浅井・湖北・高月旅行記(ブログ) 一覧に戻る
梅雨も明けてとても天気の良い日に長浜市(旧湖北町)にある小谷山に子供たちと登ってきました。<br />小谷山には湖北の戦国大名浅井長政の居城であった小谷城がありました。来年のNHK大河ドラマは「江~姫たちの戦国」と決定していて、その舞台となります。来年はさぞ賑わうことでしょう。<br />長政と織田信長の妹であるお市の方との間に生まれた三人の娘たち(お茶々・お初・お江)が過ごした小谷城は、戦国五大山城の一つとして数えられていますが、元亀元年織田信長に攻められ落城しました。<br />現在は土塁・曲輪などの他、先駆的に取り入れられた石垣なども遺構として残っていて、国の史跡に指定されています。<br />

NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の舞台 小谷山登山

9いいね!

2010/07/19 - 2010/07/19

87位(同エリア194件中)

0

52

marsy

marsyさん

梅雨も明けてとても天気の良い日に長浜市(旧湖北町)にある小谷山に子供たちと登ってきました。
小谷山には湖北の戦国大名浅井長政の居城であった小谷城がありました。来年のNHK大河ドラマは「江~姫たちの戦国」と決定していて、その舞台となります。来年はさぞ賑わうことでしょう。
長政と織田信長の妹であるお市の方との間に生まれた三人の娘たち(お茶々・お初・お江)が過ごした小谷城は、戦国五大山城の一つとして数えられていますが、元亀元年織田信長に攻められ落城しました。
現在は土塁・曲輪などの他、先駆的に取り入れられた石垣なども遺構として残っていて、国の史跡に指定されています。

PR

  • 小谷山の最寄り駅はJR北陸本線の河毛駅です。河毛駅の駅舎はお城風になっています。

    小谷山の最寄り駅はJR北陸本線の河毛駅です。河毛駅の駅舎はお城風になっています。

  • 駅前には長政とお市の方の銅像があります。<br />余談ですが、「江〜姫たちの戦国」では、鈴木保奈美さんがお市の方役で芸能界復帰されるそうです。<br />

    駅前には長政とお市の方の銅像があります。
    余談ですが、「江〜姫たちの戦国」では、鈴木保奈美さんがお市の方役で芸能界復帰されるそうです。

  • 河毛駅では戦国武将浅井長政のお膝元ということで、戦国武将グッズを販売しています。<br />河毛駅から小谷山まではタウンバスで行けますが、本数があまり走っていませんのでご注意ください。小谷山まで歩くと30分くらいかかります。<br />

    河毛駅では戦国武将浅井長政のお膝元ということで、戦国武将グッズを販売しています。
    河毛駅から小谷山まではタウンバスで行けますが、本数があまり走っていませんのでご注意ください。小谷山まで歩くと30分くらいかかります。

  • これから登る小谷山、標高495mです。中腹には「史跡小谷城跡」の看板が。<br />五大山城というのは、越後の春日山城(上杉謙信)、能登の七尾城 (畠山義綱)、近江の小谷城 (浅井三代)、近江の観音寺城(六角承禎)、出雲の月山冨田城 (尼子経久)です。<br />

    これから登る小谷山、標高495mです。中腹には「史跡小谷城跡」の看板が。
    五大山城というのは、越後の春日山城(上杉謙信)、能登の七尾城 (畠山義綱)、近江の小谷城 (浅井三代)、近江の観音寺城(六角承禎)、出雲の月山冨田城 (尼子経久)です。

