2009/09/20 - 2009/09/20
135位(同エリア1013件中)
まおさん
9月20日 現地時間6時起床。
この日はポーランド行きを決めた時、何を置いても必ず行こうと心に決めていた、アウシュビッツ強制収容所です。
昔、小学校2年の時に広島の原爆ドームへ、中学3年の修学旅行は沖縄のひめゆりに行きました。
その当時は今よりもずっとお子様で、戦争とかそう言うものに対して何かしらの意識を持っているわけも無く、ただ単純に残ったものを見て「怖いなあ」と言う感想しか抱けませんでした。
じゃあ、その時よりも少し大人になった今の状態で、一応あの頃よりも知識とか見解とか色々なものが身に付いている今の状態で、そういう場所に行って、その時自分がどういう気持ちになってどういう感想を抱くのか。
予想も付かないので、実際に行って来ました。
-
アウシュビッツへは、先生がホテルのフロントで申し込んでくれた(前日編参照)バスツアーにて。
朝8時45分くらいにフロントで案内を受けて出発、と言う内容。
なので早く朝ご飯を食べておかねば、朝イチ食堂に下りて行った所、朝食は7時開始と書いていたのにその7時に行ったら絶賛準備中だった上客は私以外誰も居ないという事態…
日本のホテルだと、7時からって言うたら7時ちょっと前には準備万端なのが普通。
これが外国のホテルか…と、変な所で感動しました。
(別に席について準備できてるものから取りに行っても全然構わないって感じでしたが。
ただ「この人はどうしてこんなに早く来ているの?」的な不思議そうな顔はされました)
あ、あとご飯内容はチーズ類が豊富でした。
食堂というか、小洒落たレストラン風。 -
ご飯食べて準備して、フロントのお姉さんに予約カードを提示。
説明をすらすらっとしてくれたわけですが…。
まあ、言葉が分からない訳で
(英語で喋ってくれてたのにな…)
ひたすら何て言ってくれてるか分からんでキョトンとしてる私に、ゆ〜〜〜〜っくり丁寧に、一言一言「OK?」と区切りながら根気良く説明してくれたフロントの人ありがとうございました…
英語くらいある程度出来んと駄目だなあ…
自分が困ると言うよりも、周囲の人が困るもんな(実際私はあんまり困らんかったので)
とりあえず何とかツアー出発時間・集合場所等の案内が終わったので、アウシュビッツに向けて出発。
集合場所はクラクフ駅の近く。出発時間は9時20分。
←朝のクラクフはまだ人が少ない感じ。 -
タクシー呼ぼうか?と言われたのですが、歩いたら10分くらいで道も簡単なので歩いていきます。
空気がひんやりしてて気持ちよかった(^^)
あばうとてんみにっつ。
多分私の発音文字にするとこんな感じ。 -
朝のクラクフ駅。
やはりまだ閑散としてます…通勤ラッシュとか無いのかな??
9時にホテル出発して本当に10分少々で到着。
白いバス、○○ホテルの道沿い、との事で。
その○○ホテル前に白いバスが停まってたのでこれか!と運転手さんに「これのツアーバス??」と予約カードを見せると。
「違うよ、それはきっとあっちのバスだよ」
と、反対側の別に白くないバスを教えられました。
そしてそのバスでした。
…あれ?
