2009/11/12 - 2009/11/12
932位(同エリア1427件中)
ムッシュさん
三留野宿 第四十一宿(日本橋より316.5km)
「三戸野駅の駅舎わびしきところなり」とだけ「壬戌紀行」に記された三留野宿。今も国道から離れ、ひっそりとした古い町並みを残す。
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中山道13号の踏み切り。JR中央線です
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JR中央線
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この正面の細い道を歩いて来ました。
振り返り、撮影です。 -
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【柿其(かきそれ)峡】
数ある木曽路の渓谷の中でも、特に美しいといわれる所。南寝覚の別称がある。
名勝南寝覚と呼ばれる柿其峡の景観が広がります、木曽川の浸食による花崗岩の側壁岩床が露出しています、寝覚の床の縮小版です。
柿其渓谷は、約8kmに渡って、滝アリ、瀬ありの変化に富んだ美しい渓谷。 -
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【明治天皇御小休所記念碑と明治天皇中川原御膳水碑】があります。
明治天皇は明治?年(1880年)の巡幸の際に、山梨県から木曽路に入りました。
?26日は福島泊、翌27日には寝覚で休息し、須原定勝寺で昼食を摂り、古田原で野立を行い、ここ中川原の桜井太助宅で羅天の難所を前に休憩しました、この夜の泊りは三留野でした。 -
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【柿其(かきそれ)峡】
数ある木曽路の渓谷の中でも、特に美しいといわれる所。南寝覚の別称がある
山々もしっかりと紅葉しています。
眺めながらのウォーキング快適です。 -
この辺から次の三留野(みどの)宿の間が木曾街道最大の難所であった
断崖の高いところに付けられた狭い道で蔦の桟(かけはし)も多く
一歩足を踏み外すと木曽川に転落してしまう処でした。
柏原益軒の「きそ路の記」や「木曾名所図会」にもその険しさが記されている。 -
川岸まで続く紅葉と緑のツートーンカラー
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木曽川沿いの国道脇の歩道から、山側に横断し、山道を妻籠宿に向かいます。
ここがいよいよ木曽川との別れである。木曾谷の最南端になるところだ -
これから、山道に入る前に、見納めに、木曽川沿いの紅葉を振り返ります。
紅葉はきれいだったよー!
これから、山間の道を三留野(みどの)、妻籠(つまご)、馬籠(まごめ)宿と歩くことになる -
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【三留野宿脇本陣跡】の説明板
本陣の真向かいにあり。本陣跡です、鮎沢家が勤めました。
皇女和宮は13日目の夜を鮎沢本陣で過しました。
本陣跡地には明治天皇行在所記念碑があります。 明治天皇は明治13年(1880年)巡行の際、中川原で休息した後、鮎沢家(旧本陣)を宿泊所(行在所)としました。
旧本陣建物は翌年の三留野大火災で焼失してしまい、庭木であった枝垂梅(町の天然記念物)を残すのみです、御膳水井戸が復元されました。
「木曽十一宿には、本陣と脇本陣がそれぞれ一軒ずつ置かれていた。本陣は江戸時代の初めに定められたが、脇本陣は交通が頻繁になった中期以降に設置されていった。
脇本陣はその名の通り本陣を補完するためのもので、三留野宿では代々宮川家が務めた。宮川家はまた三留野村の庄屋も務め、本陣の鮎沢家、問屋の勝野家などとともに指導的役割を担った。宮川家のあるこの周辺が、江戸時代の三留野宿の中心部であった。
なお三留野宿は明治十四年(1881)の大火によって全焼し、現在の建物はそれ以降のものである。
平成十二年十一月三日 南木曽町教育委員」 -
柿其橋に近い眺望の良い場所で、巡行の明治天皇は休憩されたようです。
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この地は、【三留野宿本陣跡地】で、今は、見事なしだれ梅の古木があります。
与川道追分を過ぎると三留野宿に到着です!