  • 麓には小谷城跡の看板が、大河ドラマを迎える準備ですね。可愛い浅井三姉妹キャラも描かれています。

    麓には小谷城跡の看板が、大河ドラマを迎える準備ですね。可愛い浅井三姉妹キャラも描かれています。

  • 出丸跡の手前には小谷城址の石碑があります。

    出丸跡の手前には小谷城址の石碑があります。

  • こちらの道からも登れるのですが、木が倒れたり蜂の巣がたくさんあったりしていて危険なので封鎖されています。

    こちらの道からも登れるのですが、木が倒れたり蜂の巣がたくさんあったりしていて危険なので封鎖されています。

  • 小谷城大手門、小谷城址保勝会によって復元されたものです。

    小谷城大手門、小谷城址保勝会によって復元されたものです。

  • 追手道から登山を開始します。<br /><br />清水谷は小谷城の大手と考えられる。堀跡から谷へ約100m入ったところから出丸跡に向かって道があり、地元で「オッテミチ」と呼ばれている。ここから出丸跡の北を経て尾根上の登山道につながり、金吾丸跡、番所跡を経て本丸へと通じる。湖北町所蔵の小谷城踏絵図には「追手道」と書かれている。<br /> 谷から出丸跡へ向かう道の北側には、姉川の合戦で活躍した浅井氏の重臣、磯野丹波守員昌の屋敷跡と伝えられる曲輪がある。<br /> 清水道から山城へ通じるこの道は、小谷城にとって重要な道であったと考えられている。<br />

    追手道から登山を開始します。

    清水谷は小谷城の大手と考えられる。堀跡から谷へ約100m入ったところから出丸跡に向かって道があり、地元で「オッテミチ」と呼ばれている。ここから出丸跡の北を経て尾根上の登山道につながり、金吾丸跡、番所跡を経て本丸へと通じる。湖北町所蔵の小谷城踏絵図には「追手道」と書かれている。
     谷から出丸跡へ向かう道の北側には、姉川の合戦で活躍した浅井氏の重臣、磯野丹波守員昌の屋敷跡と伝えられる曲輪がある。
     清水道から山城へ通じるこの道は、小谷城にとって重要な道であったと考えられている。

  • 間柄峠<br />大永5年(1525)7月江南の六角定頼が小谷城へ来攻した際、浅井亮政を助けるため越前より朝倉金吾宗滴と先鋒真柄備中守が来援した。<br /> 越前軍が布陣した地をそれぞれ金吾丸、真柄峠と称するが、地元では古くから「間柄峠」として伝わる。<br />

    間柄峠
    大永5年(1525)7月江南の六角定頼が小谷城へ来攻した際、浅井亮政を助けるため越前より朝倉金吾宗滴と先鋒真柄備中守が来援した。
     越前軍が布陣した地をそれぞれ金吾丸、真柄峠と称するが、地元では古くから「間柄峠」として伝わる。

  • 望笙峠からは琵琶湖が一望できます。

    望笙峠からは琵琶湖が一望できます。

  • まだ半分も登っていないぞ、頑張れ!

    まだ半分も登っていないぞ、頑張れ!

  • 追手道から小谷城案内図のある番所跡まで約30分、ここまでは車でも上がることができます。

    追手道から小谷城案内図のある番所跡まで約30分、ここまでは車でも上がることができます。

  • 駐車場から左の階段を登っていくと金吾丸跡があります。<br />大永5年(1525)六角高頼が小谷城を攻めたとき、越前の朝倉金吾景教がここに布陣したといわれ、教景の名乗りを取って金吾丸と名付けたと伝える。四段の曲輪と土塁からなる。<br />

    駐車場から左の階段を登っていくと金吾丸跡があります。
    大永5年(1525)六角高頼が小谷城を攻めたとき、越前の朝倉金吾景教がここに布陣したといわれ、教景の名乗りを取って金吾丸と名付けたと伝える。四段の曲輪と土塁からなる。

  • 番所跡<br />遠方からは見えず間道もここに集まる要所に位置する登城者の検問所である。<br />北の下方には数段の削平地があり相当な規模である。<br />

    番所跡
    遠方からは見えず間道もここに集まる要所に位置する登城者の検問所である。
    北の下方には数段の削平地があり相当な規模である。

  • 御茶屋跡(御茶屋とありますが、れっきとした軍事施設です)<br />番所跡のすぐ上にある曲輪で、主郭の最先端に位置する。比較的広く、曲輪の真ん中に前後に分ける低い土塁が見られる。「御茶屋」という風雅な名前には似つかない軍事施設である。<br />

