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長篠城祉紹介の続きです。武田軍と織田・徳川連合軍が戦い、結果は織田・徳川連合軍の大勝に終わりました。武田軍衰亡の始まりとなる、歴史的な戦いとなりました。

2010春、桜満開の長篠城祉(3/5):長篠城址、本丸跡碑、寒狭川、武田軍配置図、合戦慰霊碑

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2010/04/03 - 2010/04/03

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旅行記グループ 2010春、桜満開の長篠城

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

長篠城祉紹介の続きです。武田軍と織田・徳川連合軍が戦い、結果は織田・徳川連合軍の大勝に終わりました。武田軍衰亡の始まりとなる、歴史的な戦いとなりました。

交通手段
JRローカル 私鉄

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  • 長篠城本丸跡の光景です。中心部は整地されて芝生ですが、その周辺部にはソメイヨシノが植樹されていました。

    長篠城本丸跡の光景です。中心部は整地されて芝生ですが、その周辺部にはソメイヨシノが植樹されていました。

  • 『長篠城本丸跡』の達筆な文字が認められた、まだ新しい標識です。随分と立派に見える碑でした。丸木の表面を削って、白い下地を作った上に揮毫されていました。

    イチオシ

    『長篠城本丸跡』の達筆な文字が認められた、まだ新しい標識です。随分と立派に見える碑でした。丸木の表面を削って、白い下地を作った上に揮毫されていました。

  • 『長篠合戦陣役両軍将士請精霊位供養塔』の文字が記された長い供養塔です。文字列の最上部には、梵字らしい1文字と『為』の文字がありました。供養の式典が行われた後に建てられたもののようです。

    『長篠合戦陣役両軍将士請精霊位供養塔』の文字が記された長い供養塔です。文字列の最上部には、梵字らしい1文字と『為』の文字がありました。供養の式典が行われた後に建てられたもののようです。

  • 『長篠合戦陣役両軍将士請精霊位供養塔』が建てられた周りの古木の光景です。寿命が尽きかけた桜の古木のようでした。

    『長篠合戦陣役両軍将士請精霊位供養塔』が建てられた周りの古木の光景です。寿命が尽きかけた桜の古木のようでした。

  • 『磔に散る烈士・鳥居強右衛門』のタイトルがあった説明看板です。ひそかに抜け出した経路や、『援軍は来る。この眼で見てきた。あと2、3日、堅固に守れ』と死を覚悟して叫んだ二の丸近くの場所や、磔にされた場所などが解説してありました。

    『磔に散る烈士・鳥居強右衛門』のタイトルがあった説明看板です。ひそかに抜け出した経路や、『援軍は来る。この眼で見てきた。あと2、3日、堅固に守れ』と死を覚悟して叫んだ二の丸近くの場所や、磔にされた場所などが解説してありました。

  • 援軍を頼むため、鳥居強右衛門が密かに下りた寒狭川の光景です。そのあと4キロ豊川を下り、15日朝には脱出成功の烽火をかんぽう山で揚げ、岡崎へ走りました。

    援軍を頼むため、鳥居強右衛門が密かに下りた寒狭川の光景です。そのあと4キロ豊川を下り、15日朝には脱出成功の烽火をかんぽう山で揚げ、岡崎へ走りました。

  • 同じく、木々の間から覗いた寒狭川の光景です。流しにおから岡崎までは50キロ、援軍の信長も到着していました。使命を果たして休養を勧められたが、すぐに引き返し、16日の朝には再びかんぽう山で、『援軍来たる』の狼煙を三発揚げました。長篠城の対岸まで来たところで武田軍に捕まりました。

    同じく、木々の間から覗いた寒狭川の光景です。流しにおから岡崎までは50キロ、援軍の信長も到着していました。使命を果たして休養を勧められたが、すぐに引き返し、16日の朝には再びかんぽう山で、『援軍来たる』の狼煙を三発揚げました。長篠城の対岸まで来たところで武田軍に捕まりました。