この地には木曽氏の館があり御殿(みどの)と呼ばれたところを三留野の地名由来としています。
三留野宿は木曽路屈指の難所羅天の桟道を控え、旅籠は多数ありましたが、「宿悪しく、わびしき所」といわれました。
宿並は度々火災に見舞われ宿長は当初より二十五間も短くなりました、明治十四年(1881年)にも火災に見舞われましたが、国道から外れているために古い家屋を今に残しています。
天保14年(1843年)の頃、三留野宿の宿内家数は77軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠32軒で、宿内人口は594人でした。
宿並には出桁造りや卯建をあげた旧家を残し、家屋には旧屋号札を掲げています -
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木曽ヒノキの皮で造った屋根のモデルです。
見事な匠ですが、すごく高値そう!
木曽森林管理署南木曽支所の門前に檜皮(ひわだ)葺き屋根の模型があります。
解説に「檜皮の森(南木曽町)から産出するヒノキの皮(ひわだ)は全国の社寺等歴史的建造物に使用されている」と記されています、実物を真近かに見ると勉強になります。 -
木曽ヒノキの貯木場
どれもこれも太くて立派な銘木です。さりげなく積み上げてありますが、重くて持っていけない。
南木曽は古代より木曾地区の物流の拠点であった -
南木曽地区は、明治後期になってからは読書(よみかき)発電所を始め、木曽川水系の水力発電の基地となって賑わった
日本の電力王と言われた福沢桃助の活躍したところである。後に川上音二郎の妻となる「貞奴」との仲はよく知られている
福沢桃助により、木曽川に掛掛けられた全長247m、幅2.7mの吊橋、桃助橋が残されている。木資材運搬用に掛けられたものだまた、対岸には桃助の別荘を復元した福沢桃助記念館がある
この桃助に抵抗したのが島崎藤村の次兄島崎広助である
木曽川を利用して生活していた木曾谷の住民の利権を守るために立ち上がった。
田畑の殆ど無い木曾谷の住人は林業が中心であった。ダム建設に伴い、伐採した木を筏に組んで木曽川に流すことが出来なくなってしまうからである
現在は、駅に隣接して巨大な貯木場が出来ている(上のフォト) -
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【木曽義仲の”かぶと観音”】
「義仲のかぶと観音が祭られており、江戸の参勤交代の大名も必ず足を止めてお参りしたそうです。
木曽義仲が旗挙げした折、妻籠城を築き、その鬼門にあたるここに小祠を建立し、義仲の兜に納めた八幡座の観音像を祀ったのが始りです。
後の天正12年(1584年)小牧長久手の合戦の際、秀吉方の木曽義昌は山村良勝に妻籠城の守備を命じましたが、落城寸前になったところ、義昌がかぶと観音に祈願すると、白鳩が舞い上がり、妻籠城の天守に止まったので瑞兆と戦意が高揚し、ついに徳川軍を退けました。
以来、武家の崇敬が篤く、往来の武士はもとより参勤交代の大名も必ず参拝したといいます。境内に大きな水舟があります、平成21年(2009年)に松喰い虫の被害により伐採された袖振り松です。
木曾義仲が平家追討の兵を挙げ、妻籠城を築いたとき鬼門にあたるこの地に建てたものである。名前の由来は、仏像の体内に義仲の兜の八幡座(兜の一番上)の観音像を納めたことによるとか。
旧中山道は、この境内を抜け、また快適な山道となる。次の妻籠宿までは約4kmの道程である」 -
【ふりそでの松の碑】
大木の松も枯れて、やむなく切り倒さされたとの事。
その松は、次の写真の水舟に加工されて皆さんに愛あされてるようです。 -
【ふりそでの松で加工された水舟】です。
松の幹の太さは相当です。 -
ここは竹林と石畳の道で、往時の面影あり。
旧道は木立の中の石畳道の上り坂になります、島崎藤村著夜明け前の「木曽路はすべて山の中である」になります。 -
【上久保の一里塚】
ここは、山中につき一対しっかり残ってる。
上久保(うわくぼ)の一里塚が現れます、両塚が現存しています(南木曽町史跡)、江戸日本橋より数えて80里目です、但し、解説板には78里目と記されています。 -
上久保の一里塚説明板
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【良寛さまの歌碑です】
”この暮れの
もの悲しさに若草の
妻呼びたくて
小牝鹿鳴くも” -
この辺り、庭木の植込みや、街道筋の樹木が美しい
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中山道自然石道標
【右へ進め、もうすぐ妻籠宿です!】の意味です。
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