    御茶屋跡(御茶屋とありますが、れっきとした軍事施設です)
    番所跡のすぐ上にある曲輪で、主郭の最先端に位置する。比較的広く、曲輪の真ん中に前後に分ける低い土塁が見られる。「御茶屋」という風雅な名前には似つかない軍事施設である。

  • 馬洗池御馬屋<br />馬洗い池は湧水ではないが、往時は年中水が絶えなかったという。西隣に土塁で囲った馬屋があり、北の柳の馬場に通じており馬関係の一角である。<br />

    馬洗池御馬屋
    馬洗い池は湧水ではないが、往時は年中水が絶えなかったという。西隣に土塁で囲った馬屋があり、北の柳の馬場に通じており馬関係の一角である。

  • これが馬洗い池です。馬洗池の水は、はるかに遠い天吉寺山の元池からサイフォン仕掛の樋で採ってきていたという伝説があり、そのなごりが今も虎姫町三川の元三大師の井戸替え行事だといいます。落城間際、織田信長は浅井の将兵からこの秘密を聞き出し、導水管を切断して城内の水源を押さえた。城内の飲料水はやがて底をついたが、長政はその竹の樋から白米を流して水がまだあるように見せかけたという「白米城伝説」が残っています。果たして本当にそうだったのか、伝承に頼るだけです。

    これが馬洗い池です。馬洗池の水は、はるかに遠い天吉寺山の元池からサイフォン仕掛の樋で採ってきていたという伝説があり、そのなごりが今も虎姫町三川の元三大師の井戸替え行事だといいます。落城間際、織田信長は浅井の将兵からこの秘密を聞き出し、導水管を切断して城内の水源を押さえた。城内の飲料水はやがて底をついたが、長政はその竹の樋から白米を流して水がまだあるように見せかけたという「白米城伝説」が残っています。果たして本当にそうだったのか、伝承に頼るだけです。

  • 首据石<br />黒金門跡の手前にあり、天文2年(1533)1月初代亮政は六角氏との合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り、神照寺に誘殺し首をここにさらしたと伝えられる。<br />

    首据石
    黒金門跡の手前にあり、天文2年(1533)1月初代亮政は六角氏との合戦の際、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り、神照寺に誘殺し首をここにさらしたと伝えられる。

  • 赤尾屋敷跡(本丸への途中で道が分かれていて、右へ向かいます。人一人がやっと通れるくらいの細い道で、片側は崖になっていますのでお子さん連れの場合はご注意ください))<br />浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡と伝えられている。家臣の屋敷では本丸に最も近く、また浅井長政最期の地となったことから、赤尾氏の浅井家における重臣としての地位がうかがわれる。<br />

    赤尾屋敷跡(本丸への途中で道が分かれていて、右へ向かいます。人一人がやっと通れるくらいの細い道で、片側は崖になっていますのでお子さん連れの場合はご注意ください))
    浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡と伝えられている。家臣の屋敷では本丸に最も近く、また浅井長政最期の地となったことから、赤尾氏の浅井家における重臣としての地位がうかがわれる。

  • 浅井長政自刃の地<br />天正元年(1573)9月1日最後の攻撃のため黒金門から討って出た長政は信長の兵に攻められ、本丸(鐘ケ丸)に帰ることができずやむなく重臣赤尾美作守の屋敷に入り自刃した。享年29歳であった。<br />

    浅井長政自刃の地
    天正元年(1573)9月1日最後の攻撃のため黒金門から討って出た長政は信長の兵に攻められ、本丸(鐘ケ丸)に帰ることができずやむなく重臣赤尾美作守の屋敷に入り自刃した。享年29歳であった。

  • 桜馬場跡	<br />御馬屋敷跡の上方、大広間跡の前にある曲輪で、細長く左右二段からなる。西側の曲輪では建物の礎石が確認されている。<br />ここには浅井家の供養塔と記念碑があります。