  • 本丸の周りの林の光景です。植林らしい常緑樹が背後に並んでいました。杉よりは、ヒノキ(檜)に似ているように見えました。

    本丸の周りの林の光景です。植林らしい常緑樹が背後に並んでいました。杉よりは、ヒノキ(檜)に似ているように見えました。

  • お城と花見を兼ねた見学者の人達のようです。お子さん達と、花の下での食事を楽しまれていました。

    お城と花見を兼ねた見学者の人達のようです。お子さん達と、花の下での食事を楽しまれていました。

  • 芝生が綺麗に刈り込まれ、その周りの染井吉野の光景です。建物遺構はありませんが、日本百名城に選ばれるだけの歴史を感じさせる長篠城址の光景でした。

    芝生が綺麗に刈り込まれ、その周りの染井吉野の光景です。建物遺構はありませんが、日本百名城に選ばれるだけの歴史を感じさせる長篠城址の光景でした。

  • 『対岸・武田軍五つの砦』のタイトルがあった説明パネルです。設楽が原の合戦の際にも、この五つの砦には3000の将兵が残されました。

    『対岸・武田軍五つの砦』のタイトルがあった説明パネルです。設楽が原の合戦の際にも、この五つの砦には3000の将兵が残されました。

  • 説明パネルの地図に記されていた、南側方面の光景です。武田軍が五つの砦を築いた方面になります。その要の砦が、鳶が巣山砦でした。

    説明パネルの地図に記されていた、南側方面の光景です。武田軍が五つの砦を築いた方面になります。その要の砦が、鳶が巣山砦でした。

  • 同じく、武田軍が五つの砦を築いた方面の光景です。5月20日夜、信長は家康の重鎮・酒井忠次を呼び、徳川軍の中から弓・鉄砲に優れた兵2000名ほどを選び出して酒井に率いさせ、これに自身の鉄砲隊500名と金森長近ら検使を加えて約4000名の別働隊を組織し、奇襲を命じました。正規の軍議では、武田側に情報が漏れる恐れがあったためとされます。

    同じく、武田軍が五つの砦を築いた方面の光景です。5月20日夜、信長は家康の重鎮・酒井忠次を呼び、徳川軍の中から弓・鉄砲に優れた兵2000名ほどを選び出して酒井に率いさせ、これに自身の鉄砲隊500名と金森長近ら検使を加えて約4000名の別働隊を組織し、奇襲を命じました。正規の軍議では、武田側に情報が漏れる恐れがあったためとされます。

  • 酒井忠次率いる4千名の別動隊は、正面の武田軍を迂回して豊川を渡河し、南側から尾根伝いに進み、翌21日の夜明けには長篠城包囲の要の鳶が巣山砦に到達、後方より強襲しました。これを手始めに、他の四つの砦も落としました。

    酒井忠次率いる4千名の別動隊は、正面の武田軍を迂回して豊川を渡河し、南側から尾根伝いに進み、翌21日の夜明けには長篠城包囲の要の鳶が巣山砦に到達、後方より強襲しました。これを手始めに、他の四つの砦も落としました。

  • 長篠城址の満開の染井吉野と、豊川対岸の山々の光景です。武田軍は500名が籠城する長篠城を落とせなかったことで、3千名を砦に残さざるを得ませんでした。設楽が原での決戦は、3万8千名の織田・徳川の連合軍に対し、武田軍は1万2千名で戦ったことになります。

    イチオシ

    長篠城址の満開の染井吉野と、豊川対岸の山々の光景です。武田軍は500名が籠城する長篠城を落とせなかったことで、3千名を砦に残さざるを得ませんでした。設楽が原での決戦は、3万8千名の織田・徳川の連合軍に対し、武田軍は1万2千名で戦ったことになります。

  • 下から見上げた、満開の染井吉野の花の光景です。青空に白い花が映えました。武田信玄の重臣だった馬場信房らが、死を覚悟の水杯を交わして、最後の決戦に向かった心境が、痛いほど思い知らされます。その死は秘匿されていましたが、信玄公は既に亡くなっていました。

    下から見上げた、満開の染井吉野の花の光景です。青空に白い花が映えました。武田信玄の重臣だった馬場信房らが、死を覚悟の水杯を交わして、最後の決戦に向かった心境が、痛いほど思い知らされます。その死は秘匿されていましたが、信玄公は既に亡くなっていました。

  • 同じく、下から見上げた染井吉野の白い花の光景です。今度は、白い雲がアクセントになりました。馬場信房らが、決戦の前日、死を覚悟の水杯を交わしたのは達磨山・大通寺です。最後の方で紹介する予定です。

    同じく、下から見上げた染井吉野の白い花の光景です。今度は、白い雲がアクセントになりました。馬場信房らが、決戦の前日、死を覚悟の水杯を交わしたのは達磨山・大通寺です。最後の方で紹介する予定です。

  • 染井吉野の古木の並木光景です。いずれの樹の幹にも、びっしりと白い苔が生えていました。

    染井吉野の古木の並木光景です。いずれの樹の幹にも、びっしりと白い苔が生えていました。

  • 本丸跡の片隅で咲いていた、タンポポ(蒲公英)の黄色の花です。場面や状況などは全く違いますが、芭蕉の奥の細道の『夏草や兵どもが夢の跡』の一句が思い浮かびます。この句は、義経主従や藤原一族の者たちが、功名・栄華を夢見たところを詠んだ句です。

