2010/02/25 - 2010/02/25
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義臣さん
伊豆は古くから造船の記録があります
特に 洋式船については下田 戸田の港が大きく関わっています
先日hn11さんの戸田の旅記を見て行きたくて居たら
義妻のかわず桜が見たいとの言葉
双方の希望を満たす計画たて 実行。。
玉泉寺 長楽寺 他
資料により デイアナ号 ジアナ号と有りますが 同じ船です
資料のまま書きましたので 船名は二つになりました。
戸田についてはhn11さんの旅記をご覧下さい
http://4travel.jp/traveler/hn11/album/10423201/
日本書記
応神5年(270ころ)
伊豆の国に船を作るようお触れを出し船を作らせる
出来た船は 長さ十丈、軽く 早く 名も 「枯野」
現在 修善寺に軽野神社があります。ここで作られたか
当時は巨木も多くあり船造りの職人も多くいたのでは、
狩野川の名も これが名付けの基とも思われて居ます。
帰宅後26日の東京新聞に
「デイアナ号遭難 伊豆の住民が救助」
「幕末の日ロ友情史」
の記事か出ました
満開 かわず桜ー1
http://4travel.jp/traveler/jiiji/album/10433184/
満開 かわず桜ー2
http://4travel.jp/traveler/jiiji/album/10433474/
黒船で下田港を巡る
http://4travel.jp/traveler/jiiji/album/10433896/
歴史の通過点 宝福寺
http://4travel.jp/traveler/jiiji/album/10434337/
絶景の寝姿山
http://4travel.jp/traveler/jiiji/album/10434975/
下賀茂 満開 かわず桜
http://4travel.jp/traveler/jiiji/album/10435472/
石廊崎 船上より
http://4travel.jp/traveler/jiiji/album/10436127/
下田の街
http://4travel.jp/traveler/jiiji/album/10437097/
造船史 伊豆 下田
http://4travel.jp/traveler/jiiji/album/10437365/
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- JR特急 私鉄
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-
柿崎村への海岸は
大きな公園になり
足湯や駐車場が出来ており
地名も下田市になりました
そこには新しい記念碑があり -
日 露協会が
遭難の事実と日露修好条約の調印を記念して作られた
ものでした -
遭難した デアナ号の姿
-
柿崎村(下田市柿崎)
昭和7年 一泊三食八十銭の民宿がはじまり
翌八年には好評で三十三軒にもなりました。
民宿のはしり
初めて尋ねた昭和31年は
道もまだ舗装もされていなく
家々も漁村らしくありました。 -
路地を曲がり 玉泉寺へ
-
露艦 ジアナ号水兵の墓所
-
-
ハリス領事で有名な
「玉泉寺」
ペリー艦隊将兵5名の墓地あり
カーター元大統領も来訪あり
昭和31年此方は立派に整備されているのに
露国の乗員の墓地の荒れ果てた姿に憤慨した記憶があります。
日本最初の外人墓地です
若かった(苦笑) -
案内 ←
-
綺麗になった山道を登る
ヘビでも出そうな小道
草を踏み分け登った頃を思い出します。
昭和初期の雑誌に
※。。。すると、突然前田兄がロシア人の墓を案内すると云って僕達をずるずると山の中へ引き入れた。
玉泉寺に向って右、約半丁ばかり行くと一寸小さなくぼみがあってそこに三つの墓が並立つしている。
これがジアナ号で死んだロシア人の墓である。
僕は実は今迄この墓の事を見た事がなかったので実になんとも云えない気分になった。
墓へ行くまでの小道は 雑草の為におほわれているし
墓のあるくぼみは暗くて所々山芋の葉が不気味にのびていた。。。※ -
三基の墓標。
一つは安政の大地震で大砲の下で亡くなられた水兵さん
二つは戸田(ヘダ)で造船中の病没の水兵さんの物 -
安政元年11月4日
下田付近は大地震に見舞われ 下田の町は全壊の状態
停泊中のジアナ号も沈没は逃れましたが
大きく破損、、
※それでも 町民を救済する場面も有りました。
徳富蘇峰氏の著書で見た記憶ですが。
著書は現在所持していなくて確認は無理で -
此方は安政5年死亡のロシア水兵の墓
-
墓地から柿崎村
私は柿崎村の玉泉寺と記憶してるので。
そのまま書かせて頂きます。
記念館に
嘉永7年10月15日(1854年11月22日)
露艦 デイアナ号は大阪より下田港に入港、
日露の通商条約と国境画定の協議を下田奉行と交渉中に所謂安政の大地震が起きその為 津波が発生し 鑑底を破損し この時ソボレフ水兵が大砲の下敷となり死亡しました。
又 戸田村に帰国船「戸田号」の建造中に二名の乗務員が病没しまして当記念館の裏山の中腹に埋葬されて居ります。
と書いて紙の提示がありました。 -
寝姿山から見た「下田港」
此処に地震 津波は押しよせた事が
想像されます。
この大地震が日本の洋式造船の先駆けになる
不幸中の幸いとなりました。
デイアナ号は破損修理の為の
西伊豆の良好な戸田港へ向う事になりました。 -
長楽寺、、 かわづ桜
-
地震もありましたが
長楽寺では交渉 続行
幕府側 筒井 尊敬する英才 川路 両氏
露使節 プチャーチン海軍中将
此処に 国境を決め
北方四島 は 日本側に決まる
同様 ウルップ以北の千島列島は露側に
樺太は双方 雑居と決まる
日 英の条約より平等でしたので
後は他国のような
不公平条約改定の交渉はロシアとは有りませんでした。 -
長楽寺 本堂
-
その昔は宝物館
いまや、、電気も消えて倉庫状態 -
破損されたデアナ号は戸田に漁船に引かれて向う途中
悪天候に見舞われ、、沈没、、
陸路 戸田(ヘダ)へ、、
乗員500名
士官は宝泉寺(現存)
水兵は長屋四棟へ
12月5日 代船建造を申し出る
7日 許可
代官 江川太郎左衛門 建造取締役
名主 8名建造材料 人足手配
所持品に スクナー型、
オープライト号の設計図があったのも幸いし
日本マスト 全長25メートル 幅7メートル
約80トン余りの船
約80日で建造
3月10日 進水式
感謝の意味で「ヘダ号」と命名
その後にその技術で同じスクーナー船六隻建造
日本初めての洋式船がここにはじまる -
東京の船の博物館 入り口のレストラン
「キャビン」 -
偶然に立ち寄った時
帆船の模型。。何処か見たような。 -
デアナ号の模型、、
-
キャビンの窓から風景
下田の稲田寺さんには
幕府方の宿舎があり 安政の大地震の犠牲者の供養の
「津なみ塚」があります。
船作りの船大工「緒明菊三郎」氏は
後に浦賀ドックを作る事に 日本造船業始り
東京新聞の記事には
乗員の救助の模様や
ロシア側の「日本の大工は極めて素晴しい」
とも書いて有りました。
戸田についてはhn11さんの旅記をご覧下さい
http://4travel.jp/traveler/hn11/album/10423201/
以上 春 伊豆行は完了です。
次回 さきたま古墳と梅花を予定しています・
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