2009/12/13 - 2009/12/13
633位(同エリア942件中)
ぶんたさん
やすらぎゾーン って良い感じでしょう
(やすらぎゾーンが良い漢字? 良い漢字なら安らぎ地帯でしょう)
感じわる いやっ漢字悪 君とでは やすらがれへんわぁ
(あっ あっちに派手な のぼりが立ってるで)
※ 吉田 松陰/吉田 矩方(よしだ しょういん/よしだ のりかた)
日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者、兵学者。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として名が挙げられることが多い。贈正四位。
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なになに 吉田松陰先生かぁ
(知ってるんか?)
そらー 吉田松陰って言ったら有名やがな
(名前だけは聞いた事は有るけどなぁー)
そうやろー
(っで 何をした人なんや) -
わぁー 丸いで
(見たまんまやん)
ココは吉田松陰が住んで学んで教えた所みたいやで
(ほー それで 松陰は何をした人なんや教えてやぁ)
※吉田松陰は、幕末に生きた人 30年という短い生涯ながらも自身の情熱で多くの人たちの心を揺り動かし影響を与えました やがてその中から明治維新で活躍する人物が多く出ました
幕末・維新に活躍した多数の志士達を輩出した 塾生名簿は現存しないが著名な門下生には久坂玄瑞 高杉晋作 吉田稔麿 入江九一 伊藤博文 山県有朋 前原一誠 品川弥二郎 山田顕義 野村靖 飯田俊徳 渡辺蒿蔵(天野清三郎) 松浦松洞 増野徳民 有吉熊次郎などがいる
「吉田松陰」と「松下村塾」の名は門下生達の活躍により全国に轟き現在まで語り継がれる歴史上稀に見る奇跡の私塾となったといっても過言ではない -
りっぱな灯ろうですね
(うんっ りっぱや でっ質問に答えてやぁ)
※吉田松陰
文政13年(1830年)8月4日、長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)に叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。 以下つづく -
見て下さい ここが教室みたいですよ
(聞いた事に返事せいへん気やなぁ)
もっと近づいて見てみますね
(ホンマは何にも知らんねんやろ)
※しかしアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。また江戸に出て佐久間象山の師事を受けた。嘉永5年(1852年)、長州藩に無許可の形で宮部鼎蔵らと東北の会津藩などを旅行したため、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。 -
わぁー 誰か居ます
(だっ 誰が居てるねん って話を ごまかすなぁ)
※嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれた。そのため安政元年(1854年)に浦賀に再来航していたペリーの艦隊に対してアメリカ密航を望んだ。しかし密航を拒絶されて送還されたため、松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府にわたる前に奉行所に自首し、伝馬町の牢屋敷に送られた。この密航事件に連座して師匠の佐久間象山も入牢されている。幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命されて長州の野山獄に送られている。一説ではペリーの暗殺を計画していたともいわれる。 -
吉田松陰やぁー
(何でわかるねん)
さっき こちらに来る前に見たんですよ
(さっき知ったとこやん)
※安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の身分に処された。安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は長州藩の下級武士である久坂玄瑞や伊藤博文などの面々を教育していった。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。 -
ねっ
(ホンマやぁー っで 松陰って何をした人なん)
ごめん 私は知らんっ!
(やっぱり そう言う事かぁ 知らんねんやぁー)
松陰だけに 醤油言う事です チャンチャン
※安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫し、松陰は長州藩に自首して老中暗殺計画を自供し、野山獄に送られた。
やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。しかし井伊直弼はそれほど甘い人物ではなく、素直に罪を自供したことが仇となって井伊の命令により「死罪」となってしまい、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30。生涯独身であった。
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