    桜馬場跡
    御馬屋敷跡の上方、大広間跡の前にある曲輪で、細長く左右二段からなる。西側の曲輪では建物の礎石が確認されている。
    ここには浅井家の供養塔と記念碑があります。

  • 黒金門。<br />大広間に設けられた重要な門で、「黒金門」と呼ばれているところから、鉄を打ちつけた扉であったと考えられています。廃城になって400年以上たっていますので、説明がなければそれが門だったとは分かりません<br />

    黒金門。
    大広間に設けられた重要な門で、「黒金門」と呼ばれているところから、鉄を打ちつけた扉であったと考えられています。廃城になって400年以上たっていますので、説明がなければそれが門だったとは分かりません

  • 大広間跡<br />別名「千畳敷」と呼ばれ長さ約85m・幅約35mで前面に高さ約4mの石垣が積まれている。大広間跡は建物跡が検出されているほか、石組みの井戸跡や蔵跡が確認されている。<br />

    大広間跡
    別名「千畳敷」と呼ばれ長さ約85m・幅約35mで前面に高さ約4mの石垣が積まれている。大広間跡は建物跡が検出されているほか、石組みの井戸跡や蔵跡が確認されている。

  • 本丸<br />鐘の丸ともいう石垣をめぐらした約12mの高所に、約30m・25mの広さを持つ。落城寸前まで城主長政が居住していた処である。彦根城西の丸の三重櫓は元小谷城天守と伝える。<br />江戸時代中期の小谷城跡絵図に「天守共鐘丸共」と帰されており、鐘丸がその機能を表していると考えられる。構造については不明であるが、何層かの建物であったことが想定される。<br />

    本丸
    鐘の丸ともいう石垣をめぐらした約12mの高所に、約30m・25mの広さを持つ。落城寸前まで城主長政が居住していた処である。彦根城西の丸の三重櫓は元小谷城天守と伝える。
    江戸時代中期の小谷城跡絵図に「天守共鐘丸共」と帰されており、鐘丸がその機能を表していると考えられる。構造については不明であるが、何層かの建物であったことが想定される。

  • 本丸跡から大広間を眺めます。<br />本丸の西下には、御局屋敷跡という曲輪があります。御馬屋跡から続く帯曲輪で、本丸を守るために設けられた。谷から帯曲輪までは何本かの竪堀が配置されている。<br />

    本丸跡から大広間を眺めます。
    本丸の西下には、御局屋敷跡という曲輪があります。御馬屋跡から続く帯曲輪で、本丸を守るために設けられた。谷から帯曲輪までは何本かの竪堀が配置されている。

  • 再び余談ですが、大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」の配役は主役となる三女の江に“のだめカンタービレ”のだめ役の上野樹里さん、長女の茶々役は宮沢りえさん、二女の初役は水川あさみさん。そして三人の母親のお市の方役が鈴木保奈美さんです。<br />男性陣では、江の夫となる徳川秀忠役は朝の連ドラ「ゲゲゲの女房」で活躍中の向井理さん、浅井長政役は時任三郎さんです。<br />

    再び余談ですが、大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」の配役は主役となる三女の江に“のだめカンタービレ”のだめ役の上野樹里さん、長女の茶々役は宮沢りえさん、二女の初役は水川あさみさん。そして三人の母親のお市の方役が鈴木保奈美さんです。
    男性陣では、江の夫となる徳川秀忠役は朝の連ドラ「ゲゲゲの女房」で活躍中の向井理さん、浅井長政役は時任三郎さんです。

  • 大堀切跡<br />本丸跡の北にある大規模な堀跡で屋根を大きく削ってある。番所跡から本丸跡までとその上を区切るためのものである。深さ約10m、幅15m、長さ40mに及ぶ大きな空堀です。<br />