まあいいか。 -
一番ノリだったので一番前の座席に乗ってみたり。
もしやツアー私だけ??と思いきや、出発5分前くらいにぞろぞろ集まりだし、数分遅れでツアースタート。
いよいよです。 -
現地までは大体1時間半そこそこの距離。
道中の風景は、とてものどかです。
けど、行く場所が行く場所なので、ちょっとあれこれ考えてしまうもの。 -
世界遺産 アウシュビッツ強制収容所。
人類の、負の遺産であり、人類の汚点。
などなど。
ポーランドを知らなくても、この場所をご存知の方は多いはず。
結構ドイツにあると思われがちなのですが、実はポーランドにあります。
第2次世界大戦を引き起こした、と言われるドイツ第3帝国によるポーランド侵攻。
1939年9月の戦闘の後、ポーランド・オシフィエンチム市を含むその辺一帯は、ドイツ第3帝国の一部に加えられてしまい、同時にナチスはこの市の名前をアウシュビッツに変更してしまいます。
アウシュビッツがドイツにある、と思われがちなのは、その当時のドイツ語読みのままになってるからなんじゃないかと。
ポーランドの人的には、あの強制収容所はポーランドが作ったものじゃなくてドイツが作ったんだ!ポーランドにあるからって、くれぐれも勘違いなされますな!っ事でポーランド読みのオシフエンチムとは言わず、アウシュビッツ読みのままにしてると言う説もあります。
作られた経緯ですが、当時ポーランドのシレジア地方の刑務所で囚人が溢れていたのに加え、ドイツにはシレジア地方含めてその他の総督管区でのポーランド住民の大量逮捕の必要性があり。
それに依って1939年頃にナチス内部で収容所建設構想が生まれたんだそうな。
収容所に適した場所はどこだろう、どこにしよう?と、特別委員会をあれこれ開いた結果、最終的に戦前ポーランド軍の基地があったオシフィエンチム市の軍撤退跡が選ばれたんだとか。
理由としては町の人口密集地から離れたところにあるので増設・隔離が出来る、かつ元鉄道の要衝だったので交通の便が良い。じゃあここにしようか、という事で。
たまたま都合にいい感じの場所だったみたいですね。
そして1940年4月。
正式に収容所設立命令が下され、その所長にルドルフ・ヘスという人が着任。
後にこの人は収容所内で責任を取らされて絞首刑になります。
別にこの人は任命され、上の命令に従っただけ(まあナチスな思想はお持ちだったんでしょうけど)で、むしろ「やだよ」と言おうもんならそれこそ自分が殺されてしまうような時代なのだから、この人がうきうきその役目についたのか渋々ついたのかは不明としても、気の毒だなあと私は思いました。ほんと。
(そりゃ、まったく責任無いとは言いいませんが)(実際逮捕され裁判にかけられたSSの方々で「命令されただけで、私に責任は無い」って言った人もいるらしいし、それはそれでどうだろうと思う。難しい)
そして同年6月14日。
ゲシュタポによって、タルヌフ市から728人のポーランド人が政治犯として護送され、これがアウシュビッツで初めての収容、となるわけです。
収容所が設立された当初は、14棟の1階建て、6棟の2階建ての建物があった程度。
41年から42年にかけて、収容されてた人たちの労働力を使い、1階建ての建物は全て2階建てに改築され、更にまた8棟の建物が増築され、42年には一時28000人が同時に収容されるまでに。
基本、平均収容者数は13000〜16000人くらい。連れて来られた人達は地下室と屋根裏を含めたブロックに入れられていたそうです。
人の数が増大すると同時に、もちろん収容所地域もどんどん拡大。
徐々に収容所は巨大な施設に変わっていったのです。
それに伴いアウシュビッツは強制収容所と言うか、絶滅収容所または絶滅工場。そう呼んだって言った方がしっくりくるくらいどえらい施設に変化していきます。
そもそもナチスドイツの、ユダヤ人に対する最終解決策って言うの、ぶっちゃけるとユダヤ人皆殺し計画ですものね。
人間の命って、そんなに軽いもんじゃないはずなのになあ…。当時それがまかり通っていたと言うのだから。
そうして41年にはオシフィエンチムから3k程度離れたブジェジンカ村で、第2の収容所建設作業がスタート。
後に第二アウシュビッツ、ナチスからはビルケナウと呼ばれる施設が誕生するのです。
現在この二つが、国立オシフィエンチム博物館として見学が可能となっています。
ドイツの証拠隠滅作業によって焼却された建物とか、今は展示用に改装されてるのを除けばほぼ当時のまま残っていると言うわけです。
行こうと思った理由は最初に書いた通り。
多分、気分は重くなるだろうし行ってあー楽しかったーー、って感想は絶対に出ないだろうけども、それでも行く機会を得たからには非戦争経験者で平和な日本で育った若者は行っとくべきだ、と思ったので(もちろん、私個人の見解ですが)
特に、ぬくぬくと食うに困った事も無くのんびり甘やかされて育ったよーな小娘(私の事ですけど)は、行って何かを感じ取って来るべきだと思ったのですよ。
で、まあそんな施設に到着。 -
別に霊感が強いとか感受性豊かとかそんなんじゃないけど、ああもう何ていうか、空気が物々しい。と言うかじわ…と重いような気がする…。
この感覚は文章に表せないので、行ったら分かると思います。 -
遠くに、有名なゲートが見えています。
今はガイドさんの説明中なのですが、英語なのでさっぱり分からず…言葉のハンデが…。
そしていよいよガイド開始。
今日は日曜なので、人も多いです。 -
私の腕が悪いので見えにくいのですけど、アウシュビッツゲートの、有名な文字。
ARBEIT MACHT FREI
ドイツ語で、「働けば自由になる」と言う意味です。
または労働は自由を作る、など。
ただ実際は「一度この収容所に入ったら、出口は煙突だ。」と言われています。
煙突、つまりは死を意味しています。
よーく見ると(大分見にくてほんとすいません…)Bの文字が逆さになってんの、見えるかな?
