2010/04/03 - 2010/04/03
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長篠城祉紹介の締め括りです。長篠の戦いの時、武田軍の武将、馬場信房らの陣地となったお寺と伝わる、達磨山大通寺を見学しました。今生の訣別の水盃をかわし合った場所とされます。
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応永18年(1411年)の創建と伝えられる、達磨山大通寺の入口付近の光景です。天正時代の兵乱で焼失し、後に琴室契音大和尚(長篠山医王寺二世)が曹洞宗に改宗し、地蔵大菩薩を本尊として草創開山したと伝わります。
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イチオシ
真新しい造りの達磨山大通寺の本堂光景です。天正3年(1575年)の長篠の戦いの時には、武田軍の武将、馬場信房(馬場信春)、武田信豊、小山田昌行らの陣地となったお寺です。馬場信房は武田四天王の内の一人です。四天王の内の三名が長篠の戦いで戦死しました。
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達磨山大通寺の本堂のアップ光景です。設楽原に出撃して織田・徳川の連合軍と決戦することになった時、諸将がこの寺の井戸に集まり、訣別の水盃をかわし合った伝説が残り、その井戸は盃井戸と呼ばれるようになりました。2008年9月に落慶法要が営まれた新しい本堂です。
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高い石碑の上に坐した地蔵尊です。馬場信房公は、元亀4年(1573年)4月、信玄が死去すると、山県昌景と共に重臣筆頭として武田勝頼を補佐しましたが、山県公と同じく、勝頼からは疎まれたとされます。長篠の戦いでは、山県と共に撤退を進言しましたが容れられず、代わりの策も勝頼の側近に退けられたと伝わります。
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この樹も、八重咲紅枝垂れ桜のようです。天正3年(1575年)5月19日、医王寺山本陣で軍議を終えた諸将は、それぞれの自分の陣地へ戻りました。馬場信房は、決戦回避を主張して果たせなかった同志の将、内藤昌豊、山県昌景、土屋昌次らを自分の陣所である大通山に同道しました。明日の決戦に備え、覚悟を決めた最後の別れでした。
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この日(5月19日)の軍議の結果を嘆いたものの、明日の一戦は最後となることを覚悟し、お互いに旧友を謝し、奮闘を誓い、今生の別れとして泉の水を別れの盃としました。戦に敗れ、武田軍撤退の時に馬場信房は殿(しんがり)を務め、勝頼を見送ったのちにとって返し、討死しました。5月21日のことです。
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高い石塔の上の蓮座の上に座られた地蔵尊です。風化が進み、表情も読み取り難くなっていました。六面体らしい台座にも地蔵尊のレリーフ像がありました。
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地蔵菩薩様のようです。強く印象に残る顔立ちの石像でした。ふくよかな顔と、軽く閉じられた瞼、口元の造作が、年月を経て安らかさをさらに増していたようです。
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苔生した石碑の光景です。文字を読み取ることはできませんでした。石碑の一番下に見えた文字から、かなり細かな文字が刻まれていることだけは分かりました。拾い読みしますと『三千』『山』等の文字でした。
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濃い紫色の花を咲かせていた、シモクレン(紫木蓮)です。春先に咲く、大好きな花木の一つです。
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低い石垣の上に並ぶ墓標と地蔵尊などの石像の光景です。かなり傾いでいました。それでも、今もお供え物がありました。
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古い墓標に交じって、新しい墓標もあったお墓の光景です。現在の檀家のお墓のようでした。現在の達磨山大通寺は曹洞宗、大本山は総持寺になります。
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達磨山大通寺の鬼瓦のアップ光景です。『大通寺』の文字も焼き上げられた鬼瓦でした。現在の住職は、長篠山・医王寺住職が兼務されています。医王寺は、長篠の戦いの時、武田勝頼の本陣が置かれた場所です。
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暗く見える林をバックにした、白い染井吉野の花の光景です。花の下に卒塔婆がありました。
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染井吉野の花が満開だったお墓の光景です。現在の檀家らしい、新しいお墓がほとんどのようです。
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達磨山大通寺の本堂の屋根越しに眺めた周りの山々の光景です。武田勝頼が1万5千の軍勢を持って500名が籠城する長篠城を攻めた時の陣地が置かれた山々もあるかも知れません。
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イチオシ
同じく、達磨山大通寺の境内から眺めた麓の光景です。長篠城の対岸には、武田軍の五つの砦が築かれました。久間山、中山、鳶が巣山、姥が懐と君が伏床の五箇所です。
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川の位置が分かりませんので、対岸かどうかは分かりませんが、設楽が原の決戦の時も長篠城の抑えとして五箇所の砦には兵が残されました。5月21日の夜明け、東三河の将士を率いた吉田城主の酒井忠次に急襲され、ほとんどが討ち取られました。
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20名以上の戒名が刻まれた、まだ新しい墓碑です。先頭の名前は、『悟心林證庵主』でした。『庵主』または『大姉』の戒名がほとんどでした。歴代の女性庵主でしょうか、達磨山大通寺とは別のお寺かも知れません。
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達磨山大通寺の境内から眺めた麓の光景です。かつての長篠城を北側から攻めるのに好適な、最前線基地だったようですが、最後の決戦は設楽が原で行われました。
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八重咲のツバキ(椿)の花のアップ光景です。まだ蕾がたくさん残っていました。ツバキ科ツバキ属の常緑樹で、照葉樹林の代表的な樹木とされます。
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右手を頬に当て、左手に蓮の花を持った半跏思惟像風の石像です。観世音菩薩像でしょうか。観世音菩薩の起源は、中国への仏教伝来よりも古いものとも考えられ、ゾロアスター教との関連も指摘されています。
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城薮稲荷(しろやぶいなり)とその鳥居の光景です。かつては長篠城本丸土塁上に祀られていましたが、こちらに移されたようです。
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城薮稲荷(しろやぶいなり)の背後の光景だったようです。衝立のような立派な木造りの施設がありました。
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真っ赤な花を咲かせていた、花木の枝先のアップ光景です。バラ科の植物には間違いないようです。ハナモモ(花桃)でしょうか。
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アヤメ(菖蒲)の花でしょうか、ハナショウプ(花菖蒲)やカキツバタ(杜若)とは、中々区別がつきません。水辺から離れた場所が好きなのが、アヤメ(菖蒲)です。アイリスによく似た性質のようです。
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イチオシ
爽やかなピンク色の花が満開に近かった、ヤエベニシダレ(八重紅枝垂)の花のようです。
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ヤエベニシダレ(八重紅枝垂)らしい花のアップ光景です。蕾もまだ残っていた、八重咲の枝垂れ桜です。
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同じく、ヤエベニシダレ(八重紅枝垂)らしい花のアップ光景です。今度は青空がバックです。
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長篠城駅に到着しました。これで、長篠城址見学の紹介はおしまいです。満開の桜と、天候にも恵まれた城址見学となりました。殊に、武田信玄亡き後の甲斐の国の転機となる長篠の戦いの現場には、歴史の重みを感じる貴重な経験となりました。
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