    大堀切跡
    本丸跡の北にある大規模な堀跡で屋根を大きく削ってある。番所跡から本丸跡までとその上を区切るためのものである。深さ約10m、幅15m、長さ40mに及ぶ大きな空堀です。

  • 中丸跡<br />大堀切跡の北にある曲輪で三段からなる。石垣は見られるが土塁は設けられていない。虎口を左右に振り分け攻めにくくしている。<br />

    中丸跡
    大堀切跡の北にある曲輪で三段からなる。石垣は見られるが土塁は設けられていない。虎口を左右に振り分け攻めにくくしている。

  • 中丸の上段には刀洗い池があり、京極丸へと続いています。小谷城は山城にも関わらず水が豊富だったようで、この池も城内の井戸の一つと考えられています。

    中丸の上段には刀洗い池があり、京極丸へと続いています。小谷城は山城にも関わらず水が豊富だったようで、この池も城内の井戸の一つと考えられています。

  • カモシカ?の親子がいました。

    カモシカ?の親子がいました。

  • 京極丸跡<br />階段状の広い曲輪で、ここの西側から木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)に攻め込まれ、長政のいる本丸と久政のいる小丸とを分断されてしまい、これが戦の勝敗を決定づけました。

    京極丸跡
    階段状の広い曲輪で、ここの西側から木下藤吉郎(後の羽柴秀吉)に攻め込まれ、長政のいる本丸と久政のいる小丸とを分断されてしまい、これが戦の勝敗を決定づけました。

  • 小丸跡<br />二代城主久政が引退した後に居住した所と考えられている。天正元年(1572)8月27日に京極丸より羽柴秀吉に攻められ、鶴丸太夫の介錯により49歳を一期として自刃した。<br />

    小丸跡
    二代城主久政が引退した後に居住した所と考えられている。天正元年(1572)8月27日に京極丸より羽柴秀吉に攻められ、鶴丸太夫の介錯により49歳を一期として自刃した。

  • ここを右へ行くと大石垣と絶景の岩場があるようなので行ってみたいと思います。

    ここを右へ行くと大石垣と絶景の岩場があるようなので行ってみたいと思います。

  • 大石垣<br />小谷城で最も壮大な石垣である。比較的大きな石を用いた石垣で高さ約5mを測り、その規模は本丸を上回る。現在は崩壊しているが、東面に残る石垣に往時を偲ぶことができる。<br />写真ではスケールが分かりづらいですが、結構大きな遺構で当時の自然石を利用して組み上げた石垣の姿を詳細に確かめる事ができます。<br />

    大石垣
    小谷城で最も壮大な石垣である。比較的大きな石を用いた石垣で高さ約5mを測り、その規模は本丸を上回る。現在は崩壊しているが、東面に残る石垣に往時を偲ぶことができる。
    写真ではスケールが分かりづらいですが、結構大きな遺構で当時の自然石を利用して組み上げた石垣の姿を詳細に確かめる事ができます。

  • 山王丸跡、小谷城主要部の最高所に位置します。<br />山王丸は四段からなり最頂部に山王権現(現小谷神社)が祀られていた。小谷城の詰めの丸と考えられている。小谷城跡絵図には山王丸から清水谷に向けて搦め手道が描かれている。<br />

    山王丸跡、小谷城主要部の最高所に位置します。
    山王丸は四段からなり最頂部に山王権現(現小谷神社)が祀られていた。小谷城の詰めの丸と考えられている。小谷城跡絵図には山王丸から清水谷に向けて搦め手道が描かれている。

  • 六坊跡<br />二代城主久政の文書に「當城搦め手」と書かれている。久政は軍務や政務を司っていた六つの寺院が江北各所に散らばっていて不便であったため、ここに集めたと言われている。<br />

    六坊跡
    二代城主久政の文書に「當城搦め手」と書かれている。久政は軍務や政務を司っていた六つの寺院が江北各所に散らばっていて不便であったため、ここに集めたと言われている。