これはこのゲートを作らされた収容者の方が、せめてもの抵抗の意を込めてわざと逆さにした、と言う説があります。
ほんとその程度。よく見ないと分からない程度にしか抵抗の出来ない、そんな状況下。 -
監視員は毎日この門付近でマーチを演奏し(演奏してるのも収容者の方)、収容者が逃げないようにしていたとか。
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木なんかも沢山植えられてて、皮肉にも見た感じは凄くのどか。
天気もいいので、素敵な風景にすら見えるのですけど… -
ところどころにある監視室。
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そしてぐるりと張り巡らされた、有刺鉄線。
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当時は200ボルト以上の高圧電流が流れていて、絶対に逃げられないような環境になっていました。(絶望のあまり、自ら飛び込む人も少なくなかったそうです…)
例え勇気を振り絞って逃走を図るも、見つかれば即射殺。
生きての脱走はほぼ不可能。 -
例え逃げられたとしても、また逃げようとした場合、連帯責任で同じ部屋(チームだったかな?)の人は全員首吊りの刑になるので、簡単に逃げようとも思わせられない、嫌なシステムです。
これがその、絞首刑のバー。
この傍にその様子の写真(絵か?)が貼ってあったんですけど、あまりにも生々しくてそれはちらっとしか見れんかったです。 -
棟は全部で28棟。
その内訳は一般的に知られているユダヤ人の他、ポーランド人や戦争捕虜の旧ソ連軍兵士など政治犯、同性愛者などで、収容の目的は、彼らを排除すること、つまりは、殺す事。 -
このパネルは、これだけ多くの地域からこのアウシュビッツに人が集められた、と言うのを示したパネル。
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これは列車の様子を再現したジオラマ。
見えにくいけど、こういう感じで列車に詰められ、多くの人が此処に運ばれ収容され、強制労働の末殺されました。 -
どういう想いで、歩いているのでしょうか。
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労働風景。
監視員やSSよりもはるかに収容者の方が多いので、暴動とかそう言うことは無いのか、思う人がいるかもしれないけど、そこはうまい事考えられておりまして。
そのSSが被収容者の中で、指導的能力のある者を選んで、被被収容者のリーダーに任命。
リーダーは他の被収容者を監視する体制をとっていました。
そう言ったリーダーには個室が与えられていて、結構優遇されてたんだとか。
そうして、統制をとっており、その運営方法は実に巧みで計画的。
じゃあ、そのリーダーずるいじゃん!と思った人へ。
これまた嫌な話ですけど、そのリーダーは、ここでこう言った事が行われていた、と言う秘密が漏れぬように、定期的に殺されていたそうです。
リーダーに選ばれた人の中には、そうやって自分はいずれ殺されると言う事を悟った人もいて、悟ったからと言って逃げられる訳でもない、だからせめて後世にこの事実を残さなければ…と、収容所のどこかに内部事情を紙に書いて(時には暗号化して)ビンにつめたりして、埋め隠していたそうです。
そう言う秘密の”手紙”は、実際に何通か見つかっています。手紙の主は勿論、亡くなられています。
正確には、殺されて。 -
展示品のこれは、チクロンBと言う殺人ガスの空き缶。
実際に使われた後です。
当初ガスの致死量がわからず完全に亡くなれるまで2日かかった為、数分で死ぬ量が研究されたそうです。
そのガス室内部を再現したちっさいジオラマもあったんですけど、それはもう、酷すぎて直視出来ませんでした。