    本丸跡の片隅で咲いていた、タンポポ(蒲公英)の黄色の花です。場面や状況などは全く違いますが、芭蕉の奥の細道の『夏草や兵どもが夢の跡』の一句が思い浮かびます。この句は、義経主従や藤原一族の者たちが、功名・栄華を夢見たところを詠んだ句です。

  • タンポポ(蒲公英)の黄色の花ズームアップ光景です。芭蕉に同行した曽良は、『卯の花に兼房みゆる白毛かな』の句を読みました。『夏草に混じって咲いている白い卯の花を見ると、兼房が、白髪をふり乱して敵に向かう姿が浮かんできます』の大意です。義経に従って平泉に下った時、権頭兼房は63歳だったとされます。

    タンポポ(蒲公英)の黄色の花ズームアップ光景です。芭蕉に同行した曽良は、『卯の花に兼房みゆる白毛かな』の句を読みました。『夏草に混じって咲いている白い卯の花を見ると、兼房が、白髪をふり乱して敵に向かう姿が浮かんできます』の大意です。義経に従って平泉に下った時、権頭兼房は63歳だったとされます。

  • 長篠城址の』の標識がありました。南側化西側方面の光景だったようです。『マムシに注意』の看板がありました。

    長篠城址の』の標識がありました。南側化西側方面の光景だったようです。『マムシに注意』の看板がありました。

  • 急峻な崖を流れ落ちる小さな滝の光景です。長篠城址の東西と南面が自然の要害になっていることがよく分かる光景でした。

    急峻な崖を流れ落ちる小さな滝の光景です。長篠城址の東西と南面が自然の要害になっていることがよく分かる光景でした。

  • 両側が、高低差がある石垣が積まれた空堀の光景です。場所をよく覚えていませんが、本丸と二の丸の境付近だったかもしれません。強固な防御施設ではなく、排水溝の跡のようにも見えました。

    イチオシ

    両側が、高低差がある石垣が積まれた空堀の光景です。場所をよく覚えていませんが、本丸と二の丸の境付近だったかもしれません。強固な防御施設ではなく、排水溝の跡のようにも見えました。

  • 左手に見える『長篠城本丸跡』の標識は、先に正面から撮影して説明したものと同一のものです。本丸跡でのイベントなどでの、格好の撮影場所になっているようです。

    左手に見える『長篠城本丸跡』の標識は、先に正面から撮影して説明したものと同一のものです。本丸跡でのイベントなどでの、格好の撮影場所になっているようです。

  • 本丸の周りの光景です。斜面に沿って染井吉野の木があり、その斜面には通路があるらしく、柵が続いていました。桜の木の陰に、赤い鳥居が見えましたから、土塁に登る細い道のようでした。

    本丸の周りの光景です。斜面に沿って染井吉野の木があり、その斜面には通路があるらしく、柵が続いていました。桜の木の陰に、赤い鳥居が見えましたから、土塁に登る細い道のようでした。

  • 染井吉野の花で引き立てられた、『長篠城址史跡保存館』の建物側面の光景です。後ほど、入城して見学しました。

    染井吉野の花で引き立てられた、『長篠城址史跡保存館』の建物側面の光景です。後ほど、入城して見学しました。

  • 見事な満開の染井吉野の大木の光景です。長篠城址の二の丸跡になります。

    見事な満開の染井吉野の大木の光景です。長篠城址の二の丸跡になります。

  • 同じく、長篠城址の二の丸跡の染井吉野の光景です。日本百名城の城址と、桜の花も同時に楽しむことができました。

    同じく、長篠城址の二の丸跡の染井吉野の光景です。日本百名城の城址と、桜の花も同時に楽しむことができました。

  • これで、長篠城址の見学はおしまいです。その締め括りに、長篠城址史跡保存館を見学することにしました。前にも祖愉快しましたが、二の丸跡の帯郭址に建てられた展示館です。

    これで、長篠城址の見学はおしまいです。その締め括りに、長篠城址史跡保存館を見学することにしました。前にも祖愉快しましたが、二の丸跡の帯郭址に建てられた展示館です。

  • 長篠城址史跡保存館の見学の前に、猛威千津満開の染井吉野の花のアップ光景です。

    長篠城址史跡保存館の見学の前に、猛威千津満開の染井吉野の花のアップ光景です。

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