  • この分岐より右手にとれば小谷山頂上の大獄へ行けますが、頂上まではまだ1kmほどあり断念して遠景だけでも。そして搦め手の清水谷へ降りてきます。

    この分岐より右手にとれば小谷山頂上の大獄へ行けますが、頂上まではまだ1kmほどあり断念して遠景だけでも。そして搦め手の清水谷へ降りてきます。

  • 大野木屋敷跡(標柱には土佐屋敷跡となっています)<br />浅井氏の重臣大野木土佐守の屋敷跡。三田村屋敷跡の上方、谷道沿いの西側に位置する。西側及び谷側に石垣を二段に設けている。<br />

    大野木屋敷跡(標柱には土佐屋敷跡となっています)
    浅井氏の重臣大野木土佐守の屋敷跡。三田村屋敷跡の上方、谷道沿いの西側に位置する。西側及び谷側に石垣を二段に設けている。

  • 三田村屋敷跡<br />浅井氏の重臣三田村佐渡守の屋敷跡。谷道沿いの西側に位置する。谷側に石垣を設けている。<br />

    三田村屋敷跡
    浅井氏の重臣三田村佐渡守の屋敷跡。谷道沿いの西側に位置する。谷側に石垣を設けている。

  • 八畳岩

    八畳岩

  • 蛙岩

    蛙岩

  • のこぎりくわがた?発見。

    のこぎりくわがた?発見。

  • 水の手、ちょっと光っちゃてますね。<br />この辺から秀吉は京極丸へと攻めあがったようですね。家臣の裏切りなどもあり、この辺の警備が手薄になっていたのでしょうか?<br />

    水の手、ちょっと光っちゃてますね。
    この辺から秀吉は京極丸へと攻めあがったようですね。家臣の裏切りなどもあり、この辺の警備が手薄になっていたのでしょうか?

  • 御屋敷跡<br />浅井亮政・久政・長政やお市の方とその子供たちが暮らした所と考えられる。初代城主亮政が、江北の守護京極氏を招いて饗応した時の記録には清水谷にあった屋敷の様子が描かれている。<br />

    御屋敷跡
    浅井亮政・久政・長政やお市の方とその子供たちが暮らした所と考えられる。初代城主亮政が、江北の守護京極氏を招いて饗応した時の記録には清水谷にあった屋敷の様子が描かれている。

  • 虎ケ谷道<br />虎ケ谷道は清水道から番所跡へ通じる道である。虎ケ谷道の北側約40m四方の土塁をめぐらした館跡がある。虎ケ谷道の両側には曲輪が多く配置され防御を強化しており大手道の可能性がある。近くには山城屋敷跡もある。<br />

    虎ケ谷道
    虎ケ谷道は清水道から番所跡へ通じる道である。虎ケ谷道の北側約40m四方の土塁をめぐらした館跡がある。虎ケ谷道の両側には曲輪が多く配置され防御を強化しており大手道の可能性がある。近くには山城屋敷跡もある。

  • 遠藤屋敷跡<br />浅井氏の重臣遠藤喜右衛門尉直経(?〜1570)の屋敷跡と伝えられている。沿道直経は浅井長政の信頼が厚く、大依山の守備にあたるなど浅井氏の勇将として活躍した。元亀元年(1570)6月28日の姉川の合戦で浅井方の敗北が濃厚となった時、遠藤直経は信長の首を取るべく、味方の武将三田村氏の首を持ち、織田の武将を装い単身織田の陣深く乗り込んだ。しかし、信長の本陣近くで竹中重治の弟竹中久作に討ち取られた。<br />

    遠藤屋敷跡
    浅井氏の重臣遠藤喜右衛門尉直経(?〜1570)の屋敷跡と伝えられている。沿道直経は浅井長政の信頼が厚く、大依山の守備にあたるなど浅井氏の勇将として活躍した。元亀元年(1570)6月28日の姉川の合戦で浅井方の敗北が濃厚となった時、遠藤直経は信長の首を取るべく、味方の武将三田村氏の首を持ち、織田の武将を装い単身織田の陣深く乗り込んだ。しかし、信長の本陣近くで竹中重治の弟竹中久作に討ち取られた。