何人もの人間が、広いとは言えないガス室にぎゅうぎゅうに詰め込まれているんですね。その人たちは皆、「これからシャワーを浴びるから」と言って服を脱がされ、ガス室に詰め込まれるのです。
で、実際に振ってくるのは、毒ガス。
ジオラマは、悶え苦しんで、少しでも空気を吸おうと、他の人を押しのけ(または押しのけられて)天井の穴に殺到している光景が再現されていて、思わず涙が出ました。
沢山の人がそれで、一気に亡くなられ。
ぎりぎり生き残った人も本当に僅かながらいるそうですが、それは文字通り地獄の苦しみだったんだろうなあ…。
更に死体からは、金歯とかそう言うものも全部残らず見逃さず抜き取られ、当時のドイツで流通していたそうですよ。
人間の尊厳なんてあったもんじゃない。何なんでしょうかね、本当に。
人間の所業ではない、と言う言葉が、多分これには当てはまるのだと思います。
でも、ガス室に人を押し込んだのも、その中にガスを放り込んだのも、同じ“人”だと言うのだから、不思議でたまらない。
酷いとか悲しい、と言うよりも、本当に不思議でならない。
でも確かに、どう否定したって、これは人間がやった事なんですよね。
本当に、不思議。
謎と言う意味合いではなく、理解出来ないと言う意味で「不思議」だと思ったのは生まれて初めてかもしれません。
展示品は進みます。 -
ここに到着した人たち達は、まず洋服とそのほかのものを取り上げられ、髪を切られ、消毒を受けて、そして番号を付けられ登録されます。
各人3ポーズの写真を取られて、1943年からは、その代わりに左腕に刺青を入れられたとか。
番号が刺青されたのは、アウシュビッツだけだったそうです。
彼らは逮捕内容と収容所へ連行された理由によって、色別の三角形のワッペンで識別され、番号と一緒に服に付けます。大半の人は政治犯を示す赤。
支給された縞模様の囚人服は生地が薄くて、当然冬の厳しい寒さがそんなもんで凌げる訳も無く。
下着は一応、何週間ごとか何ヶ月ごとに着替えをもらえることも出来たらしいけど、洗濯は出来なかったとか。
当然伝染病も流行し、それで亡くなった方も多いとか。
展示はそんな彼らが、奪われたもの。
髪の毛。
壁の端から端いっぱいのケースに収められた様子は、元持ち主の方々に大変失礼ながら、異様、でした。 -
物品は分かるけど、何で髪の毛まで??と思った人へ。
それを何に使っていたかと言うと、例えばこんな風にカーペットを作るため。
当時のドイツは品薄だったそうで。
当時約7トンのもの毛髪が集められ、2トンが残っているといいます。
カーペットをDNA鑑定した結果、女性の毛髪で、毒ガスの成分が検出されたんだそうです。
これが実際に売られ、流通していたというのだから… -
その他、眼鏡。
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義足。
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食器類。
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クツ。
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ブラシ。
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そしてカバン。
どれにも名前が書かれていました。
最初、後で返してやるから、と言われていたらしく、だから彼らは「預けた」つもりでそれらの品を渡していました。
そもそもが、東に移住する、と言って連れてこられたわけですから、当然彼らは生活必需品や商売道具を携えてくるわけですね。
それが実際は、全て取り上げられ、最終的には、命も奪われて。
