イタリアと流れるように生きたピアソラ。
1990年パリの自宅で脳溢血により倒れ闘病生活に入った彼は、大統領専用機でアルゼンチンに帰国し、 1992年ブエノスアイレスの病院にて死去しました。
71歳の生涯でした。 -
そして、ついにタンゴディナーショーもフィナーレを迎えました。
-
すばらしい演奏と踊りに、拍手、喝采が鳴りやみません。
-
まばゆく、すばらしい、夢のような一時でした。
-
場内は、感嘆のため息と
-
熱気に包まれています。
ちなみに、席を立つ前には、チップを置くことをお忘れなく。 -
ちなみにショーの前にCDとDVDの販売が席までやってきましたが、
その時には、やんわりとお断りしておりました。
・・・が、全く現金なもので、ショーの素晴らしさの前には一転して、このセットが欲しくてたまらなくなってしまいました。
故に購入!
195アルゼンチン ペソなり。
これを高いと見るか、安いと見るか?
私は、これを買って良かったと思っています。
この旅行記を書くためにも、随分とお世話になりました。 -
あぁ、本当に素晴らしかった!!!
良かった!!!!!! -
お迎えのバスは、来ているかな?
-
先ほどのバスの運転手さんが、言っていた通りに33番のプラカードを持って、人混みの中に立っておりました。
-
「うちのバスは、最後尾にいるから!」
の話通りに、来るは来るはお迎えのバスたち。
一体、何台のバスが来ているのかと思いました。 -
あ、ありました!
本当に最後尾でした。 -
バスに乗り込むと、他のお客さんたちもバス戻ってきました。
皆心地といった様子で、鼻歌混じりの方もおりました。
時計を見ますと、さらに日をまたいでいるようです。
(今日は、ウスアイアに行くんだなぁ。。。)
と ぼんやりと考えていたら、バスは今度は一番最初に私の泊るホテルの前に到着し、運転手さんにチップを渡すと、私はあわててバスから降りました。
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