  • 知善院跡<br />知善院跡は清水谷の入口に位置し、西側は谷の斜面に南側は堀跡に接している。<br />発掘調査で庭園跡と考えられる方形の池が発見された。池跡からは陶器・磁器かわらけや数多くのこけら経などとともに笹塔婆が出土した。笹塔婆には「元亀三年7月14日」の年号が墨で書かれていた。<br />この笹塔婆やこけら経から元亀三年(1572)7月14日に笹塔婆を作りこけら経全巻を書写するなど手厚い供養が行われていたことがわかった。この頃浅井長政は、織田信長と戦いながらもまだゆとりがみられる。<br />しかし織田信長は7月19日に大群を率いて岐阜を発し、21日には小谷城に迫り城下町を打ち壊し、清水谷を攻め水の手まで追い上げた。この時清水谷の屋敷群は破壊され、本丸での本格的な篭城が始まったと考えられる。<br />

    知善院跡
    知善院跡は清水谷の入口に位置し、西側は谷の斜面に南側は堀跡に接している。
    発掘調査で庭園跡と考えられる方形の池が発見された。池跡からは陶器・磁器かわらけや数多くのこけら経などとともに笹塔婆が出土した。笹塔婆には「元亀三年7月14日」の年号が墨で書かれていた。
    この笹塔婆やこけら経から元亀三年(1572)7月14日に笹塔婆を作りこけら経全巻を書写するなど手厚い供養が行われていたことがわかった。この頃浅井長政は、織田信長と戦いながらもまだゆとりがみられる。
    しかし織田信長は7月19日に大群を率いて岐阜を発し、21日には小谷城に迫り城下町を打ち壊し、清水谷を攻め水の手まで追い上げた。この時清水谷の屋敷群は破壊され、本丸での本格的な篭城が始まったと考えられる。

  • NHKの取材班が来ていました。大河ドラマの出演者も誰か来ているのかな?

    NHKの取材班が来ていました。大河ドラマの出演者も誰か来ているのかな?

  • 小谷山の麓清水谷まで降りてきました。一番下から登って降りてくるまで2時間弱、思ったより時間はかかりませんでした。ただ、頂上の大獄まで行こうと思うともう2時間ほど見ておいたほうがいいのかな?<br />清水谷には小谷城歴史資料館があります。浅井氏に関する貴重な資料が展示されていますので、ぜひお立ち寄りください。<br />http://www.biwa.ne.jp/~kohoku-s/chiiki/odanishiryoukan.html<br />

    小谷山の麓清水谷まで降りてきました。一番下から登って降りてくるまで2時間弱、思ったより時間はかかりませんでした。ただ、頂上の大獄まで行こうと思うともう2時間ほど見ておいたほうがいいのかな?
    清水谷には小谷城歴史資料館があります。浅井氏に関する貴重な資料が展示されていますので、ぜひお立ち寄りください。
    http://www.biwa.ne.jp/~kohoku-s/chiiki/odanishiryoukan.html

  • 小谷山の麓には、浅井家の祈願寺である小谷寺があります。小谷城落城とともに消失したが、後に豊臣秀吉が再興し、徳川幕府からも保護を受けた。国の重要文化財の孔雀文磐を始め数多くの寺宝が残されています。

    小谷山の麓には、浅井家の祈願寺である小谷寺があります。小谷城落城とともに消失したが、後に豊臣秀吉が再興し、徳川幕府からも保護を受けた。国の重要文化財の孔雀文磐を始め数多くの寺宝が残されています。

  • 来年の大河ドラマに合わせて、3月20日(日)から浅井三姉妹博覧会が開催されます(12月25日(土)から先行オープン)。

    来年の大河ドラマに合わせて、3月20日(日)から浅井三姉妹博覧会が開催されます(12月25日(土)から先行オープン)。

この旅行記のタグ

9いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

PAGE TOP