最初に書いた通り、私はここに来て何を感じるのか、それを知りたかったのですが。
そんな次元の話ではありませんでした。
何を、何ていう風に感じればいいか、戸惑うばかり。
これらは全てただの「展示品」でもなければ、ここで行われた事も映画の中で起こった事じゃない。
全て実際に生きていた人たちの遺留品。
実際に行われていた出来事。
簡単に感想なんて、出るわけがありませんでした。 -
更にガイドは進みます。
あの鉄の扉の向こう。
この先に、かの有名な"死の壁"があります。
当時は病院だったという第10ブロックとその隣にある第11ブロックの間に、壁はあります。 -
これは収容者の人が銃殺の様子を見ないように目隠しをされてるのですよ。
…でも、ただ銃声を聞くだけも、相当な苦痛である事に変わりは無いかと。 -
そして
-
死の壁です。
何発もの銃弾を、人の体を通して受けた、壁。
レンガの前の、灰色の壁は何なのかって言うと、うっかり銃弾が跳ね返ったりなんかしてSSが怪我したりしないように、らしいです。
ただ、それだけの為。
写真はズーム撮って、それ以上近づけませんでした。 -
これは、傍の壁にあった空気穴。
後で入った下の地下牢に続いてます。
どんな牢かって言うと、畳で言うと、一畳も無い程度。とても狭い牢屋の、空気穴。
そこは無理やり4人もの人間を詰め込んで、窒息死させるための牢だそうです。
地下牢には、他にも餓死牢とか、そんなのもありました。
…何でそんな色んな方法で殺そうとするのか。
さて餓死牢と言うと、ここでコルベ神父、と言う方の話を。
マキシミリアノ・マリア・コルベ神父
本名、ライムンド・コルベ。
彼は1971年に列福され、1982年10月10日に教皇ヨハネ・パウロ2世(ポーランド出身)によって列聖されています。
いったいどんな方なのかと言うと、1941年7月末、脱走者が出た事によって10人が餓死刑に処せられることになった際、あるフランツィシェク・ガヨウィニチェクというポーランド人の軍曹が「待ってくれ私には妻子がいるんだ」と叫びだました。
この時彼の後ろにいたのが、コルベ神父でした。
この声を聞いたコルベ神父は「私が彼の身代わりになりましょう。私はカトリックの司祭だから、妻も子もいません」と申し出ました。
当時の責任者はこの申し出を許可し、コルベ神父は9人の収容者の人と共に地下牢の餓死室に押し込められました。
普通、餓死刑に処せられるとその牢内では飢えと渇きによって錯乱状態になった末亡くなってしまう、と言うのが普通だったらしいけれど、コルベ神父は9人を慰め、彼らは互いに励ましあいながら、そうしてやがて亡くなったのだそうです。
当時、牢内の様子を見に来た看守は、牢内から聞こえる祈りの声や賛美歌を聞き、餓死室はまるで聖堂のようにだった、と言う証言が残っています。
牢に入れられて2週間。
コルベ神父を含む4人はまだ生きていました。
その為、最終的にフェノールを注射して、コルベ神父らは殺害されました。
この話をただの美談としていいかどうか、それは分かりません。
ただ、自分がもし同じ状況に置かれたら。
そんな極限状態の中、例え目の前の人が、友人や家族だったら。
考えられずにいられない、そんな話。
(ちなみにコルベ神父によって命を助けられたフランツィシェクさんは、90歳まで生き、天寿を全うされたそうです) -
ツアーは進み、ガス室の方へ向かいます。
その途中にあった、冒頭の方で書いた、ヘス所長の処刑台。
彼はここで、刑に処されました。 -
そしてその傍にある、ガス室。
中は撮影禁止でした。
でもたとえ許可されてても、撮影なんて、出来ない、そんな空間でした。
沢山の人が、殺された場所。
壁や、天井に残る傷の一部はガスを逃れようとした人の、爪跡なんだとか。
石造りの壁に、爪跡。
どれだけ必死で苦しいのから逃げようともがいたか、想像すら出来ません。
隣は焼却炉でした。
なぜって?
ガス室で死んだ人を、すぐに焼けるように。
まさに殺人工場の名に相応しい施設でした。
開放された当時、まだ人骨が残っていたと言うのだからまた…。
アウシュビッツのガイドは一旦ここまで。
次に向かうのは、第二アウシュビッツ、ビルケナウです。 -
これは有名な、通称・死の門。
-
長い長いレール。
詰め詰めの列車から、やっとこさ下ろされた方々は、ます2列に分けられました。
18歳〜40歳の元気そうな人は、左へ。
それ以外の人は全員、右へ…。
その時の監視員が、見た感じで決めます。
左へ言った人は強制労働。
右は、ガス室。
何人もの人の運命が、たった一瞬にして決められてしまった、そんな地点。 -
広い広い土地。
面積は約175ヘクタール(53万坪)
当時300棟以上のバラックがあったけども、そのバラックは全て現在まで残っているわけではなくて、ほとんど完全な形で残っているのは45棟のレンガ造り、そして22棟の木造の囚人棟だけだそうです。 -
バラック内部。
この木造りの、はっきり言ってお粗末なベットに、当時一段につき8人くらいの人間が詰め込まれていたそうです。 -
これが唯一の暖房器具。
それでポーランドの厳しい冬を過ごせる訳が…。 -
だってこんな風に、隙間だらけなのですもの。
-
そしてこれ。
トイレだそうです。
しかも、1日2回で1回につき1分もない時間。
プライバシーも無ければ、トイレすら自由が無い。
ここに比べたらアウシュビッツの方がマシ、なのだそうです。 -
ツアーはここで終了。
バスに乗り込んで、クラクフへ戻りました。
さて。
全てのツアーを終え、最終的に私がどんな感想を抱いたかと言うと。
結局はっきりしたものは何も無い、と言うのが答え。
信じられない光景を見すぎたせいでしょうか。
ただただ、わからない。
何でこんな事が行われたかわからない。
ただ、悼ましいな、とだけ。
私自身は戦争を経験していません。お婆ちゃんとかから話は聞くけど、でも所詮、実体験はして無い。
アウシュビッツも同じ。
知らない世界。私の生まれた遠く離れた地域で、行われていた事。
だから関係無い、とか実感が沸かない、と言う訳ではありません。
ただ不思議な感覚と、純粋に、なくなられた方々のご冥福を願う気持ち。
私の感想はそこまでにしておきたいのです。
元々、戦争やらに関して、自分の考えを述べるのは苦手。
だって当事者じゃないんですもの。
あくまで自論ですが、当時の当事者達ですら答えの出なかったものを、後世資料を見ただけの人間が答えを出せるわけがないと思うんですよね。
何が正しいか、正しくないか、それは分からない。
少なくとも私は分かりません。
ナチスの事、戦争の事。どれも私には分からない事です。
詳しく歴史書や資料を読めば「知識」を得る事は出来るんでしょうけど、正しい意味で「理解」する事は多分出来ないままなんだと思います。
ただ、なくなった方々に対して、安らかでいて欲しいとは思います。
次に生まれる時は、穏やかな人生がありますように。
ただ、それだけに留めて置きたいと思います。
実際、こういったホロコーストを否定する方もいらっしゃいます。
そんな事は無かった。アウシュビッツは滑稽な作り話だ、と言う方もいらっしゃいます。
それも単に無根拠に唱える論理でもないし。彼らには彼らの根拠に基づいた主張があります。
私はそれも、別に否定するつもりもありません。
どっちが真実か、私には分かりません。
だから、どこまでも分からない、でいいと思いました。
何かを否定するでもない。
自分の目で見たものが、嘘とも思えないし、だからと言って真実とは限らない。
だからやっぱり、分からない、で。
けど一つだけ。
何が正しければ、何を共通の思想とすれば戦争は起こらないのかとか、そんな事は分かりませんが。
これだけは共通で頭の中に置いておくことは出来るんじゃないかと思った事が一つ。
誰でもこれだけは知ってるはず。
人が死ぬって、悲しい事ですよ。
それだけ。 -
もうひとつ。
こちらの旅行記で見て印象深かったパネルを私も撮影して来ました。
アメリカの政治家、サンタナヤの言葉。
"The one who does not remember history
is bound to live through it again."
歴史を記憶しないものは、
再びそれを繰り返す事となる
この旅行記のタグ
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この旅行記へのコメント (1)
-
- ひがしさん 2010/11/28 08:03:21
- こんにちは
旅行記を興味深く拝見しました。
月並みですが、初海外で、一人で、ポーランドを、更に個人旅行で周られたのには少し驚きました。
丁寧なコメントも素晴らしかったですね。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
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